聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問89「みことばの力ある働き」 使徒20章32節

2015-11-15 21:05:20 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/15 ウェストミンスター小教理問答89「みことばの力ある働き」

使徒20章32節

 

 世界には沢山の宗教があります。キリスト教にとっての聖書のような本(経典)を持たない宗教は、ただ儀式をしたり、拝んで、お祈りをしてもらったりすることがすべてだと考えるのでしょう。でも、教会ではそのようには考えません。神は、聖書を与えてくださいました。神の言葉としての、聖書を私たちに与えて、語り掛けてくださるお方です。今日読んだ、使徒の働き20章で、使徒パウロは、もうたぶん二度と会うことがないだろうと思ったエペソ教会の人たちに、最後に言っておきたい言葉を話しました。「パウロの遺言説教」とも言われますが、色々なことを思い出させて、これから予想される大変さについて語って、大事な戒めを与えた上で、こう言いました。

使徒の働き二〇32いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。

 みことばは、あなたがたを育成し、御国を継がせることが出来る…。パウロはそう信じています。神のみことばに対する大きく、深い、全幅の信頼です。他にも、聖書には沢山のみことばへの信頼や賛美が溢れています。これはキリスト教の大きな特徴です。

問89 みことばは、どのようにして救いに有効とされるのですか。

答 神の霊が、みことばの朗読、特にみことばの説教を、罪人に罪を自覚させて回心させ、更に信仰を通して、彼らに聖さと慰めにおいて造り上げ、救いにいたらせるのに、有効な手段とされます。

 前回、救いに有効な恵みの手段として、三つの方法があることをお話ししました。みことばと聖礼典と祈り、の三つです。今日は、その最初のみことばが、どのようにして救いに有効になるのですか、という問とその答です。

 最初に「神の霊が」とありますね。「御霊が、聖霊が」と言い換えてもいいでしょう。神の御霊が、聖書を有効な手段としてくださる、ということです。中には、聖書の言葉そのものに力や人格でもあるかのように考える人がいます。仏壇や神棚を熱心に拝んでいるお婆ちゃんに、牧師さんが、本当の神様は世界を造られた大いなる神様で、その神の言葉である聖書がどれほど素晴らしく、大切な神の言葉かを一生懸命話したのだそうです。お婆ちゃんが分かったと言ってくれたので、次の日もまたそのお婆ちゃんを訪ねたら、仏壇も神棚にあったものも片付けて、代わりに神棚に聖書を置いて拝んでいた、という話しを聞いたことがあります。聖書は拝む物ではありませんね。聖書に魔力があるわけではありません。神の霊が、聖書を通して、私たちに働かれるのです。また、聖書の言葉を呪文のように力があると考えるのも間違いですね。神の霊が、聖書を通して、私たちに教えて下さるのであって、聖書の言葉に何か特別な秘密の力はありません。

 では、神の霊は、みことばを通して、私たちにどのように恵みを与えてくださるのでしょうか。

ここには、「罪人に罪を自覚させて回心させ、更に信仰を通して、彼らに聖さと慰めにおいて造り上げ、救いにいたらせる」とあります。聖書に耳を傾ける時、私たちは自分の罪を自覚して、回心させられます。そして、信仰を与えられます。聖さをいただき、慰めをいただき、救いの完成へと至ります。スゴいですね。

 ただ知識だけではないのです。あれをしなさい、これをしなさい、という事が聖書で教えられるのではありません。もっと深く私たちは自分自身を知らされ、罪に気づかされ、生き方を方向転換して、神が下さる聖さと慰めの中で新しくされながら、救いに至らせていただける。

聖書を知らなければ、私たちは自分の罪に気づくことが出来ず、汚れや絶望の中で、滅びに至る生き方しかしません。私たちを愛してくださる神を知らない。イエスの十字架の赦しも知らない。救いの恵みも知らない。競争や迷信や間違った幸せに走ってしまうでしょう。でも、聖書を通して、神が私たちに光を与えてくださいます。それで、私たちは、迷わなくてもいいことで苦しまないようになります。暗やみの中で手探りしながら、この先どうなるか分からないような生き方ではなくて、主がともにいてくださり、行く手には素晴らしいゴールが待っていることを心から信じる生き方へと変えられていきます。私たち自身が、成長し、整えられていくのです。また、聖書には沢山の人たちの物語が出て来ます。だれも、立派で失敗のなかった人はいません。みんな、私たちと同じような人間です。失敗したり、危険にあったり、喧嘩したり、罪を犯したり、戦争に遭ったり、その時代その時代を生きた人たちの物語です。そういう伝記を通しても、私たちが慰められたり、自分を重ねたり、教えられたりします。立派なことや、覚える規則が書いてあるだけの本ではありません。聖書はもっと私たちにとって、大きく、壮大で、なまなましい本です。そういう神の言葉を通して、私たちは、ちっぽけで息苦しい生き方から、もっと長く、確かな生き方へ変えられていくのです。

よく言われます。「聖書は神様からのラブレターです」。本当にその通りだ、と私も思います。勿論、みんなが書いたりもらったりするような「ラブレター」とは随分書き方が違いますね。でも、これを下さったのは、間違いなく、私たちを愛しておられる、天のお父様です。その愛は「もっと真面目になったら愛してやろう」とか「ちゃんと生きないと愛してやらないぞ」なんていう愛ではなくて、私たちを無条件に愛する愛です。そして、限りなく愛するからこそ、私たちが、詰まらないものや、嘘や悪い心に捕らえられて生きるのではなく、もっと伸び伸びと、もっと正直に、もっと愛し合って生きることを願われるのです。そのために、こんな分厚い聖書を通して、私たちに丁寧に語り掛けてくださっています。私たちが、聖書に聴くとき、聖霊がみことばを通して力強く働いてくださって、私たちの心を励まし、私たちを育てて下さるのです。好きな人や、お父さんやお母さん、兄弟や友達、大好きな誰かからラブレターをもらうと嬉しいですね。心が嬉しくなりますね。もし、あなたが手紙を書いた人だったら、書いた手紙を読んでほしいでしょう。手紙をあげて喜ばれるとこっちも嬉しくなります。「読まなきゃいけないなんて面倒臭いなぁ」と、渋々読まれたり、粗末に捨てられたりしたら悲しいですね。神が下さったラブレターの聖書も、心から感謝して読みましょう。そして、聖書を通して、神の霊は私たちを必ず慰め、救いに至らせて下さいます。

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問88「恵みをいただく三つの方法」

2015-11-12 19:11:30 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/08 ウェストミンスター小教理問答88「恵みをいただく三つの方法」

 

 今読みました、マタイ二八章の言葉は、マタイの福音書の最後の言葉です。十字架の死からよみがえられたキリストが、弟子たちに与えられた最後の大命令です。

マタイ二八19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

 イエスは、弟子たちに、あらゆる国の人々をイエスの弟子とするために、出て行きなさいと言われました。そして、バプテスマを授け、イエスが弟子たちに命じられたすべてのことを守るように教えなさい、と言われました。勿論、弟子たちも私たちもどこの誰でも、イエスの命令を守ることによって救われるわけではありませんし、誰一人として、自分の力や努力で、イエスの命令を守ることは出来ません。それでも、イエスが弟子たちに命じられたことを教会は教え、守らせるようにと強く言われています。これは、イエスが教会に与えてくださった、新しい生き方、イエスの弟子としての歩みです。

問88 贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分かち与えられる外的手段は、何ですか。

答 贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分かち与えられる外的な、通常の手段は、キリストの諸規定、特に、みことばと聖礼典と祈りで、これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます。

 キリストは、私たちが神の贖いによって、様々な益をいただきながら歩むために「外的な、通常の手段」を下さっています。それが

「キリストの諸規定」

と言われて、特に

「みことばと聖礼典と祈り」

の三つだと言われます。「みことば(聖書、また、その説教)と聖礼典(バプテスマ・洗礼と主の聖晩餐)と祈り」。この三つの大切さを、今日は覚えたいと思います。次から、ではみことばはどのように救いに有効な手段となりますか、聖礼典とは何ですか、祈りとは何で、どう祈れば良いですか、という内容になっていきます。一つ一つについての細かいお話しはまた来週以降に回します。今日は、こういう三つの「外的な、通常の手段」を神が与えてくださった、その事を覚えましょう。覚えるだけでなく、実際の私たちの生活の中で、使っていきましょう。なぜなら、私たちに与えられているみことば、聖礼典、祈りは、本当に素晴らしい方法だからです。私たちを恵みたいと願ってやまない神が定めてくださった手段だからです。

 神が私たちに求めておられるのは、信仰と悔い改めです。決して、何かの儀式とか行為ではありません。そこである人たちはこう言います。「自分達には信仰がある。信仰は、神様と私たちの直接の関係だ。聖霊が働いて下されば、聖書さえなくても、人は信仰を持って救われるんだ。だから、聖礼典なんて必要じゃない」と言います。それから案外、「私はお祈りが苦手だから余りしていないけれど、それでも神様がお恵みを下さると思っています」というクリスチャンは多いです。でも、それは勿体ないことです。「信仰が成長したら聖書や祈りが苦手じゃなくなる」ではないのですね。

 

 その逆です。聖霊は、祈りやみことばを下さり、私たちはそれを通して贖いの益を戴き成長していくのです。元気になったらご飯を食べよう、病気が治ったら医者に行こう、というなら勘違いですね。元気になるためにご飯を食べ、病気を治すために医者に行きます。祈りや聖書は、信仰の立派な人のものではありません。信仰が弱ければ、だからこそ、聖書を読む必要があります。意識して、いつも祈るようにする事が、一番の安全策なのです。

 確かに、信仰は神と私たちの関係です。

 

聖霊が働いて、信仰や悔い改めという恵みを下さいます。そして、聖霊は自由に働かれます。聖書以外の方法-交わり、読書やテレビ、自然、芸術-色々なものを用いて、いいえ、時にはダイレクトに心に働かれ、自由に信仰や悔い改めを起こしてくださいます。ですから、洗礼を受けなくても救われる人はいるでしょうし、聖餐に与れなくても信仰を養われていることはあるでしょう。しかし、「信仰と悔い改めが心にあれば、見えるものなんかいらない」。本当にそうでしょうか。

 「スポーツが好きでさえあれば、きっと上手になる、普通の練習なんか役に立たない」と怠けていたら、上手になるでしょうか。基本の素振りとか空手の型とか、当たり前のことをちゃんとやっているから、毎回の試合でも、ちゃんと戦えるようになっていくのですね。

 私自身、若い頃、聖書を読むのが面倒臭く思いました。神様が直接声を聴かせて下さったり、夢にでも現れて下さったほうがいいのになぁ、と真剣に思っていました。それで、信仰のスランプのようになっていたら、先輩から「聖書読んでる?」と言われて、ハッとして、聖書をまた読み始めました。すると、不思議にすぐ心が明るくなっていきました。ホントにこれは基本なのですね。

 人間は、心と身体で出来ています。心の中と、外側の手段を切り離すことは出来ないのです。心における信仰の関係が、身体の行動や感覚によって支えられる必要があるのです。神は私たちがそういうものだということを知っておられます。だから、最善の方法として、普通に出来る恵みの手がかりを下さっています。それを毎日忠実に続けること、そうして信仰と悔い改めに心を向けていく事を約束してくださっています。

 勿論、形ばかりで心がないのも困ります。恵みの手段は手段であって、信仰と悔い改めに代わるわけではありません。聖書さえ読んでいれば信仰が完璧になるわけでもありません。聖礼典に与れば与るほど、祈れば祈るほど、恵みに満ちるわけでもありません。信仰と悔い改めがなければ、いくら聖書を暗記し、聖礼典や祈りに欠かさず与る生活をしても、虚しいでしょう。ですから、ここでも「外的な、通常の手段」と言っているのです。手段と目的をはき違えないようにしましょう。

 神は私たちに、キリストへの信仰と悔い改めを支えるために、みことばと聖礼典と祈りを下さいました。私たちの生活や人生全体が新しくされるために、見える手がかりを三つも下さいました。これ以外の方法でも、聖霊は自由に豊かに働いておられますが、私たちが熱心に大事にすべき基本はここです。もっと手っ取り早いもの、もっとドキドキワクワクするもの、奇蹟とか幻とか、そういうものに走ると、私たちの心はどんどん渇いていきます。主が下さった三つの方法は私たちをつなぎ止めてくれるのです。

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問87「罪から神への悔い改め」Ⅱコリント七章10節

2015-11-03 14:00:34 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/01 ウェストミンスター小教理問答87「罪から神への悔い改め」Ⅱコリント七章10節

 

 今日は「悔い改め」について、素晴らしいお話しをします。と言ったら、オカシイでしょうか?「悔い改め」というと、とても重くて、堅いイメージがあるからでしょうか。自分の罪を認めて、ゴメンナサイと言わなければならない、思い出したくもない恥ずかしい罪をもう一度思い出さなければならない。神さまが、私たちの罪を責め、怒っておられると言われる気がするからでしょうか。

 そう考えると、先の聖書の言葉も面白いことを言っていましたね。

Ⅱコリント七10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

 「悔いのない、救いに至る悔い改め」って、何でしょうか。悔い改めには「悔い」はない。それが、聖書が言い、私たちが求められている「悔い改め」なのです。「後悔」「罪悪感」と、「命に至る悔い改め」とは同じではありません。全く別のことです。

問87 命に至る悔い改めとは、何ですか。

答 命に至る悔い改めとは、それによって罪人が、自分の罪を真に自覚し、キリストにおける神のあわれみを悟り、自分の罪を悲しみ、憎みつつ、新しい従順への十分な決意と努力をもって、罪から神に立ち返る、そのような、救いに導く恵みの賜物です。

 

 ■「自分の罪を真に自覚し」の後に、「キリストにおける神のあわれみを悟り」とありますね。「神の怒り」ではありません。神が罪に怒るから、私たちが「悔い改める」のでは、「後悔」のような暗く、嫌なことになります。けれども、「キリストにおける神のあわれみを悟り」とは暗く嫌なことでしょうか。いいえ、罪を自覚しただけでなく、それを怒る以上に、キリストにおいて神があわれみを示してくださったことを覚えるなら、私たちは喜びがもたらされます。罪の自覚だけだったら、私たちはその重さに耐えきれずに、潰れてしまうでしょう。先のⅡコリント七10でも、■

Ⅱコリント七10…世の悲しみは死をもたらします。

と言われていました。自分がしてしまったことを元に戻すことは出来ません。多くの人を傷つけて、取り返しがつかない、と絶望して、重いうつ病になったり、自分のいのちを断ったりしてしまう人はたくさんいます。それは、「いのちに至る悔い改め」とは違う「世の悲しみ」です。キリストにある神の憐れみを知らない「後悔」です。私たちに求められているのはそんな「後悔」ではありません。キリストにある神の憐れみ、私たちの罪を赦し、どんな罪を犯しても私たちを愛し、わたしに帰って来なさい、と招いてくださる神の憐れみに動かされての「悔い改め」なのです。そうです、悔い改めとはただ「罪を悔いる」以上に、罪から神へと向き直ることです。■

 新約聖書の書かれたギリシャ語では、「悔い改める」とは「メタノエオー」と言いますが、これは「方向転換をする、向きを変える」という事です。回れ右をする、生き方を罪から一八〇度変えて、神に向かって生きる、ということです。ある牧師さんは間違って、「生き方を三六〇度変えるのです」と言ったそうですが、一八〇度の間違いですね。三六〇度なら、また元に戻ってしまいます。でも、私たちが神に背を向けて、罪を犯す生き方から、神に向かって生きるようになるとき、確かに、私たちの周りの世界は、三六〇度全て、新しく変わって見えるようになるのです。「新しい従順」という生き方が始まります。

 私たちの心には、自分の罪を認めたくない思いがあります。自分は正しいと思っていたいのです。なかなかゴメンナサイを言うのは難しいし、ゴメンナサイと言いながらも言い訳や理由を並べたりしてしまいます。罪を認める事は恥ずかしくて、何とかして、罪を認めないで、神にも大目に見てもらおうと考えます。でも、もし私たちが罪を認めないなら、私のためにキリストが来て十字架にかかって死んでくださったという神の憐れみも見えなくなります。赦しを受け取ることも出来ません。ですから、ここではこの「悔い改め」も、神の恵みの賜物だと言われていますね。

聖書でそれは、

使徒十一28…神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。

などとハッキリ教えられています。自分の罪を認めることも、神の恵みのプレゼントです。そうでなければ、私たちは罪を認めたくないまま、いつまでも意地を張り続けるでしょう。自分は善人な方だ、と思いたがるでしょう。けれども、過ちを通して私たちは素直になり、自分の非を心から謙遜に認めて、神さまに帰って行けば良いのです。

 勿論、本当に悪くもなかったことでもとにかく謝らなければならない訳ではありません。時々、真面目すぎるクリスチャンが神さまの憐れみよりも怒りを強調します。「あなたがたは悔い改めが足りない」と決めつけて、罪悪感を植え付けて「悔い改めなさい」と言い過ぎることがあります。そして、それを聞いた人も真面目だと、よく分からないまま、赦されない罪がないように洗いざらい自分の思い出せること全てをゴメンナサイと懺悔する、ということがあります。でもそれは、「恵み」ではありません。悔い改めは、神の憐れみを悟ることによるのです。嘘やごまかし、意地悪や汚れた行いを捨てることも必要です。でも、そういう具体的な罪の悔い改めの根っこには、嘘や盗みや不倫など間違った罪深い方法で、幸せを手に入れられると信じている間違いから、本当に私たちを愛し、永遠の幸いを下さる神を信じる生き方への方向転換があるのです。

 自分は罪を犯していないから悔い改めはいらない。そういうクリスチャンになったら立派でしょうか。いいえ、そうではありません。「悔い改めも要りません、自分は立派になりました、そんな風に言えるようになりたい」というのはとても勘違いした傲慢です。そんな風な思いを喜ぶのはサタンだけでしょう。むしろ私たちが、いつでも神さまに背を向けてしまいやすいこと、本当に自分が恵みの神を必要としていることを心に深く覚えて、絶えず神に立ち返るようになることが、キリスト者の成熟の証しなのです。

イザヤ五七15わたしは、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

 こう言って下さる神さまだから、私たちはいつも、悔い改めた明るい心で歩むのです。

 

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問86「信仰もプレゼント」エペソ2章8節

2015-10-25 20:47:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/25 ウェストミンスター小教理問答86「信仰もプレゼント」エペソ28

 

 今週は、世界のプロテスタント教会にとって、特別な週です。そして、今日の礼拝を、多くの教会が特別な礼拝の日としています。それは、今週土曜日の1031日が、マルチン・ルターの「宗教改革」が始まった日、宗教改革記念日だからです。今日の礼拝を特に「宗教改革記念礼拝」と呼んでいる教会は数え切れないほどあります。

 今から五百年ほど前、それまでの教会の教えや方向が間違っていることに気づいて、ルターや何人もの人たちが、教会に対する抵抗を始めました。そこで大切にされたのは、私たちは、ただ神の恵みによって救われるのであって、私たちに求められているのは、それを信じる信仰だけだ、という聖書的な告白でした。献金をするとか、教会の教えに従うとか、奉仕や善行や償いの苦行をするとか、そういうことを私たちが付け足さなければ救われないとしたら、おかしい。キリストが百パーセント(五〇パーセントでも九〇パーセントでも九九パーセントでもなく、百パーセント)の救いを果たしてくださった。だから、私たちは、それを信じて、受け入れるだけだ。そういう聖書の教えに帰ったのです。これを「信仰のみ」とか「信仰義認」と言います。とても大切な、私たちの原点です。

 今日の、ウェストミンスター小教理問答問87は、ちょうど信仰を語ります。

87 イエス・キリストに対する信仰とは、何ですか。

答 イエス・キリストに対する信仰とは、それによって私たちが、救いのために、福音において私たちに提供されているままに、キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼む、そのような、救いに導く神の恵みの賜物です。

 先週お話ししたように、私たちが、罪の報いから逃れるために求められていることは、信仰と悔い改めです。では、その信仰とは何かを、今日の問答では教えています。

 まず信仰とは、それ自体が、「神の恵みの賜物」だと言われていることを覚えましょう。勿論、私たちが信じるのですよ。でも、その信仰さえも、神が恵みによって下さるプレゼントなのです。今読んだエペソ書2章の御言葉にもこうありました。

エペソ二8あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。

 神が信仰も下さったのです。そうでなければ、福音を信じること自体、人間は出来ないのですね。

だから、私たちは、人に福音を伝える時も、何とかして信じる気にさせようとか、自分が下手だから信じてもらえないとか、そんなふうに考えなくてもよいのです。どんなに分かりやすくちゃんと伝えても、その人が心から救いを願って福音を受け入れるかどうかは、神さまがお決めになることです。言葉巧みに信じる気に持っていったとしても、そんな誘導尋問は、後から崩れるだけです。救いは、神さまにかかっています。では、私たちは何もしなくてよいかというとそうではありません。私たちは、福音をちゃんと理解して、正しく伝えることによって、私達自身が成長し、恵まれ、神さまとの絆を強くされていきます。信じるかどうかは、神さまとその人との問題です。私たちは、福音を福音として伝えたらよいのです。

 これを二つ目にしましょう。「救いのために、福音において私たちに提供されているままに、キリストのみを受け入れ、」とありました。イエス・キリストを信じると言っても、肝心のイエス・キリストがどんなお方なのか、全く分かっていないけど、取りあえず信じておこう、というのでは意味がありませんよ。

昔の偉い人ではなく、神の御子であり、人としてこの世にお生まれになり、十字架に掛かって死なれ、三日目によみがえられた方、私たちに「わたしを信じなさい」と招かれるお方なんだ。そういう、肝心なことを信じるんですよ、というのですね。面白いなぁと思うのは、信仰はとても大切なのですけれど、その信仰が何か、というのを問八六になってやっと扱うのですね。そして、ここまで、まず私たちが信じるその中身の福音がどんなものなのかを、丁寧に丁寧に語ってきました。そこに、私たちが信じることが「福音において私たちに提供されている…キリスト」であることが具体的に描き出されて来たのです。こっちが疎かになって、「何」を信じるか、より、信じる「私」が大事になってしまったらおかしくなります。救いを果たしてくださったイエス様より、私がイエス様を信じる信仰に力があって、強い信仰でイエス様から救いや恵みを引き出せると考える大間違いがよくあります。それは、本当に酷い間違いです。大事なのは、私たちの信仰ではなくて、イエス様の恵みが素晴らしいから、それを私たちはただ信じるだけなのです。

 同時に、その「信じる」とは、「キリストのみを受け入れ、彼にのみ依り頼む」、そのような信仰です。キリストを信じるとは、「キリストがおられた事実を信じる」とか「キリスト教の教えがいいものだと信じる」というだけではありません。良い教えだと思っているだけで、実際にはそう生きようともしていないなら、それは本当に信じているとは言えませんね。

英語では、believe in Christと言いますが、聖書でも「キリストの中へと信じる・任せる・従う」というニュアンスがあります。キリストを信じるなら、キリストの言葉をも信じて、お従いするのです。それぐらい、信じることは、私たちの生き方を変えることなのです。

 でも、もう一度言いますが、誤解しないでください。信仰は、神の恵みのプレゼントです。

私たちがイエスを信じて、従っていくことも、恵みなのですし、神がそのようにさせてくださるのです。神の御心は本当に素晴らしく、信じて、その中に飛び込むに値するものです。三位一体の神が、この世界を造られ、尊いご計画をもっておられます。人間は、神に背いて、心が罪で暗くなり、我が儘なのに孤独で苦しんでいますが、その私たちを取り戻すために、イエス・キリストがご自身を捧げて、十字架の贖いを果たしてくださいました。それを知らない人は、何を信じているのでしょうか。いつか、幸せになれるとか、どうせ頑張ってもダメだから、好き勝手に生きた方がいい、とか、そんな当てにならない言葉を信じて従っているのかもしれません。そういう私たちの所に来て、キリストは本当に信頼に値する方として、ご自身を私たちに与えてくださいました。私達自身を新しく生きる生き方に導き、そのための信仰も与えてくださるのです。

 宗教改革記念日を前に、私たちがいつも、この信仰の恵みに立ち帰ることの大切さを今日確認しましょう。主の救いを百パーセント信頼して、従わせていただきましょう。

使徒の働き23742

 

 神が人間に明らかに示してくださった御心は、聖書の中の「十戒」(十のことば)に明言されています。夕拝では、その十戒を一つ一つ丁寧にお話しして来ました。けれども、その十戒を、私達が守ることが出来るのか、というと、そうではない、と続いたのですね。私達は、十戒を守るどころか、毎日破り続けている。そして、神の律法に対する違反は、どんな小さなものであっても、神の怒りと呪いに値する、と言われるものでした。私達は、神の怒りと呪いを受けるような違反をせずには生きられないのです。そして、今日の問85ではこう続きます。■

85 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに何を求めておられますか。

 さあ、この後にどんな言葉が続くでしょうか。神は、私達が罪の報いを免れるために、何をお求めになるのでしょうか。■神の怒りに釣り合うようなこととして、私達は、どんなことを思いつくでしょうか。一生懸命自分の償いになるようなことをして埋め合わせようと思う人もいるでしょう。神さまを喜ばせるように頑張んなきゃ、と考える人もいるでしょう。自分の罪を認めて、謙虚に、いつも項垂(うなだ)れて、罪責感を抱えて生きていかなければ怒られる、と考えてしまう人もいるでしょう。「自分には神さまに合わす顔などないのだと私も思ってしまいやすい一人です。けれども、それは、キリスト教の教えではないのですよ、とこの85の答はあっさり言うのです。■

答 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに、イエス・キリストに対する信仰と、命に至る悔い改めを、贖いに伴う様々な益をキリストが私たちに分かち与えるのにお用いになる、すべての外的手段の熱心な使用とともに、求めておられます。

 つまり■ここに言われているのは三つです。「イエス・キリストに対する信仰」と「命に至る悔い改め」と、「外的手段の熱心な使用」です。この一つ一つを、次の問86から見ていきます。特に、外的手段は、問88以下でずっと扱われて、御言葉、聖礼典、そして、祈りの三つの外的手段について学びながら、このウェストミンスター小教理問答は結びにします。ですから、一つ一つの内容については、この後に詳しく見ることにします。今日覚えて欲しいことはこれです。人間が頑張って善いことをして神さまを喜ばせるとか、神の怒りにビクビクしていないといけないとか、そういうことは言われていないのです。また、神を怒らせた後始末を少しでもしなければ、神に近づくことは出来るわけがない、とも言いません。神の怒りと呪いを免れるためにこそ、イエス・キリストに対する信仰を、神は私達にお求めになる。これは、何と不思議なことでしょうか。そして、何と素晴らしいことでしょうか。イエス様がよみがえって天に昇られた後、お弟子達が初めて公に伝道をした時、正にこのことをペテロは言いました。

 使徒の働き二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。…」

 ペテロが命じたのは、悔い改めて、イエスを信じ、バプテスマを受けること、でした。神の怒りを免れるために、何かをしよう、怒りを宥めてもらうような何か埋め合わせをしてから、神に顔向けが出来るとか、それが出来そうにないから、もう神から逃げていよう、というのではダメなのです。そうではなく、反対に、神の怒りを免れる唯一の方法は、神に向いて、イエス・キリストへの信仰と、罪から神に向き直ることなのです。■神が差し出して下さる、イエス・キリストの救いを受け取ることなのです。

 私達人間は、自分の力で、罪に対する神の正しい当然の怒りを少しでも宥めることは出来ません。人間は小さく、神は宇宙よりも大きく、聖なる無限のお方です。いくら背伸びをしても、神を動かせはしません。それが出来るなどと考えるなら、「烏滸(おこ)がましいにも程がある」と言うべき、甚だしい勘違いです。ただ只管、神が人間を憐れんで、怒りの元である人間の罪を解決し、受け入れてくださるのです。神がイエス・キリストを遣わして、私達のすべての罪をご自身に引き受けてくださいました。そのイエス・キリストという、神の一方的な救いの提供を、私達はいただく。それだけなのです。

 決して、私達の信仰や、私達の悔い改めが神の怒りを宥めるのではありません。イエス・キリストが神の怒りをなだめてくださったことを、信じるのであり、それに相応しく、私達としては罪を認めてゴメンナサイと言いつつ、神に向いて生き始めるのです。そして、恵みの外的な手段も同じです。聖書を読んだり、洗礼を受けたり、聖晩餐に与り、祈ることで神のご機嫌を宥めるのではありません。聖書を読むことで、神の愛や自分の悔い改めやイエスの救いをより深く味わうのです。洗礼や聖晩餐によって、イエスの福音を、水やパンや杯で、肌で感じ取り、舌で味わって、本当に私は神の子とされたのだ、と確証して戴くのです。祈りを通して、神との生きた交わりをいただいて、ますます神の救いの恵みに豊かに与るのです。私達はただ、イエスをいただくだけです。

 神は、ここまで私達のために、配慮してくださっています。神の怒りをビクビク恐れたり、考えないように逃げたりするのではなくて、神の赦しをいただいて、赦し以上の和解と神の子とされた祝福をいただけるのです。神は、それを私達に与えたいのです。私達が神の怒りからの救いを願うよりも遥かにずっと、神の方が、私達の救いと祝福を強く願い、永遠の喜びを用意しておられるのです。ひとり子イエス様をさえ、与えてくださいました。そしてそれを、私達が、信仰と悔い改めによっていただける、と言われています。更に、それを補強するために、御言葉や聖礼典や祈りという手立てまで下さいました。それを用いることによって、私達が、もう神の怒りを恐れず、救いの道を喜んで歩めるようにと、ご配慮くださってのことです。これは、何と至れり尽くせりのお心遣いでしょうか。信仰と悔い改めを求めてくださっています。私達の手に届く手段を用いるようにと求めてくださっています。人生に、これを生かさない手はありません。

イエスへの信仰である以上、恵みの手段は、それによって救いを得るというような手段ではなく、イエスへの信仰を強める手段。

「福音を自分自身に告げ続ける」ことが必要なのです。

 

39なぜなら、この約束は、あなたがたと、その子どもたち、ならびにすべての遠くにいる人々、すなわち、私たちの神である主がお召しになる人々に与えられているからです。」

40ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい」と言って彼らに勧めた。

41そこで、彼のことばを受け入れた者は、バプテスマを受けた。その日、三千人ほどが弟子に加えられた。

42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。

 

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問85「これを生かさぬ手はない」使徒の働き2章37~42節

2015-10-23 22:16:54 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/18 ウェストミンスター小教理問答85「これを生かさぬ手はない」使徒の働き2章37~42節

 

 神が人間に明らかに示してくださった御心は、聖書の中の「十戒」(十のことば)に明言されています。夕拝では、その十戒を一つ一つ丁寧にお話しして来ました。けれども、その十戒を、私達が守ることが出来るのか、というと、そうではない、と続いたのですね。私達は、十戒を守るどころか、毎日破り続けている。そして、神の律法に対する違反は、どんな小さなものであっても、神の怒りと呪いに値する、と言われるものでした。私達は、神の怒りと呪いを受けるような違反をせずには生きられないのです。そして、今日の問85ではこう続きます。

問85 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに何を求めておられますか。

 さあ、この後にどんな言葉が続くでしょうか。神は、私達が罪の報いを免れるために、何をお求めになるのでしょうか。神の怒りに釣り合うようなこととして、私達は、どんなことを思いつくでしょうか。
 一生懸命自分の償いになるようなことをして埋め合わせようと思う人もいるでしょう。
 神さまを喜ばせるように頑張んなきゃ、と考える人もいるでしょう。
 自分の罪を認めて、謙虚に、いつも項垂(うなだ)れて、罪責感を抱えて生きていかなければ怒られる、と考えてしまう人もいるでしょう。
 「自分には神さまに合わす顔などないのだ」と私も思ってしまいやすい一人です。

 けれども、それは、キリスト教の教えではないのですよ、とこの85の答はあっさり言うのです。

答 罪のゆえに私たちが受けて当然である神の怒りと呪いを免れるために、神は私たちに、イエス・キリストに対する信仰と、命に至る悔い改めを、贖いに伴う様々な益をキリストが私たちに分かち与えるのにお用いになる、すべての外的手段の熱心な使用とともに、求めておられます。

 つまり、ここに言われているのは三つです。
 「イエス・キリストに対する信仰」と「命に至る悔い改め」と、「外的手段の熱心な使用」です。
 この一つ一つを、次の問86から見ていきます。
 特に、外的手段は、問88以下でずっと扱われて、御言葉、聖礼典、そして、祈りの三つの外的手段について学びながら、このウェストミンスター小教理問答は結びにします。ですから、一つ一つの内容については、この後に詳しく見ることにします。今日覚えて欲しいことはこれです。人間が頑張って善いことをして神さまを喜ばせるとか、神の怒りにビクビクしていないといけないとか、そういうことは言われていないのです。また、神を怒らせた後始末を少しでもしなければ、神に近づくことは出来るわけがない、とも言いません。神の怒りと呪いを免れるためにこそ、イエス・キリストに対する信仰を、神は私達にお求めになる。これは、何と不思議なことでしょうか。そして、何と素晴らしいことでしょうか。イエス様がよみがえって天に昇られた後、お弟子達が初めて公に伝道をした時、正にこのことをペテロは言いました。

使徒の働き二37人々はこれを聞いて心を刺され、ペテロとほかの使徒たちに、「兄弟たち。私たちはどうしたらよいでしょうか」と言った。

38そこでペテロは彼らに答えた。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう。…」

 ペテロが命じたのは、悔い改めて、イエスを信じ、バプテスマを受けること、でした。神の怒りを免れるために、何かをしよう、怒りを宥めてもらうような何か埋め合わせをしてから、神に顔向けが出来るとか、それが出来そうにないから、もう神から逃げていよう、というのではダメなのです。そうではなく、反対に、神の怒りを免れる唯一の方法は、神に向いて、イエス・キリストへの信仰と、罪から神に向き直ることなのです。神が差し出して下さる、イエス・キリストの救いを受け取ることなのです。

 私達人間は、自分の力で、罪に対する神の正しい当然の怒りを少しでも宥めることは出来ません。人間は小さく、神は宇宙よりも大きく、聖なる無限のお方です。いくら背伸びをしても、神を動かせはしません。それが出来るなどと考えるなら、「烏滸(おこ)がましいにも程がある」と言うべき、甚だしい勘違いです。ただ只管、神が人間を憐れんで、怒りの元である人間の罪を解決し、受け入れてくださるのです。神がイエス・キリストを遣わして、私達のすべての罪をご自身に引き受けてくださいました。そのイエス・キリストという、神の一方的な救いの提供を、私達はいただく。それだけなのです。

 決して、私達の信仰や、私達の悔い改めが神の怒りを宥めるのではありません。イエス・キリストが神の怒りをなだめてくださったことを、信じるのであり、それに相応しく、私達としては罪を認めてゴメンナサイと言いつつ、神に向いて生き始めるのです。そして、恵みの外的な手段も同じです。聖書を読んだり、洗礼を受けたり、聖晩餐に与り、祈ることで神のご機嫌を宥めるのではありません。聖書を読むことで、神の愛や自分の悔い改めやイエスの救いをより深く味わうのです。洗礼や聖晩餐によって、イエスの福音を、水やパンや杯で、肌で感じ取り、舌で味わって、本当に私は神の子とされたのだ、と確証して戴くのです。祈りを通して、神との生きた交わりをいただいて、ますます神の救いの恵みに豊かに与るのです。私達はただ、イエスをいただくだけです。

 神は、ここまで私達のために、配慮してくださっています。神の怒りをビクビク恐れたり、考えないように逃げたりするのではなくて、神の赦しをいただいて、赦し以上の和解と神の子とされた祝福をいただけるのです。神は、それを私達に与えたいのです。私達が神の怒りからの救いを願うよりも遥かにずっと、神の方が、私達の救いと祝福を強く願い、永遠の喜びを用意しておられるのです。ひとり子イエス様をさえ、与えてくださいました。そしてそれを、私達が、信仰と悔い改めによっていただける、と言われています。更に、それを補強するために、御言葉や聖礼典や祈りという手立てまで下さいました。それを用いることによって、私達が、もう神の怒りを恐れず、救いの道を喜んで歩めるようにと、ご配慮くださってのことです。これは、何と至れり尽くせりのお心遣いでしょうか。信仰と悔い改めを求めてくださっています。私達の手に届く手段を用いるようにと求めてくださっています。人生に、これを生かさない手はありません。

 

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