聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問102「神の善き御支配を信じる」詩篇72:11~17

2016-02-07 16:45:20 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/01/24 ウ小教理問答102「神の善き御支配を信じる」詩篇72:11~17

 

 今日は主の祈りの「第二祈願」を噛みしめて、新たな気持ちで祈りましょう。

問 第二の祈願で私たちは、何を祈り求めるのですか。

答 第二の祈願、すなわち「御国が来ますように」で私たちは、[第一に]サタンの王国が滅ぼされるように、そして[第二に]恵みの王国が前進させられ、私たち自身と他の人々がその中に入れられ、その中で守られるように、また[第三に]栄光の王国が早く来るように、と祈ります。

 「御国が来ますように」。これも、正確には「天にいます私たちよ、あなたの御国」という言葉ですね。それも、この「国」はKingdom、王国という意味の言葉です。神が王となって治められる国のことで、支配とか統治なのです。そうではなくて、何となく幸せで、平和な場所、長閑な国、私たちが思い浮かべる、一度は行ってみたい素晴らしい国、場所…そういうことを思い浮かべている誤解も多いのではないでしょうか。天国というと、殆どの人が、ただの「楽園」を考えているだけで、神が王となられる、ということは二の次でさえ考えないのです。しかし、ここでは全面的に、神が王となって治める国のことが言われています。

 新約聖書には「神の国」という言葉が67回使われます。マタイの福音書では「御国の福音」という言い方も三回出て来ます。イエスの宣教も

「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」

という言葉から始まりました(マルコ一15)。キリスト教の福音とは、神の国を特徴とするものです。ただ「死んでも地獄に行かない」とか、「罪が赦される」という以上に、キリストが私たちの王となってくださる、真実で素晴らしい御国が来た。それが「福音」なのですね。

 前回も

「御名があがめられますように」

の「御名」とは、神の御名であることをお話ししました。そして、私たちは神の御名があがめられるよりも、自分の名前のことを気にしているとお話ししました。今日の「御国」もそうですね。キリストが王となって治めて下さる神の「国」が来ますように、と祈りなさいとイエスは教えられました。私たちは、神が王であることを差し置いて、自分が王様になりたいものです。自分の手の届く所の事は、自分の思い通りに支配したがっています。総理大臣や大統領になりたいとは思わないかも知れませんが、それはただ面倒臭いからだけで、自分の人生や家庭や職場の環境など、思うようにしたがりますね。そして、思い通りにならないことを神が何とかして下さったら良いのに、と願うのです。それは、神が支配してくださるようでいて、結局、自分が王様のような立場にいようとすることです。でも、私たちは決して、自分で自由に生きることは出来ません。自分の欲とか恐れとか、何かしらに突き動かされているのです。そして、私たちの理解は短絡的で、私たちの判断はしばしば感情的です。そして、何かの拍子に巧い口車に乗せられて、取り返しのつかない大失敗をしたりしてしまうものです。神の代わりに何かを王にして服従しているのです。そして、聖書は、神の支配に背を向けた世界がサタンの支配下にあるという言い方をしています。

Ⅰヨハネ五19私たちは神からの者であり、世全体は悪い者の支配下にあることを知っています。

 勿論、サタンであろうと私たちであろうと、神を出し抜いたり、神に逆らって打ち負かしたりすることは絶対に出来ません。全てを、神は究極的には治めておられます。その神の許しの中で、人間は神に逆らい、サタンに従ってしまいました。でも、だからこそ私たちは、神こそが王であり、神の支配が来るようにと願う応答が求められているのです。そして、サタンの悪意や嘘に満ちた支配から、神の恵みに満ちた真実な支配へと私たちが移されるという知らせは「福音」なのです。いいえ、もっと積極的に、

…[第一に]サタンの王国が滅ぼされるように、そして[第二に]恵みの王国が前進させられ、私たち自身と他の人々がその中に入れられ、その中で守られるように、また[第三に]栄光の王国が早く来るように、と祈ります。

と言われているのです。最後にあるように、私たちは、やがてこの世界が終わり、「栄光の王国」と呼ばれる、神の国の最終的な完成を信じています。その神の完全な御支配が、永遠に続く世界が来ることを待ち望んでいます。でも、その終わりの日が早く来ますように、と言う意味だけで「御国が来ますように」と祈るのではありません。今、私たちの生きているこの世界も、神の御支配の中に回復されていくことを願うのです。不正が蔓延っていたり、嫌なことがあったり、思い通りにならないから、もうこんな世界は放り出して、早く世の終わりが来て、素晴らしい御国が始まってくれたら良いのに、というのではありません。この世界も神が造られた世界です。全ての物が神の作品であり、本来、神の御心へと向けられていくものです。私たちの仕事や人間関係、時間、楽しみ、労苦も、決して無意味でもどうでもよいものでもありません。それは、神の御支配の中で輝くべき、尊いものです。今、ここに、神の支配が回復され、不正やエゴイズムではなく、恵みの王国が前進し、私たちも他の人もその恵みの支配の中に入れられ、その中で守られ続けますように、と祈るのです。

 同時に、それはやがて栄光の王国が来ることの兆しに他なりません。今、ここで、神の国が完全に成就することはありません。理想的なキリスト教国家を作ろうとしても、完璧には程遠いものしか出来ません。教会の中にさえ、あらゆる不純なものが入ります。政治的に完全を歌い、この世界の中に神の国を完成させようとする過ちに陥ることも、教会にはたびたび起きてきました。やがての栄光の御国を待ち望みつつ、今ここに、その始まりが芽ばえることを願うのです。

 そして、私たちはそれを、指をくわえて何もせずに待つのではありません。神の御支配に従い、神の御言葉に今従って、自分のなすべき分を果たすのです。恵みに動かされた生き方をしていくのです。神の国のあり方を、自分の人生のあらゆる領域で現すようにと願うのです。それは自分では出来ません。だから私たちは「御国が来ますように」と祈るのです。今日も、私たちの歩みの中に、あなたの御国を建て上げて下さい、サタンの虚偽ではなく、あなたの恵みの力によって、私の一挙手一投足も、周りのすべての人たちも支配して下さい。そうして、あなたの栄光の御国をどうぞこの世界に現して、あなたを崇めさせてください、と祈るのです。

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問101「とにかく御名があがめられ」詩67篇

2016-01-03 15:20:43 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/01/03 ウェストミンスター小教理問答101「とにかく御名があがめられ」詩67篇

 

 主の祈りにはいくつの願いがあるか、分かりますか。6つです。では、あなたが6つの願いを願うとしたら、どんなことを願うでしょうか。3つでもよいですが、どんな願いを考えるでしょうか。イエスは私たちに、6つの願いを祈るように教えてくださいましたが、それは、私たちが考える願い事とは、どれほど違うかを考えてみてください。でも、イエスはそれこそが、私たちの願いとして挙げられることなのだよ、と教えてくださったのですね。今日は、最初の願いについてお話しします。

問101 第一の祈願で私たちは何を祈り求めるのですか。

答 第一の祈願、すなわち「御名があがめられますように」で私たちは、神が、ご自身を知らせるのにお用いになるすべてのことにおいて、私たちと他の人々が、神に栄光を帰すことができるようにしてくださるように、また、神が万事をご自身の栄光のために整えてくださるように、と祈ります。

 「御名があがめられますように」。

 御名とは「天にいます私たちの父・あなたのお名前」です。あなたのお名前が「あがめられますように」。これは

「聖とするHallowed」

という意味です。聖holinessとは、神の本質的な属性です。完全であること、一切の汚れや私利私欲がない、正しさと恵みに純粋に満ちておられるご性質です。それは、何によっても傷つけられず、強く、タフな真実さです。それは、神の本質を言い表しているもので、神は「聖なる神」と呼ばれ、神の御使いたちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を永遠に誉め称えていると描かれている通りです。

 そして、神の「御名」とは、神ご自身を現すものです。ただのニックネームとか呼び名ではなくて、神そのものを現しますし、「神」と言うのが恐れ多いために、代わりに「神の御名」と言うこともあるような尊いものなのです。確かに、「神よ、あなたが崇められますように」というよりも「御名があがめられますように」の方が、気持ち的に言いやすいかもしれません。いずれにしても、神の御名もまた、聖なる御名です。

 ではなぜ「御名があがめられますように(聖とされますように)」などと言うのでしょうか。最初から御名はもう聖なのではないのでしょうか。そうです。問題は、それなのに、その御名が聖とされていないことにあります。大いなる素晴らしい神、恵みと誠に満ちておられる、無限に聖なる神がおられ、この世界はその神によって、神の栄光を現すために造られたのに、どうでしょうか? 人間は、神なんか知らないと思っています。神を小さく、弱くしたり、勝手で人間と同じようにいい加減だったりケチであるかのように考えています。何よりも、人間が、六つの願いを挙げてご覧と言われても、健康だ美味しいものだお金だ今度一番になれますように、色々な願いはあるかも知れませんが、「神の御名があがめられますように」だなんて願いは思い浮かばないでしょうし、そう言われても、ピンと来ないぐらい、神の御名に、ふさわしい賛美や尊敬を持っていないではありませんか。

 だから私たちは、第一に

「御名があがめられますように」

と祈るのです。宇宙を造られた神が貶められているのに、私たちが自分のちっぽけな願望に取り憑かれているとしたら、乗っている船が沈みかねない事故に遭いそうなのに、クイズの答で悩んでいるようなものです。まずは、事故の回避に努めるべきでしょう。まずは、神の御名があがめられることを祈り、願う時、そこから、世界の歯車が噛み合いだして、やがては、自分の立ち位置もちゃんと収まってくる、というものです。

 私たちは神のことよりも、自分の事が気になるものです。自分の名誉とか、有名になるとか、名誉毀損だとか、汚名返上したいとか。私も数年前、そんな事で頭がいっぱいになっていました。誤解されたくない、言い訳したい、抗議したい、自分のことが一番でした。でも、この「主の祈り」を繰り返すうちに、自分の思いが、スーッと落ち着きました。

 「主よ、私の名前ではなく、あなたのお名前が崇められますように。あなたのお名前さえあがめられれば、私の名前が今どんなに誤解されたり卑しめられたりしても、何でもありません。あなたは大いなるお方です。私にとって、あなたは、本当に恵み深く真実で、正しく、真実でいてくださいます。私も、あなたの御名をあがめます。そして、みんなもあなたの御名をあがめるようにしてください。あなたの偉大さに気づき、あなたの聖なる御名を賛美しますように。」

 そのように祈るようになります。でも、いつのまにかまた、自分のことや、目に見えること、周りのことに、心が奪われてしまうのですけれども、その度に、「主の祈り」を通して、軌道修正をしてもらっています。

 他の祈りを祈るにしてもそうです。誰かが病気や事故に遭って、入院したら、その回復を祈ります。不登校や引きこもりになった、事業が難しくなった、そう聴けば、その問題が回復するようにと祈ります。けれども、もう少し長い時間をかけると、病気になったことがその人の進路を決めることもありますね。心が苦しかった時を通して、本当に大切なものに気づくことは沢山あります。事業が潰れて、新しい、もっと大切な仕事を始めるようになることもあります。そういうことを考えると、ただ病気になりませんように、奇蹟が起きて、問題が解決しますように、という願いが叶えばいいとも思えません。長いスパンで、本当に何が最善なのかは、私たちには分からないのです。病気の癒やしを真剣に祈りつつも、でも、最後の死は誰も避けることは出来ません。どう祈れば良いのか、分からなくなってしまいます。でもそういうときも、この祈りは祈れます。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」。

 今の苦しい状況が、どうなることが最善なのかは私たちには分かりませんが、しかし、いずれにしても、とにかく、この状況を通して、あなたの御名が崇められますように。ここに、あなたが聖なる方であることを現してくださいますように。みんなが、「本当にイエスは真実なお方だ」と、何らかの意味で、心から称えるようになりますように。この事を通して、このことの中に、とにかく御名があがめられるように、お願いします。こういう祈りに最終的には落ち着くのです。そんな祈りをよくします。そして、神は本当に聖なる、あがめられるべきお方です。私たちの生きる現実のただ中に働いて、御名の聖さを必ず現してくださる。イエスの御霊が私たちの心に働いて、私たちに御名を崇める心をも下さると信じて、祈りでも生活でも、これを第一の願いとして行きましょう。

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問100「最大の畏敬と最高の信頼」ローマ書8章15~16節

2015-12-30 20:11:34 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/12/27 ウ小教理問答100「最大の畏敬と最高の信頼」ローマ書8章15~16節

 

 今日から「主の祈り」について学んで行きます。主の祈りについて学びながら、祈りについて学びます。祈りについて学ぶとは、私たちと神との関係を知る事ですし、神とはどんなお方か、私たちは今どういう者であり、何を願い、何を求めて生きるか、ということを知っていくことです。

 「主の祈り」は、主イエス・キリストが、弟子たちに教えられた祈りです。イエスの祈りを聞いていて、弟子たちは、イエスの神に対する祈りに、とても強い魅力を感じずにはおれなかったようです。弟子たちはイエスに、

「私たちにも祈りを教えて下さい」

と尋ねた、とルカの福音書11章に書かれています。そこで主イエスが教えられたのが、「主の祈り」でした。イエスが祈られた祈り、ではなくて、イエスが弟子たちに教えてくださったので「主の祈り」なのです。そしてこの「主の祈り」を通して、弟子たちが、また私たちが、イエスによって教えられなければ決して持てなかったような、新しい神との関係が育まれるのです。ですから、「主の祈り」を通して、私たちが全く新しく、深い視点を持って生きることを、今日からの学びに期待したいのです。今日はまず、主の祈りの最初の言葉(序文)について学びましょう。

問100 主の祈りの序文は、私たちに何を教えていますか。

答 主の祈りの序文、すなわち「天にいます私たちの父よ」は私たちに、私たちを助けることができ、また喜んでそうしてくださる神に、子どもが父親に対してするように、全く聖なる畏敬と信頼をもって近づくように、また私たちが、他の人々と共に、そして他の人々のために、祈るべきである、と教えています。

 「天にいます私たちの父よ」。こうイエスは祈るように教えられました。先ほど読んだローマ書8章では、パウロがこう言っていましたね。

ローマ八15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

16私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 イエスによる福音は、ただ神を「父」と呼ぶことを教えただけではありません。イエスは私たちに御霊を与えてくださいました。その御霊は、私たちを神の子どもとしてくださり、神を

「アバ、父」

と呼ばせてくださり、私たちが神の子どもであることを証言してくださる、というのです。「アバ」というのは、ヘブル人の子どもたちが舌足らずなうちから、お父さんを呼ぶ言い方です。日本語だと「パパ」、英語だと「ダディ」に近いでしょう。それは、本当に親しい言い方です。イエスは、神と私たちとを、そのように親しい絆で結びつけてくださいました。

 これは、当時のユダヤ教の考えでは、あり得ないことでした。神を「アバ」と呼ぶほど親しく馴れ馴れしくするだなんて、思い上がりも甚だしいと考えられたのです。実際、旧約聖書にはそのような呼び方は殆ど出て来ません。しかし、それにはそれで理由がありました。旧約聖書の時代、周囲の民族の宗教では、神を「父」と呼んでいたそうです。そこには馴れ馴れしさ-神を引き下げ、自分たちの思い通りに操ろうという自己中心の宗教理解-がありました。これに対して聖書は、神を、天地を造られた大いなる主として、恐れ、心から礼拝し、私たちこそ神の御心通りに従うべきことを強調します。その上で、イエスは、その「大いなる神」と私たちを、父と子という親しい関係で結び合わせてくださいました。そのために、神の子であるイエスご自身が私たちのようになってくださり、御霊を遣わして、その絆を与えてくださったのです。ですから、神を親しく「アバ、父」(お父さん)と呼べることが、決して軽々しいことではなく、神の子イエスの尊い御業によって与えられた特権であることを忘れてはなりません。

 神が神である故に、私たちは限りない恐れ、礼拝の念を忘れてはいけません。同時に、その神は本当に私たちの父となってくださったのですから、遠慮しすぎたり、畏まってカタくなったりする必要もありません。神は

天にいます私たちの父」

であり

「天にいます私たちの父

です。この両方をいつも忘れずにいましょう。逆説的なことを言えば、私たちが自分のお父さんを考えない方がいいのです。いいお父さんでも、完璧ではありません。そして、お父さんやお母さんとの関係が上手くいかなくなっている人も多くいます。そうした時、神が「天のお父さん」と言われても、困ってしまったり、その自分の両親との関係が限界になって、ぎこちなく考えてしまったりするのです。

 神は、人間の親とは違います。この方は、完全に私たちを知っておられます。また、私たちを愛しておられます。子どもの心をよく分かってあげられない人間ではありませんし、よかれと思って間違ったことをしてしまう親でもありません。また、自分自身に恐れや傷や自己中心があって、子どもを操作しようとすることも、神にはありません。ですから、ローマ書では、私たちが受けたのは「人を再び恐怖に陥れるような奴隷の霊ではなく、子としてくださる御霊を受けたのです」と言っていました。この神との親子関係には、恐怖はありません。本当に恐れる事なく、神を「天のお父さん」と呼んで良いのです。しかも、そう祈ることから始めて良いのです。なぜなら、そう呼べるために必要なことは、すべて主イエスがもう果たしてくださったからです。私たちが、あれこれ準備したりしなくても、「天のお父さん」と呼んで良いのです。

 イエスが「主の祈り」を教えられたことを記す、もう一つのマタイ六章で祈る時は、会堂に出かけたり、みんなに見せるために通りに立ったりせず、家の奥の部屋で戸を閉めて祈りなさい、と言われています。なぜなら、天の父は隠れた所におられるからだ、と言われます。

マタイ六6あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

神との関係は、私たちの生活の隠れた、秘かな思いから始まるのです。装ったり、取り繕ったりしない、私たちの心の深い所まで、恐ろしいほどに知っておられる神が、私たちを愛し、私たちの祈りを全て聞き、私たちが願うよりももっと素晴らしく、深く、最善のご計画で応えてくださるのです。

 「天にいます私たちの父よ」。この言葉から、神への最大の畏敬と、最高の信頼をまず持たせて戴いて、祈りを始めましょう。自分のためだけでなく「私たち」と周りにも思いを馳せながら、天を仰いで、高い志をもって、祈りを捧げさせていただきましょう。

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問99「私たちの祈りを助ける神」ローマ書8章26~27節

2015-12-13 21:49:56 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/12/13 ウ小教理問答99「私たちの祈りを助ける神」ローマ書8章26~27節

 

 祈りは、私たちが神から恵みを頂く上で欠かせない、そして、素晴らしい手段です。私たちの願い事を、神にお献げすること。神とお話しする事。神との友情を育てる事。神との親しい関係の中に、生きる事。それが、祈りです。では、私たちはどのように祈ったらよいのでしょうか。それが、今日の問99です。

問99 神は、祈りについて私たちを導くため、どのような規範を与えておられますか。

答 神の言葉全体が、祈りについて私たちを導くのに役立ちますが、しかし、導きの特別な規範は、キリストがその弟子たちに教えられた祈祷文、いわゆる「主の祈り」です。

 この次から、「主の祈り」を丁寧に取り上げて行きますが、今日はまずこの前半の

 神の言葉全体が、祈りについて私たちを導くのに役立ちます…

という言葉に耳を傾けましょう。神は祈りについて私たちを導くための規範として、まずは、聖書全体が役に立つ、というのです。聖書は、直接祈りについて教えていないように見える箇所でも、私たちと神との関係について様々のことを教えてくれます。神がどのように私たちに関わっておられるか、私たちと神との関係が罪によってどのように壊れているのか。そうしたことを丁寧に掘り下げているのですね。それを、私たちが自分たちのあり方に当てはめて考えていくなら、私たちを祈る助けになる、というのです。

 このウェストミンスター小教理問答も、最後に「祈り」についての問答が10回あって終わりになります。これは、とても大事なことです。最後に祈りのことを教えるのは祈りが大事ではないからでしょうか。祈りのことも、おまけして、最後に話しておきましょう、ということでしょうか。いいえ、その逆です。今までの、神について、キリストについて、救いについてお話しして来たことは、私たちを祈りへと導くのです。神様との関係がどのようなものであるか、を気づくなら、それは私たちを祈りへと導かずにはおれません。

 もっと言えば、神ご自身が、私たちに祈ることを求められ、親しい交わりを持ちたいと願っておられる神です。天地万物をお造りになった神は、私たちの神という親しい契約を結ばれました。実の親子の血のつながりよりも強く、永遠の、神の子どもという親子関係に入れてくださいました。それなのに、私たちが祈らなくても気にしないとか、祈りはおまけだとか、そんなはずがあるでしょうか。神は、大いなるお方であると同時に限りなく親しいお方であり、私たちといつもともにおられるお方です。そして、私たちもその神との親しい交わり、つまり祈りを絶えず捧げつつ生きるようにと、私たちを助け、導き、聖書全体を通して、教えてくださっています。

 どうでしょうか。私たちには、神がそのように「私」に関わり、私が祈るならば、喜んで、深く耳を傾けてくださっているお方である、という確信があるでしょうか。「自分が祈ろうと祈るまいと、神は気になさらない」とか「神がそれほど私個人に関心を持っておられるとは思えない」と考えていないでしょうか。そのような思いで祈るなら、祈りそのものが、真剣味や期待を欠いてしまうのも仕方がありません。祈りに身が入らず、口先だけの祈りになってしまうでしょう。あるいは、神が私たちに祈りを求めておられる、という「義務」を果たしておかなければ神のご機嫌を損なうことになる、というような思いで、毎日祈りを欠かさないとしても、そこには「恵みの神」ではなく「真面目で面白みのない神」という、歪められたイメージしかない、ということもあります。ですが、聖書や教理の学びを通して、恵みの神に対する正しいイメージを持つことは、私たちを喜ばしく楽しい祈りへと導いてくれるのですね。しかし、何よりも、聖書そのものにおいて教えられている「祈り」の姿、祈りの言葉、そして、私たちが実際にそのような祈りに教えられていくこと自体が、私たちと神との関係を育んでくれます。

ローマ八26御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

27人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神の御心に従って、聖徒のためにとりなしてくださるからです。

 これもまた、すばらしい言葉ですね。神の御霊は、弱い私たちを助けてくださいます。よく「自分は信仰が弱いから、祈ってもあんまり力がないけれど、信仰が強い人ほど、祈りに力があり、神もそういう人の祈りに応えてくださる」と言ったり考えたりすることがあります。でも、聖書は、私たちが強くなったら祈りにも応えてくださる、ではなく、弱い私たちだからこそ、御霊が助けてくださるのだ、と言います。そして、信仰が強くなると、祈りも力強くなる、とは言いません。パウロはここで、

…私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、…

と言っています。「どのように祈ったら良いか分からない時があるとしても」ではなくて

どのように祈ったらよいかわからないのですが、

です。パウロがこう言っています。信仰が成長するとは、自分がどのように祈ったら良いか分かるようになる、ではなくて、どのように祈ったら良いのか自分には分からないけれども、その私の願いを、神の御霊が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださるのだ、と確信できるようになっていくことです。そうです、聖書全体が、人間の弱さ、罪によって歪んでしまった、心の闇の深さを描いています。神との関係が本当に偉大で、確かで、素晴らしいことを示しつつ、なお人間はその神を疑ったり罪を犯したりするのに如何に容易いかを、これでもかとばかりに示しています。でもそうやって、神様は、私たちの心の一番奥深くにある思いにまで届いてくださって、神の御霊ご自身が、人間には言い表すことも出来ないほどの呻きでもって、私たちのこのありのままを、天の神の前に届けてくださるのです。何とありがたいことでしょうか。

 神は偉大で聖く、恵み深く、私たちの祈りを喜ばれる、天の父です。イエスは「主の祈り」を始め、その教えと生き方全体で、祈りの模範を示されました。御霊はこの私たちの祈りや願いをすべて受け止めて、天に届けて下さいます。だから私たちは祈れるのです。祈りこそ、私たちが最も自分らしく、安心していられる、欠かせない時なのです。

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問98「私たちの願いをささげる祈り」ピリピ4章8節

2015-12-01 21:01:18 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/29 ウ小教理問答98「私たちの願いをささげる祈り」ピリピ4章8節

 今日は「祈り」についてお話しします。夕拝でずっとウェストミンスター小教理問答からお話しをしているのですが、ちょうど順番が、「祈りとは何ですか」という問98なのです。今回の「帰国者クリスチャンの集い」にもピッタリの内容だと思います。

 祈りについては、とても沢山の聖書の言葉がありますし、良い本が何冊も書かれています。そして、このウェストミンスター小教理問答でも、問98から107まで、10回かけて教えていますので、今日はその最初の「祈りとは何か」を簡単にお話しします。これは、きっと私たちの信仰生活にとっての大事な足がかりになることです。

問98 祈りとは、何ですか。

答 祈りとは、神の御心にかなう事柄を求めて、キリストの御名により、私たちの罪の告白と、神の憐れみへの心からの感謝と共に、私たちの願いを神にささげることです。

 これも日本語に訳すと仕方のないぎこちなさなのですが、祈りとは「私たちの願いを神に捧げること」です。何を目的にですか。「神の御心にかなう事柄を求めて」。どうしてそんなことが出来るのですか。「キリストの御名により」です。そして、その祈りにはいつも「私たちの罪の告白と、神の憐れみへの心からの感謝」が伴っていなければなりません。そのようにまとめているのですね。

 なんだかややこしいと思う方もいるかも知れません。確かに私たちが、祈りって何だろう?とゼロから学ぶなら、ややこしい定義です。でも、私たちは、ゼロではないのです。何かしらの祈りについてのイメージを必ず持っているのです。イエスもマタイ六章で、祈りについて教える時に、まず、見せかけで祈ってそれが祈りだと思っている人の真似をしてはいけません。また、長々と祈れば聞かれると考えている異邦人の真似をしてはいけません、と話されて、私たちの祈りがどれほど間違った影響を受けているか、から教え始められました。私たちはみな何かしらの「祈り」のイメージを持っています。言ってみれば「自分の願いに叶うことを求めて、人間の努力により、取り繕って、神の憐れみにお世辞を言いつつ、私たちの願いを神に叶えさせることです」ではないでしょうか。

自分が中心ですね。祈り、というよりも、交渉術とか霊感とかそういうものを考えています。神を動かして、自分が幸せになることを考えています。神は手段に過ぎません。言ってみれば、神に祈らなくても、自分が幸せになれるなら、祈りなんかしなくていい、というだけです。神を信じる事自体、面倒臭いことでしかありません。

 イエス・キリストが示してくださったのは、もっと大きく、温かく、素晴らしく、致命的な神との関係です。私たちよりも遥かに大きく、想像も出来ないほど豊かで、正しく、聖く、美しいお方です。その神は、私たちを愛して私たちをお造りになり、私たちと親子の関係を結び、永遠の交わりに生かそうとお考えです。最初の人間アダムは、その神との約束を破って、神に背を向けてしまいました。神はその人間の甚だしい無礼を怒って滅ぼしても良かったでしょうに、代わりにひとり子イエス・キリストをこの世に送って、神との関係を回復する犠牲として、その命を十字架において捧げられました。そうまでして、神は私たちが神の方を向き、神との親しい関係を取り戻されるのです。私たちは今、イエス・キリストを通して神の愛、神の偉大さ、御真実を知らされています。その神との関係を回復され、ただ自分の願いを叶えてもらうため祈る、そうでなければ祈らない、というような勘違いした関係よりも深く尊い信仰をもらったのです。

ピリピ四6何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

という関係を戴いているのですね。

 この関係が明らかにしているのは、ただ祈りとは何か、だけではありません。

 神とはどんな方か、それは私たちの祈りを聞き、私たちと親しい関係を求めて止まないお方である。そして、神に自分の願い事を捧げ、神との交わりに永遠に生かされてゆく者、それが私たちだ、ということです。祈りは、神が与えて下さったプレゼントとして、私たちを神と結びつけるのです。

 けれども、そう言われると、躊躇いが生まれるかも知れません。祈りとは何かでは分からなかった事が、自分と神との関係が祈りで結ばれていると考えると、尻込みしたい自分に気づくかも知れません。

 自分が、神とのそんなに親しい関係に生かされるだなんて実感が湧かない。神にホントにそんなに信頼していいのか、自分なんかの願いを祈ったら「厚かましい」と思われるんじゃないか、自分の弱さや失敗をまだ神は赦していないかもしれない、神の御心にかなうことを求めたら裏切られたような思いをしないだろうか…。自分が愛されるなんてムリムリ~。色々な思惑が出て来るのです。

 「祈りを妨げる一番の原因は恐れです」

とジェームス・フーストンという方がハッキリ言っています。祈りは、神との人格的な交わりです。上手や下手などない、神との素晴らしい交わりです。でも、私たちは、罪や限界があって、破れた人間関係が当たり前になっています。その影響で、神との関係をも、私たちは神に信頼しきることが出来ません。親子関係の痛い傷や人間関係での失望が、神との関係にも影響を与えてしまいます。それが、祈りに尻込みをさせたり、口先だけの祈りの文句を繰り返したり、神を操作しようとする祈りになったり、期待もなく味気ない祈りになる原因です。そして、そのような自分と神との関係の貧しさ自体、どうせそのようなものだと諦めているのです。

 でも、神が求められるのは、そんな薄っぺらい表面的な関係でもないし、恐れや疑いを無視した、当たり障りのない祈りの生活でもありません。神は、ご自身の愛によって、私たちの恐れを取り除き、傷を癒やし、本当に信頼できる神との親しい関係に生かしたいのです。いえ、既にその関係に入れられているから、祈りへ招かれているのです。

 神の御心は、このありのままの私たちが神を心から愛し、互いに愛し合うことです。そんな大それた神に、私たちは自分の心の願いを祈っておささげしなさいと言われています。恐れも疑いも傷も罪も告白し、憐れみへの感謝も心から祈りつつ、神の御心に自分をゆだねるのです。その祈りの中で私たちは確かに成長させられていくのです。

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