聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記9章8~17節「雲の中の虹はしるし 聖書の全体像10」

2019-03-03 14:59:57 | 聖書の物語の全体像

2019/3/3 創世記9章8~17節「雲の中の虹はしるし 聖書の全体像10」

 「聖書の物語の全体像」を続けています。今日は

「ノア契約」

をお話しします。前回、6章でノアに方舟を造るよう命じた時に、主は「契約」という言葉を使っていましたが、洪水が起こり、1年方舟にいて出て来たこの9章でも「契約」という言葉が出て来ます。これは別々の契約ではなく、ノアに与えられた一つの契約です。ノアだけでなく、ノアの後の子孫と、すべての生き物との間に、主はこの契約を立てると仰っています。それは、再び大洪水や大きな禍によって、地の生き物、すべての肉なるものを滅ぼすことはしない、という契約です。「契約」というと、両者がそれぞれの義務を果たす、というものもありますが、主の契約はまず主ご自身の一方的な宣言があります。無条件の約束があります。そして、それに対して応答する生き方が人間に求められます。ここでは、4節から7節で言われるように、人が動物を食べる時にも血を抜くことで動物の命に敬意を払うこと、そして殺人は犯人が死罪を求められる程、重い罪、ひとのいのちを尊ぶ、という在り方です。それは、命を守る神に対する、人の応答です。

 ノア契約は、神が世界を大洪水で決して滅ぼさないと強く約束されることを通して、神がこの世界のいのちを大事にしていること、積極的にこの世界を保持し、いのちで満たそうとしていることを明らかにしています。8章21節22節でも

「…わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。
22この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」

と神は決心を言われました。生き物を討ち滅ぼさないだけでなく、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、季節や自然のサイクルを循環させなさる。その収穫によって、動物も生きていきますし、人間も農業や生活が可能になって生きていけます。神は、消極的に「滅ぼさない」だけでなく、積極的に季節を巡らせて、食べ物を与え、

9:7あなたがたは生めよ。増えよ。地に群がり、地に増えよ」

と言われるのです。洪水前の世界は、人が暴虐で弱者を滅ぼすような社会でした。洪水後の再出発に当たって神が明言されるのは、人のいのちの尊さ、動物の命への敬意です。そして、命への尊厳を踏まえて、地に群がり、地に増えていくことが、ノアへの契約に込められた神の御心でした。

 そこで神が改めて、契約のしるしとして与えられるのは「虹」です。

九12~15…「わたしとあなたがたとの間に、また、あなたがたとともにいるすべての生き物との間に、代々にわたり永遠にわたしが与えるその契約のしるしは、これである。わたしは雲の中に、わたしの虹を立てる。それが、わたしと地との間の契約のしるしである。
わたしが地の上に雲を起こすとき、虹が雲の中に現れる。そのとき、わたしは、わたしとあなたがたとの間、すべての肉なる生き物との間の、わたしの契約を思い起こす。大水は、再び、すべての肉なるものを滅ぼす大洪水となることはない。」

 神は雲の中の虹を見て、契約を思い起こして、大洪水は起こさない、命を滅ぼさないと誓った契約を果たす、と仰るのですね。虹を見たらこの箇所を思いだしてください。ただの自然現象だとかキレイだなぁと思うだけでなく、

「神が虹を見て『契約を思い出す』と約束してくださった」

と思い出してください。今でも、大雨や豪雨被害はあちこちで起きます。それを「神の怒りだ、天罰だ」「誰かの罪のせいだ」などと無神経に口走りたがる人がいます。ノア契約はそれとは正反対のことを語ります。神は、人のうちに悪があることを十分承知の上で、決して私たちが滅びることを願ってはおられない。神はこの世界を保持して、雨を止ませて、虹を立てて、命を祝福しようと願うのです。私たちが虹を見つけなくても、神が虹を見て、契約を思い起こす、と言われます[1]

 更に「虹」という言葉は元々のヘブル語では弓矢の「弓」です。雲の中の弓といえば虹なのですが、あのアーチは武器の弓を思わせます。その弓が雲の中に現れる時、神はそれで人を攻撃したり罰したりせず、滅ぼさない約束を思い出されるのです。だから私たちが見る虹は、人を狙って地に向かう向きではありません[2]。神は、人の悪や問題を熟知した上で、それゆえに滅ぼすぞ罰するぞと脅しても解決にならないことをご存じです。

 神が私たちに覚えさえられるのは、神が世界を保っていることです。天候や季節や自然のサイクルを保って、私たちを生かしてくださっている。そのメッセージを、大空の虹-美しい弓に託して、神の私たちに対する愛、恵みへと心を向けさせなさるのです。勿論、このノア契約だけでは終わりません。やがてノアの子孫からアブラハムが選ばれてアブラハム契約が結ばれ、モーセ契約、ダビデ契約、最終的にはイエス・キリストの「新しい契約」で、神の契約は完全に現されることになります。その最初の段階で、神は「ノア契約」を与えて、神の契約の土台、大前提を示されました。それは、神はこの世界を保って、そこにいる人間も動物も、大事な命を滅ぼしたくない、その命を生かしたい、という契約でした。そして、私たちにも命を大事にし、植物や動物を頂く時も感謝して丁寧に戴き、互いにも生かし合うこと、命を損なってはならない。そういう「ノア契約」という土台・大枠が、ここで示されたのです。

 今日交読したイザヤ書も、ノアの契約を根拠に、神の恵みを確証していました。

イザヤ五四9-10これは、わたしにはノアの日のようだ。ノアの洪水が、再び地にやって来ることはないと、わたしは誓った。そのように、わたしはあなたを怒らず、あなたを責めないと、わたしは誓う。10たとえ山が移り、丘が動いても、わたしの真実の愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。──あなたをあわれむ方、主は言われる。」

 ノアに誓った契約、つまり今この世界があり、地が保たれ、命が営まれていること自体、神の平和の契約、主の憐れみの確かな証拠なのです。他にもエレミヤ書で主はこう言われます。

三三25もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。[3]

 昼と夜が来ること、天地の自然法則、全てが神の御真実のしるしです。それも、一般的な意味で宇宙が神の御業だ、というのではありません。神に逆らい、世界も、人間同士も傷つけ合ってしまう人間を、神は憐れんでおられる。何としてでも人を回復させる目的に向けて、神は今日も昼と夜を巡らせています。太陽を上らせ、雨を降らせています[4]。虹を見なさい、空の鳥を見なさい、野の花を観察しなさい、とイエスも言われました。それは、「上手な物の譬え」でなくて、虹も太陽も鳥も花も私たちの命も体も、神が一つ一つ支えているからです。それも、人間を愛して、人の悪を深く悲しんで、そこから回復させよう、神との関係も世界や他者や自分との関係も回復させようという、神の側の決心があっての、この世界なのです[5]

 世界の全てのものは、神が支えている舞台です。世界が滅びないよう、必要なものや良いもの、美しいものがあり、人の心や生き方に喜びや優しさや良心があるのも、全ては神の恵みによります。これを「一般恩恵」と言います。何一つ自然で当たり前で、神とは関係なくあるものはなく、神の積極的な御業があり、神の真実を証言しています。奇蹟や特別な出来事だけで「神はいるなぁ」と言うばかりでなく、毎日の自然の営みや、私たちの体が規則正しく動いていることが神の御業、「奇蹟」一般恩恵であり、それは神が私たちを選び、回復させ、あわれんでくださることの証拠なのです。そして虹を見るときには、主が雲の中の虹を見て、この契約を思い起こしているのだよ、と言われます。そういうしるしまで与えて、私たちを励ましてくくださる主なのです。この世界を見る目を開かれましょう。禍があってもそれでも世界の営みに、希望を持てる眼差しを、神は宣言されています。それが「ノア契約」なのです。

「天地万物の主よ。日が昇り、春が訪れ、食べ物を戴き、世界の輝きを通して、あなたの恵みを戴いています。支えてくださる憐れみを感謝します。今から新しい契約のしるし、聖餐に与ります。パンも杯も、この体も、あなたの御手が真実な証しです。私たちへの揺るがない恵みを信頼して、私たちも小さな事を喜び、環境を守り、命を尊び育む歩みをさせてください。」



[1] いやそれどころか、神が雲を起こすとき、雲の中に虹が現れるというのは、雨の後の虹とは違います。大雨を降らせた後に、虹が起きて、それを神が見て契約を起こす、じゃ「後の祭り」かも知れません。だからここで言われているのは、雨の前の虹です。雨の前、神が雲を起こすとき、そこに現れる「雲の中の虹」は神だけが見るでしょう。その虹を見て、雨が起きる前から、神はそれで地を滅ぼすような大雨にはしないと思い出す、という約束です。私たちが雨の後に虹を見るとき、私たちが虹を見て契約を思い出すことが大事なのではなくて、その雨の前に、すでに神は虹を見て、契約を思い出してくださっている。神は私たちへのいのちの約束を、世界に対するよいご計画を決して忘れるお方ではない。そう思い起こさせて戴けるから有り難いのですね。

[2] サリー・ロイドジョーンズ『ジーザス・バイブル・ストーリー』では、虹が天に向けられていることを強調して忘れがたい解説をしています。「神さまは、今でもにくしみ、悲しみ、死がだいきらいだ。この世界からすべて悪いことをとりさるための戦いにいどむため、神さまはあの大空においた、美しい弓矢を手に取られる。矢をつがえて、弓をきりきりとひいてねらうまとは、人間でも、この世界でもない。それは、ただまっすぐに天国の中心にむけられている。」(廣橋麻子訳、いのちのことば社、2009年)47頁。

[3] また、エレミヤ書三三19以下「エレミヤに次のような主のことばがあった。20主はこう言われる。「もしもあなたがたが、昼と結んだわたしの契約と、夜と結んだわたしの契約を破ることができ、昼と夜が、定まった時に来ないようにすることができるのであれば、21わたしのしもべダビデと結んだわたしの契約も破られ、ダビデにはその王座に就く子がいなくなり、わたしに仕えるレビ人の祭司たちと結んだわたしの契約も破られる。22天の万象は数えきれず、海の砂は量れない。そのようにわたしは、わたしのしもべダビデの子孫と、わたしに仕えるレビ人を増やす。」23エレミヤに次のような主のことばがあった。24「あなたはこの民が、『主は自分で選んだ二つの部族を退けた』と話しているのを知らないのか。彼らはわたしの民を侮っている。『自分たちの目には、もはや一つの国民ではないのだ』と。」25主はこう言われる。「もしも、わたしが昼と夜と契約を結ばず、天と地の諸法則をわたしが定めなかったのであれば、26わたしは、ヤコブの子孫とわたしのしもべダビデの子孫を退け、その子孫の中から、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫を治める者を選ぶということはない。しかし、わたしは彼らを回復させ、彼らをあわれむ。」。またホセア二18以下「その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地面を這うものと契約を結ぶ。わたしは弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。19わたしは永遠に、あなたと契りを結ぶ。義とさばきと、恵みとあわれみをもって、あなたと契りを結ぶ。20真実をもって、あなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知る。21その日、わたしは応えて言う。──主のことば──わたしは天に応え、天は地に応え、22地は、穀物と新しいぶどう酒と油に応え、それらはイズレエルに応える。23わたしは、わたしのために地に彼女を蒔き、あわれまれない者をあわれむ。わたしは、わたしの民ではない者に「あなたはわたしの民」と言い、彼は「あなたは私の神」と応える。」

[4] マタイ五45「天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」

[5] ヨハネの黙示録では、4章3節に「その方は碧玉や赤めのうのように見え、御座の周りには、エメラルドのように見える虹があった」とあります。天地を裁く義なる方の御座の周りに「エメラルドのように見える虹があった」。神の良き計画のしるしと証印が、キリストが終わりの日に就く場所の周りを取り囲むのです。(ロバートソン)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記6章9~22節「箱舟で再出発 聖書の全体像09」

2019-02-10 18:18:30 | 聖書の物語の全体像

2019/2/10 創世記6章9~22節「箱舟で再出発 聖書の全体像09」

 聖書の大きな流れをお話ししています。今日と次回は、ノアの箱舟の出来事に目を留めます。これは、人が神に背を向けて、エデンの園から出て始まった出来事の大きな区切りになります。神に背いて、罪が入り込んだ結果、人は悪を重ねるようになりました。その末に、大洪水で地が滅ぼされるのです。しかし、その中で神はノアとその家族を選んで、箱舟を造らせて、あらゆる動物たちとともに、再出発をさせられます。そのことが、ノアへの

 「契約」

という形でここに語られています。初めて「契約」という言葉が出て来て、神の人間に対する確かな絆がハッキリ約束されるのです。引いては今私たちがここに生かされて、天地が滅びることなく、太陽や季節が巡り、雨が降っては虹を見て、災害が起きたり、収穫をしたりしながら、今ここにあること自体が、神が世界を決して諦めておられない証拠なのだと教えられるのです。

 そうは言っても、むしろノアの記事から、神が人間を滅ぼす恐ろしい方だと思ってしまっている方も多いかもしれません。この創世記六章には、エデンの園から追放された世界が徹底的に悪や暴虐の世界だったことが書かれています。5節6節、10節11節と重ねて強調されます。

創世記六11地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。12神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。

 本当に酷(ひど)い状態だったのですね。四章の最後には、当時の世界の権力が暴力や復讐を豪語する社会だったと書かれています[1]。また、洪水の後の九章では殺人の罪の重さが言及されています。ということは、それまでは人の命が実に軽く扱われていたのでしょう。地は暴虐で満ちていました。11、12節の

「堕落し」

は13節の

「滅ぼし」

と同じ言葉です。神が滅ぼす前に、人間が自ら社会を滅ぼし、殺し合って、滅びて行く在り方だったのです[2]。四章で、最初の殺人事件が起きて以来、数えきれないほど多くの人が殺されて、数えきれない程の血が大地から神に向かって叫んでいる[3]。その叫びを、神は聴いて、深く嘆かれています[4]。世界を造ったことを悔やむと言われるほどの強い言い方で、悲しまれます[5]。それでも何年も何十年も神は忍耐して待っておられました[6]。それでも人は滅ぼし続けるので、神は遂に洪水を決心されます。でも、もう全部滅ぼし尽くしても良いのに、まだ神は、一つの家族を選んで、語りかけて、神が造られた世界の再出発を託されるのです。

「悔やむ」

と言われて全部なかったことにも出来るのに、まだ悔やみきれず、諦めずに、ノアの家族を選んで、そこから再出発させようとなさるのです。ノアの大洪水は、神が世界を滅ぼす恐ろしい方などではなく、人間が世界を滅ぼそうとしても、なお人間に働きかけて、滅びかけた世界の中から立ち上がらせる神の業でした。

 主は「ノアを滅ぼさずに救われた」のでしょうか。主はノアに、大きな箱舟を造り、その中に全ての地上の動物たちを入れて、一緒に大洪水を生き延びて、全地に増え広がりなさい、と命じました。自分が助かるための「救命ボート」でなく、全ての動物も入る大きな「箱舟」を造って、食糧も準備せよ。大洪水の後はそこから出て、神が造られたこの世界に生きる。地を暴虐で満たすのではなく、いのちで満たせと命じます。一章の創造の時の言葉を繰り返して、その目的へと人を招かれたのです。箱舟は、神が人を救われるイメージに重ねられることが多いですが、箱舟は人を乗せるための豪華客船ではないのです。ノアが動物たちを入れて、洪水を生き延びさせて、最後には地上にまた出て行って、増え広がるための場所です。そういう箱舟を造るよう主はノアに命じました。それは神が世界を諦めておられないこと、この世界の中で生きる人間の在り方を何があっても大事に思われるということです[7]。この世界が暴力で溢れていることを深く悔やまれ、悲しまれて、これで良いとは思っておられない。神は世界にもう一度いのちを満たそうと働いて、人にそんな人生を与えられる。それがノアとの契約でした。

 箱舟のサイズは、長さ一三七m、幅二二m、高一三m。これは現在の造船技術でも妥当なサイズなのだそうです。他の神話も「洪水伝説」がありますが、その「箱舟」はなんと巨大な立方体とか大きさが1kmを超えるとか、到底実用に耐えないような代物だそうです。大きな舟なんて造ったり乗ったり見たこともない。裏を返せば、ノアの箱舟を見ても安全だとは思えなかった、ということでしょう。洪水が起きた時も、当時の人々は、箱舟に入れば救われるとは思わなかったのではないでしょうか。もし箱舟に入ったとしても「こんな真っ暗な木の箱で、動物たちと閉じ込められるなんて真っ平だ」と叫んで、箱舟をぶち壊そうとしたのではないでしょうか。神が用意された箱舟は、神を信頼して、神が用意されている生き方を受け入れる人には「救い」です。しかし、神を信頼せず、自分が神になろうとして人や世界を滅ぼして構わないと思っている人にとっては、到底受け入れがたい生き方だった。神の言葉を信頼して、そして、そこに示されている新しい生き方を受け入れる事。それは救いのための手段ではなくて、それ自体が救いなのです。主イエスの十字架もそうです。

Ⅰコリント1:22~24「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」[8]

 箱舟も十字架も、見る人にとっては愚かで近寄る気にもならないものですが、神は私たちに、神を信頼して、神が造られた世界で活き活きと生きるよう招かれます。神との関係だけでなく、家族やあらゆる人間関係、労働や自然との関わり、要するに、皆さんの生活のすべて、どんな小さな事も、神の御手からの預かりものとして、心を込めて取り組む。暴力や不正からも目を背けずに悲しんで、怒って、嘆いて祈って、出来ることをしていく。もしそうでなく、この世界をいい加減に考えて良いなら、神はどうして箱舟を造らせて、全世界を託したのでしょうか。

 ノアは正しい人だったから私たちと違う、と思う人もいるかもしれません。実は、8節の

「ノアは主の心にかなっていた」

は欄外に直訳が

「主の目に恵みを見出した」

とあります[9]。ノアが正しいから選ばれたのでなく、先に主がノアを恵みの目で見て下さったのです。その上、ノアの家族まで神の契約の中に入れられました。ノアの子孫は洪水の後、早速、父親を笑い物にして、神から離れていきます。やがて「バベルの塔」を築いてしまう。いいえ、箱舟から出た時点で主は

「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。」

と仰います[10]。「洪水で懲りた人は今度こそ正しく生きるだろう」「正しいノアの子孫だから真っ当に歩んでくれるだろう」という甘い見込みはありません。幼い心に悪を抱えていることを承知の上で、神はノアの家族を契約の中に入れて、世界に散らされました。人の悪を熟知した上で、神には現実的なご計画がありました。世界を愛して、それを保たれて、人を世界に置かれた役割を何としてでも果たそうと諦めない御心があります。その大きなご計画の枠組として、神はノアと家族を選ばれたのです。

 そして私たちは今、ノアの家族のようにして神の民とされています。私たちが正しいからではなく、真に正しい一人の方、イエス・キリストによって神の家族とされました。恐る恐るでも十字架の福音の門を潜(くぐ)って、教会という箱舟に入りました。そしてここに留まらず、それぞれの生活へと遣わされていく。世界には今も沢山の問題や悲惨があります。自分の中にも悪を見ます。諦めそうになります。でも神はこの世界を見捨てず、人の役割を諦めない方です。イエス・キリストによって私たちを新しい契約に入れてくださいました。私たちが目にする世界、毎日の生活、小さな営み、他人や自分という存在は何一つ無駄ではなく、かけがえのないものです。神が私に託してくださった生活を大切に受け取って、主に捧げさせて戴きましょう[11]

「天地の主。世界が、今日も太陽が上り雨が降り、季節が巡ることは、あなたの深い慈しみによります。生かされていること、主によってあなたの子とされ、地の塩、世の光と呼ばれて、遣わされることを感謝します。日々の務めを、世界の悲惨への悲しみを、私たちの手の業も、後悔も、言葉も祈りも聖別して下さって、どうぞあなたの貴く深い栄光を現してください」



[1] 創世記4章23~24節「レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」」

[2] 13節の「神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。」も、神が滅ぼし去るので、肉なるものの終わりが来る、というよりも、神の前には既に肉なるものの終わりが来るばかりになっているため、神は自らの手によって滅ぼすが、その中にノアとの契約を建てられる、という読み方が出来るでしょう。

[3] 神は、この暴力の世界を裁かれた。それは、人に対する怒りではなく、弱者に伴う神の怒りである。まだ人は、バベルの塔を造る発想はない。弱者は殺されていたのだ。殺された人々の叫びを、神は涙して聞かれたのだ。その後の社会をも神は維持して、弱者を丸ごと滅ぼすことはしない。しかし、暴力の方が強くなりすぎるなら、強制的に介入もなさろう。それ以上に、弱者を慰め、私たちが福祉に生きることを神は支え、促し、介入し続けておられる。

[4] 6節「心を痛められた」3:16「産みの苦しみ」、5:29「労苦」と同じ。五7「心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった」。それで主が心を痛める!

[5] 神の後悔も、怒りも、喜びも、本来の大いなる神にとっては、「不名誉」な表現・感情であるはず。人間でさえ、小さな事で感情を露わにすることは恥じる。しかし、神は、人の行為により激しく心を動かされると吐露して憚らない。それほど神は人に心を動かされ、また、人にご自分の感情、愛を伝えたいのだ。

[6] 3節で言えば「一二〇年」。これは人間の年齢の上限というよりも、この時に宣言された猶予期間と考えた方が筋が通ります。これ以降も、人は百年以上生きるのですから。

[7] 六20、八17は、一24、25、30の反復。九1、2と一28も。

[8] Ⅰコリント一章18~24節「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。19「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。20知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」、また、Ⅱコリント二14~16「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。15私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。16滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。」

[9] この表現は、創世記十八3、十九19、三十27などで多数用いられています。

[10] 創世記九21「主は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。22この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」」

[11] ローマ人への手紙12章1-2節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

創世記3章14~24節「失楽園で終わらず 聖書の物語の全体像08」

2019-02-03 17:19:34 | 聖書の物語の全体像

2019/2/3 創世記3章14~24節「失楽園で終わらず 聖書の物語の全体像08」

 創世記三章は、アダムとエバが禁断の木の実を食べて追放される、大きな曲がり角の章です。人が犯した直接の行為は、禁じられていた木の実を食べたことです。しかし人は上辺を見ますが主は心を見ます[1]。その木の実を食べたといううわべ以上に、心において神への信頼を捨てた-神が良いお方である、という信頼を捨てて、蛇が唆したように

 「神はケチだ。神はあなたがたに近づいてほしくないのだ」

という不信を選んだ-そこに罪があるのです。

 であれば「エバが神に逆らったのはどの時点なのか」は厄介な問題なのですが、ともかく、約束を破った時、神との関係は深く傷ついたことは事実です。「謝罪と償いが必要だ」という以上に、神との関係が大きく損なわれたのです。蛇が「神はあなたがたに隠し事をしている、神はあなた方を自分のようにはしたくない、神を信頼しても馬鹿を見る」と吹き込んだ嘘が、今に至るまで人の心に染みついています。神を信頼するキリスト者でも、心の底にはとても貧しい「神様イメージ」があることは少なくありません。世界の造り主が私を造り、私を支え、生かし、愛してくださっている。それは、私たちが安心して歩んでいける土台です。しかし「神様イメージ」を狭くて、神との関係が揺らぎやすいと思い込んでいると、足元がぐらついて、必死に何かにしがみつきながら暮らすことになります。不安や恐れからあれこれをしたり、良いことをしていても、いつも孤独や「ダメだな」という思いがあったりします。

 神との関係が損なわれた結果、エデンの園で人は早速自分を隠そうとしています。夫婦の関係も壊れて、醜い言葉で責任を擦り合っています。ここには、人間の抱えている問題、罪、悲惨について沢山の洞察があります[2]。人間関係の悩み、仕事の悩み、死の悩み。今も変わらない大きな人生の悩みが、ここから始まったことが端的に言及されているのでしょう。しかし、ここに込められているのは、人の違反に対する怒りや罰ではなく、人が神を信じなくなったことへの神の悲しみであることも見落としたくないのです。もし神が激怒したのであれば、ただちに殺したり、世界を滅ぼしたりも出来ました。しかし神はご自分に背いた人間をなお生かし、人生を歩ませられます。また人に対する言葉に先立って15節で言われていたのは、蛇に対する敵意です。神との約束を破るように唆した蛇には厳しい言葉が告げられます。でもその言葉にあるのは

「女の子孫」

が蛇の頭を打つ、という「女の子孫」の役割です。これはやがてイエス・キリストが来て、十字架に死んでよみがえることで、成就することになります。その約束がすでにここで、曖昧ながらもハッキリと仄めかされているのです。その言葉を聞いた上で、16節以下の言葉をアダムとエバは聞いたのです。二人は、その言葉に神妙にならざるを得ないとしても、蛇に対する言葉とは違う、神の優しさ、寛容さを聞いたのです。

 この後、二人はエデンの園から追い出されますが、この言葉はどう成就したでしょうか。女性の産みの苦しみがどれほど酷(ひど)くなるかと思えば、殆(ほとん)どそれは言及されず、むしろ産みの喜びが圧倒的ですね。一人ラケルが難産の末に亡くなる以外、産みの苦しみ以上の、産みの喜びが多いのです。干ばつや飢饉も創世記に何度も出て来ますが、その度に逃れて生き延びます。終盤のヨセフ物語は、ヨセフが全世界を襲う七年の大(だい)干(かん)魃(ばつ)を前に、自分の家族だけでなく、エジプト人や世界の多くの人を救うためにリーダーシップを取る話です。この三章だけを読んで、神が与えたのは、難産や飢饉や死で人生を呪う罰かと思ったら、創世記全体をよく読んでください。そこには、人間社会が抱えていく問題が、ここだけでは分からないぐらい深刻に、複雑に展開していく様子も見えます。バベルの塔や、民族の対立、戦争など大規模な紛争も次々に起きますし、家族関係、それから神への信仰の姿勢を通してさえ、人の闇、神との関係が不安定になった結果の色々な問題が深くなります。

 今でも、社会の問題や心の闇は噴出し続けていますが、それは簡単に解決や分析など出来ない本当に複雑な痛みです。安心して信頼できる神を見失った結果、沢山の悲しい出来事が起きています。痛みや暴力があります。しかし創世記も聖書も、そうした次々に問題を引き起こす人の歩みに、神がともにいてくださる歴史です。問題を通して、神を呼び求めるようになる、アダムの子孫達の姿が物語られていきます。

 神は、人をエデンから追い出しますが、創世記は神がアブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフと

「ともにいてくださる」

という表現を繰り返します[3]。つまり神は人をエデンの園から追い出されたのですが、神もエデンを飛び出して人とともにいようとなさるのです。エデン追放は、神の人に対する拒絶や絶縁ではありません。神は人を追いかけて、人との関わりを新しく造り出されます。人との関係を取り戻そうとなさって止みません。上辺に噴出する様々な問題があろうと、また心には神への不信があろうと、神は人を追いかけて、人との関係回復のために、救いの契約を始めてくださった。最初から、神は一方的な恵みによって、人に関わり続けてくださいます。それは神ご自身が、神に背いた人に対しても良いご計画を持っておられたからです。やがてキリストを送り、蛇の頭を打って、神に背いた出来事の決着をつける、確かな計画がこの時点で宣言される通りです[4]。神ご自分もエデンの園を飛び出して、人とともにいようとなさいました。失楽園は終わりではなかったのです。神は人に裏切られてそれまでの楽園での時間を失っても、それでも人も世界をも諦めず、

「失われた人を救う」

物語を始めたのです[5]

 神は、人に永遠のいのちを得させたいからこそ、エデンの園から追放されました[6]。楽園の生活が終わって、つらい人生が始まります。人間関係や仕事で悩みながら、「苦しい時の神頼み」で神を呼び求めたりします。「苦しい時の神頼み」は褒め言葉ではありませんが、上手くいっていたら人は神を呼び求めないし、自分の弱さや人との関係の大切さにも気づけません。神は、壊れてしまった世界の壊れっぷりを安易に癒やそうとはなさいません。表面的な解決でお茶を濁そうとはしません。神は人とともに、この世界の痛みや悲しみやいとおしさを、人とともに十分味わおうとなさいます。その中で神頼みしたり、感謝したりする私たちを受け止めて、神は善いお方、神を信頼して、神の愛を受け取っていこう。この神が造られた世界で、ともに生きていこう。そういう思いを持つよう導いてくださいます。神は人の心にじっくりと、深く働きかけて方向転換をさせてくださる。そういう契約を実現していかれるのです。

 神は、エデンの園から出た後も、人に食べ物を十分に配慮してくださいました。飢饉から救い、マナを降らせてくださり、五つのパンと二匹の魚で人々を養われました。何よりも、主イエスが十字架にかかってくださいました。神は私たちに、約束が破られた「善悪の知識の木」を見せつけて後悔を強いるよりも、主イエスが架かられた十字架の木を示してくださっています。罪を罰したり過去を責めるよりも、十字架に示された神の愛、私たちに対する愛、そこまでしても私を神の子どもとしたいという神の深い恵みが示されています。そして、主はその事を覚えさせるために、聖餐式を設けてくださいました。パンに託して、イエスが

「これはわたしだ。わたしを食べなさい」

と仰ってくださいます。

 食べるなと禁じられた木の実を食べた人間に、命の木からも取らせなかったというよりも、主はご自身を差し出して、「このパンはわたしです。取って食べなさい」と言われます。この一欠片のパンに、主が世界を造られて、私たちに日毎の糧を下さっていることも、私たちへの赦しと回復も込められています。神が裁きの座に座っている遠い方ではなく、そこを飛び出して私たちとともにいてくださる方、私たちの思い込んでいる神イメージを一変してしまうメッセージがあります。そして、将来の祝宴も、すべてが詰まっています。そして、そのパンを分かち合う共同体が教会なのです。主の絆の印である聖餐を、今から頂きます。主はエデンで破られた約束を繕うため、今このパンに託して、私たちの心の底に届くことから始めようとなさっている恵みを、ご一緒に噛みしめましょう。

「契約の主なる神よ。エデンの嘘以来、神はお高くとまり、ケチで人を愛してなどいない、という偽りが染みついています。あなたを遠く冷たく、小さく考える愚かさから救い出して、恵みに心を満たしてください。世界の問題は複雑で底知れない苦しみがあります。どうぞ私たちを憐れみ、主の聖餐に私たちを養い、あなたの道具として、御業を果たさせてください」



[1] Ⅰサムエル記16章7節「主はサムエルに言われた。「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」」

[2] 特に、16節で女性に言われた、「また、あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」は、二章で造られた夫婦の関係が大きく拗けた、悲しい告知です。「恋い慕う」は健気(けなげ)な純愛っぽく響きますが、4章7節で「罪はあなたを恋い慕う」ともありますから、情で絡め取ろう、私の願い通りになってほしい、というニュアンスです。男が女を支配するのとは違う形で、やはり女性も男性をコントロールしよう、思うままに操ろう。悪意からではなく寂しさや善意からでも、男も女も互いの関係をこじらせ、主導権(パワー)争い(ゲーム)で行き詰まらせる。引いては、親離れ子離れもしにくく、あらゆる人間関係が縺(もつ)れてしまいます。そして、17節「苦しんで食を得る、顔に汗を流して糧を得、ついにはその大地に帰る」。仕事の厳しさ、死に至る悲しみが言われています。こうした「のろい」は神の言葉の一部ですが、「あなたは夫を恋い慕うが、彼はあなたを支配することになる」は、神がそのようになさらなかったら、拗けることもなかった人間関係ののろいとは思えません。既に、12、13節が、ゆがんだ会話なのです。神はここで、人の関係を壊したと言うよりも、壊れてしまった人間関係を嘆いて、「告知」されているという読み方も併せて可能です。

[3] 創世記五22、24、六9、二一20、22、二六3、24、28、二八15、20、三一3、5、三五3、三九2、3、21、23、四六4、四八21。

[4] それは、ただ人間の魂の救いという以上の、天地を創造された方の、そして、あえて人間に自由意思を与えて、破ることもあり得る約束を与えられた方の、「覚悟」があったからです。

[5] ルカ19章9節。

[6] では、3章22節で神である主がこう仰ったのは、どういう事でしょうか。「見よ。人はわれわれのうちのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、人がその手を伸ばして、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きることがないようにしよう。」まず、人が善悪の木の実を食べても、本当に神のようになったわけでも、善悪の知識を得たわけでもありません。人が知ったのは「自分たちは裸だ」ということ、神から隠れて、嘘や胡麻菓子をするようになったのです。善悪の木から食べたら神のようになる、というのは蛇が囁いた誤解でした。その誤解のまま、まだエデンの園にいて、いのちの木から取って食べて、死を免れようとする誤解を見越したのかもしれません。あるいは、人の心が歪んだり人間関係が支配やもつれたりしたまま、永遠に生きるなら、それこそ呪いに他なりません。何よりも、やがて「永遠のいのち」を神はイエスによって私たちに得させてくださるのです。イエスとの出会いが、私たちの永遠のいのちなのです。神との交わりを抜きに、命の木とか命の水とか、あるいは現代科学で不老不死の技術を開発してもいのちが得られるのではない。たとえ、科学や魔術や神話で永遠を得たとしても、それは恐ろしい事です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

聖書の物語の全体像06 ヘブル書8章8~12節「私たちの神となる神」

2019-01-20 17:38:41 | 聖書の物語の全体像

2019/1/20 ヘブル書8章8~12節「私たちの神となる神 聖書の物語の全体像06」

 今日のヘブル書8章は、旧約聖書のエレミヤ書31章の言葉を引用して語っています。そこに

「新しい契約」

という言葉が出て来ました。これが聖書を「旧約聖書」「新約聖書」に分ける元になっています。イエスは「新しい契約」を下さいました。聖書の前半、イエスがおいでになるまでは「古い契約」で「旧約聖書」、イエスが来られた後の後半は「新しい契約」が書かれた「新約聖書」です。とはいえ、7節にはこう書かれている事に注意しましょう。

八7もしあの初めの契約が欠けのないものであったなら、第二の契約が必要になる余地はなかったはずです。神は人々の欠けを責めて、こう言われました。

 旧約の契約、特にモーセに与えられた契約は欠けがありました。神の契約が欠陥品だったという意味ではなく

「人々の欠け」

人間の欠陥、罪、限界を覆うには不十分だったのです。古い契約は、人間の欠点を覆うには不完全であることは最初から分かっていたのです。主は「新しい契約」を実現なさいます。決して「古い契約」が失敗したための対策としての「新しい契約」ではありません。「古い契約」は最初から「新しい契約」の準備として与えられた暫定的な役割の契約、言わば「仮契約」「養育係」[1]でした。人々はその契約を守りませんでしたが、神はそれで失望したり腹を立てたりしたでしょうか。いいえ、むしろ神が自ら「新しい契約」の実現を約束されています。「人が良い行いをしたから、古い契約に忠実な生き方をやり直そうとしているから、少しでも反省の色を見せるなら」と言う条件は一切ありません。ただ神の側からの一方的な宣言として、「新しい契約」を与えるとエレミヤ書で約束されたのです。

 その契約の中身は、こうです。

「わたしは、わたしの律法を彼らの思いの中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」

 以前の契約は、神の律法、神の道を、文字で人に教えました。外から与える教えでした。しかしそれは人々には不十分でした。人は欠けがあり、外からの契約では間に合わないからです。「新しい契約」はそうではありません。神が人の思いの中に律法を置く。人の心に律法を書き記す。外から神の道を、いくら口を酸っぱくして教えられても、人には守れません。それは神もご承知でした。神が用意されていたのは、神ご自身が人の心に働いて、神の思いを書き記してくださる、という最終的な契約です。それも「あれをしなさい、これをしてはならない」という掟ではありません。

「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」

という関係が心に書き記されるのです。「わたしは彼らの神、彼らはわたしの民」そういう堅く、強いを神は私たちとの間に持ってくださることがハッキリ分かる。そういう契約です。それが分かるのは、11節、

11彼らはもはや、それぞれ仲間に、あるいはそれぞれ兄弟に、『主を知れ』と言って教えることはない。彼らがみな、小さい者から大きい者まで、わたしを知るようになるからだ。

 この「知る」は頭で知識を知る以上に、もっと深く人格的な意味での「知る」です。「知り合いになる」に近いし、「主について」ではなく「主を知る」という人格的な出会いです。新しい契約では、神が人の心に働いて、神との出会いを与えてくれます。誰かが教えてくれるのではなく、その人その人が、自分の事として神を知ります。なぜなら、

12わたしが彼らの不義にあわれみをかけ、もはや彼らの罪を思い起こさないからだ。」

 新しい契約を実現するイエス・キリストは、私たちの不義を蔑まず裁かず、あわれんでくださいます。私たちが自分の罪で後悔し、自己嫌悪し、恐れや恥に苛まれるとしても、キリストは私たちのために十字架に架かることで、完全な赦しを成し遂げてくれました。神は私たちの罪を怒るよりも、神の子イエスが身代わりに罪となる事で、私たちに憐れみと赦しを与えてくださいました。その事を通して、私たちは主を知るのです。その事を通して、神が私たちの心に働いて、神の道が刻み込まれるのです。神は私たちの神となってくださった、私たちは神の民となった、そういう関係が始まるのです。これが、イエス・キリストの新しい契約です。

 「わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの神となる」

の言葉は、新しい契約によってハッキリと届けられる関係です。しかしこの文言は、古い契約でも度々繰り返されていました。新約では4回ですが、旧約では40回以上も出て来ます[2]。神が

「わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる」

と仰る。これは、神が聖書の最初から語っておられた、メッセージです。また、最初の創世記に繰り返されているのは、

「主がアブラハムと(イサクと、ヤコブと、ヨセフと)ともにいてくださった」

という言葉です。最後の黙示録でも、

二一3…「見よ、神の幕屋が人々とともにある。神は人々とともに住み、人々は神の民となる。神ご自身が彼らの神として、ともにおられる。神は彼らの目から涙をことごとく拭い去ってくださる。もはや死はなく、悲しみも、叫び声も、苦しみもない。…」

と描かれるのです。これが聖書の示す最終的な将来の特徴です。創造された世界は、人間の背信によって大きく揺さぶられましたが、イエス・キリストがその世界の真ん中に来て、十字架の死によって神のあわれみ、赦しを示して人に神を知らせてくれました。神が人の心に働いて、神との関係を回復してくださいました。それが、キリストの成就した最終的な契約でした。新しい、決して古びることのない、最終的な契約によって、私たちは神の民となるのです。古い契約の時代を重ねて、最後にはキリストが完成してくださった契約の中心は、この関係です。

 出エジプト記の3章で、主がモーセに初めて出会ってくださる記事があります。その時、モーセが「神の名は何かと答えられたら、何と答えたら良いでしょうか」と質問したとき、

出エジプト三14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」

また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。

15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。」[3]

 この「わたしは「わたしはある」という者」が神の名前であることは、神が永遠に存在しておられる、厳粛な意味もあることは疑いませんが、同時にここではそのお方が「あなたがたの父祖の神、主」と名乗られる流れも大事です。「わたしはあるI AM」と言われるお方が「あなたがたの父祖の神 I am God of your fathers」と言われ、あなたがたを苦しみから解放すると約束なさるのです。つまり、神は私たちの神となる神。永遠に有るという絶対的な区別に留まらず、私たちの神となり、私たちとの親しく永遠の関係を持つ神になってくださるのです。

 一昨年「聖書新改訳2017」が出されたのに次いで昨年「聖書協会共同訳聖書」が出されました。その中でこの「わたしはある」が

「わたしはいる」

と訳されています。ヘブル語や英語ではBE動詞なのも、日本語は「ある」「いる」と分けるのが特徴ですが、12節では「いる」と訳している事を踏まえて、神も「わたしはいる」と名乗られた、という説明は衝撃でした[4]。神は「わたしはいる」と名乗られる神。あなたがたの神となる神であり、私たちを神の民としてくださる神。イエスがおいでになる時、御使いは生まれる幼子の名を「インマヌエル」(神は私たちとともにいます)と言いました。神は私たちとともにおられます。

 キリスト教の神様ってどんな神様?と聴かれれば、「わたしはいる」と言われる神だと言えます。
 聖書って何が書いてあるの?と質問されたら、「神が何としてでも私たちの神になってくださるって物語だよ」という答え方も出来るでしょう。
 キリスト教の救いって何?と言えば、「神が私たちの神になって、私たちは神の民、神の家族にしてもらえる」という救いなのです。

「私たちの神よ、あなたはこの大きな世界の、小さな小さな私たちの神となり、私たちをあなたの民としてくださいました。私たちの心にあなたを知らせ、あなたの掟を教えてください。主の恵みにただただ感謝し、信頼し、そしてその豊かな関係を育て、分かち合い、励まさせてください。恵みならざるもの、主への信頼を疑わせるような一切のものから解放してください」



[1] ガラテヤ書三24「こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。25しかし、信仰が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。」

[2] 「わたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる」は、いくつかのバリエーションも含めて、以下の箇所に明言されています。創世記十七7、8、出六7、二〇2、二九45、レビ十一45、二二33、二五38、二六12、45、民数記十五41、申四20、七6、二九13、Ⅱサムエル七23、24、詩篇五〇7、八一10、イザヤ四一10、13、四三3、エレミヤ七23、十一4、二四7、三〇22、三一1、33、三二38、エゼキエル書十一20、十四11、二〇5、7、19、20、三四24、31、三六28、三七23、ホセア十二9、十三4、ヨエル二27、三17、ゼカリヤ八8、一〇6、Ⅱコリント六16、ヘブル八10、Ⅰペテロ二9、黙示二一3、7。

[3] 少し前後も引証して、その中心にある「わたしはある」を考えると、一層意味が深まります。出エジプト記三10以下、「さらに仰せられた。「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは顔を隠した。神を仰ぎ見るのを恐れたからである。11モーセは神に言った。「私は、いったい何者なのでしょう。ファラオのもとに行き、イスラエルの子らをエジプトから導き出さなければならないとは。」12神は仰せられた。「わたしが、あなたとともにいる。これが、あなたのためのしるしである。このわたしがあなたを遣わすのだ。あなたがこの民をエジプトから導き出すとき、あなたがたは、この山で神に仕えなければならない。」13モーセは神に言った。「今、私がイスラエルの子らのところに行き、『あなたがたの父祖の神が、あなたがたのもとに私を遣わされた』と言えば、彼らは『その名は何か』と私に聞くでしょう。私は彼らに何と答えればよいのでしょうか。」14神はモーセに仰せられた。「わたしは『わたしはある』という者である。」また仰せられた。「あなたはイスラエルの子らに、こう言わなければならない。『わたしはある』という方が私をあなたがたのところに遣わされた、と。」15神はさらにモーセに仰せられた。「イスラエルの子らに、こう言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、主が、あなたがたのところに私を遣わされた』と。これが永遠にわたしの名である。これが代々にわたり、わたしの呼び名である。16行って、イスラエルの長老たちを集めて言え。『あなたがたの父祖の神、アブラハム、イサク、ヤコブの神、主が私に現れてこう言われた。「わたしは、あなたがたのこと、またエジプトであなたがたに対してなされていることを、必ず顧みる。」

[4] 『舟の右側』2019年1月号、巻頭言とインタビュー記事。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

マルコ伝2章23~28節「安息の主」

2019-01-15 13:20:15 | 聖書の物語の全体像

2019/1/13 マルコ伝2章23~28節「安息の主」

 「ある安息日」

にイエスと弟子たちが麦畑を歩いていた時、弟子たちが道々麦畑の穂を摘んで食べ始めた。それをパリサイ人が咎めました。

「ごらんなさい。なぜ彼らは、安息日にしてはならないことをするのですか」。

 「安息日」とは、毎週金曜の日没から土曜日の日没までを、何も労働をせずに聖なる日として過ごすよう、神から命じられていた日の事です。パリサイ人は律法を厳格に守ろうとする人たちで、「安息日にすべからずリスト」三九項目を作って、更に細かく規定したのです。それによると麦の穂を摘むのは収穫、殻を揉んで取るのは脱穀。それは安息日に禁じられる労働だと、この24節で弟子たちを非難したわけです。

 これに対してイエスは25節26節で旧約聖書の一例を引いて問い返します。ダビデと従者たちが空腹を抱えて逃げていた時、神の臨在のパン、神がそこにおられるという神聖なしるしのパンを食べたことがあったではないか[1]。そしてそこからこう言われるのです。27節、

…「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません。

 安息日の律法によって人を縛ったり非難したりでは本末転倒。神が律法で安息日を守るよう命じたのは「人のため」であって、杓子定規に「守らなければ」と細かいリストを作ったのは、勘違いだとバッサリ言われたのです。その後に、もっと大胆な爆弾発言が続きます。

28ですから、人の子は安息日にも主です。」

 イエスはご自分を「人の子」とよく言われました。「人の子」とはメシア(キリスト)を指す言い回しです。イエスはご自分が

 「安息日に(対して)も主」

 安息日にも、というより、安息日にとってもその上にいる主だと言われます。マタイ伝の平行記事では

「人の子は安息日の主です」

とありますが[2]、イエスは安息日の主で、人のために安息日を設けられた主です。

 「聖書の物語の全体像」を考える時、聖書の物語の始まり、天地創造の締め括りは、他でもない安息である事を踏まえたいのです[3]。創世記1章1節からの創造は、こう結ばれます。

二1こうして天と地とその万象が完成した。神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。

 創造が完成して、神は休まれ、この日を祝福し、聖となさった。この事が根拠となって、十戒の第四戒では、「安息日」を覚えることが命じられるのです。

出エジプト記二〇8安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 神が世界を造った時、七日目に休まれたのだから神の民も七日目を休むのです。この世界が、神が作られた世界であること、神が喜んで楽しんで作られ、祝福された世界であることを、片手間ではなくすべての仕事を止めて、覚えるのです。「安息日」を命じる第四戒は十戒の中で一番長く詳しい項目です。それだけ肝心なのです。安息日は、過去の回想ではありません。世界そのものが安息のために作られた世界。神が今も安息へと至るよう導いておられる世界。私たちの生きているこの世界が、神の祝福の完成という将来へと進んでいることを覚える日です。また、神ご自身が安息日の主です。いつも何か作っていないと落ち着かない創造主とか、私たちにも禁欲や規則の順守や、労働や奉仕を求める「労働の神」でなく、安息の主。この世界は安息へ向かっている、安息の主が作られた世界だと覚える。そのために、安息日があるのです。

 ところで「十戒」は申命記5章にも再録されていますが、そちらでは安息日の根拠が、創造ではなく、エジプトの奴隷生活から救い出されたことに置かれています[4]

申命記五15あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」

 かつてエジプトでは奴隷でした。人の価値が労働力でしかなかった。休みや祝福、遊んだり楽しんだり祝うことは一部の特権でしかなかった。そこから主は力強く導き出して、人を人として取り戻して、本当に人らしい人生を始めさせてくださった。だから、いつも安息日を守りなさい。自分が休むだけでなく、家族や奴隷や家畜も、仕事が途中でもそれを止めて一緒にみんなが休んで、神の創造と解放を祝い、味わう一日を過ごす、そんな幻(ビジョン)を示されたのです[5]

 週に一度だけではありません。レビ記二五章で神は、七年ごとに土地を休ませる

「安息年」

も命じられます。更に、七年の七回、四九年ごとに

「ヨベルの年」

として、すべての負債が免除されるのです。身売りした奴隷も、担保に出されていた土地も帰ってくるのです。それは、それを守る人の体に安息のビジョン、負債の免除と祝宴の青写真を刷り込むための配慮でした。仕事に忙しくしてきた日々も、創造主であり贖い主である主が命を下さり、ともにおられた。エジプトの奴隷生活から解放された神が、今も私たちを業績や比較によらず、人として、私として見てくださって、私たちとともに世界を祝福することを願っておられる。私たちにどんな負債や不足があろうと、神は私たちとともに安息することを楽しんでおられる。そして将来には解放、救い、祝宴を備えておられる。それを覚えるのが、安息日、安息年、ヨベルの年、というリズムでした。またその御心に背いた末に下された「バビロン捕囚」でさえ、裁きである以上に、地が安息を得るためでした[6]。神の願いは、徹底的に、最終的な安息なのです。

 主イエスは「安息日の主」としてこの世界に来られました。マタイ11章の有名な御言葉、

28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。

 マタイ十一章のこの言葉の直後に、今日のマルコ伝の平行記事です[7]。疲れた人、重荷を負う人をすべて無条件で招いて、休ませてくださる主が、人のために安息日を作られたのです。その安息の主は私たちに安息を下さるため、十字架に死なれ、三日目に復活しました。その復活を記念して、今私たちはここにいます。この日曜日は、主が世界を創造された日、イエスがよみがえられた日です。神の創造と安息から始まって、奴隷生活からの解放や主の復活がなされて、やがて主が来られて安息が完成する。そういう大きな物語の中に生かされていることを覚えるのです。だから私たちは、今の生活でも安息のリズムを大事にするのです。

「安息日は、休息する神を選び、心を合わせる、断固とした、具体的な、目に見える方法である」。[8]

 この解放の律法をパリサイ人は狭苦しい雁字搦めに変えていました。教会でも「日曜礼拝と奉仕を死守する一日」と誤解してきた面があります。忙しい現代、一日の安息は簡単ではありません。抑(そもそ)も「将来本当に安息なんてあるのか、想像もつかない」という躊躇(ためら)いの方が大きいかも知れません。その躊躇いの中でこそ、安息日が設けられたのは

「私たちのため」

 重荷を下ろし、負債を免除され、一緒に喜び、安らぐ、そういう物語を生かされている事実を覚えさせるため、という言葉に耳を傾けましょう。その時に向けて今ここでも主を見上げるために生活のペースを落とし、主の恵みをたっぷり受け取って、安息を味わうことは無駄ではありません。そんな生き方によって、創造主であり贖い主である安息の主を証ししていきたいのです。

「主よ。今日ここに招かれ、安息の主なるあなたを礼拝する幸いを感謝します。世界に沢山の遊びや憩いを満たしたもうあなたを賛美します。私たちがあなたを忘れて働き過ぎ、空回りしてしまう時、強いてでも休みを与えてください。あなたが備えたもう大いなる安息はまだ見えませんが、今ここでも休みや喜び、楽しみを選び取り、それを一週間の力とさせてください」



[1] Ⅰサムエル記二一1-6、参照。

[2] マタイ伝一二8。ルカ伝六5も。なお、マタイ12章7節で、「わたしが求めるのは真実の愛、いけにえではない」は、主が私たちに真実の愛(のしるしとしての礼拝厳守、奉仕活動など)だという意味ではありません。「求める」セロー will, intend, desire 主が私たちに求められるだけでなく、主ご自身が願われることです。主が「疲れた者」に休みを与える事そのものが、主が求めておられる「真実の愛」です。マタイ伝はユダヤ人読者を意識して書かれていますので、その辺りが詳細です。マルコ伝は異邦人を主な読者としています。それゆえ、今回の説教でも「安息日規定」の詳細な説明は不要と考えました。

[3] この事は、O・パーマー・ロバートソン『契約があらわすキリスト』(高尾直知訳、PCJ出版、2018年)の112-120頁にも、「創造の契約」の第一の要素として詳述されています。

[4] 民数記五12「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。13六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。14七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」

[5] 「文化史家ヨゼフ・ピーパーは、中世の人々にとって、勤勉と怠惰ということが、現代人の考えるところとはまったく違う意味を持っていたことを指摘する。中世の人々にとって「怠惰」とは、目の前のことばかりにかまけて、永遠との関わりを忘却し、人間が神のかたちに創造された、その被造物としての尊厳にふさわしく生きることを放棄して生きる状態を意味した。勤勉に労働しないことが怠惰なのではなく、神を忘れて忙しく立ち働くことこそが「怠惰」なのである。文字通り心を亡ぼすまでに忙しく働き、人間に与えられた固有の尊厳を放棄して、究極的な意味で自分自身であろうとしないということの方が怠惰なのである。」芳賀力『大いなる物語の始まり』104頁

[6] レビ記二六34-35「そのとき、その地が荒れ果て、あなたがたが敵の国にいる間、その地は休む。そのとき地はその安息を享受する。35地は、荒れ果てている間、休むことができる。それは、あなたがたがそこに住んでいたとき、あなたがたの安息のときには得られなかったものである。」、Ⅱ歴代三六21「これは、エレミヤによって告げられた主のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。その荒廃の全期間が七十年を満たすまで、この地は安息を得た」。

[7] マタイ12章-8節。

[8] Walter Brueggemann, Sabbath as Resistance, 10. ピーター・スキャゼロ『情緒的に健康なリーダー・信徒を目指して 内面の成長が、家族を、教会を、世界を変える』(鈴木茂、鈴木敦子共訳、いのちのことば社、2018年)278頁より引用。同書の「第5章 安息日の喜びを味わう」(248-303頁)は安息日全般を具体的に取り上げています。今回の説教準備に大いに参考にしました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする