聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

士師記2章11-19節「ざんねんヒーロー列伝 士師記」

2018-07-23 17:58:01 | 一書説教

2018/7/22 士師記2章11-19節「ざんねんヒーロー列伝 士師記」

 今月の一書説教は聖書同盟の通読カレンダーに従って「士師記」です。ちょうど夕方からの夏期学校で「聖書はしくじり大図鑑」とお話しをします。子どもの本やテレビ番組でも「しくじり」「ざんねん」という切り口が多いことを聖書の切り口にもしてみようと思いましたが、士師記はまさに「ざんねんなヒーロー」たちのいた時代を取り上げている書です。

1.士師記の全体像

 週報にも書いたように、士師記は大きく、三つの部分に分けられます。一章二章が導入部、三~一六章が「さばきつかさ」十二人のエピソード[1]。名前だけ登場する人もいますので、詳しい活躍が分かるのは7人で半分ぐらい。しかし、理想的なヒーローは殆どいません。二番目の左利きのエフデがましなほうで、後は何かしら大失態を演じてしまいます。四章のバラクは、優柔不断で、結局ヤエルという女性が手柄を立ててしまいます。

 六章から八章は有名なギデオンですが、彼も最初は臆病で煮え切らない人でした。最後には大勝利を収めるもののその後がいけません。彼は偶像を作って人々に偶像崇拝の誘惑を与えてしまい、その上、大勢の妻を娶ります。彼が死ぬとその子の一人が他の兄弟大勢を皆殺しにして暴君になる[2]

 その後のエフタは、無謀な誓いをして娘を失う過ちを犯して、最後は自暴自棄になってしまいます。

 最後の怪力サムソンは一三章から四章かけて詳しく書かれていますが、怪力で活躍した合間に見せるのは何とも鼻持ちならず、身勝手で、いい加減で、依存症的な未熟さです。最後は美女の泣き落としで秘密をばらして怪力を失って、捕まってしまう。こんなさばきつかさばかりです。

 そして、三つ目の部分、一七章以下は、もうさばきつかさが登場さえせず、二つのとんでもない出来事が記されています。最後の段落の十七6には印象的な言葉があります。

そのころ、イスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

 これがそのまま士師記の最後、二一25で繰り返されます[3]。この言葉で士師記は結ばれるのです。王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた時代。それが、ヨシュア記で約束の地に入った後のイスラエル民族の見せた歩みでした。士師記の「さばきつかさ」は理想的なスーパーヒーローではありません。残念な人たちばかりです。「神が選ばれたのだからきっと素晴らしい英雄ばかりだろう」と期待したら見事に裏切られます。むしろ人間の弱さ、私たちの陥りやすい弱さ、その結果の悲惨さを、十分に現してくれる人たちなのです。

2.士師記のパターン

 問題なのはその士師(さばきつかさ)たちだけではありません。それは民全体の不信仰や問題を映し出す鏡に他なりません。今日読みました、二章の真ん中はこの後に繰り返されていくパターンを最初にまとめて書いている部分です。イスラエルの民は主の目に悪であることを行い、他の神々に仕える。それは主の怒りに触れて、主は敵がイスラエルを支配するのをお許しになり、民は苦しい思いをします。そうして民が呻いて主に助けを求めると、主は士師を起こしてくださって、敵の手から救ってくださる。民の生活は改善します。ところが、その士師が死ぬと、民はまた主から離れて、前よりももっとひどく道を踏み外し、他の神々に仕えて、それを拝む。主は怒られて、民を放っておかれる。苦しくなった民はまた主を求める。主は民を憐れんで、士師を送って下さる。助かった民はまた主に背いて行く…。

 士師記の中ではこのパターンが基本的に繰り返されるのです。反逆、自業自得、悔い改め、士師の登場、回復、また反逆…です。そういう民の軽さ、甘さ、性懲りもなさが士師記のループなのです。

 この繰り返しから学べることはいくつもあります。まず私たちは人間の愚かさをまざまざと見て謙虚にならざるを得ません。折角入った約束の地でイスラエルの民は、本当に情けない歩みをしました。神から祝福を豊かに戴いても、心に罪や自己中心、甘え、思い上がりがあって、台無しにしてしまうのです。単純な話、「クリスチャンになったから大丈夫」ではないのです。

 でもそういう愚かな人間を、神は決して諦めて捨てたりはしません。イスラエルの民が繰り返して背いても、主は呆れてしまわずに、士師を遣わして下さるのです。本当に何度でも、主は救い出してくださいます。限りなく憐れみ深いお方、何度でも助けてくださるお方です。

 ではそのような繰り返しだけでいいかと言えば、そんなことは士師記は言っていません。「失敗しても悔い改めたら神が助けてくださる」と思ったら大間違いです。もしこのパターンに乗っかって「苦しかったら悔い改めたらいいや」と横柄に構えて甘えたら、それは神の御心とは違います。神が救いを送って下さるのは、神が人間を憐れんでくださるから、赦して再び立ち上がらせて下さるためです。決して、このパターンが今も約束された「法則」なのではありません。士師記の中でもこのパターンは破られますし、神は真剣に人間に迫られるのです[4]。士師記は、神を捨てた民の殺伐とした、やりきれない現実で結ばれます。この「悔い改め・回復」というパターンでは人は悪くなるだけだ、ということを明示する書なのです。

3.本当の「さばきつかさ」であるイエス

 士師記はハッピーエンドでは終わりませんし、ルツ記、サムエル記と続いて、やがてキリストがおいでになる新約聖書に至ります。ですから士師記に答や慰めを無理に見出す必要はないのです[5]。やがて神がキリストを完全な王、全き士師として遣わされます。士師記は、

そのころイスラエルには王がなく、それぞれが自分の目に良いと見えることを行っていた。

と強調していました。問題は王がいないことだと言われており、ただ「失敗しても悔い改めれば神が助けて下さる」というループでは本当の問題解決にはならなかったのです。この後、イスラエルは王を持つようになりますが、サウルもダビデも

「自分の目に良いと見えることを行う」

王で、旧約はまだまだ坂道を転がり落ちてゆく。でもその末に神が本当の王を遣わしてくださいます。それがイエス・キリストです。

 イエスこそ本当の王であり最高の士師でした。そしてどの士師とも違う士師でした。軍事的で戦闘的な王ではなく、平和的で民族や敵味方を和解させる王でした。力で人の生活を守るのではなく、人の心の闇を照らし、癒やしてくださるお方です。上から統治して掌握する代わりに、イエスは最も低くなって人間とともにおられ、最後には十字架に架けられ、嘲られて殺されました。ご自分の武勇伝を求めるより、私たち人間の一人一人にかけがえのない物語を与えて、その人生をご自分がともに歩む美しい物語に変えてくださいます。イエスという王が来られることで本当の意味で士師記は終わるのです。

 そのような大きな流れの中で読み直すと、士師記は本当に私たちの書だと思えます。坂道をゆっくり転がり落ちる士師記にも、随所で神が働いておられます。ギデオンもエフタもサムソンも、折角の士師の立場を生かし切れない残念な士師です。英雄になろうと背伸びして失敗してしまう。その士師記を読むことで私たちは、もう背伸びを止めよう、失敗のない生き方など目指さなくて良い、自分の限界を見据えてあるがままで生きようと思えます。

 私たちは間違う者です。限界を持つ不完全な存在で互いを必要として助け合い、互いの違いを理解し合い、ともに生きていく。それが主イエスが示された人のあり方です。それを忘れて背伸びをしたり突っ走ったりして失敗をし、時にはひどく悲惨な結果を引き起こしてしまう。そういうしくじりだらけなのが聖書の民であり、教会の歴史です。主は失敗してしまう士師や私たちを愛されて選ばれ、民の失敗をも益に変えてくださいます。取り返しのつかない間違いからさえ、神は新しいことを始めてくださいます[6]。それは私たちが失敗しないようになるためではありません。主イエスの御支配にとって大事なのは、一人一人が間違いなく生きるか、成功するかどうかではなく、主を信頼し、自分に正直になり、互いに愛し合い、赦し合い、助け合うことです。

「私たちの裁き司である主よ。士師記を有難うございます。あなたが今も私たちの失敗を知り、世界の痛みとともに味わい、歴史を導かれている事を励まされて感謝します。主イエスこそ私たちの王です。どうぞ偽りや傲慢を捨て、失敗からも学ばせてください。恵みが世界を覆い、破綻が癒やされ、全ての失敗さえも手がかりとされる主の豊かな御支配を現してください」



[1] 「士師」とは広辞苑ではまず「中国古代の、刑をつかさどった官」と出て来る、官僚を充てた言葉です。新改訳では「さばきつかさ」としました。

[2] 9章。

[3] 19章1節も「イスラエルに王がいなかった時代のこと」と始まります。「王がいない」は、士師記の中心テーマです。後述します。

[4] 6章7-10節、また、10章全体。

[5] 士師記に希望が見えるのは、一つには士師記が終わった後のルツ記においてです。男達が好き放題に生きて滅茶滅茶にしている時代に、辺境のモアブやベツレヘムでルツやナオミ、女性達が何をしていたか、そこに神の慰めに満ちた御業が進んでいた、という所で、殺伐とした士師記も希望に移れます。

[6] また、もっと無名の女性や周辺での出来事にも主が目を留めてくださっていたことが分かります。特に、女性達が男性よりも強くて、男性達は目を覚まさせられます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨシュア記1章1-9節「雄々しく強く ヨシュア記」

2018-06-24 20:37:43 | 一書説教

2018/6/24 ヨシュア記1章1-9節「雄々しく強く ヨシュア記」

 今月の一書説教は「ヨシュア記」です。旧約聖書で六番目の書。申命記までの五冊は「モーセ五書」と呼ばれますが、モーセの生涯が終わり、その後を引き継いだヨシュアが約束の地に入って行くのです。モーセが果たせなかった役割を完成したのがヨシュア。名前の意味は「主は救い」、ギリシャ語の発音だとイエス。救いを完成して下さったイエスを指し示す人物です。

1.「ざんねん」なヨシュア記

 イスラエルの民が四〇年荒野を放浪してきた後、遂にヨルダン川を渡って、カナンの地に入って行き、そこに住むようになっていく、というのがヨシュア記の大まかな話です。特に最初の六章までには、エリコの街にスパイが侵入したり、ヨルダン川を渡るときに川の水が奇蹟的に堰き止められたり、エリコの街を七日間掛けて回ったり、というドラマが描かれます。後半はむしろ地味で、土地を分けていく記述が退屈に続いていきます[1]。そして、最後は晩年のヨシュアの演説で、ヨシュアの死後も主の民として歩むことを改めて誓約するのです。

 ヨシュア記を勇敢な戦記、約束の地を占領していく征服記と読むことも出来ます。

「強くあれ、雄々しくあれ」

という言葉は何度も繰り返され、勇敢な男たちの歴史が書かれていると読みたくなるでしょう。それとは反対に、カナンの地を侵略して、先住民を町ごと皆殺しにする記述に強い嫌悪感を持つ人もいます。平和や友好より、容赦ない戦い、征服、虐殺が許されるのでしょうか。それを神が「聖絶」と呼んで命じた事を、どう理解すれば良いのでしょうか。

 いくつかの解決策があります。カナンの先住民族は本当にひどい残酷な民族で、神が長年忍耐した末に裁かれた、という一面もあります[2]
 またそうした歴史的な問題を棚上げして、信仰的なメッセージだけを聞き取る。これも一つの読み方です。
 もう一つ、時代感覚が今とは全然違う、という価値観の違いを踏まえることも必要です。今から三五〇〇年も前です。百年前でさえ日本は戦争をしていました。今も世界のあちこちに、戦いでの抵抗、実力行使は権利としてなされています。まして三千五百年前、民族が違えば戦いますし、血も涙もない扱いは普通。そういう時代から何千年、戦争の歴史を重ね、世界と繋がった経験値を持つ私たちの「国際平和」という考えを押しつけるのは、全く筋違いかもしれません[3]

 これとともにヨシュア記そのものを読んでも、私はヨシュア記の意外なメッセージに気づくのです。ヨシュア記が勝利で進む間にも見えてくる民の問題があります。確かにカナンの住民の罪も非難されています。しかし、そこに入って戦っている内に、イスラエルの民も神から離れて、欲をかいたり怠け出したりする。実に残念な現実が浮き彫りになります。そして、ヨシュア記の後、将来この地でイスラエル人も人を抑圧し、貧富の差別や暴力に染まって、やがては追い出される最後に突き進んでいく歴史の残念さを予感させて終わっているのです[4]

2.聖書全体の流れの中で

 ヨシュア記だけを切り取って教訓にしたり戦争を正当化すると、聖書全体の流れを無視して、とても偏ってしまいます[5]。むしろ民は約束の地に入って、他民族を一掃した後、その轍を踏んでいく。

 私たちもよく「あの人たちがいなくなれば問題は解決するのに、状況が変われば幸せになれるのに、ここで勝てば万事上手くいくのに」と思いがちです。問題は状況や相手のせいではなく、自分の中にある場合が多いものです。勿論、神は憐れみ深い方ですから、私たちのその願いに答えもなさり、私たちが幸せだと思い込んでいる基準にもある程度は付き合ってくださいます。優勝とか高級品とか人も羨む立場を与えて下さることも大いにあります。イスラエルの民も約束の地を勝ち取りました。その途上で彼らの問題が露わになっていくのです。

 ヨシュア記は単純な「イスラエルは正義でカナン人は悪」という図式を崩していきます[6]。その一つがエリコの町の遊女ラハブの存在です。エリコの町を七度回って城壁が崩れたドラマは有名です。けれどもその町を最初に偵察した時、助けてくれた遊女ラハブは生き残ります。お客をとって体を売っていた女ラハブが、その家族を救い、イスラエル民族に迎えられたのです。そしてユダ民族のサルマという男性と結婚します。息子ボアズが生まれ、モアブ人ルツと結婚し、そのひ孫がダビデ王。そして、ダビデ王の末裔が、もう一人のヨシュア、イエスです[7]。新約聖書の一頁に書かれたイエスの系図には五節に

「ラハブによって」

と書かれています。カナン人の遊女の名前が、聖書の肝心な歴史の中にしっかりと刻まれているのです。

 民族と民族が互いを人とも思わずに、殺すか殺されるか、というサバイバルだった時代です。結局その占領計画は成功したようでいてイスラエルの民も馬脚を現していく一方、敵民族の遊女ラハブを通して、神はダビデ王家に続く歴史を紡ぎ出されるという思いがけない出来事にもなったのです。そして、その末に来られたもう一人のヨシュアは武力ではなく、徹底的に平和な神の国をもたらされました。遊女にも罪人にも、病人にも異邦人にも友となりました。武力よりも強力な、真実の愛を武器として人間に向かわれました。それが、ユダヤ民族も異邦人も、過去の蟠りを越えて一つ神の家族とされる教会の始まりでした。ヨシュア記を盾に戦争を正当化したり、神が罪を怒って罰して滅ぼす恐ろしい方だと脅したりしてはなりません。武力では勝利できない、神の民も心から変わるしかない、とヨシュア記は語っているのです[8]

3.強く雄々しいヨシュア

 三千五百年前のヨシュア記を非難できない私たちです。ラハブを受け入れられますか。性的マイノリティ、障害者への偏見があり、パワハラや虐待の被害がようやく声を挙げています。数十年前「エイズ」が知られた頃、教会は同性愛への裁きだと言いました。心が病むのは信仰がないからだとか、自殺は赦されない罪だという暴言がありました。全く悪気なく自分の「常識」を押しつけて誰かの心を殺してしまう事もあります[9]。そうした偏見を、どうして主が止めてくださらなかったのか、私には説明できません。ただ、そういう私たちに主がともにいてくださいます。御自身が非難されようとも、主は失敗だらけの人間とともにいてくださいます。ヨシュア記は自分の過去の失敗を知り、謙る者の書です。そして本当のヨシュア、イエスが小さき者とともにおられ、ユダヤ人と異邦人とを和解させてくださった御業に、私たちともともにおられて、武力や争いに寄らない和解や新しい関係を信頼させくださると期待するのです。

 信頼。最後に

「強くあれ、雄々しくあれ」

というヨシュア記で繰り返される言葉を「信頼」と結びつけましょう。今も戦争には「強くあれ、恐れるな」と勇敢さが求められます。しかし、それは勝つための「勇敢さ」です。「臆病者は滅びる」と脅されて「怖くない」と言うのです。「ウィークネス・フォビア(弱さへの嫌悪)」という言葉を知りました[10]。弱いのはダメだ、「怖いんだろ」と思われたくないというひどい圧力です。ヨシュア記の

「強くあれ、雄々しくあれ」

はそういう脅しめいた言葉なのでしょうか。いいえ、イエスがともにいてくださるから、恐れなくてよいのです。信頼に基づく「恐れるな」です。人間の弱さや失敗、多様性や一人一人のデリケートさを無視して、恐れないと意気込むのではありません。自分の弱さや過去のしがらみ、将来どうなっていくか分からない不安、予測できない未来、日常を引っ繰り返される恐れ。イエスはそうした人間の脆さ、間違いやすさを十分に汲み取り、深く理解してともにいてくださいます。そのイエスへの信頼ゆえに、私たちは恐れないで歩めます。暴力的な思いや言葉の武器を取り上げていただくのです。「恐れたらダメだぞ」と脅さず「イエスがおられることを信じよう」と言います。「障害は罪のせいだ」でなく「神の栄光が現れるためだ」と告げるのです。イエスを信頼して、急ぐことなく、立ち止まりつつ静かに祈りつつ、ゆっくり一歩ずつ希望をもって進むのです。私たちは弱くても、イエスは強く雄々しい方だからです。

「主よ。ヨシュア記の時代との隔たりに戸惑いつつ、しかし今の自分にもどれほどの間違いがあるかを顧みます。どんな人も、そして自分自身に対しても、断罪ではなく信頼を贈らせてください。恐れではなく感謝から喜んで行動できますように。今ここに置かれた私たちの歩みが、主の長いご計画の中で、赦しと悔い改め、癒やしと回復をともにする旅路となりますように」



[1] もちろん、現代の読者にとって「退屈」であるだけで、聖書の中では「土地」が与えられることには、アブラハムの契約以来の悲願であり、旧約を貫く大事な概念です。イスラエル人は今も、イスラエルの地が神からの相続地だとの考えから行動しています。イエスが「わたしはあなたがたのために場所を用意しに行く」(ヨハネ十四3-4)と仰った事のリアリティもここに通じます。念のため。

[2] 創世記十五16、レビ記十八24-30、二〇23、など。

[3] そもそも、当時に行けば、食生活、衛生概念、コミュニケーション、すべてが異質。私たちにはその匂いに一分たりとも居たたまれないはず。逆に、彼らも現代に来たら、このプレッシャーや汚れた空気に居たたまれないでしょう。

[4] イスラエルの歴史にとっては、ヨシュア記の勝利よりも、その後の堕落(士師記)と、バビロン捕囚という自らが招いた裁きの方がリアルであり、確かな教訓。

[5] 大きな聖書の文脈では、神の民の選びは、地の全ての民族の祝福が目的です。創世記十二3、出エジプト十四4-6など。

[6] ヨシュア記の戦いの合間には意外な出来事が出て来ます。その一つが、九章に出て来るギブオンの住民です。彼らは、他の町々がイスラエルを潰しにかかろうとしている時に、これは勝てないと見切りをつけて、和を講じようとするのですね。それも拒絶されないようにと、遠くの町から来たと騙して、講和条約を結びます。イスラエルはその後で騙されたことに気づきます。不平も出ますが、しかし、この後が肝心です。自分たちは主に賭けて彼らと和を講じたのだから、いくら騙されたと言ってもその契約を反故にしたら、主の怒りが自分たちに下る。そう考えて、ギブオンの人々を生かすのです。更に、その後、ギブオンが攻撃された時には助けに駆けつけますし、主もそれを後にも先にもない奇蹟で応援してくださるのです。これは、単純な民族主義の物差しには合わない記述です。そして、そこにこそ、ヨシュア記のメッセージがあります。また、七章の「アカン」の背信と裁きの記事も、ホセア書二15で「アコルの谷」(アカンが石打ちにされた谷)が「望みの門となる」という、信じられないような希望へと続くのです!

[7] ルツ記四18-22、マタイ伝一5を参照。

[8] 過失で殺人を犯した犯人が匿われる「逃れの街」も作ります(20章で六カ所)。つまり、将来の過ちも想定されています。24章は、今後、神を神とし続ける歩みが確認される。将来への方向性の確認であって、野放図な民族主義や地権者の保証ではない。

[9] 一例を挙げると、この結婚率の下がった時代に「結婚して子どもを産むのが女の幸せ」「離婚は傷もの」とか、発達障害に「親の育て方が悪い」とか、レイプ被害者に「あなたにもスキがあったのでは」とか…きりがありません。

[10] https://wan.or.jp/article/show/4692。「恐れてはならない。戦いてはならない」という「男らしさ」が一人歩きをして、問題や負の側面を隠して、「美談」だけを奨励する風潮を助長してきたのではないか。ヨシュア記を見ると、そのような面だけではなく、民の傲慢、慢心が十分に警戒されているのに。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ネヘミヤ記1章「現実的な人 ネヘミヤ記」

2018-05-20 18:22:57 | 一書説教

2018/5/20 ネヘミヤ記1章「現実的な人 ネヘミヤ記」

1.どん底からの再建

 ネヘミヤ記は旧約聖書の「歴史書」の最終文書の一つです。イスラエルの民がバビロニア帝国に滅ぼされて70年経って再建が始まりました[1]。この前のエズラ記ではエルサレムに戻ってきたユダヤの民が、神殿を再建したことが記されていました。それは感動的な、重大な再建でした。ユダヤの民が、神への礼拝を蔑ろにしてきた歩みを悔い改めて、まず祭壇を築き直し、小さくとも神殿を再建した事は大きな一歩でした。紀元前515年のことです。

 しかし、神殿が完成しただけでは生活は成り立ちません。今日のネヘミヤ記は神殿再建から60年ほど後のことですが、遠くペルシャの首都スサで王に仕える要職にあったネヘミヤは、ユダから帰って来た友人たちからエルサレムが散々な状況であることを知らされるのですね。

 3彼らは私に答えた。「あの州で捕囚を生き残った者たちは、大きな困難と恥辱の中にあります。そのうえ、エルサレムの城壁は崩され、その門は火で焼き払われたままです。」

 城壁は崩され門は焼き払われたまま、生活もままならない。それでも神殿はあったのですが、だからといって幸せで感謝していた…わけがなく、民の生活は貧しく、不安定で、惨めでした。

このことばを聞いたとき、私は座り込んで泣き、数日の間嘆き悲しみ、断食して天の神の前に祈った。「ああ、天の神、主よ。大いなる恐るべき神よ。主を愛し、主の命令を守る者に対して、契約を守り、恵みを下さる方よ。

 以下、ネヘミヤはもう一度自分たちの歴史的な罪を悔い改めて、憐れみを求めて祈りました。主が約束された契約の言葉を8-9節で引き合いに出して、主の回復に縋ります[2]。こうして二章以下、ネヘミヤは

「王の献酌官」

という高位を捨てて、ユダヤの総督として任命してもらいます。スサからエルサレムに行き、城壁の再建工事を呼びかけ、様々な反対や問題にあいながら、優れたリーダーシップを発揮して、ユダヤの民の復興を助けます。城壁の再建だけでなく、民の中の貧富の格差が広がって、貧しい農民が借金で苦しんで、子どもを奴隷に売ったり、神殿の下級祭司が給料の遅配で逃げていたり、様々な問題が出て来ます。モグラたたきのようですがネヘミヤはその一つ一つに取り組み続けて、ユダヤの復興のリーダーとなったのです。

2.対照的なネヘミヤとエズラ

 今申し上げたように、ネヘミヤはペルシャ王の援助を取り付けて、ユダヤの総督としてエルサレムに行きました。使える手段は出来るだけ利用して、民の再建に取り組みました。これとは対照的なのが、ネヘミヤ記の前のエズラ記に出て来るエズラです。エズラはネヘミヤ記の八章にも登場する、同時代の人です。エズラは祭司の家系で律法(聖書)の専門家で、旧約の文書の幾つかをまとめたほどの人です。彼もペルシャの王からユダヤに派遣されたのですが、それは不思議な神の御配剤でした[3]。ネヘミヤは主に祈りつつ自分から王にユダヤへの派遣を願いました。また、エルサレムまでの道中の援護を求めることも恥じて、断食して祈って旅をしましたが[4]、ネヘミヤは王の援助を求め、道中の無事のために王の保証付きだという手紙を書いてくれるよう求めました。実に対照的な二人です。そして、エズラは生粋の祭司の家系でしたが、ネヘミヤは王の杯にぶどう酒を注ぐ献酌官です。そういう高位の役人は去勢された宦官だったと言われます。そして聖書の律法によれば、去勢は禁じられていました。この点でも、ネヘミヤは純血種のエズラとは違う、異例で規格外のリーダーです。同時代に実に対照的な二人のリーダーが、果たして仲良く出来たんだろうか、と思うくらいです。しかし裏を返せば、この両者が居る所にこそ、神のなさる御業らしさがあるのでしょう。エズラの真っ直ぐさも大事だし、現実主義のネヘミヤも大切です。人に頼らず神を信じる、だけではないし、神に祈りつつ堂々と助けを求めるネヘミヤも聖書には出て来るのです。

 抑も、このネヘミヤ記の柱となる城壁の再建がそれを語っています。神殿だけではなく、城壁も必要でした。城壁の再建は52日という驚異的な早さで完成しますが、そこには妨害工作が入って、武器を片手に工事をしたともあります[5]。神殿や信仰さえ守ればいいと、安全や生活が蔑ろにされるなら、結局は信仰も礼拝も立ちゆきません。

 私たちの礼拝も、礼拝だけではなく、会堂のメンテナンスも大事です。スロープやバリアフリーも考えるのが今の小会の課題です。先日、私たちは避難訓練をしましたし、私は「防火管理者研修」を受講して来ました。そうした全生活の整備を現実的にしていくことを、ネヘミヤ書はありありと描いています。

3.ネヘミヤだけでなく

 聖書を読む時、つい登場人物を理想化したり模範を読んだりしそうになります。ネヘミヤは非常に苦労して、問題が山積みの状況で必死に民を導いたのですが、そこで悩んだり怒ったりする人間臭い人です。彼が自己主張したり[6]

「私を覚えてください」

と何度も祈ったりする姿には引いてしまう人もいるでしょう。それもまた本当に人間らしい姿です。実際、協力しない人もいました。協力者に見せかけて、裏では貧しい人たちから搾取していた貴族たちもいて、激高するような場面もありました。失望させられる事が多くありました。でも、その人たちに横やりを入れられながらも、多くの民が立ち上がりました。同胞たちがともに働いて、城壁を完成させました。たのです。ネヘミヤという「信仰の偉人」を求めるより、自分と同じように欠けも癖もあるネヘミヤを通して、ユダヤの民が立ち上がり、不完全ながらも力を合わせて城壁を再建し、奮い立っていく姿を見るのです。借金の方に子どもを売らなければ生きていけないとか、政治的な結託とか、次々に起こってくる問題に、何とか取り組んで、本当に神を礼拝する民であろう、金持ちや賢い人間が私腹を肥やすような社会ではなく、貧しい者も子どもたちも安心して生きていける社会、本当に神を心から礼拝する社会として歩もうとする姿です。

 ネヘミヤが城壁を造った時も、敵は

「彼らが築き直している城壁など、狐が一匹上っただけで、その石垣を崩してしまうだろう」

と馬鹿にしたそうです[7]。ユダヤ人たちはそんな柔な城壁ではなく、しっかりした城壁を、敵がたじろぐような頑丈な城壁を完成させたのです。それがあったからこそ、礼拝の民として生きる事も安心して出来たのです。更に、民の中に貧富の差が持ち込まれたり、子どもたちが苦しめられたり、礼拝を形式的なものにする動きとも、取り組みました。引っ切りなしに問題が起きることは避けられませんが、そうしたものにも現実的に対応する全生活の支えの中で信仰生活を歩む事が出来るのです。連休に瀬戸大橋を見てきました。大きさに圧倒されてすっかり「橋マニア」になってしまいました。記念館で、橋の建設の裏にあった技術や工夫や歴史や、人の情熱などを見たのも圧巻でした。四国と本州を安全で頑丈に繫ぐために、本当に莫大なものが注ぎ込まれているのだなぁと感動しました。

 主イエスは私たちと神との間に、よく考えて造られた、頑丈で安全で、渡り甲斐のある橋を渡してくださいました。この橋は何かあれば崩れる頼りないものではなく、イエスの十字架と復活により、そして聖霊が私たちの心に働いて確かにされている道です。主は、礼拝を命じるだけでなく、全生活に光を当て、私たちを慰め、励ましてくださいます。目に入るあらゆるもの、家族の関係、経済的な心配も、主の御手の中に受け止め、祈って最善を尽くし、助け合っていくよう、聖霊によって支えてくださいます。聖霊を体験するとか感じるとかではなく、聖霊が働いて私たちは歩んでいるのです。そして神の子どもとしてゆっくり成長していくのです。ネヘミヤは問題に悩みつつ、祈りつつ取り組みました。そして随所で主の御手が助けて下さったと証ししています。私たちもそういう招きに与って、礼拝を中心としつつ、生活の全て、心配事や課題に取り組んでいきます。私たちの全ての営みを通して主を礼拝していくのです。[8]

「私たちの全生活の主なる神様。ネヘミヤ記を有難うございます。それぞれの心に今ある心配、悩み、崩れて再建が必要な、でももうあきらめて投げやりになっている事に、主よ、聖霊によって望みを与えて、立ち上がらせてください。私たちの全生活に及ぶあなたの恵みを戴きつつ、私たちもあなたの橋わたしの御業の一端を担い、主の豊かな栄光をともに頂かせてください」



[1] 主な年表は以下の通りです:

586年 エルサレム陥落

538年 第一次帰還

515年 神殿完成

458年 エズラ、エルサレムに到着

445年 ネヘミヤ、エルサレムに到着。52日後、城壁完成。

433年 ネヘミヤ、バビロンに戻る。

432年 ネヘミヤ、エルサレムに戻る

[2] ネヘミヤ記一8-9「どうか、あなたのしもべモーセにお命じになったことばを思い起こしてください。『あなたがたが信頼を裏切るなら、わたしはあなたがたを諸国の民の間に散らす。あなたがたがわたしに立ち返り、わたしの命令を守り行うなら、たとえ、あなたがたのうちの散らされた者が天の果てにいても、わたしは彼らをそこから集め、わたしの名を住まわせるためにわたしが選んだ場所に連れて来る。』」

[3] エズラ七章、特に27-28節。

[4] エズラ八21-23。

[5] 四章13節以下。

[6] ネヘミヤ記五章14節~19節では、彼が総督としての手当を受けず、一切私腹を肥やそうとしなかった自分の献身ぶりを訴えています。その他、最終章の一三章も参考に。

[7] 四章3節。

[8] 「新改訳2017」での大きな変更箇所としては、九章の悔い改めの祈りが詩文体で表記されていることです。これに加えて、九章10節の「主を喜ぶことは、あなたがたの力だからだ。」(従来の新改訳では「あなたがたの力を主が喜ばれるからである」でした)も嬉しい改訂です。この言葉をパラフレーズしたものとして、サリー・ロイドジョーンズ『ジーザス・バイブル・ストーリー』170頁以下では、ネヘミヤ記のメッセージが感動的に語られています。ぜひご一読ください。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨナ書四章「惜しまれる神 ヨナ書」

2018-04-29 16:56:38 | 一書説教

2018/4/29 ヨナ書四章「惜しまれる神 ヨナ書」

 教会図書に『さかなに食べられたヨナのおはなし』を入れて頂きました。今月の一書説教はヨナ書です。子どもにも分かりやすく大人にも鋭いメッセージをかいつまんで読みましょう[1]

1.ヨナ書のあらすじ

 ヨナ書の荒筋はこうです。紀元前八世紀頃イスラエルの国の預言者ヨナに主が言われました。

「大きな都ニネベに行って、彼らの悪について語りなさい」。

 しかしヨナはこの派遣を嫌って、東のニネベとは反対方向の西のタルシシュ行きの船に乗り込みます。神の戒めを拒絶して、逃亡したのです。ところが、主はその船に大嵐を与えて、船は難破しそうになります。船長や水夫たちは積み荷を投げ捨てたり必死に漕いだりしますがダメです。ヨナは自分のせいで暴風が起きているのだから自分を海に投げ込むように言って、渋々水夫たちはヨナを海に放り込みます。ここで大きな魚が出て来てヨナを呑み込み、嵐は静まる。これが一章です。

 二章に、魚の腹の中で祈ったヨナの祈りが記された後、三章でヨナは陸地に吐き出され、もう一度ニネベに派遣されます。今度はヨナも逃げずに従います。ヨナがニネベで

「あと四十日するとニネベは滅びる」

と言って回ると、ニネベの人々はその言葉を信じ、断食をして荒布をまとうのです。ニネベの王様まで王服を脱ぎ、国中に断食と懺悔を命じます。それを見て、神は天罰を思い直して、おやめになる。そういう出来事が三章にドラマチックに記されています。

 ところが、四章でそれを見たヨナがどう反応したでしょうか。ヨナは非常に不愉快になって、怒って主に抗議するのです。

「ああ、主よ。こうなると分かっていたから、私はタルシシュに逃げたのです」

と怒りをぶちまけるのです。ニネベを首都とするアッシリヤはイスラエルと敵対関係にあって、ヨナもその残虐ぶりに苦しんだ一人だったのでしょうか。家族を殺されたのかもしれません。彼がタルシシュに逃げたのはニネベに行くのが怖かったからでなく、自分が神の言葉を取り次げばひょっとしてニネベの人々が悔い改めたら、神は憐れみ深い神だから、裁きを思い直すかもしれない。それは嫌だ。彼らは滅ぼされるべきだ。あいつらに回心のチャンスを与えるなんてゴメンだ、それなら死んだ方がましだ。だから主の言葉に逆らってタルシシュへ向かったのです。自分を嵐の海に投げ込ませたのもヨナの勝手な意地でした。悔い改めではなく、自分を海に投げ込めばいいと言っただけ[2]。二章でも悔い改めの言葉はひと言もありません。三章の宣教も「滅ぼされてしまえ」という冷たい思いで語っていたのであって、そのヨナの怒り、心を閉ざした本心が四章で爆発するのです。

 このヨナと主のやり取りから、主の途方もない恵みを味わいましょう。ヨナはニネベの人々が滅んで当然だと抗議した時、

「あなたは当然のように怒るのか」

と主は短く言われます。勿論、怒りは大抵「当然」だと思って怒るのです。それを主は受け止めつつ、説得や議論で考えを改めさせようとはしないのです。

2.「あなたの怒りは正しいか」

 その後、ヨナは町の東で仮小屋を作り、そこから都で起こることを見てやろうと思います。ニネベの人々は裁きが下らないと分かったら、すぐまた悪さを始めるに違いない。そうしたら主も間違いを認めざるを得なくて、裁きを下されるだろう。そう思ったのでしょうか。

 しかし、この後の出来事は読んで戴いた通りです。主は一本の唐胡麻を備えて、ヨナの上に生えさせ、日陰を作られます。ヨナは喜びますが、翌日、神は一匹の虫を備えて、そのグリーンカーテンは枯れてしまう。太陽が昇って、主が東風まで送られるので、ヨナは弱り果てて死を願うのです。そこで主は、

「この唐胡麻のためにあなたは当然のように怒るのか」

と問われ、

10…「あなたは、自分で労さず、育てもせず、一夜で生えて一夜で滅びたこの唐胡麻を惜しんでいる。11ましてわたしは、この大きな都ニネベを惜しまないでいられるだろうか。そこには、右も左も分からない十二万人以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか。」

と仰る。

 「あなたがその唐胡麻さえ惜しむのなら、ましてわたしは

と仰る。こういう非常に回りくどい方法を採られる。そして、この主の言葉でヨナ書はプッツリと終わります。この言葉にヨナがどう応えたか、また、ニネベがこの後また悪に立ち帰った歴史などは抜きに、主の問いかけで終わります。ヨナ書は、私たちに主の問いかけを投げかける、強烈な余韻の書です。

 ヨナがニネベの人々への憐れみに怒ったのはヨナの心情があるでしょう。私たちが怒り、誰かの救いを願わないのにも、それぞれなりの理屈や心境や経験があるでしょう。主はそれよりも大きな愛の神で、私たちには到底及ばない憐れみのお方です。でも神は、あなたの心は狭い、頑固だ、自己中心だと責めるよりも、「あなたがたった一本の草をさえ惜しむなら、わたしがニネベの人々をどれほど惜しむかも分かるだろう」と「体感」して考えることを懇願するのです[3]

 私たちが何かを惜しむ時、まして主はニネベの人も、私の嫌いな人も、また私のことも惜しんで下さるということに思い至って欲しい。神の御心に添わないから滅んでも当然ではなく、滅んで欲しくないのが当然で、そのために手間を惜しまないのが当然、少しでも立ち直ろうとするならそれを受け止めて、面子丸つぶれの計画撤回も当然。神とはそういう方なのです。

3.「仮小屋を後にして」

 主はニネベの人々を惜しまれたからこそ、その悪い行いから救い出そうとされました。神が人を愛されるとは何をしても大目に見る、ということではなく、その生き方が暴力や不真実であるならそんな死んだ生き方から立ち帰るよう働きかけて止まない、という事でもあります。愛されるからこそ、その生き方にも深く問いかけられるのです。しかしそれだけなら、ヨナでなくもっと違う、ニネベに恨み辛みのない人選をしても良かったでしょう。あえてヨナを選ばれたのは、神の願いがニネベの救いだけでなく、ヨナの救いでもあったからです。

 ヨナはイスラエル人で預言者でした。だからもう細かい事はいい、とは主は思われず、そのヨナが主の大きな憐れみへと引き寄せようとなさいます。自分の憎しみ、正義感で怒り、心に苦しみを持ち込んでいる。それを象徴するのが

「仮小屋」

を建てて不機嫌でいる姿です。主はそこからヨナを救おうとなさいました。6節に主が唐胡麻を備えて

「ヨナの不機嫌を直そうとされた」

には、欄外に

 「(ヨナを)苦痛から救い出そうとされた」

という別訳が記されています[4]。ヨナが意固地になって不機嫌のうちに閉じこもり、仮小屋を作ってそこに立て籠もり、神と争おうとする。そのヨナを主は救おうとされるのです。ヨナ書には「備える」という言葉も繰り返されます。大魚や唐胡麻、虫、東風を備えて、主はヨナの心に働きかけるのです。ヨナが自分の正義に閉じ籠もった生き方から出て来るために、主は色々なものを備えるのを惜しまれません。またヨナ書を通して私たちにも、自分の「当然」から主の「当然」に気づかせてくださるのです。

 もう一つヨナ書で顕著なのは、ヨナよりも異邦人の方が素直な姿です。水夫もニネベの人々も、謙虚で必死で助け合っています。主イエスご自身も、終わりの日にはニネベの人々が裁きの座に立つと言われました[5]。聖書は「人は主を信じれば救われて神の民になり、神を知らない人々は罪の裁きを受ける」なんていう単純な色分けをしません。神の民もまだ、主の恵みに触れて、取り扱われ、心を新しくされていく途中なのです。そのように取り扱われていくのが、主の救いなのです。

 今も主は私たちに、御言葉だけではなく、様々なものを備えてくださっています。私たちに大事なもの、助けてくれたもの、失って悲しかったもの、当たり前のように思っているもの、そうしたすべては、主が私たちに、大切な事を気づかせるために備えられた贈り物です。それは私たちが主によって遣わされた生活の場を照らす光です。悪や問題や自分の弱さや傷が出て来る中で、測り知れない神の恵みに気づかされ、怒りや不機嫌から救ってくれます。ヨナ書は私たちに自分の「当然」を手放し「仮小屋」を後にさせてくれる書なのです。

「全世界の所有者なる主が、人を惜しまれ、悪人の滅びを決して喜ばれないゆえにただ御名を崇めます。そして私たちにその御心を知らせ、想像するよう様々なものを備えたもうご配慮も感謝します。日常に惜しみなく鏤(ちりば)められたヒントに、怒りを和らげ、主の惜しまぬ愛へと変え続けてください。罪を怒るのも、その先にある希望を待ち望む心からでありますように」




[1] 作者のスピアの『ノアのはこぶね』もありますが、そのヨナの絵本が出ると知ってワクワクしていました。ノアとヨナのお話しは聖書の中でも子どもにも分かりやすい物語です。

[2] しかも、自分から進んで海に身投げしたのでもなく、水夫たちに選択を求めた所に、彼の操作的で、被害者意識、責任放棄が感じられます。

[3] 四11の「右も左も弁えない」は十字架上の「彼らは何をしているか自分で分かっていないのです」に通じます。そもそも、エデンの園での「善悪を知る木」(食べない事で善悪を知る木)の約束を破って、善悪を弁えないようになったのが人間です。そのような人間を神は、表面的な行為で(それ自体はどんなに暴力的でも)罰するよりも、右も左も弁えられないための悲惨な生き方としてその修復を願って下さいます。

[4] この名詞「ラー」は「悪」(一2、三8、10)、「わざわい」(一7、8、三10)と同語で、四1の「不愉快にした」(ラーアー)の派生語です。ですから、ニネベの人々の悪や嵐の海での禍に等しい問題がヨナの中にあって、それから主が救い出そうとなさった、という原意があります。

[5] マタイ十二39以下「39しかし、イエスは答えられた。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません。ただし預言者ヨナのしるしは別です。40ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。41ニネベの人々が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし見なさい。ここにヨナにまさるものがあります。」また、マタイは16章4節でも繰り返しています。「悪い、姦淫の時代はしるしを求めます。しかし、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。」こうしてイエスは彼らを残して去って行かれた。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Ⅰヨハネ1章1-2章2節「愛の手紙 ヨハネの手紙第一」

2018-02-25 20:39:31 | 一書説教

2018/2/25 Ⅰヨハネ1章1-2章2節「愛の手紙 ヨハネの手紙第一」

1.手紙を書くヨハネ

 ヨハネの手紙は、紀元一世紀末、新約聖書の中でも最も遅くに書かれたとされる三つの手紙です[1]。宛名はありませんけれども、このヨハネの手紙を読むと、決して不特定多数を漠然と念頭においた一方的な文章ではありません。ヨハネは読者に対して

「私の子どもたち」「愛する者たち」

と親しく呼びかけています。読み手を想いながら、慕いながら書いたのです。

私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。……私たちの喜びが満ちあふれるためです。

とある率直な表現からも感じられる息づかいです。ヨハネが願うのは親しい交わりなのです。

 これはたった五章の短い手紙ですが、

「愛」

という言葉が52回も出て来ます[2]。聞いたエピソードですが、日本で最初に聖書を印刷した時、印刷屋の「愛」という活字が足りなくなって、他の印刷屋に借りに行ったそうです。印刷屋の想定も越えていますが、神の愛は人間の理解を超えています。神の私たちに対する愛をヨハネは丁寧に語ります。とても深く、理解が難しい所もありますが、愛についての大事な忘れがたい言葉がいくつもあるのもこのⅠヨハネです[3]

 この手紙は

「初めからあったもの」

と始まります。これは新しい事ではなく、もうあなたがたが知っていることだ、と繰り返します。神が私たちを愛し、御子キリストをこの世に送ってくださった。だから私たちも光の中を歩み、互いに愛し合おう。言わば、それだけです。それをヨハネは改めて手紙に書いて送るのです。その必要がありました。間違った教えが入り込んで来た背景もありました。けれども単純な応用ですが、私たちも、神の愛やキリストの十字架の愛、そして互いに愛し合うことを生涯教えられ、ここに立ち帰る者です。何百回と繰り返して、愛の手紙を読んで養われるのです。もう分かった、知っていると思わず、絶えず繰り返して、神の愛に立ち帰る必要があります。愛の言葉をたっぷり聴かなければ、私たちは枯れてしまいます。いつも神の言葉を聴いて、愛の言葉を戴いて、主の恵みに潤されたいのです。

2.光の中を歩む

 この手紙も、ぜひそれぞれにじっくりと読んで戴きたい、というのが今日の結論ですが、その時に大事なのは、ヨハネが圧倒的な神の愛を大前提として語っている事実に気づくことです。そうでないと断定的な言葉に躓いて、苦しくなってしまうかもしれません[4]。ヨハネは私たちの罪を責めたり、無理な聖い生き方を要求したりしたいのではありません。まず神が私たちを愛して下さった。まずイエスが人となって来て下さった。それによって、私たちはもう永遠のいのちを戴いた。だから、私たちも自分に閉じ籠もらず、互いに交わりを持つ生き方をしよう。裁き合ったり憎み合ったりせず、愛されている者として愛し合おう、というのです。

 今日読みました1章5節から2章2節の段落でもそうです。神は光だから、私たちも隠したり装ったりせず、互いに交わりを持って生きる。それは罪がない、完璧な生き方をするという意味ではありません。むしろ、罪を認めて、告白しながら、キリストの赦しを戴きながら、安らいで、正直に生きていこう。なぜなら、この方こそ、私たちの罪だけでなく、世全体の罪のために、御自身を捧げ物としてくださったお方なのだから、というのですね。

 新しい翻訳「新改訳2017」では、Ⅰヨハネの二章12~14節が改行と字下げをして、詩文と分かるようなレイアウトになりました[5]

12子どもたち。
私があなたがたに書いているのは、イエスの名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。
13父たち。
私があなたがたに書いているのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。
若者たち。私があなたがたに書いているのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。
14 幼子たち。
私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが御父を知るようになったからです。
父たち。
私があなたがたに書いてきたのは、初めからおられる方を、あなたがたが知るようになったからです。
若者たち。
私があなたがたに書いてきたのは、あなたがたが強い者であり、
あなたがたのうちに神のことばがとどまり、悪い者に打ち勝ったからです。

 四章7~10節の有名な箇所も同じです。

7愛する者たち。
私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。
愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8愛のない者は神を知りません。
神は愛だからです。
9神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。
それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。
ここに愛があるのです。

 この言葉はヨハネが考えたというより、当時の教会で既に歌われていた詩を引用したという事でしょう。教会は一世紀末、既に詩や歌がありました。罪が赦された恵み、神を知った喜びを歌う歌がありました。ヨハネは独特な言い回しをしていますが、その姿を、歌いながらこの手紙を書いていると想像してみてください。イエス・キリストに現された神の愛の素晴らしさを思い出してほしくて、この手紙を書いている。そういう様子が「新改訳2017」ではグッと迫るような気がします。ヨハネ自身、神の愛への感動が冷めず、それを分かち合いたい。そうした動機を心に留めて読むと、全部は分からなくても、神の愛が更に心に深く響いてくるでしょう。

 ヨハネが若い頃、イエスからつけられたあだ名は「雷の子」でした。短気で怒りっぽかったのでしょうか。その彼がイエスに愛されました[6]。「雷の子」がイエスの愛を戴いて、その後も半世紀以上かけて「愛の手紙」を書く「愛の使徒」になったのですね。教会には沢山の課題があって、厳しい人生を経てきたはずです。でもだからこそ、彼は神の愛に留まる大切さを繰り返して言うのです。その愛の人ヨハネがこの手紙で厳しく言及するのが、キリストを否定する「反キリスト」でした。4章には

「神からの霊は、人となって来られたイエス・キリストを告白する」

「イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません」

とあります。そして教会に混乱を引き起こして出て行ったのです。それは教会にとって痛ましい出来事だったでしょう[7]。だからヨハネはキリストが本当に人となって来られたと、確信を持って証言します

3.人となって来られたイエス・キリストを告白する

 この素晴らしい神秘こそキリスト教のユニークさであり中心的な信仰内容です。神の子イエスが私たちと同じ人間となって私たちの所に来られました。罪はない、聖なるまま、でも人間離れした聖人君子ではなく、本当に私たちと同じようになって下さいました。神の子がどんな意味で人となったか、小難しい事は分かりません。それ以上に、キリストが私たちの所に来られて、私たちに繋がってくださった。私たちとの深くて強い交わり・繋がり・絆をも下さったのです。キリストを否定して「反キリスト」と呼ばれている人々は、そんな事は馬鹿馬鹿しいと思ったのでしょう。神がこんな自分たち人間の世界を見て、近づきたいと思うだなんてあるわけがないと考えたのです。この手紙の中で一番強烈な言葉は四章20節かもしれません。

四20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。

 そうです、目に見える兄弟を愛するのは難しい。これを引っ繰り返せば、イエスだって綺麗事や理想論としての愛は言えても、人間を、私たち一人一人を見た時に、呆れて背中を向けるに違いない、反キリストや初代教会の異端はそう考えて、キリストの受肉を一笑に付しました。信じがたい事に、キリストは私たちを見て、呆れたり見捨てたりはなさらず、近づいてくださいました。私たちを無価値や敵とは見なさず、近づいて永遠の交わりに加えたいと考えてくださいました。その驚く他ない愛をキリストから戴いて、それゆえ私たちも、愛されている者同士、互いに愛し合う、というのです[8]。これが逆で、立派な道徳やノルマで愛し合う、というなら苦しいです。愛の努力をしなければならない世界で、愛の理想を追うなら疲れます。ヨハネが言うのはそうではありません。もう愛されている。もう神が交わりに入れて下さった。この世界は、愛の神によって始まって、愛から離れた世界にキリストが飛び込んで御自身を与えられ、やがて愛し合う世界を完成する約束がある。だから私たちも愛し合い、お互いを認めていく。キリストが神であることを止めずに人間になられたように、私たちも自分であることを止めずに、人に歩み寄って、助け合い、生かし合うのです。失敗もあって当然です。罪がないなんて言えません。そのあるがままに、神の愛の手の中で、焦らず、自分をも人をも敵だと思わずに、ともに歩み、支え合う。愛とはこの気づきから始まる関係です[9]

 自分には愛するのが難しい人も、主が愛された人です。自分自身、闇に隠れたい者です。でもその自分のために主はいのちを捨てられました[10]。こういう主の愛を味わい知った老ヨハネが教える遺言として、私たちもこの愛の手紙を受け取り、読み、愛を語り、生きたいのです。

「私たちを愛したもう天の神が惜しみない愛で私たちを愛し、罪の闇から恵みの光へと招いてくださいました。あなたの愛だけでなく、互いに愛し合い、愛される交わりを与えてくださり、感謝します。私たちが愛し合うことがあなたの御心だという大胆な言葉を繰り返し聞かせて、冷たく閉じた心を癒やし、裁く心や刺々しい言葉を手放して、互いに生かし合わせてください」



[1] ヨハネの手紙は、ヤコブの手紙とペテロの手紙とともに、宛先が指定されていない、教会一般に向けて書かれた「公同書簡」と呼ばれることがあります。

[2] 原文では、「愛」アガペーが18回、動詞「愛する」アガパオーが30回、名詞形「愛する者」が6回、です。

[3] 一例として、「三1私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしい愛を与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。愛する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。」「三16キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちに愛が分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。17この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神の愛がとどまっているでしょうか。18子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもって愛しましょう。」「四7愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛がある者はみな神から生まれ、神を知っています。愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。10私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。11愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。」「三18愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、愛において全きものとなっていないのです。19私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。」などなど。

[4] 例えば今日読みました5-10節も、「神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行ってはいません」という言葉。これを「ああ、自分にはまだ闇がある。偽りがあって、真理に歩んではいないと読んで、自分を責め、ますます暗くなることも出来るでしょう。それとは逆に、5節で「神は光であり、神には闇が全くない」という言葉を心に止めるなら、神が光である以上、私は闇の中を歩んではいないのだ、と希望をもらうことが出来ます。8節から10節で「自分には罪がない」と言うなら、欺いていることになる、と言われるのも、自分には罪があるのだ、やっぱり自分は闇だ、と読むことも出来ますが、5節からの流れで言えば、罪がないふりをせずに、告白しながら歩むのが「光の中を歩む」という事なのです。自分を責めるのとは反対に、晴れやかになる言葉です。

[5] フランシスコ訳もそのようなレイアウトになっています。

[6] 福音書で彼は自分の事を「主が愛された弟子」と呼びました。

[7] 二章18~27節、三章7節、四章1~3節など。

[8] ヨハネはこのキリストを否定する教えにキッパリと「反キリスト」と言います。それは正しい教えに狭く閉じ籠もり、他者を切り捨てる頑固さではありません。キリストが人となって来られ、交わりを下さったのだから、私たちも互いに愛し合おう、関係を壊すような罪を捨てて、互いに愛し合おう、命を捨てることも惜しまず、困っているなら助け合おう。そういう互いへの愛へと踏み出していく生き方になったのです。目に見える人間、家族や教会の仲間、人を愛する。それは中々難しいことです。愛しやすい人を愛するのは簡単ですが、現実の人を愛するのは難しくなることがあります。ヨハネが言う「愛」は最初から理想論やヒューマニズムでの「博愛」ではなく、現実には難しい愛の事だと気づきます。この根拠も、キリストが私たちをまじまじと見て、心の奥まで知られた上で、愛してくださったに他ならない、恵みにあります。

 

[9] 私たちが罪を犯しても、キリストが私たちのために執り成して、赦しと回復を与えてくださいます。罰やさばきを恐れて生きるのではなく、愛されている者として生きるのです。神が命じる生き方は、私たちの現実を知らない、理想論での聖い生き方ではありません。人となり、生きる現場を知り尽くし、人の心の機微も本当にご存じの方が、私たちを愛され、私たちとの永遠の交わりを約束され、その上で「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」と新しい生き方を示されたのです。

[10] 信仰から離れている人たちにも、主は歩み寄ってくださるとも信じる希望があります。ヨハネは「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかったのです」と言いますが、勿論、教会から出て行った人がみんな「元から本当のキリスト者ではなかった」なのではありません。人が教会から離れる大きく回り道をするには様々な事情があります。教会が「あいつは最初から偽者だったんだ」なんて言う集まりだったら帰って来たいと思わないでしょう。むしろ私たちは、私たちが神から離れ、遠く離れた歩みをしていても、主が命を捨ててまで来て下さって、神の子どもとなれる、そういう恵みを信じています。

 

ヨハネの手紙第一の「愛」リスト

 

 2:5 しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神のが確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることが分かります。
2:7 する者たち。私があなたがたに書いているのは、新しい命令ではなく、あなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いているみことばです。
2:10 自分の兄弟をしている人は光の中にとどまり、その人のうちにはつまずきがありません。
2:15 あなたは世も世にあるものも、してはいけません。もしだれかが世をしているなら、その人のうちに御父のはありません。
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、御父がどんなにすばらしいを与えてくださったかを、考えなさい。事実、私たちは神の子どもです。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 する者たち、私たちは今すでに神の子どもです。やがてどのようになるのか、まだ明らかにされていません。しかし、私たちは、キリストが現れたときに、キリストに似た者になることは知っています。キリストをありのままに見るからです。
3:10 このことによって、神の子どもと悪魔の子どもの区別がはっきりします。義を行わない者はだれであれ、神から出た者ではありません。兄弟をさない者もそうです。
3:11 互いにし合うべきであること、それが、あなたがたが初めから聞いている使信です。
3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。兄弟をしているからです。さない者は死のうちにとどまっています。
3:16 キリストは私たちのために、ご自分のいのちを捨ててくださいました。それによって私たちにが分かったのです。ですから、私たちも兄弟のために、いのちを捨てるべきです。
3:17 この世の財を持ちながら、自分の兄弟が困っているのを見ても、その人に対してあわれみの心を閉ざすような者に、どうして神のがとどまっているでしょうか。
3:18 子どもたち。私たちは、ことばや口先だけではなく、行いと真実をもってしましょう。
3:21 する者たち。自分の心が責めないなら、私たちは神の御前に確信を持つことができます。
3:23 私たちが御子イエス・キリストの名を信じ、キリストが命じられたとおりに互いにし合うこと、それが神の命令です。
4:1 する者たち、霊をすべて信じてはいけません。偽預言者がたくさん世に出て来たので、その霊が神からのものかどうか、吟味しなさい。
4:7 する者たち。私たちは互いにし合いましょう。は神から出ているのです。がある者はみな神から生まれ、神を知っています。
4:8 のない者は神を知りません。神はだからです。
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神のが私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神をたのではなく、神が私たちを、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここにがあるのです。
4:11 する者たち。神がこれほどまでに私たちをしてくださったのなら、私たちもまた、互いにし合うべきです。
4:12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いにし合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神のが私たちのうちに全うされるのです。
4:16 私たちは自分たちに対する神のを知り、また信じています。神はです。のうちにとどまる人は神のうちにとどまり、神もその人のうちにとどまっておられます。
4:17 こうして、が私たちにあって全うされました。ですから、私たちはさばきの日に確信を持つことができます。この世において、私たちもキリストと同じようであるからです。
4:18 には恐れがありません。全きは恐れを締め出します。恐れには罰が伴い、恐れる者は、において全きものとなっていないのです。
4:19 私たちはしています。神がまず私たちをしてくださったからです。
4:20 神をすると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟をしていない者に、目に見えない神をすることはできません。
4:21 神をする者は兄弟もすべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
5:1 イエスがキリストであると信じる者はみな、神から生まれたのです。生んでくださった方をする者はみな、その方から生まれた者もます。
5:2 このことから分かるように、神を、その命令を守るときはいつでも、私たちは神の子どもたちをするのです。
5:3 神の命令を守ること、それが、神をすることです。神の命令は重荷とはなりません。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする