聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問83-84「違いはあれど罪は罪」ローマ七章12~14節

2015-10-11 20:52:36 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/11 ウェストミンスター小教理問答83-84「違いはあれど罪は罪」ローマ七章12~14節

 「毒を食らわば皿まで」という言葉を知っていますか。

「(毒を食う以上は、その皿までもなめてしまおうの意で)一度罪を犯した以上は、ためらわずに最後まで悪に徹しようとすることをいう。また、いったん面倒なことに関わってしまったからには、最後まで関わり抜く。」

という意味だそうです。「悪いことにどうせ手を突っ込んでしまったんだから、徹底的にやってしまっても同じだ」という言いぐさです。「嘘を吐いたらもう最後までしらを切ろう」「人のモノを盗っちゃったら、二つ盗っても三つ盗っても同じ」、「一人殺しても十人殺しても同じ」。逆に、嘘やズルがバレた時に、「お前は生まれてから一度も罪を犯したことがないのか。心の中で、恥ずかしい想像や汚い考えをしたことがないっていうのか」と逆ギレする人もいますね。でも、それは間違いです。

問83 律法に対する違反はみな、同じ程度にいまわしいのですか。

答 ある罪は、それ自体で、また、いくつかの加重の理由で、他の罪よりも神の御前に一層いまわしくなります。

問84 すべての罪は、何に値しますか。

答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。 

 ここでは、神の律法に対する違反は、みんな同じ程度に忌まわしいのではなく、罪を「加重」(さらに重くする要素)ということがあるのだ、ということです。

 例えば、同じ罪でも、罪を犯す本人が、年長者、指導者など、責任ある立場にいる人、みんなの模範となることを期待される人がする場合は、よりその罪はひどい影響力を持ちますね。牧師や親、学校の先生、一流選手、政治家の影響は大きいのです。

 それから、相手によっても、罪の責任はより重くなります。人の悪口もいけませんが、神への悪口は更に恐ろしいことです。自分の親や目上の人に対する罪も聖書はより責めています。でも、多くの社会では、貧しい人や障がい者、病人などは、余り顧みられないで、「虫けらのように扱われる」と言われたりします。しかし、聖書はそれとは正反対のことを教えます。イエスは言われました。立場の弱い人、「最も小さい者のひとりにしたのは、このわたしにしたのです」と。弱い人に対する罪は、より重く問われるのです。

 三つ目以降は、罪そのものの背景です。それが「知らずに」した罪、悪いと分かっていなかった、罪だと教わっていなかった、正しいと思ってやってしまったよりも「明らか」に罪だと分かっていた場合の方が、より重く罰せられます。パウロは、イエスに出会う前、教会を迫害していました。沢山のキリスト者を、良かれと思って、捕らえたり苦しめたり殺したりしましたが、それはまだ知らずにやったことだったので、神はそのことを汲み取って憐れんでくださったと言っています(Ⅰテモテ一13)。しかし、悪いと分かっているのにする、あるいは、した方がいいと分かっているのにしないことは、弁解の余地がありませんね。また、ただ考えただけでも罪は罪ですが、やっぱり「思い」だけでなく、それを実際に行動や言葉にする方が、悪いです。また、「うっかり」してしまうだけでも悪いことは悪いのですが、それを「わざと」(ちゃんと分かって、計画的に、悪びれずに、楽しんで)やる方が、当然、神は厳しく責めるでしょう。そして、「はじめて」の罪よりも「二度目、三度目」何度も、のほうが重い。決して、一度やれば、二度も三度も同じ、ではありません。二度目の方がより悪く、三度目はもっといけないのです。最後に、反省や謝罪をしたのに、また繰り返す場合、「ごめんなさい。もうしません」と誓っておきながら、それを破って犯した罪は、より厳しく罰せられます。

 私たちの人間関係でも、これは十分理解できる事ですね。新聞で読む犯罪も、お父さんお母さんや学校の先生や教会の牧師がしたら、ショックは何倍にもなるでしょう? だから、こうしたことは特に神が罰の厳しさに差を付けられる、という意味ではなくて、罪の違いを確認したわけです。その上で、次にこう言われていました。

問84 すべての罪は、何に値しますか。

答 すべての罪は、この世においても、来るべき世においても、神の怒りと呪いに値します。 

 え、ぢゃあ、罪の加重って何だったんだろう?と突っ込みたくなりますね。すべての罪が、神の怒りと呪いに値するなら、どんな罪も変わらないんじゃないでしょうか? いいえ、要するに、罪の加重というのは、自分の罪の方が小さいから大丈夫、大きな罪は犯さないようにしなさいよ、ということではないんです。そんなことをしている人がいますか? 自分は罪を重くしていない、なんて言える人はいるでしょうか? みんなの上に立てば立つほど、誘惑も大きくなって、罪を犯し、それをまた隠そうとしやすい。うっかりじゃなくて、分かってて、でも罪を願って、確信的に罪を犯してしまうのです。「毒を食らわば皿まで」だなんて言って、もっと罪を犯している。そういう罪の加重を、私たちは現にしているのだ、だから、弁解の余地はないのだ、ということです。

 キリスト者の罪の理解は、私たちが神から離れて、神を失って心が罪に縛られて、「罪人」となったために罪を犯してしまう、のだ、というものです。罪を犯し、沢山の悪を重ねているうちに、その結果、罪人になってしまう、というのではありません。具体的な罪は、罪人である結果なのです。ですから、罪の重さに違いがある、という今日の話は「罪を重くしてはいけませんよ」とお勧めしている以上に「律法が示すように、私たちは実際、軽い罪だけではなく、罪に罪を増し加えるような生き方をしているではありませんか」と、聖書が私たちの罪の性質をハッキリ見つめさせる事を教えています。

 イエスは、私たちの罪のために十字架に死んで、よみがえってくださいました。私たちに、まだ言い訳の余地があるとか、自分の罪はまだ軽い、などと背比べするのは止めましょう。あらゆる重さの罪をも、イエスはすべて徹底的にご存じです。その上で私たちを受け止め、癒やし、新しくして、罪の支配から、主イエスの支配に入れてくださった、と聖書は示しているのです。この新しい恵みの御支配に与るためにも、自分の罪や問題を、ごまかさずに認めましょう。そして、それを主に告白して、恵みの支配に変えて下さるよう、願いましょう。律法が示すのは、本当に罪から自由にされる道なのです。

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問82「目標を目ざして一心に」

2015-10-10 16:13:17 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/10/04 ウェストミンスター小教理問答82「目標を目ざして一心に」ピリピ三12~14

 

 先週まで、神が下さった「十戒」を学んできました。「十戒」は、神が人間に求められる律法の中心です。「わたし以外に神があってはならない」「偶像を拝んではならない」「主の名をみだりに唱えてはならない」「安息日を覚えてこれを聖とせよ」「父と母を敬え」「殺してはならない」「姦淫をしてはならない」「盗んではならない」「偽証をしてはならない」「ほしがってはならない」。以上の十の戒めを一通り見た上で、

問82 これらの神の戒めを、だれか完全に守ることができますか。

答 堕落以来、単なる人間はだれも、この世においてこれらの神の戒めを完全に守ることはできず、かえって、思いとことばと行いにおいて、日ごとにそれらを破っています。

 面白いですね。十戒を丁寧に解説した上で、「これらを完全に守ることは出来ますか。いいえ、思いと言葉と行いにおいて、日ごとにそれらを破っているのです」と言います。みんな、です。「一生懸命頑張っていないから破ってしまうのです」とか、「本当は救われていない人は破ってしまうのです」ではないのです。「単なる人間はだれも」です。

 ここに三つの言葉が添えられています。

「堕落以来」とあるのは、アダムとエバが、神との契約を破って、禁じられていた木の実を食べた時から、です。エデンの園で、アダムとエバが神との関係に背いた時、人は考えも間違って、自分中心の勝手な願いを愛するようにもなってしまいました。でも、それ以前のアダムとエバは、律法を守ることが出来たのです。もともと神は、人間にとって、無理な律法を押しつけたりせず、人間が守れて、自然で喜びである律法を下さっていたのです。律法は人間に守れるものでした。でも、堕落以来、人間は誰も律法を守れなくなりました。神とのシッカリした繋がりがなくなったので、心がさ迷ってしまうのです。神から離れたまま、正しく生きることは出来ません。

 もう一つ「単なる人間は」とあります。どうしてこんな言い方をするかと言えば、イエス様は完全な、聖い人間となってくださったからです。イエス様が人間となった時、自動的に、罪の性質も入ったのでしょうか。いいえ、イエス様は完全な人間となってくださいましたが、罪はなかったのです。でも、それ以外の普通の人たちはみな、罪があります。それで「単なる人間は」と言っています。

 イエスが人間となってくださったのは、私たち「単なる人間」が罪を犯さずにはおれないから、代わりに神の前に完全な生き方を歩んでくださり、また、人間の受けるべき罰を十字架の上で代わりに受けてくださるためでした。そのイエスが、ご自分を信じる者には、罪の赦しと完全な義とを与えてくださいます。ですから私たちは、十戒を守れなくても、もう罰せられて滅ぼされることはありません。神さまの御心を行えないから、そのうち神さまに怒られるんじゃないか、追い出されるんじゃないか、と心配はしなくてよいのです。三つ目に「この世においては」とあるように、

今は毎日罪を犯しながら生きているのです。けれども、やがて、イエス様がもう一度、世界においでになって、私たちに栄光を着せて下さり、すべてを新しくしてくださったら、私たちは罪から完全にきよくされます。もう罪を犯すことはないくらい、新しい心を戴きます。すべての人が一緒に喜ぶのです。その手前の今、この地上においては、罪を犯してしまうのです。

 こう言い切っていることは安心ではありませんか。十戒を破ってしまうからダメだ、と思わなくていい。今は、十戒を毎日破らずにはおれないのが、すべての人間なんだ。神さまも、そういう私たちの限界を今は許しておられます。「何度も言ったでしょう」とか「全くダメだなあ」とガッカリしてはおられません。そうです。天の父は、決して私たちにガッカリしたりはなさいません。だから、私たちも、どんな失敗をしても、自分が嫌いになって、自分を責めるのは止めましょう。そうではなく、失敗に気づいた時、誘惑に会った時、すぐに天の父のもとに行きましょう。そうして、赦しをいただくだけでなく、天の父なる神の恵みに立ち戻りましょう。たとえ、誘惑に負けたときにも、私たちは、神の赦しをいただくことが出来ます。いいえ、いただかなければなりません。

 ひょっとすると、こんな声も私たちの中から聞こえてくるかもしれません。「どうせ守れないなら、こんな律法をくれないほうがいいんじゃない?」 なぜ、神は私たちに守れない律法を下さるんでしょうか。また、どうせ守れないなら、守ろうともしなくていいのでしょうか。それは、今まで十戒を一つずつ丁寧にお話しして来た中で、確認してあることですね。

律法は、神が私たちに与えてくださった、いのちの道です。窮屈で、難しいのではなくて、私たちの目を覚まさせてくれるのです。自分が悪かった、間違っていた、そう思わせてもらうことで、ハッとさせられます。頭を冷まし、人と一緒に生きることが出来るようになるのです。律法が私たちを守ってくれるのです。

 「行いと言葉と思いとで、毎日罪を犯しています。」

 それはやっぱり、私たちにとって、誇らしいことではありませんね。律法がなかったら、私たちは思い上がったまま、自分の中で人を裁いたり、振り回したり、腹を立てたりし続けるでしょう。律法があることで、私たちはそういう勘違いに気づけるのです。私はジョギングをしますが、顎を軽く引き、腕を肩甲骨から前後に回すように振り、お腹は引っ込めながら、膝をやや高く上げながら走る、という理想のフォームがあります。息は口から吐いて、鼻から吸うんです。でも、すぐにそのフォームを忘れます。でも、完全にそんなフォームでは走れませんが、それを意識することで、安定して走れるし、もっと上達したいと思えます。

 神が下さった律法は、私たちの将来を語っています。心から神を喜び、他のものにちっとも心を寄せることなく、互いにも愛し合い、違いを受け入れ合う将来がやがて来ます。そこまで、私たちはまだまだ不安定です。傷つけ合ってしまいます。そして、悪いのは相手で、自分ではない、などと思いたくなります。律法は、そういう私たちの暗い心に差し始めた光です。素直に、謙って自分の限界を認め、でも、その罪ある自分が、今、受け入れられ、愛されていて、神が私にやがての完成を約束してくださっていると気づかせてくれます。不完全だからこそ、その目標へ、一心に走っていきましょう。

詩篇一一九24まことに、あなたのさとしは私の喜び、私の相談相手です。

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問79-81「満ち足りた心で」ヘブル13:5

2015-09-30 17:08:21 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/09/27 ウェストミンスター小教理問答79-81「満ち足りた心で」ヘブル13:5

 聖書の律法というと、あれもしてはならない、これもしてはならない、という堅苦しいだけの形式的な規則だと考えていないでしょうか。今日の、第十戒はそういう私たちの思い込みを引っ繰り返すような命令です。

問79 第十戒はどれですか。

答 第十戒は「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない」です。

問80 第十戒では、何が求められていますか。

答 第十戒は、隣人とその人に属するすべてのものに対して、正しい、思いやりの気持ちを持ちつつ、私たち自身の境遇に十分に満足することを求めています。

問81 第十戒では、何が禁じられていますか。

答 第十戒は、すべて、私たち自身の生活状態に満足しないことと、隣人の幸福をねたんだり、悲しむこと、また、隣人のいかなるものに対してであれ、すべて法外な欲求や愛着を抱くこと、を禁じています。

 三千年以上前のイスラエルの社会ですから「男奴隷、女奴隷、牛、ろば」などと書かれています。今は、お隣の人の奴隷や家畜を持っていることはないでしょうし、だからそれを欲しがる事もないでしょう。

でも周りの人の暮らしが物凄く羨ましくなったり、友だちのゲームや服を自分も欲しくて堪らなくなったりしないでしょうか。何かに付けて「あいつはいいなぁ」「うちもこうだったらいいのになぁ」が心の中での口癖になっていないでしょうか。勿論、人のものを見て、ちょっとでも欲しいと思ったらダメだ、ということではありません。「あ、あれはいいな。ウチにも必要かな。」そう考えることがきっかけで、暮らしを少し楽にしたり気持ちよく過ごせるようにすることはありますね。でも、そこで考えて「これはなくてもいいな。あれも欲しいこれも欲しいと言っていたら切りがないから、止めておこう」。そう思う事も大切でしょう。ところが、なくてもいいものも、なければ自分が惨めな気持ちになってしまって、際限なく物を増やす、ということもありますね。実際に買わなくても、本当は「欲しいなぁ、格好良い車や、素敵なスタイル、自分とは違う暮らしが出来たらいいのに」と惨めな気持ちや、ねたましい心を強く持っていることもあるのです。それが、この第十戒で禁じられている「ほしがる」という強い思いです。イエスは仰いました。

ルカ十二15「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

 「どんな貪欲にも」です。お金、財産、暮らしのもの、人の奧さんや旦那、親や子ども、見た目や健康、仕事や性格…。いろんなものが、私たちには妬みや貪欲の対象になります。そして、私たちの周りのテレビや日常会話、コマーシャルなどでは、「これを買えば幸せになれるよ」「私たちの商品はあなたの生活を変えますよ」と、上手な宣伝をして、私たちに何かを買わせようとします。裏を返せば、自分たちの生活が物足りないような気にさせて、その解決の手段として、憲法を変えるとか、強い軍隊を持つとか、人の暮らしからもぎ取ることを唆して来るのです。

 でもイエスは仰いました。私たちのいのちは財産にあるのではない、と。では、私たちのいのちはどこにあるのでしょうか。それは、この十戒の序言でこうありました。

出エジプト記二〇2わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である。

 主が私たちの神となってくださいました。私たちを、何かに縛られて奴隷にされた生き方から、力強く救い出してくださって、いつまでも主の民として祝福を注ぐという契約を立ててくださいました。だから、与えられた生活を改善させたり、開拓したり、努力や精一杯生きる責任はあるのですが、人のものを羨んだり、あれもないこれもないと不平をブツブツ言いながら生きる心は捨てなければならないのです。

ヘブル十三5金銭を愛する生活をしてはいけません。いま持っているもので満足しなさい。主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」

 この方が、この主だけが私たちを満たし、祝福してくださるのです。神が下さったのは、「満ち足りる心」です。それ以外のもので、自分を満たそうとしても決して上手くはいかないのです。神ならぬもので心を満たすことは出来ません。パウロは言います。

エペソ五5むさぼる者-これが偶像礼拝者です、-こういう人はだれも、キリストと神との御国を相続することができません。

 人のモノを欲しがっている人は偶像礼拝者だ、というのです。四世紀の主教アウグスティヌスという人はこんな事を言いました。

「あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから、私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることができないのです」。

 神さまだけが私たちの心を満たせるのです。満ち足りた心をくださるのです。でも、神から離れた人間は、心の深い所で不足や渇きを持つようになってしまいました。

 満たされない心を満たそうと、人のものや神さま以外の色々なもので満たそうと思っても、満たされたと思うのは一瞬だけで、決して満たせません。

本当に深い飢え渇きを、私たちの心は抱えているのです。自分でもどうしようもない、無意識の、深層心理での渇きです。ですから、「むさぼってはならない」と言われても、もうこれからは満足して生きていきます、などとは誰も言えません。

 私たちが神に向いて生きる時にのみ、人のモノを欲しがって憧れる勘違いした生き方から、深い所で満たされ、感謝する生き方へと帰られる神の御業が始まります。そうです。主イエス・キリストの福音は、ただの道徳や規則ではありません。私たちの生き方の、心の、どうしようもないほど深い渇きまでも潤そうという恵みなのです。私たちが、不平や不満から自由にして、感謝をもって生きるようにならせたい。その神への信頼を土台として、生かされ、働き、必要なものを考え、モノは増やさない。人との関係でも妬んだり競争せずに、つきあえる。そんな軽やかな心で生きるようにと、十戒は私たちを招いています。

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問76-78「偽りからの解放」エペソ四14-15

2015-09-20 21:16:16 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/09/20 ウェストミンスター小教理問答76-78「偽りからの解放」エペソ四14-15

 

 嘘つき大会で優勝したのは、「私は今までで一度も嘘を吐いたことがありません」という「大嘘」だったそうですが、確かに今まで一度も嘘を言ったことがないという人はいないでしょう。そして、嘘を吐かれて悲しかった、という思いも、みんなが持っているはずです。嘘は人との関係を傷つけますし、神との関係も歪めてしまいます。

問76 第九戒は、どれですか。

答 第九戒は、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」です。

問77 第九戒では、何が求められていますか。

答 第九戒は、人と人との間の真実と、私たち自身および隣人の名声を維持し、促進すること、―特に証言を行うに際して―を求めています。

問78 第九戒では、何が禁じられていますか。

答 第九戒は、真実をゆがめたり、あるいは、私たち自身や隣人の名声を傷つける一切のことを禁じています。

 ここで「特に証言を行うに際して」とありますが、ただ「嘘をついてはいけない」ではなくて、「あなたの隣人に対して、偽りの証言をしてはならない」という言い方は、裁判など正式な場所でのことを考えた言い方をしています。裁判の時に「嘘を言いません」と誓ったり、もし嘘を吐けば「偽証罪」という罪を犯したことになったりします。それだけ裁判での証言は、重いのですね。なぜなら、その嘘に基づいて、罪のない人が有罪になって一生が狂わされたり、罪のある人が無罪になってまた悪いことをしてしまったりして、正義がない滅茶滅茶なことになってしまってはならないからです。

 とはいえ、裁判でなければ嘘を言ってもいい、ということではありません。私たちが普段から話すことは、どれも何かしらの結果を生み出します。ちょっと意地悪で、遠回しに言った言葉が、人から人に伝わって、私たちについてのイメージを造り上げてしまったりするのです。ですから、私たちは、普段の会話から、嘘を吐かないこと、噂話をしないこと、無責任なことを言わないようにしなければなりません。

 けれども、正直なほうがいい、とはみんな分かっているでしょう。それでも、毎日の生活では、本当のことが言えない、言わない方がいいんじゃないかと思う事があるのです。「正直者が馬鹿を見る」という言い方のほうが賢いような気がするのです。何でもかんでも馬鹿正直に言っても損をするだけだ、誰も傷つけるわけじゃないからと言ったりするのです。そして、私たちが本当の事を言うのには、とても勇気が必要なのです。

 確かに、ケースバイケース、ということもありますが、今日のここでは、ただ正直であれ、と解説されていないことを心に留めましょう。嘘をつかない、ではなくて、「名声を守る」ということだ、というのですね。もちろん、嘘で守るような「名声」ではないです。神は真実なお方ですから、少しの偽りも憎まれます。また、神の光はすべてを真実の下に引き出します。隠れて行った盗みも、内緒で囁いた悪口も、すべてを神は見ておられます。私たちの心の中にある醜い妬みや嫌らしい考えも、残酷な妄想もすべてを、神はご存じです。もしそれを、全部私たちが見られたらどうでしょう。人の心の声や考えや、影でしていることを全部見たり聴けたりしたら、私たちは耐えられないでしょう。自分の考えやしていることが、全部みんなに見られるとしたら、とても恥ずかしくて生きていけませんね。そんなことは隠してごまかして、ないことにしましょうか。

 神は、その全てを見ておられます。全部ご存じです。嘘も、意地悪な考えも、腹立ち紛れにやったことも、うまく隠したと思っていることも、全部見ておられて、なお私たちを愛されています。嘘や悪い思いを捨てることを望まれるのも、私たちを愛しておられるからです。私たちが言ったりしたりしたことがどんなに酷いことで、穴があったら入りたい、恥ずかしすぎて死んでしまいたい、と思ったとしても、神は私たちに、もう穴に入っていなさい、死んでしまった方がいいね、とは言われません。私たちをなお愛されて、私たちが心も言葉も生き方も変えられて行くことをお考えなのです。心が愛で満たされ、語る言葉は真実になるように。それが神さまの願いなのであり、そのために、イエスは私たちのために十字架にかかって、私たちの贖いの業を果たしてくださいました。私たちに「嘘つき」とか「本当はダメな人」というような名前ではなく、神の子という良い名前、名声を下さるのです。この名声を、私たちも維持していくのです。

 ですから、正直になることを迷うときがあったら、こう考えてみましょう。これは、本当の意味で、神さまに喜ばれるでしょうか。神さまの下さった「神の子」としてどうすることが正しいでしょうか。もっと具体的には、自分のした間違いは、隠したりかばったりせず、認めて誤ったほうが絶対に良いです。けれども、言う必要のない相手に何でも話す必要はありません。また、もう解決している問題のこともほじくり返さないほうがいいこともあるでしょう。それでもやはり、大切な人との間には、隠し事はしないことです。なぜなら、私たちも、隠し事をされていると、本当に安心した信頼関係は決して持てませんね。正直に言ったら、確かに怒らせたり、気まずくなったり、問題になるかもしれません。でも、隠しておいて後からバレるほうが、お互いの関係に与えるダメージは大きいのです。そして、いつか必ずすべての事はバレます!

 今日の聖書の箇所で、パウロは言いました。

15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

 愛のない冷たい心で本当のことをズケズケいうのでもなくて、優しくしようと思う余り本当のことを胡麻化すのでもなく、愛をもって真理を語るようになっていく。それは、私たちの成長の大切な一面です。そして、それは私たちが聖書の御言葉を学び、知っていくことを通してなされます。なぜなら、神さまの言葉は何一つ嘘でも大袈裟でもなく、すべてが真実だからです。御言葉の約束は、天地が滅びても、永遠に果たされるほどのものです。私たちのすべての罪を赦し、私たちを神の子どもとして、素晴らしい名を与え、その名にふさわしくいつまでも扱ってくださいます。そして、嘘を嫌われ、ごまかしを望まれず、勇気をもって正直な告白をするときに、必ず祝福してくださるのです。そのお約束を疑わないためにも、私たちの中で嘘を育てず、真実を愛して行きましょう。

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問73-75「盗むなんてもったいない」

2015-09-13 20:45:11 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/09/13 ウェストミンスター小教理問答73-75「盗むなんてもったいない」 エペソ四章28節

 今日の聖書箇所を読むと、疑問が湧きます。

エペソ四28盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。

 エペソの教会には、盗みをしている人がいたんでしょうか。泥棒や強盗がいたのでしょうか。たぶん、そんな堂々とした盗人はいなかったと思います。でも、意外と、私たちは「盗み」としているんではないでしょうか。この御言葉は、聴いているみんなに、自分の生き方を見直すようにと呼びかけているのです。

ウェストミンスター小教理問答73 第八戒は、どれですか。

答 第八戒は、「盗んではならない」です。

問74 第八戒では、何が求められていますか。

答 第八戒は、私たち自身と他の人々の、富と財を合法的に獲得し、増進させることを求めています。

問75 第八戒では、何が禁じられていますか。

答 第八戒は、私たち自身や隣人の、富や財を不当に損なったり、そうする恐れのある一切のことを禁じています。

 持ち物があることが悪いのではありません。お金持ちであることがいけないのでもありません。私たちは沢山のものをもらっています。プレゼントされています。あるいは、働いて、お金を稼いだり、働いた見返りに何かを手に入れたりして、物を持つようになります。「あなたに」ともらったか、ちゃんと働いて手に入れたなら、それはその人のものです。それ以外の方法で手に入れること、それは盗みになるのです。「不当に」人のものを損なうこと。それはしてはいけないよ、というのが「盗んではならない」です。いわば、狡(ずる)をすることが禁じられているのです。フェアでありなさいといことです。

 勿論、フェアプレイといっても、駆け引きや相手の裏をかくことはしますね。盗塁は「塁を盗む」と書きますが、反則ではないし、ストライクと見せてボールを投げてもフェアプレイです。しかし、反則はしてはいけません。そして、ベンチで意地悪をしたり、出し抜きたい人のお弁当に毒を入れたりしたら、どうでしょうか。「汚い手を使いやがって!」と言われるでしょう。そうやって、こっそりでも狡い手を使うことは盗みになります。では、私たちは、毎日の生活でそういう「盗み」をしていないでしょうか。

 例えば、人のものを盗むのはもちろんダメですが、お父さんやお母さんや兄弟のものを勝手に使うのも、ダメでしょう。テストのカンニングは勿論、やらなかったことをやったふりをするのはどうでしょうか。もちろん、万引きは盗みですが、お店でサービスのものを必要以上にもらうのもオカシイですね。詐欺は盗みですが、騙されてお金を払う方に、ひょっとして「こっそりお金さえ払えば、問題が解決できるだろう」という計算があるとしたら、それはそれで「盗み」かもしれません。「正直な人は騙せない」とも言われるのです。仕事をしていても、サボっていたのに時給をもらうとか、仕事をするのもギャンブルや違法すれすれの方法で大金を稼ぐことも、神は喜ばれません。貧乏人がお腹が空いてパンを盗むと捕まりますが、そういう貧乏人や社会の貧富の差を生み出して、贅沢に暮らしている金持ちは、神の怒りと無縁なのでしょうか。そうやって、貧しい人から吸い上げて、懐を肥やしたこと自体に、もっと大がかりな盗みや搾取があったのではないでしょうか。もしそうだとしたら、それは正されなければなりません。お金持ちが陥りやすい、ケチも浪費も、どちらもそれは罪なのです。

 もうひとつ、聖書がハッキリと「盗み」だと言っていることがあります。■

マラキ書三8人は神のものを盗むことができようか。

ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。

『どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか。』

それは、十分の一と奉納物によってである。

 つまり、ささげ物をしていないことはわたしのものを盗んでいるのだ、と神は言われるのですね。でも、注意してください。十分の一とか奉納物が神のものだ、とは言われていません。私たちの持っている物の十分の一とそれに加えたものは、神のものだ、ということではありません。それに、この後、マラキ書ではこう言われているのです。

マラキ三10十分の一をことごとく、宝物倉に携えて来て、わたしの家の食物とせよ。

こうしてわたしをためしてみよ。― 万軍の主は仰せられる―

わたしがあなたがたのために、天の窓を開き、あふれるばかりの祝福を

あなたがたに注ぐかどうかをためしてみよ。

 「わたしはあなたがたのために、天の窓を開き、溢れるばかりの祝福を注ぎたいのだ」と仰っています。そこに背を向けて、私たちが自分の財産を、自分の物だと考えて、ケチケチしているのはもったいないですね。コソコソと狡をして、人に恨まれたり、良心の呵責を覚えたりするような道では人は豊かにはなれません。盗むことで人の心は貧しくなり、せっかくの人生が味気なくなります。神の祝福の素晴らしい関係からどんどん遠ざかるだけです。神は、この祝福の関係に私たちを立ち帰らせようとなさり、なんと神の御子イエス・キリストをこの世にお与えくださいました。それは、私たちが盗んだりケチをしたりすることはもう止めて、本当に私たちを惜しみなく愛し満たしてくださる神を信頼して、正しく生かしてくださるためでした。たとえ、みんながしている狡をしないために損をするとしても、神は私を喜び、愛して、豊かに祝福してくださる。盗みや狡を止めた私たちの正しい生き方は、恵みの神を証しするのです。

 ウェストミンスター小教理問答の初めで学んだのは、

問一 人間の第一の目的は何ですか。答 人間の第一の目的は、神に栄光を帰し(神の栄光を現し)、神を永遠に喜ぶことです。

ということでした。私たちは神に栄光を帰し、神を永遠に喜ぶべき存在です。私たちの丸ごとが、溢れる祝福で私たちを愛してくださる神のものです。この神に立ち帰って、盗みは悔い改めて、損も気にせず、正直に、晴れやかに、歩ませていただきましょう。

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