聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

マタイ28章「主はよみがえられた」 イースター説教

2019-04-21 14:28:12 | 聖書の物語の全体像

2019/4/21 マタイ28章「主はよみがえられた」

 主イエスが、十字架の死から三日目に、墓からよみがえられた。本当に神は、イエスを復活させてくださった。今日のマタイの福音書も、イエスの生涯を辿り、イエスの教えや奇跡を辿りつつ、その結びに十字架の死からよみがえらされたという驚きの事実を伝えています。イエスは本当によみがえった。キリスト教会は、この信じがたい出来事を信じてきました。特に今日の箇所、大きな地震や主の使いの描写などを読むと、ますます信じにくいかもしれません。

 確かにここには、復活が奇跡や非日常的な出来事を伴って起きています。「こんな話、実際にこの目で見なければ信じられるか」と思うかもしれません。しかし、この場にいて御使いたちを見て震え上がった番兵たちはどうでしょうか。御使いを見て震え上がり、死人のようになったと4節にありました。その彼らが11節で、墓地から都に駆け戻って祭司長たちに報告するのですが、祭司長たちから多額の金を与えられると丸め込まれてしまうのです。すぐ前に、地震や輝く御使いを見て、震え上がったのに、大金を握らされたら「自分たちが眠っている間に、弟子たちがイエスを盗んでいったのだ、イエスの復活など捏ち上げだ」と言いふらした。少し考えたら、そんな話のほうがありそうもないのに、そんな話しを広め始めるのです。

 この兵士たち、そして祭司長たちの姿は、この復活記事の中で不思議な程、詳しく記されています。イエスを復活させた神は、地震や輝く御使いを遣わしたのですから、祭司長や兵士たちの姑息な対応など叱咤して、封じることも出来たはずです。その協議の議場に、輝く御使いを派遣したり、イエスご自身が現れて圧倒したりだって出来たでしょう。しかし、そうした人間の考えがちなやり口とは反対に、場面はガリラヤに飛ぶのです。彼らの思惑を尻目に、イエスは弟子たちの故郷である辺境のガリラヤで、

「あらゆる国の人々を弟子としなさい」

という大きな使命を与えられ、

「見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」

という、尊い約束を与えられます。まるで祭司長たちの企みなど、全く意に介さないようです。

 私たちはこういう周りの状況を気にかけてしまいやすいものです。イエスは、復活を否定されても嘘が言いふらされても憤慨しないのに、私たちは憤慨し、何とかしたくなります。「神に力があるなら、その力で社会に影響力を持ちたい、反対する人を説得して納得させたい、自分を無視する奴に分からせてやり、謝らせたい」と思いやすい。でもイエスはそんな発想から、全く自由でした。抑(そもそ)もこの時、イエスの復活を告げられたのは女性たちでした。当時の男性社会で、女性は教育や証言の対象とは見なされていませんでした。証人としての信憑性が確かな、社会の名士や知識人、議員に御使いが現れたらもっと影響力があったでしょうに、ここで御使いは女性たちに語りかけました。そしてイエスも彼女たちに現れて、男性たちへの伝言を託されるのです。それも、今いるエルサレムから離れて、ガリラヤに行け、そこで会おう、と言われます。都エルサレムで語る方が、また祭司長や議会を圧倒して、イエスの復活を信じさせ、イエスの正しさ、神の子としての権威を認めさせた方が、世界への影響力は絶大でしょうに、イエスはガリラヤで会うと仰います。そこで、16節で十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示された山に登ってイエスに会います。その時さえ

「疑う者たちも」

いました。弟子たちの中にさえ疑いがあった。そう伝えた上で、最後の言葉が語られます。

18イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても地においても、すべての権威が与えられています。

 復活は、死に対してもイエスは権威を持っていることを証しした最たる出来事です。でも、私たちが思うような「権威」とは違います[1]。人を圧倒したり脅したりして服従させ、命令し、操作しようとする権威ではありません。反対に、祭司長やユダヤの議員たちは自分たちの権威を守ろうとして、お金や嘘を使うことも厭いませんでした。そしてそれはひとまず成功しました。でもイエスは天でも地でもすべての権威を与えられているからこそ、そんな小賢しい権威は気にも留めません。イエスの復活は、死に対する勝利です。しかしイエスがそれでなさろうとしたのは、人の上に権威を振るうこととは逆に、女性たちに出会い、辺境のガリラヤで希望を語り、まだ疑っている弟子たちを通して、あらゆる国に福音を告げさせることでした。

 このマタイの福音書の最初に、イエスが語った説教、「山上の説教」の最後でも

7:28イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。29イエスが、彼らの律法学者たちのようにではなく、権威ある者として教えられたからである。

という言葉がありました。イエスの権威は、当時の律法学者たちの偉そうな態度とは全く違う、本当の権威を持っていて驚かれた、というのです。そしてその「教え」の権威は、天の父なる神の憐れみ、罪を赦す権威[2]、人を苦しみや狂気から解放する権威でした。嘘や圧力で自分の面子を守ろうとする権威ではなく、イエスは人を憐れみ、人を生かす権威をお持ちです。その復活は確かに死に対する勝利でしたが、その前にイエスは死の苦しみを背負うことをなさって、全く権威がないかのように嘲笑われることをも厭われませんでした。そして復活の事実を否定する当局の企みに悔しがったり抵抗したりせず、イエスは弟子たちを辺境の山で集め、ご自分の弟子として世界に派遣されます。あらゆる国の人々がイエスの弟子になるよう招かれている。

19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、20わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。…

 バプテスマを受けて、イエスの命じられたことを守る弟子となる。世界の支配者や権力者が、何をしようと、本当の権威者であるイエスが、この世界のあらゆる国の人々を招いています。しかもその出来事が、弟子たちを通して広められていくことをイエスは宣言されます。疑う者さえいる弟子たちを通して、イエスはあらゆる国の人々に働きかけ、その伝道や洗礼や教育という回りくどい方法でなそうとされる。何と地味で、欲のない方法でしょうか。でもそれが、復活したイエスの選ばれた方法でした。私たちが今ここで、イエスの弟子とされている。希望をもって歩んでいる。イエスの教えを学びながら、イエスの力に守られて、導かれていることを信じている。決して華々しくはない、それぞれの人生が、復活のイエスの始めた出来事、本当の権威に裏づけられた、尊い、永遠のいのちを秘めた出来事なのです。

20…見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 これはずっと説教でお話ししている「聖書の物語の全体像」で中心となる契約の成就です。主は私たちとともにいる神です。「あなたが良い事をしたら」でもなく、「何かしくじらない限り」でもなく、何があろうとなかろうと、ともにいる。この世界のすべての権威を授けられたお方、この世界を治めておられる方が、私たちとともにいると約束されます。後の日も、今も私たちを生かしておられます。人がどんなに巧妙に「復活などなかった」と言おうと、どんなに大金を積まれようと、私たちの中に疑いが残っていようと、事実、イエスは復活し、私たちとともにいてくださいます。そして、嘘や力尽くで人を封じ込めようとする権威が紛い物に過ぎないと気づかせてくださいます。人の権威を恐れる生き方から救い出して、すべての人が招かれている主とともに生かされる歩み、主の教えに生かされる生涯に入れられているのです。ですから教会は、反対や無理解をも意に介する必要がありません。既に

「世の終わり」

までが約束されていますから、嘘や姑息な手段は必要としないのです。画策や隠蔽や口封じなどせず、堂々と間違いを認めます[3]。堂々とこのキリストの言葉を語り、淡々とイエスの恵みを教え続けます。神は死よりも強いお方、人の疑いや画策よりも強く、私たちとともにいてくださるお方。その権威を振りかざすより、罪を赦して和解を与え、女性や低い者、小さな者に目を注いでくださるお方。そのイエスが、今日も私たちを生かしておられると指し示し続けるのです。

「私たちのために死に復活された主よ。すべての権威はあなたにあります。生かされている恵みを忘れ、主の憐れみが踏みにじられる中、私たちは十字架と復活に捕らえられ、あなたに生かされてある事を知らされました。この不思議な恵みの力を毎日、小さなことにも見出し、王なるあなたを誉め称えさせてください。主を迎える終わりの日まで、ともに歩ませてください」



[1] 『広辞苑』では「(1)他人を強制し服従させる威力。人に承認と服従の義務を要求する精神的・道徳的・社会的または法的威力。「―が失墜する」(2)その道で第一人者と認められていること。また、そのような人。大家。「数学の―」」と定義されています。

[2] マタイ九6「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。…群衆はそれを見て恐ろしくなり、このような権威を人にお与えになった神をあがめた。」

[3] 体制の権威は、恐れ、隠蔽し、金で解決しようとする。現実に目を向けられず、都合の悪い真実は闇に葬ろうとする。キリストの教会はそんな小賢しいことをする必要はない。

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Ⅰサムエル記16章1~13節「人はうわべを、主は心を サムエル記第一」

2019-03-31 06:56:24 | 聖書の物語の全体像

2019/3/31 Ⅰサムエル記16章1~13節「人はうわべを、主は心を サムエル記第一」

 今月の一書説教は「サムエル記第一」です。イスラエルの民がイスラエル王国となっていく激動の時代です。始まりのサムエルの誕生が紀元前1105年頃、それまでは次々と士師(さばきつかさ)が建てられては一時的に落ち着いていた時代でした。それから90年後、第一サムエルの終わり、ダビデの王として正式に即位する1010年頃まで、中央集権、王という権力者を頂点とする階層社会になり、貧富の差も固定化していく大激動です。サムエル記第二ではダビデ王の統治が淡々と描かれて、その違いを読み飛ばしてしまいがちです。皆さんの人生、鳴門キリスト教会の60年、いやこの30年前を考えてもどれほど社会が変化したでしょう。衛生面も食生活も豊かになりました。ネットがつながり、スマホが手放せない。寿命は延びたけれど、心の病は増え、自殺が死亡原因のトップになり、年金も先細り。豊かで便利になったけれど、戸惑いや新しい問題も抱えています。「個人情報」という考えがはびこって、伝道や近所づきあいも、随分勝手が違ってしまいました。

 サムエル記の最初と最後はそれに匹敵する大変化を遂げています。部族社会から王国になる。安定する代わりに、階級や貧富の差が生まれる。軍隊が強化され、専門化していく。そうした大きな移ろいで、今まで考えられなかった問題も起きていく。そうした変化の中で様々なドラマが繰り広げられるのが、サムエル記の特徴です。

 サムエル記の登場人物を四人上げるとすれば、ハンナとサムエルとサウルとダビデです。最初に登場するハンナは子どもがいないことで苦しんでいましたが、主の憐れみに触れて子どもを授かります。それがサムエルです。ハンナは息子を主に捧げて、今日交読した

「ハンナの賛歌」

を歌います。

私の心は主にあって大いに喜び、私の角は主によって高く上がります。
私の口は敵に向かって大きく開きます。私があなたの救いを喜ぶからです。
主のように聖なる方はいません。
まことに、あなたのほかにはだれもいないのです。
私たちの神のような岩はありません。
おごり高ぶって、多くのことを語ってはなりません。横柄なことばを口にしてはなりません。
まことに主は、すべてを知る神。そのみわざは測り知れません。
勇士が弓を砕かれ、弱い者が力を帯びます。
満ち足りていた者がパンのために雇われ、飢えていた者に、飢えることがなくなります。
不妊の女が七人の子を産み、子だくさんの女が、打ちしおれてしまいます。
主は殺し、また生かします。よみに下し、また引き上げます。
主は貧しくし、また富ませ、低くし、また高くします。
主は、弱い者をちりから起こし、貧しい者をあくたから引き上げ、
高貴な者とともに座らせ、彼らに栄光の座を継がせます。
まことに、地の柱は主のもの。その上に主は世界を据えられました。
主は敬虔な者たちの足を守られます。
しかし、悪者どもは、闇の中に滅び失せます。
人は、自分の能力によっては勝てないからです。
主は、はむかう者を打ち砕き、その者に天から雷鳴を響かせられます。
主は地の果ての果てまでさばかれます。
主が、ご自分の王に力を与え、主に油注がれた者の角を高く上げてくださいますように。

 その中の、主は「貧しい者を引き上げ、悪者を打ち砕く」と歌った言葉が、サムエル記全体を読む鍵になります。サムエルは敬虔な指導者として、民を導きます。祈り、説教し、民を神へと立ち帰らせます。しかし、サムエルの子どもたちは父の道から外れ、賄賂を受け取ったり不正な裁判を下したりする俗物でした。そこで民はサムエルに、自分たちも他の国々のような王様が欲しいと強請(ねだ)ります。それは主への不信から出た願いでしたが、主はイスラエルの十二部族でも最も小さいベニヤミン部族の青年サウルを最初の王とします。サウルは歓迎され、勝利を収め、敵ペリシテ人に挑みますが、分を弁えない行動を重ねてしまう。主はサウルを退け、次の王を選びます。それが少年ダビデです。しかしサウルはダビデの人気に妬みに狂い、ダビデはサウルの殺意を逃れて荒野で十年余りを過ごします。その逃亡劇の間もサウル王の息子ヨナタンはダビデを親友として励ましますが、父サウルはますます狂気に陥り、大祭司の町を虐殺し、霊媒の女にサムエルを呼び出させる。逃げるダビデも、ある家族を腹立ち紛れに皆殺ししそうになったり、妻を次々と娶ったり、あろう事かペリシテ軍に亡命して一緒に戦おうとするなど大きくぶれるのです。最後の方でサムエルがひっそりと亡くなり、最後はサウル率いるイスラエル軍がペリシテ軍に大敗し、サウルもヨナタンも命を落とします。・・・

 と、波瀾万丈のサムエル記第一の、超ざっくりの荒筋です。とてもたくさんのドラマが詰まっていて、一度に話しきることは出来ません。当然一つ一つのストーリーをバラバラに抜き出して、何か単純な道徳や教訓を汲み取ることも、慎重になりたいと思います。ただ、ハンナの祈りで始まったサムエル記は、第二サムエル記二二章のダビデの祈りで結ばれます。サムエルは、母ハンナの祈りに応えて与えられた主からの贈り物で、主の憐れみ深さを体現する存在でした。サムエルも祈りの人でした。王を求めた過ちにようやく気づいた民に、こう言うのです。

Ⅰサムエル12:23私もまた、あなたがたのために祈るのをやめ、主の前に罪ある者となることなど、とてもできない。私はあなたがたに、良い正しい道を教えよう。

 民の不信仰や傲慢さを嘆きながら、祈り続けるサムエルは、祈りの人でした。また、サムエル記は知恵ある言葉を語っていますし、主と親しく語り合う関係を持っていました。サウルやダビデは、サムエルや預言者を介して主の言葉を聞いたのに、サムエルは別格です。ダビデの記述の方が長いのに「ダビデ記」ではなく、途中で亡くなるサムエルの名が付けられるサムエル記です。サムエルの存在感やその言葉の深さは、死の後もサムエル記の最後まで輝くのです。

 かといって、サムエルが理想的な人で祝福されていたかというとそうではありません。彼の子どもたちは利益を求め、賄賂をもらう指導者に育ちました。民からは愛想を尽かされ、期待したサウルに裏切られ、彼は嘆いて祈ります。彼は祈りの人でしたが、その多くの祈りは叶ったわけではありません。叶わなくても祈る、という意味でサムエルは祈りの人だったのです。社会が大きく変わっていく中で、信仰と祈りがあってもその変化に戸惑ったり振り回されたり、何も出来ない思いをする。むしろ、そういう人間の姿をサムエル記は描いているのでしょう。私たちもどうでしょうか。

 サムエル記のような社会の変化、王になる、豊かになる、またその折角手に入りかけた特権が手から滑り落ちそうになる…。そういう時、私たちはどんな愚かで焦った行動を取ってしまうことでしょうか。サウルを不信仰だとか傲慢だとか単純に批判は出来ません。私だって、宝くじが大当たりしたら、どんなに浮かれて、人を疑い深くなるか、知れません。悪いとか良いとかではなく、社会や環境の変化は私たちの生活や生き方に大きな影響を及ぼすのです。「サムエルやダビデが素晴らしくて、サウルはダメ」と単純化せず、むしろサムエルの嘆きや、サウルの苦しみやブレにも、サムエル記は詳しく寄り添っているのです。

 サウルは確かに主から離れていき、ダビデを妬み、最後は霊媒を頼み、惨めに戦死します。しかしそれはサウルを断罪するためでしょうか。サウルと同じ失敗をしないよう反面教師とするためでしょうか。いや、第一サムエル記は、自害して果てたサウルの亡骸がさらしものにされていたのを、ヤベシュギルアデの人々が、夜通し歩いて、取り戻しにいき、丁重に葬った、という終わり方をしています。サウルを責めるより、そのサウルをあわれみ、悲しみ、いとおしむ姿で結ばれるのですね。(※ そして、無残にさらされた亡骸を葬った、という記述は、イエス・キリストが十字架にさらされ、その亡骸をアリマタヤのヨセフたちが葬った出来事を思い起こさせましょう。イエスは、サウルのような生き方にも、ご自分を重ねてくださり、そこで、死刑になるような生き方をしてきた人(強盗)の隣人となったお方です。)

 近年、教会のリーダーシップ論を扱った本がいくつも出ています。その中では「自分の闇を見つめる。自分の傷ついた真の姿を認める」という事が言われるようになりました[1]。そこで取り上げられる典型的な例がサウルです。サウルのお陰で、私たちは自分の闇、危うさ、妬みや焦りに気づけます。サウルは表面的な悔い改めや自分の面子を気にし、心の闇を否定し続けて泥沼にハマりました。サウルを見つめて「自分も同じ危うい者だ」と謙虚に認める事が希望になります。そして、そのような私たちと主はともにいてくださるのです。サムエル記で敵と言えばペリシテ人を思いますが、実はペリシテ人が用いられてダビデが助かる場面が多くあります。呪わしい筈の霊媒女の方がサウルに親切です。単純に敵だ、悪だ、異教徒だと言えない役回りを果たしているのです。

16:7…人はうわべを見るが、主は心を見る。

 この言葉は、主がサムエルを諭した言葉です。ダビデの兄たちの上辺を見て「この人こそ王にふさわしい」とサムエルは思いましたが、主は上辺ではなく心を見ていると宣言されました。しかし、ダビデは心が立派で上辺はパッとしなかったのでしょうか。いいえ

15「彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった」

と言われます。でも、主はそのダビデの心を見ています。ダビデの心も、やがて王に選ばれたら迷い、怒り、高ぶって、大きな間違いを犯す心であることもご存じの上で、ダビデを選びました。サウルが長身で王に相応しい見た目だったのに、後から妬みや狂気にかられて消えていくのも、その上辺だけを見て、批判するのは人の見方です。その上辺の物語の奥に、どんな心があるのかを、主は見ておられます。私たちには上辺しか見えません。そして時代が変わり思わぬチャンスや焦りに遭うと、隠していた心の、ほんの一部が、思いがけない行動に現れるものです。思いがけない出来事は、人には見えなかった心の一部を露わにします。でもそれも、心の一部で、決して失敗だけで、その人のすべてが分かったように思っては勘違いです。まだまだ隠れた心を持っているのが私たちです。そしてそんな私たちとも主はおられて、見えない所で、しかし確かに働いておられる。過ちやすい私たちを主は導いておられる。それを忘れて、私たちは、自分が王になろうとしたり、上辺だけ見て全てを分かった気になったりもします。でも、主が王である。ダビデの子イエスが、私たちの王となって導いてくださっています。

 時代の激動する今、戸惑い、迷います。心の一部が上辺に現れたり、不安やもどかしさを覚えたりします。そして、本当に、これから先、技術が進み、価値観が多様化し、どんな社会になっていくのか、予想もつきません。だからこそ、助けてくださる主を一緒に仰いで、心を分かち合いながら歩ませていただきましょう。

「心を見たもう主よ。うわべを見て一喜一憂する私たちを、あなたは深く見ておられ、心の闇をも受け止めておられます。だからこそ、あなたの愛のゆえに祈らせてください。見えるものに振り回されるたびに、すべての良いものを下さっているあなたを求めさせてください。あの激動の時代にも、今この時代の変化にも、あなたがともにいて、私たちの王であってください」



[1] ヘンリ・J・M・ナウエン『傷ついた癒やし人』、ゲーリー・マッキントッシュ『リーダーシップのダークサイド 心の闇をどう克服するか』、ピーター・スキャゼロ『情緒的に健康なリーダー・信徒をめざして』など。

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創世記15章5~21節「アブラハムとの契約 聖書の全体像13」

2019-03-31 06:50:20 | 聖書の物語の全体像

2019/3/24 創世記15章5~21節「アブラハムとの契約 聖書の全体像13」

 聖書の大きな物語の中で、神が最初にアブラハムを選んで、神の民の始まりとなさったことを先週はお話ししました。75歳で子どもがいない。将来を託すにはまず選ばれない人を、あえて神は選んで、新しい歩みへと旅立たせたのです。不思議な予想外の始まりでした。しかし、そんな希望に燃やされても、一向に事態は変わらず時間が経ち、やがて心は失意でジメジメしてくる…。この15章のアブラハムはそうだったかもしれません。75歳で旅立ってから、次の16章の最後は88歳と書かれます。14年、何も変わらない。子どもは与えられないまま時間が過ぎていく。神の約束と現実とは違うじゃないか、と思うような中。1節で主に声をかけられても、子どもがいない現状を並べるだけで、疑問や抗議になるような、そんなアブラハムに、

十五4すると見よ、主のことばが彼に臨んだ。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出てくる者が、あなたの跡を継がなければならない。」

5そして主は、彼を外に連れ出して言われた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えられるなら数えなさい。」さらに言われた。「あなたの子孫は、このようになる。」

 天の星を見上げさせて、数えられるなら数えてご覧、あなたの子孫はこのようになる、とユーモラスに仰るのです。未だに一人さえ与えられていないことで嘆いているのに、天の星のように数えきれないぐらい、だなんてそんな荒唐無稽な話、到底信じられるか、と思いますが、

十五6アブラムは主を信じた。それで、それが彼の義と認められた。

 アブラハムは信じるのです。その約束を信じる。生きている間に見る事はなく、13節も「四百年」以上先の話を語っています。その大きな将来への約束を、アブラハムは受け入れたのです。そしてそのアブラハムの信頼が「義と認められ」ました。アブラハムの信仰そのものに力があったとか立派な信仰だった、ということではなく、語って下さる主を信じた、その精一杯の信仰を主が認めてくださったのですね。信じがたい状況ですし、到底信じられない約束ですけれども、そういう中に、生ける神は働いて恵みを現してくださる。人には終わりで恐れや諦めしかないように思える中でも、世界を造られた神は働いてくださる。天に数えきれない程の星々を鏤(ちりば)められたお方は、アブラハムとサラにも子どもを生まれさせると仰っている。そう言って下さる主に、疑いも迷いも恐れもある中で、しかし信頼をすることを選んだのです。

 18節に「契約」という言葉が出て来ます。9章で神がノアと結んだ「ノア契約」は世界を保持する契約でした。世界の存在そのものを祝福される契約でした。この世界を見るときに、すべてのことに神の御業、御真実が現されています。またこの世界を必ず完成に至らせるご計画があるのです。このノア契約を土台として、「アブラハム契約」は神がアブラハムを選んで語りかけ、この地を所有として与えて、子孫に住まわせるという、具体的な約束でした。土地と子孫を与え、いつまでもそこに住む将来。そしてアブラハムはそう言われた主を信じました。

 聖書で「信じる」という言葉が出て来る最初がここです。かつてアダムとエバは、主の溢れる祝福をエデンの園で味わいながら、神はケチだと唆されて、主を信じない道を選んでしまいました。アダムは主を信じず、それは彼の咎となりました。しかしアブラハムは主を信じ、それが彼の義と認められた。神を信じない世界で初めて、アブラハムが主を信じた。それは人の信仰心や意志ではなく、主がお恵みくださった関係の回復に他なりません。主も彼に信仰を求めたのではなく、約束を与え、語りかけ、既に天に数えきれない程の星があることを見させることによって、アブラハムの中に信仰を引き起こされたのです。主に背を向けていた人類の中から、主を信頼する人を起こしました。それも、直接自分の益になるとか、自分が救われて永遠のいのちをもらうとかではなく、神のこの言葉を、約束を、祝福として受け止め、その成就を待つこと、神を神とする生き方に自分を捧げたのです。主が生きておられ、この世界に希望を与えること、自分の人生に祝福を与えること、人には無理だと思うような命の業をなさること、それも人間の願うよりも大きな神の時間の中でなさることを信頼する「信じた」です[1]

 この6節の言葉は、新約聖書でも大事な言葉として何度も引用されています。

ローマ4:2もしアブラハムが行いによって義と認められたのであれば、彼は誇ることができます。しかし、神の御前ではそうではありません。聖書は何と言っていますか。「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあります。[2]

 信仰によって義とされる。これはキリスト教の伝道では、何かの行いによって罪の赦しは得られず、ただ神を信じれば(キリスト教を信仰すれば)罪が赦されて救われる、という読み方で強調されます。ですが、アブラハムが主を信じたことには、「救い」以上の約束があり、祝福がありました。そして、その神を信じること自体が神との関係の回復だったのです。

 この後の奇妙な生贄の儀式を思い浮かべてください。雌牛と雌山羊と雄羊と鳥を持って来て屠り、獣は二つに裂くのです。これは契約を締結するときの儀式でした。もし契約を破ればこのように二つに裂かれる、という意味で、裂いた動物の間を契約を結んだ両者が歩くのです。現代の私たちは契約違反を防ぐため何かを担保にしたりしますが、当時は「生贄」で厳粛に契約を結んだのです。血腥(ちなまぐさ)い中でも、鳥は裂かずに二つを向かい合わせにするのは小さいものへの憐れみを現しているようですし、猛禽を追い払うのも無慈悲な思いで扱わない、ということらしいです。アブラハムは、そうした作業を1日掛けてして、また夜が来ると、猛烈な眠気に襲われて、暗闇の恐怖にも襲われます。そのときアブラハムは何も出来ない。恐れるな、と始まった15章ですが、アブラハムは暗闇への恐怖にどうしようもないのです。しかし、主はそのアブラハムを「恐れるな」と叱るのではないのですね。13~16節で将来への希望を確約します。主の契約は、アブラハムが信じれば守る、恐れなければ果たされる、という条件付きではなく、無条件の一方的な将来への祝福の約束なのです。力強い宣言です。そして、

15:17日が沈んで暗くなったとき、見よ、煙の立つかまどと、燃えているたいまつが、切り裂かれた物の間を通り過ぎた。

 煙と火があの二つに裂いた生贄の間を通った。契約を破ればこのように殺されても良い、と文字通り命を賭ける儀式が、しかしアブラハムは通らずに締結されました。主は契約を忠実に守られます。破るとしたら、人間です。しかし、主はアブラハムに生贄の間を通らせません。あたかも主がひとりでその罰を引き受けるようでした。そして後に、荒野をイスラエルの民が旅した四〇年、いつも昼は雲の柱、夜は火の柱が先立ちました。そしてやがて、本当の生贄となったのは神の御子イエス・キリストでした。この契約儀式通り、神は人の違反の罰を人に負わせず、ひとり子イエスが十字架で裂かれた事で、人の違反を償ってくださり、契約を果たされました。神はどうしても人間との関係を回復して、恵みによる祝福に与らせたいのです[3]。アブラハムに将来の祝福も約束し、主を信じる心も与えました。

 それに応答してアブラハムは主を信じ、猛禽を追い払ったりしました。人には応答する責任があります。でも、恐怖に襲われたり眠かったり、疑ったり約束を破ったりするのも人間です。応答にしくじる私たちを主は深く受け止めてくださる。人が神に背いても、その償いの代価をご自身が命がけで払う。そうして主の赦しと回復を受け取りながら、必ず、神の祝福に与らせてくださることは、主イエスの十字架で果たされ、今アブラハムの子孫が数えきれない程いることにも、私たちがここでその信仰に連なっていること、赦しと約束の福音に与っている事実にも、成就しています[4]

 主を信じる私たちの信仰は、小さいようでも、世界を作られた神が私たちを愛され、希望を約束されている。そんな大胆な信仰です。今ここで主を信じる信仰は、限りない価値があるのです。

「天を作り、命を育まれる主よ。月や星を見上げ、世界に広がる信仰の家族の多さに、アブラハム契約の確かさを覚えます。どうぞ、今ここでの歩みをあなたの大きな祝福の中に受け止める信仰を与えてください。暗闇の恐怖に襲われる時にも、あなたが私たちを支えて導いてください。神ならぬものを神とせず、主にある希望を語り、互いを生かし合う者としてください」



[1] それは神との関係を回復することによる祝福です。神との関係なしに、ただ祝福や利益だけを欲しいと願っても、それを人間は悪用してしまうでしょう。そもそも神や人との関係よりも、自分が自分はと思う生き方自体が、惨めで歪んだもの、そこからこそ救われなければならない生き方です。そして、神に立ち帰って、神を神とすることは束縛や息の詰まるようなことではなく、深い豊かな祝福なのです。でもそれに背を向けてしまっているのがアダム以来の人間の姿です。そのような人の中で、神はアブラハムを起こして、アブラハムに約束と信じる心を与えてくださいました。その末に、今私たちも神の民とされ、神を信じる心を与えられて、礼拝に来ています。今ここに、神は働いておられる。長いご計画で働いておられる。

[2] ローマ書4章9節以下も。「それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義と認められた」と言っていますが、10どのようにして、その信仰が義と認められたのでしょうか。割礼を受けてからですか。割礼を受けていないときですか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときです。11彼は、割礼を受けていないときに信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じるすべての人の父となり、彼らも義と認められるためであり、12また、単に割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが割礼を受けていなかったときの信仰の足跡にしたがって歩む者たちにとって、割礼の父となるためでした。13というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいは彼の子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰による義によってであったからです。14もし律法による者たちが相続人であるなら、信仰は空しくなり、約束は無効になってしまいます。15実際、律法は御怒りを招くものです。律法のないところには違反もありません。16そのようなわけで、すべては信仰によるのです。それは、事が恵みによるようになるためです。こうして、約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持つ人々だけでなく、アブラハムの信仰に倣う人々にも保証されるのです。アブラハムは、私たちすべての者の父です。17「わたしはあなたを多くの国民の父とした」と書いてあるとおりです。彼は、死者を生かし、無いものを有るものとして召される神を信じ、その御前で父となったのです。18彼は望み得ない時に望みを抱いて信じ、「あなたの子孫は、このようになる」と言われていたとおり、多くの国民の父となりました。19彼は、およそ百歳になり、自分のからだがすでに死んだも同然であること、またサラの胎が死んでいることを認めても、その信仰は弱まりませんでした。20不信仰になって神の約束を疑うようなことはなく、かえって信仰が強められて、神に栄光を帰し、21神には約束したことを実行する力がある、と確信していました。22だからこそ、「彼には、それが義と認められた」のです。23しかし、「彼には、それが義と認められた」と書かれたのは、ただ彼のためだけでなく、24私たちのためでもあります。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、義と認められるのです。25主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられました。」また、ガラテヤ書3章6節「アブラハムは神を信じた。それで、それが彼の義と認められた」とあるとおりです。ですから、信仰によって生きる人々こそアブラハムの子である、と知りなさい。聖書は、神が異邦人を信仰によって義とお認めになることを前から知っていたので、アブラハムに対して、「すべての異邦人が、あなたによって祝福される」と、前もって福音を告げました。ですから、信仰によって生きる人々が、信仰の人アブラハムとともに祝福を受けるのです。10律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです。11律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。12律法は、「信仰による」のではありません。「律法の掟を行う人は、その掟によって生きる」のです。13キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです。14それは、アブラハムへの祝福がキリスト・イエスによって異邦人に及び、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるようになるためでした。」

[3] 18節以下の主の宣言が重なって、主はアブラハムにこの地を確かに与えると言われます。この言葉は千年後、ソロモン王の治世の最大領域で成就したのだとも言われます。

[4] 《破った結果は人間が罰を受けるけれども、後からキリストが救済策として身代わりになってくださった》のではありません。最初から、神はご自身が償いを果たすと約束したのです。

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創世記11章27節~12章4節「祝福の民 聖書の全体像12」

2019-03-17 20:15:29 | 聖書の物語の全体像

2019/3/17 創世記11章27節~12章4節「祝福の民 聖書の全体像12」

 これまで創世記の1~11章を見てきました。この部分は、聖書の物語の導入となります。天地の創造と、そこに置かれた人間のこと。神が人間に親しく約束を下さったのに、人間がそれを破ったこと。人の悪や暴力が大洪水を余儀なくして、方舟で救われたノアの子孫も、「バベルの塔」を建ててしまったこの世界。人はどうしたら救われるのでしょうか。それが今日から始まるアブラハムとその子孫達の歴史となります。言わば、創世記の1章から11章までは、聖書全体の序論です。私たちが神の民とされるとはどういうことなのか、神はこの世界に何を願って、アブラハムから始まる民を起こしてくださったのか、が明らかにされていくのです。ある方は、アブラハム契約を指して、「旧約聖書だけでなく、新約聖書全体もこの神の約束がどのように成就されていくかを記していると言っても過言ではない」と言っています[1]。今日は、アブラハム契約の中身よりも、神がアブラハムを選ばれたことそのものに注目しましょう。

 11章は10節から、ノアの息子のセムの系図が語られてきました。その末裔が27節からのテラで、テラにはアブラム(後のアブラハム)とナホルとハランの三人の子がいました。ハランは三人の子どもを持ち、ナホルも22章20節以下で八人の子どもを産んでいたことが分かります。そうした兄弟の中、残る一人のアブラムについて短く記す30節は意味深長です。

「サライは不妊の女で、彼女には子がいなかった。」

 アブラムの妻サライは不妊の女性でした。現代これだけ核家族や個人主義が進んでも、不妊の女性は生き辛さを感じて、苦しむことが多くあります。「家社会」ではもっと厳しい目で見られます。昔も今と同じように不妊は起きえる事だったのに、表にされない恥でした。跡取りや労働力を産めないなら離縁も当然、という考えも罷(まか)り通っていたのです[2]。アブラムとサライの夫婦は、子どももないまま消えていくばかりの存在でした。アブラムはサライと別れて、違う女性と再婚、あるいは女奴隷に子どもを産ませて養子とすることも出来ました。でもそうはしなかったのは、妻への愛だったのかもしれませんが、逆に、相当変わり者の世捨て人だったからかもしれません[3]。アブラムを美化するより、神の選びの不思議さに目を留めましょう。不妊で高齢のアブラムとサライ夫婦は、神が将来を託すとは思えない、消えゆくばかりの存在でした。二人は父とともにウルからカナンに旅立ちましたが、途中のハランで父が死んだため、その中途半端な旅先で、死ぬまで生活を続けていけばいいと思っていたのでしょう。その心許ない姿が、11章の30節以降、最後まで描かれます。ところが、12章で、

主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。

そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。

わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 主がアブラムに声をかけるのです。アブラムを呼んで、大いなる国民とし、祝福しよう。あなたによって地の全ての部族は祝福される、と言われるのです。まだ子どもはいないアブラムを世界の回復の鍵として選ばれました。それは、世界そのものが、命を生み出す力がなく、悪や罪、破壊や暴力ばかりで、希望がないことに対する、生きたメッセージでした。アブラムを選ぶ事自体が、神は、何かを生み出す力のない所に命を始めてくださるお方。世界を創造されて、闇の中に光を輝かされた方が、今この世界にも働いてくださるというしるしでした。新しいことを始めるにも、私たちの目には不利な条件ばかりで、「到底無理だ、最も相応しくない、論外だ」と思うような中にも、神様は全能の力を働かせて、そこから新しい国民を起こされます。呪われたような世界にも、呪いよりも強い祝福を始められます。神は、地の全ての部族が神の祝福から大きく飛び出していったのに、それでもなお、裁きや呪い、怒りを受けるに相応しいとは思われず、祝福をしたいと願われました。そのために、アブラムを選んだのです。

アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。

 アブラムは、この信じがたい主の言葉を受けて、立ち上がり、出て行きました。それは、尊い応答です。疑って笑い飛ばさずに従ったのです。七五歳での再出発でした。この応答は、主の言葉を信じた信仰によるものです。ですからアブラハムは「信仰の父」と呼ばれます。勿論、アブラハムは主の言葉を完全に理解したわけでもありませんし、心に全く疑いがなかったわけでもないでしょう。そして、この後のアブラハムの生涯でも、何度も主の御心を疑い、嘘や不信仰からの行動を取ってしまう、不完全なアブラハムです。そういう不十分なアブラハムを招いて、祝福の器となさり、失敗からも立ち上がらせて、祝福を与えてくださいました。

ヘブル11:8信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。

 だから私たちも、自分の信仰や知識や能力に色々な欠けがあることを素直に認めつつ、明日を思い煩わないで生きてゆけるのです。そういう私たちを通して、神の祝福の歴史を築こうとなさる神を信頼して、今日もここに来て、ここから遣わされていくのです。それがアブラハムにもイエスにも見られる、神の方法だからです。イエス自身、結婚前のマリアから聖霊の力によって生まれました。ガリラヤの田舎ナザレから出て来られ、弟子たちも漁師や無学な凡人達を選びました。罪人や病人として疎外された人たちの友となりました。そして度々アブラハムに言及しました。病気の霊に長年苦しんでいた女性を

「アブラハムの娘」

と呼び[4]、憎いローマの手先となって税金取りとなっていたザアカイを

「アブラハムの子」

と呼びました[5]。また、

ルカ3:8『われわれの父はアブラハムだ』という考えを起こしてはいけません。言っておきますが、神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子らを起こすことができるのです。

 これは神が全能だからというよりも、アブラハムの選びこそが石ころから起こすような選びだった、ということでしょう。だとしたら、そのアブラハムの子孫だと自慢する事は、最初にアブラハムが選ばれた意味も踏みにじってしまいます。神は石ころから、相応しいとは思えない私たちをアブラハムの子孫として、キリストを信じる民となさいます。キリスト教は信じる者が魂の救いや死後の安息を得る宗教である以上に、神が造られたこの世界を祝福するため、私たちに出会ってくださり、私たちを通して神の祝福が届けられていくことを信じるのです。

 今の私たちも、神を見ることを忘れて将来を考えがちです。不安要素が沢山あります。若者達を教会から送り出して、この先どうなるか、不安です。「子どもがいない老人所帯に希望があるはずない」とどこかで思っているかもしれません。勿論、勝手な楽観は聖書の信仰とは別物です。アブラハムの祝福は、人が願うようなバラ色の人生とは違いました。アブラハムは主がどこに導くかを知らずに、主を信頼して、夫婦で主の導かれる生き方へと出て行ったのです。主が一人一人をどう導かれるか、教会がどこに行くのか、分かりません。不妊や旅立ちであれ、障害や病気、失業や鬱、いろんな問題が付き物です。でもどんな問題でも、祟りや裁きとか、「もうお終いだ、お先真っ暗だ」と思わず、ここから主の業が始まる、これが主からの新しい旅になると信じられるとは、なんという幸いでしょう。また、キリストを信じたら、そうしたハンディから免れるわけではなく、むしろそうした痛みを抱える当事者の一人となって、そこで何かしらの主の祝福を担うよう導かれる事が多いのです。そして、どんな時も主の恵みを戴きながら、将来にも思い煩うより期待をして歩む存在そのものが、祝福の光となるのです。

「主よ、将来を悲観し、失望しそうになっても、あなたがアブラハムを選んで、命の業を始め、世界に祝福をもたらそうとされたご計画を続けてください。自分の状況に将来を悲観し、人を見下してしまう私たちを笑って、予想を超えた祝福を現してください。そしてどうぞ私たちもあなたの祝福を運ぶ「土の器」として用いて、あなたに栄光を帰する人生とならせてください」



[1] ジョン・ストット。引用元は、ヴォーン・ロバーツ『神の大いなる物語』(山崎ランサム和彦訳、いのちのことば社、2016年)79頁。

[2] それは聖書の中にも沢山見られる目線です。サラだけでなく、ルツ、ハンナ、エリサベツなど多数見受けられます。しかし、それが「例外」とされず、むしろそうした女性を通して神の歴史が綴られていく、という視点は聖書の特徴です。

[3] 後には女奴隷のハガルを代理母にしてしまいますし(16章)、サライの死後は再婚して、6人も子どもを儲けるのです。(創世記25章1~6節)

[4] ルカの福音書13章10~17節。「16この人はアブラハムの娘です。それを十八年もの間サタンが縛っていたのです。安息日に、この束縛を解いてやるべきではありませんか。」

[5] ルカ19章9節。「イエスは彼に言われた。「今日、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。」

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創世記11章1~7節「バベルの塔 聖書の全体像11」

2019-03-10 17:08:10 | 聖書の物語の全体像

2019/3/10 創世記11章1~7節「バベルの塔 聖書の全体像11」

 「バベルの塔」は、ノアの洪水の後の出来事として登場します。ノアの子孫が増えていった時、レンガを造るような技術を身につけて、天にまで届く塔を建てて、名を上げよう。地の前面に散らされないようにしよう、と考え始めました。それをご覧になった神は、彼らの言葉を混乱させて、話し言葉が通じないようにしました。それで、人はその町を建てるのも止めて、地の全面に散っていきました。1節が

「全地は一つの話し言葉、一つの共通のことばであった」

と始まるのが、9節は

「主が全地の話しことばを混乱させ、そこから主が人々を地の全面に散らされた」

と結ばれる、そういう括り・大枠で語られている話です。

 しかし、この話の結論はどう読めば良いのでしょう。若い頃、この話を紙芝居に描いた事がありますが、最後のシーンは壊れた塔、廃墟のゴーストタウンでした。殺伐としたお話しにしてしまいました。しかし神が人を罰して散り散りにさせたのではなく、主はノアに

九1生めよ、増えよ、地に満ちよ」

と、地に増え広がることを命じていました。神が造られた地を愛し、喜び、育てる管理者としての

「地に満ちよ」

です。一つ所に留まって小さく生きるのではなく、神が造られた全地を見て、驚くため、造り主なる神の御名を崇めるため、逆説的に言えば、自分の小ささを知るために、神の造られた世界に出て行くよう、神は派遣されたのです。

 ところが、ここで人は

「全地に散らされるといけないから」

と塔を建て始めました。神の御名を崇めるよりも

「自分たちのため、自分たちの名をあげるため、頂が天に届く塔を建てよう」

と考え始めました。頂が天に届く塔、という目論見(もくろみ)には、明らかに宗教性が臭いますね。「自分たちは天の神々に並ぶ力がある。神に散らされてたまるもんか」と思い上がっています。現在でも超高層ビルを建てる人間の上昇志向は続いています。それでも、天に届くどころか、地球のシミにも見えません。ここでも5節で

「主は、人が建てた町と塔を見るために降りて来られた」

とあります。塔が完成していたにしろ建設途中にしろ、主がわざわざ降りて来られてやっと見えたほど、ちっぽけな背伸びでしかない。ですから6節の「見よ。彼らは一つの民で、みな同じ話しことばを持っている。このようなことをし始めたのなら、今や、彼らがしようと企てることで、不可能なことは何もない。」は神の焦りや危機感ではなく皮肉でしょう。天に届く塔は今でも不可能です。ただ、彼らが企てたのは、物理的に天に届く塔を建築する以上に、名を上げたい、人々を集めたい欲望です。そして、巨大な建造物を建てるには、今も昔も、労働者の過酷な重労働が必要です。一部の人間の欲望のために、多くの人が酷使されていく。後のエジプトやソロモンの神殿建設と同様です[1]。バベルの塔は、権力とか中央集権、帝国主義、官僚主義の象徴です。そういう企ては、命令系統があって可能になります。主は、その言葉を混乱させて、命令系統を混乱させました。だからその建設はもう続かず、人は散り散りになりました。でもそれは、酷使されていた労働者達にとってはむしろ解放だったのではありませんか。言葉で命じられるだけの生活からの解放だったはずです。ただの労働力やロボットのように見なされる生活から、地に散らされて、多くの人がほっと息を吐いたことでしょう。

 言葉が通じないのは大変です。それでも言葉が通じない相手を精一杯理解しようとしたり、相手を大事に思っている気持ちを伝えたりしたければ、それは出来ます。言葉が伝わらないからこそ生まれる笑いや温かさや気持ちはあります。しかし、相手を大切に思うよりも、自分がしたいこと、自分の欲望の企てが大切で、人はそのための手段としか見ないなら、言葉は用件を伝えるだけです。コミュニケーションの手段ではなくて、命令系統やコンピュータと変わりません。主が言葉を混乱させて、塔を建てることが出来なくされたのは、神の罰というよりも、人の暴力からの解放でした。言葉が通じないことは厄介で、困ることがあります。もどかしい思いもします。でも、どの言葉も訳しきれない、微妙なニュアンスを持っているのですね。日本語の持っている美しさや素晴らしさもあります。それを全部無視して、困らないようにどれか一つの言葉にしようとしたら、猛反対が起きるでしょう。人が命令系統だけで繋がる存在ではないから、神は一つの言葉を終わらせて、人間らしい混乱を始めてくださったのです。

 洪水後の世界は神が仰った通り、人の心には幼いときから悪があって、自分のために塔を建てる横暴な世界になっていきました。言葉が通じるのは本来すばらしい事なのに、その言葉を用いて人を扱(こ)き使(つか)い、自分の名を上げようとして、神の名はひと言も口にしない。そういう人々の企てによって、巨大な塔が建て上がっていく、恐ろしい全体主義が生まれました。主は人々を地の全面に散らされました。それは「さばき」ではなく、解放でした。全地に散らして、それぞれの場所で生活し、文化を営む歴史が始まりました。でもそれからどうなるのでしょう。神は何を始めようとするのでしょうか。それが次の12章から、神がアブラハム(この時点ではアブラム)を選んで始めようとなさるご計画です。詳しくは次回から見ていきますが、

十二2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」

 神は裁いて散らしたのではないのです。解放して、地の各地に住まわせ、そこにアブラハムの子孫が祝福をもって追いかけるようにと考えておいでだったのです。やがてはイエス・キリストが地に降りて来られました。人はこの時も誰が一番偉いかを話題にし、黄金の神殿を誇っていましたが、イエスは人を祝福するため、争いや背伸びから解放して、互いに愛し合わせるために、天から降りて最も低くなってくださったのです。そして聖霊が注がれたときも、弟子たちは集まっている人々の言葉で語りました[2]。終わりに訪れる永遠の御国も、

「すべての民族、言語」

[3]の人々が集められるのですね。天国語という共通言語で話すより、私たちも日本語で阿波弁や馴染みの言葉そのままで話せる。その知らせが、私たちにも届けられて、日本語で福音を聞くことが出来ます。そして、世界の色々な言葉を話す人たちとの出会いも教会では与えられていますね。言葉が通じなくても、心が通じるのです。パウロも言います。

使徒の働き十七26神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。27それは神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。[4]

 神が人を地に散らしたのは、そこでの生活で神を求めさせるため。一人一人に神は近くいてくださり、神を見出す。そういう神のご計画の鍵となる家系としてアブラハムが選ばれ、聖書の歴史が続いていくのです。慣れた言葉でさえ、本当に言いたいことを伝えるのは難しいものです。そして、夫婦や親子や世代間でも話が通じない思いをしています。「話が通じない」と嘆きたくなります。それでも言葉が通じなくても祝福することは出来ます。自分の用件を分からせようとするより、相手の言葉の奥にあるものを理解しようとした方がずっと良いのです。分かってくれないと腹を立てるより、相手の言葉の奥にある呻きを汲み取るのが神なのです。

 沢山の言葉がある世界は大変です。でも一つの言葉しか無い世界であれば、もっと恐ろしい全体主義、画一的な恐怖政治になっていた。今この社会で、言葉や思いが通じず、思いどおりにならない中だからこそ、人を大事にする生き方をしたい。この混乱の中から、主が何か本当に人間らしく生きられる在り方を始めようとしていることを信じたい。そのためにも、私たちが自分の名声や夢のためではなく、主の御名を崇めて、祈りつつ語って行きましょう。

「平和の主よ。あなたの恵みによって私たちの心を結び合わせてください。そして、あなたの祝福のために、私たちをここに留めず、この世界に送り出してください。言葉を、命令や用件のためではなく、人を生かすために用いていけるように、あなたの愛を教えてください。あらゆる言葉であなたの御名が崇められますように。人を道具にしたり、神を忘れたりしたら、強いてでもその企てを挫いて、人が生かされるための道具として、私たちを整え用いてください」



[1] Ⅰ列王記12章。

[2] 使徒の働き2章。

[3] ヨハネの黙示録7章9節「その後、私は見た。すると見よ。すべての国民、部族、民族、言語から、だれも数えきれないほどの大勢の群衆が御座の前と子羊の前に立ち、白い衣を身にまとい、手になつめ椰子の枝を持っていた。」

[4] 使徒の働き十七26「神は、一人の人からあらゆる民を造り出して、地の全面に住まわせ、それぞれに決められた時代と、住まいの境をお定めになりました。27それは神を求めさせるためです。もし人が手探りで求めることがあれば、神を見出すこともあるでしょう。確かに、神は私たち一人ひとりから遠く離れてはおられません。28『私たちは神の中に生き、動き、存在している』のです。あなたがたのうちのある詩人たちも、『私たちもまた、その子孫である』と言ったとおりです。」

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