聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記二九章(10-18節)「未来を託す神」

2016-07-10 17:50:52 | 申命記

2016/07/10 申命記二九章(10-18節)「未来を託す神」

 先週は世界宣教週間でしたが、今日は日本の選挙です。日本の政治を選ぶ大事な決断です。そして今日の申命記二九章は実にタイムリーな箇所だと、数週間前から思ってきました。

1.主が私たちの神となられたから

 そうです。申命記では、諄いほどに繰り返して、神の言葉を守り、神だけを神として生きる事を述べてきました。その契約が、五章から二八章までの内容でした[1]。特に、前回の二八章では、契約を破った場合の呪いが長々と語られていました。契約を破った場合の呪いを詳しく記すのは、聖書の書かれた時代背景では当然のことで、申命記もそのやり方に則って書かれています。けれどもこの二九章ではもう一度原点に立ち戻って、語り直すのです[2]。2-8節で、もう一度、エジプトから今日までの四十年の間に、主がどのように力強く民を導き、養い、ここに至らせて下さったかを振り返るのです[3]。まるで「二八章ではのろいのことを長く述べたけれども、しかし『呪いが嫌だから主に従う』のではないのだ。『神の怒りが恐ろしいから契約を守る』、そういう動機ではないのだ。主が、私たちの神となって下さった。私たちを御自身の民として、本当に恵み豊かに導き、支えて下さった[4]。そして、この神こそ、唯一の本当の神であられるから、お従いするのだ」と確認するようです。決して「怒らせると怖いから」ではないのです。神の御業、恵み、養い、私たちをご自分の民としてくださった幸いに基づくのです。10-11節で言われるように、かしらから庶民、女子ども、在留異国人や奴隷たちに至るまで、すべての人々を等しく、御自身の宝としてくださった神です。また、この契約は、

15きょう、ここで、私たちの神、主の前に、私たちとともに立っている者、ならびに、きょう、ここに、私たちとともにいない者に対しても結ぶのである。

と言われるような、この先にも続いていく、歴史的な繋がりも持っています。本当に広く、豊かな、大きな契約を戴いているのです。だからこそ、そのような神に対する人間の応答が大事なのです。神の恵みと真実を受け止め、神の民として生きる。それをあえて踏みにじる無礼を選ぶなら、どんな呪いも甘んじるのが人間として当然だと、もう一度確認されるのです。

2.神は、私たちに未来を託される

18…あなたがたのうちに、毒草や、苦よもぎを生ずる根があってはならない。

 面白い表現ですが、聖書でしばしば使われる言い方です[5]。心の中に出て来る、毒のような、苦(にが)く拗(ねじ)けた、歪んだ思い。神に対してさえ高ぶって、自分も人も毒すだけの心。それは、

19こののろいの誓いのことばを聞いたとき、「潤ったものも渇いたものもひとしく滅びるのであれば、私は自分のかたくなな心のままに歩いても、私には平和がある」と心の中で自分を祝福するものがあるなら、

20主はその者を決して赦そうとはされない。むしろ、主の怒りとねたみが、その者に対して燃え上がり、この書にしるされたすべてののろいの誓いがその者の上にのしかかり、主は、その者の名を天の下から消し去ってしまう。

という無責任で、思い上がった態度に現れますし、それに対する徹底的な裁きがずっと書かれています[6]。24節以下にはそういう荒れ果てた地を見た外国人の会話が書かれています。外国人の目から見ても、「本当によくしてくださった自分たちの神を捨てるなんて、彼らは全く愚かだ」という語調です。「彼らの神は厳しくて血も涙もないなぁ」とではないのです。

 聖書の神は、人間に応答をお求めになります。人間の応答次第で、将来が変わると言われるのです。言い換えれば、神は人間の選択に未来を託されるのです。神に

「私の人生はどんな人生になるのか。この先、何が起き、どんな事が降りかかるのか。神なら分かるでしょう、教えてください」

と聞けたとしても、神は

「あなたが、わたしにどう応えるかで、あなたの将来は変わるのだ」

とお応えになるのです。その時その時、私たちがどんな選択をするかで、人生は大きく変わるのです。歴史は決まったレールの上を辿って真っ直ぐ進むのではなく、人間の決断で大きく左右されるものです。神の御支配を人間が勝手に決めつけて「自分がどう生きようと神が決めておられる通りにしかならないのだから、好きなようにしよう」と言うのは間違いです。そうやって自分の責任を放棄し、神のせいにするなら、その態度そのものの責任を問われるのです。選挙も、投票に行きもせず、「なるようにしかならない」なんて考えたら間違いです。「自分の一票ぐらい、あってもなくても変わらない」。みんながそう思ったら、恐ろしい結果を引き寄せます。一票は何十万分の一でも、確かに私たちはその何十万分の一かの、自分の分の責任はあるのです。神は人間の応答を大事にされます。未来を変えることは出来なくても、未来に参加する自分の責任を果たしたかどうかは、一人一人が問われます。私たちが恵みに応えて自分の与えられた分を大切に受け止め、一票を投じ、御言葉に従い、礼拝を守り、祈りや献金を献げ、人を愛し、正しく憐れみある業をする。それが、歴史を紡ぐ神の方法です。

3.隠されていることは、私たちの神、主のものである。しかし、…(29節)

29…しかし、現されたことは、永遠に、私たちと私たちの子孫のものであり、私たちがこのみおしえのすべてのことばを行うためである。

 私たちには分からないこと、隠されていることも、神、主はすべてを支配しておられます[7]。しかし私たちは全てを隠されているわけではありません。神が、私たちに現して、託してくださった私たちの分もあるのです。それによって、私たちは

「このみおしえのすべてのことばを行う」

のです。自分の責任を棚に上げて、「神様にしか分からない」「全部神様が決めている」と逃げてはならないのです。勿論、聖書の教えに全ての事が記されている訳ではありません。何が御心か、「正解」を選ぶ、という意味ではなくて、自分で考え、祈り、悩んで、しかし主への信頼をもって選択するのです。主を神として選ぶなら、右か左か、進むか退くか、どっちが良くてもう一つは悪いということではありません。結果が裏目に出たり、反対にあったり、失敗になったとしても、「あの時の選択は御心ではなかった」という事でさえないのです。私たちの神は、そんな心の狭いお方ではありません。「正解」を選ぶよりも、神の愛への感謝や、人への共感、自分に与えられた責任への誠実さこそ、神の願われるご計画なのです。

 不思議なことです。これだけの力ある神が、人間の応答を求められるのです。ロボットのようにいっそ強制的に従うような存在を造ることも出来たでしょうに、神は、人間が心から応答することを求められます。私たちの選択を尊重され、神が造られた世界の歴史の行く末を、私たち人間に託されるのです。勿論、神には神のご計画があり、それを人間が挫いたり変更したり出来る訳ではありません。しかし、神のご計画そのものが、私たちが心から神を信頼し、神の御心を喜んで生きることなのです[8]。天地の神が「私たちの神」として信頼し、私たちを愛し、尊い責任を託されたことに感謝して、自分のなすべき分を果たしていくのです[9]

 イエス・キリストは、私たちを神の民としてくださいました。それは、ただ罪も赦すとか、神が最善をしてくださると言い訳して責任逃れをする、怠惰な宗教ではありません。神の恵みに気づかされ、神に感謝をもって応える信仰です。心の

「毒草や苦よもぎ」

皮肉や狡さや、信仰的なふりをした無責任を退けて、自分を捧げ、神の恵みに応えていく主体的な信仰です。社会的立場や国籍、年齢、様々な私たちが、ともに主の前に生かされていくのです。私たちに出来ることは僅かです。たった一票、焼け石に水、舌足らずの祈り、あってもなくても変わらないようでも、しかし神は私たちの毎日に未来を動かすほどの価値を与えられたのです。私たちの精一杯の応答を喜ばれます。それを用いて、未来を祝福されると信じて励まされるのです。

「私たちの神である主よ。あなたは私たちを治め、愛し、養い、あなたを愛することをお求めになります。どうか、与えられた価値を蔑み『自分一人ぐらい』などと思わぬよう、託された責任を軽んじないよう、お守りください。一人一人の今の生活でなすべきことを果たせるよう助けてください。小さな微笑み、愛の一言、ささやかな祈り、精一杯の決断を祝してください」



[1] 1節は、二八章の結び。「これ」は五章から二八章までの内容を振り返る言葉。

[2] 2節は、モーセの三度目の言及(一1、五1)。

[3] 2-8節、ナラティブのスタイルで契約にいたるプロセスを確認(命題的にでなく)するのは、古代近東の契約定式に即した叙述形式です。

[4] 6節の「私たちの神であられる」とは支配だけではなく、養い、憐れみ、責任、愛情を含む、人格的な関係です。神が私たちの神となり、私たちが神の民となる、という定式は、聖書の契約関係を表している重要な概念です。

[5] 「毒草や苦よもぎ」三二32、ホセア十4、アモス六12。

[6] 「23-その全土は、硫黄と塩によって焼け土となり、種も蒔けず、芽も出さず、草一本も生えなくなっており、主が怒りと憤りで、くつがえされたソドム、ゴモラ、アデマ、ツェボイムの破滅のようである」は、申命記の中でも最も荒れ果てた滅びの状態です(McConvile)。

[7] 私たちが神に何かを隠すことも出来ません。

[8] それは、本当に私たち人間の理解を超えた神秘です。頭で理解しようと思っても無理です。分かりきることは出来ませんが、その測り知れないご計画と力をお持ちの神が「私たちの神」となってくださいました。

[9] そして、この「私たちの神」は、憐れみ深く、赦しに富んでおられます。「わたしは燃える怒りで罰しない。わたしは再びエフライム[イスラエル]を滅ぼさない。わたしは神であって、人ではなく、あなたがたのうちにいる聖なる者であるから。わたしは怒りを持っては来ない。」(ホセア十一9)。神は、怒りをもって滅ぼす神ではなく、ご自分の民を何とかして正しく歩まそうとなさる、あわれみの神であります。

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申命記二八章(1~14節)「高く挙げられるために」

2016-06-19 16:22:14 | 申命記

2016/06/19 申命記二八章(1~14節)「高く挙げられるために」

1.聖書で二番目に長い章

 最近一番ホッとした出来事の一つは、北海道で八歳の子どもが六日ぶりに見つかったことでした。本当に胸を撫で下ろしました。あの事から「しつけ」や「罰」についての悩みがあちこちで議論されました。どこまでがよいのか、どうやっても言うことを聞かない子に、厳しい躾はどうなのか。そんな事への答として、

「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しい」

と現実に気づくことも大事だと言われています。どなったり、罰したりしそうになった時は

「子どもに伝わっているか、しつけでなく心理攻撃になっていないか」

と考えることが呼びかけられていました。[1]

 今日の申命記二八章は、申命記で今まで語られてきた、神の民としての契約を結ぶ部分です。全部で68節もある長い章です。これは、聖書でも二番目の長さです[2]。今読んで戴いた14節までには、主の言葉に従った場合の祝福が記されていました。この後、15節から68節までは、反対に主の契約に背いた場合の呪いが書かれているのです。祝福の四倍もの長さで、延々と、契約違反の結果がどれほど悲惨なものとなるのかが書き連ねられていくのです。病気や不作だけでなく、敵国に攻められて包囲されて、極限の飢餓状態になるとか、敵の捕虜として連れて行かれて、心が病んでしまうとか、徹底的な荒廃がこれでもかとばかりに描かれるのです。

 ただし、これは聖書の書き方の問題ではなくて、古代オリエント社会での契約文書は、祝福と呪いとを並べて最後に取り交わす、というのが形式を取ったのだそうです。そして、呪いの方が長いのも普通です。現代でも、契約違反の条文はやはり詳しく書かれますね。契約の祝福は、契約そのものに含まれているので長々と述べる必要はありませんが、契約を踏みにじるような場合は覚悟しておけ、と釘を刺すのは一般的な事です。

 しかも、ここに至るまでの話を思い出してください。イスラエルの民は、主の力強い御業によって、エジプトから救い出された解放を体験していました。本当に神があわれみ深く、何度も赦してくださるお方であることを知っていました。だから、これからも主に従い、主の命じる生き方を棄ててはならないことは当然だと弁えることが出来たはずなのです。こんな呪いは恐ろしいからと、恐怖で従うのではなくて、主が真実で恵み深い神である以上、従うのは当然で、のろいを言われなくても従うし、従わなければ呪われるのも自業自得だ、と思うのが本当だった筈です。そこを誤解すると、恐怖政治のように思えてしまうのです。

2.しかし、罰では人は変わらない

 あえて言うならば、先の

「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しい」

はここでも当てはまりました。こう言われたからと言って、民が神である主に対する忠誠を貫いたわけではありませんでした。この二八章そのものは、当時の契約文書の書き方を踏襲したものです。しかし、これだけ詳しく、主の言葉から離れてはいけないと具体的に長々と確認しても、それは民の心を直すことはなかったのですね。「御言葉に従わなければならないなんてしらなかった」とは言えませんし、「するなと言われたら却ってやりたくなる」なんて屁理屈も通用しません。民は、神である主、生ける唯一の創造主の力と恵みを知った上で、その神が命じる礼拝の民としての歩みを捨てました。互いに親切にし、偏見や格差のない社会を造ることを辞めて、利を貪り、虚栄を求めるようになりました。知らなかったからではなくて、悪いと十分教えられた上で、背いたのです。

 これは聖書の物語の大きな要因(プロット)の一つです。人間は、神と共に正しく喜んで生きることを望まなくなってしまった。いくら幸いをもらっても、いくら罰を与えられても、警告を受けていても、それでも神に背いたり、こっそり悪を行ったりしてしまう。それが人間の姿です。聖書はそれを分かっています。だからここでも、呪いや罰を恐ろしく描き出して、「神に従わないと悲惨が待っているぞ」と脅しつけ、無理遣り従わせようとするとは思わないで下さい。恐怖が動機で、恨みを秘めた信仰など信仰でさえないのです。罰や厳しさだけで人間は育ちません。勿論、刑罰が不要だとか、罰は無い方がいいということではありません。聖書は、神を恐れ、他の何物も神とせず、人をぞんざいに扱わず、正直であることを命じます。具体的な、本当に具体的な生き方を手取り足取り教えてくれています。私たちにとって必要だからです。

 でも律法で人が正しく歩めるとは聖書は期待しません。人間には、神から離れようとする罪がある。その心は、外からの強制や脅しや何かによっては変わり得ません。だからこそ、神はイスラエルの民が背いても、すぐにここに書いてあるのろいを全て下されたりはしませんでした。自分のした結果を刈り取らせましたし、不正や暴力を持ち込んだ社会はどんどん荒廃していきましたけれども、そうした中で神は民に語り掛け、悔い改めて立ち帰ることを呼びかけ続けました。いいえ、この申命記でも三〇章ではもう、悔い改めと回復がハッキリ約束されているのです。神は人間を脅さず、自分の悪に気づき、神に従わなかった間違いに気づくのを待たれます。そうして、心から神に戻って来るよう、決して見捨てずに、ともにおられたのです。

3.高く挙げてくださる方

 人間の言いたがる屁理屈に「神がいるなら見せてみろ」「願いを叶えるとか奇跡を見せてくれたら信じられるのに」という詭弁があります。今日の二八章はそういう言いがかりへも答えていますね。奇跡やのろいを見たところで、人は変わりません。「喉元過ぎれば熱さを忘れる」で懲りないのです。それは、人の心に、神を小さく考え、自分の方が神よりも上であるかのように思いたがう性質が染みついているからです。神もまたそれを十分ご承知ですから、私たちにただの意志の力で生き方を正しくし、根性で心を変えることなんて期待してはおられません。それでは無理だと示すのが、イスラエルの民の歴史なのです。そして、イスラエルの民が失敗を繰り返してどんどん破綻していっても、なお神はそこでともにおられました。時に怒ったり、嘆いたり、苦しまれつつ、ただ人間に表面的な従順を求めるのでは無く、神ご自身を心から信頼する深い関係へと招き続けられたのです。その末に、国が滅びる寸前のイスラエルに、神のひとり子イエス・キリストがおいでくださって、御自身を十字架に捧げてくださいました。そのイエスのいのちの犠牲によって、私たちのいのちも新しくされ、神に従う民が造られていく。そういう物語の中で、初期の躾の一部として、今日の二八章も意味を持っているのです。

 私たちは、戒めやその結果、自分が受ける祝福や呪いにもまして、それを下さった神ご自身を仰ぎましょう。侮ってはなりませんが、「良い子」でないと怒り狂う神でもないのです。

二八1もし、あなたが、あなたの神、主の御声によく聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高くあげられよう。

と仰る神です。私たちを高く挙げなさる神。高く挙げたいと思ってくださる神[3]。神は私たちを卑しめ踏みつけたいどころか、喜んで御自身のそばに引き上げたくて溜まらない神です。そのためにも、神よりも自分の方が高いと思うことを止め、神を崇め、自分を低めるのは当然です。私たちよりも高く大いなる神の言葉の前に謙虚になりましょう。キリスト御自身が限りなく低くなられたように、本当の高さとは、低くなることにしかないのです。高くなろうと背伸びを止め、自分の問題や恐れや貧しさを認めましょう。神を大いなるお方として崇めましょう。そうして生活の中で人と付き合いながら、謙って歩む道は、呪いではなく恵みに他なりません。

 

「主よ。人が子育てに悩むように、あなた様も、呪いさえ警告し、忍耐をもって私たちを育て導いておられます。その限りない御配慮を感謝します。私たちの貧しさを悉く知り給う主が、私共をどうにかして命に生かそうと、卑しくなりたもうゆえに御名を崇めます。どうぞ私たちの心を、ただあなたの聖なる憐れみによって押し出し、謙って仕える歩みへと高めてください」



 
鳴門のウチノ海総合公園は、花盛りです!
 
 
[1] 「脅しや体罰によるしつけは子どもをこわがらせるだけで効果は低い…。怖さや罰するだけで分からせるのは難しく、親の自己嫌悪につながる。積み重なれば、子どもの自己肯定感が低下することもある」。どなったり、罰したりしそうになった時は「子どもに伝わっているか、しつけでなく心理攻撃になっていないか、少し考えてみては。10回のうち1回でも冷静になれればそれでいい。子どもに伝える経験を積み重ねて、親も自信を持ってほしい」(「虐待としつけ、境目は? ママたち、日常を振り返る」『朝日新聞デジタル』2016年6月15日)より。

[2] 聖書で最も長いのは、詩篇一一九篇、三番目が民数記七章です。

[3] これは、13節でも「私が、きょう、あなたに命じるあなたの神、主の命令にあなたが聞き従い、守り行うなら、主はあなたをかしらとならせ、尾とはならせない。ただ上におらせ、下へは下されない。」と言われて繰り返されています。また、二六19でも「主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべtねお国々の上に高くあげる。」と言われていました。

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申命記二七章(1~15節)「生け贄とセレモニーと歌で」

2016-06-12 18:39:46 | 申命記

2016/06/12 申命記二七章(1~15節)「生け贄とセレモニーと歌で」

1.言葉だけでなく

 今日の箇所に出て来ます「エバル山とゲリジム山」は、カナンの地、ヨルダン川の西側で、シェケムの谷を挟んで向かい合っていた二つの山です[1]

 エバル山はシェケムの谷からは472m。谷を挟んだゲリジム山は60mほど低い、写真を見るとよく分かるように、似たような山でした。この辺りだと妙見山は61m、眉山は280m。大麻山が538mが近いでしょう。モーセとイスラエルの民はまだ、ヨルダン川の東に宿営しています。これからヨルダンを渡って、カナンの地に入ったら、このシェケムの谷に行くのです。そして、大きな石を立てて石灰を塗り、神の教えられた言葉を書きしるす[2]。また自然のままの石を積み上げた祭壇を造り[3]、全焼のいけにえを捧げ、和解のいけにえの肉での宴会をするのです。更に、11節以下では、民の十二部族が、半分の六部族ずつに分かれて、ゲリジム山側とエバル山側に立つ。そして、15節以下26節まで、宣言と民の

「アーメン」

を十二回、応唱するように、というのです。[4]

 何が言いたいかと言うと、1節でも10節でも26節でも言われているように、

「神である主の下さった教えをすべて守りなさい」

という事なのですね。申命記では、ずっとこれをくり返して来たのです。そういう手取り足取りの教えが、二六章まで書かれて来ました。そして、この二七章では、それを批准する段階に入るのです[5]。その結びに当たって、面白い事に、大きな石の碑を建てるとか、自然の石の祭壇を築いて生け贄を捧げたり、お祝いを食べたり、山のこちら側とあちら側に分かれて、確認をするセレモニーをしなさいと言っているわけです。ただ、神のことばを守らなければいけない、違反したら呪いだ、とか言うだけではないのです。石碑や祭壇を造ったり、生け贄の儀式を見て、その焼かれる肉の香りを嗅いで、食べたり、山に向かって立って、アーメンと答えたり。そういう「参加型」の礼拝です。大事なのは主の教えを守り、神以外のものを神とせず、神を愛し、人を愛し、誠実に生きることです。でも、それはもう分かっているとしても、あえてここで立ち上がり、体を動かし、声を出して、主との約束を体に染み込ませるのです。申命記の三一から三三章では、長い歌も与えられます。歌に載せて、神の恵みを思い出し、神に従って生きる大切さ、神に背く生き方の呪わしさが、民に刻まれるようにと配慮されるのですね[6]。ただ聞くだけでない、からだや頭や口を動かして、神の言葉が生活に根差すよう、神は御配慮されます。私たちの礼拝も、ただ聴くだけではありません。立って讃美歌を歌ったり、献金を捧げたりします。跪き、手を上げ、十字を切る教会もあります。普段も聖書の言葉を読み、声に出して唱えたり、見える所に掲げたりする。それは「魔除け」とか「神を宥める」ためではなく、私たち自身にとって必要なことなのです。

2.ひそかなことこそ

 ところで、この15節以下の十二の宣言はちょっと意外な気がします。十誡をくり返すでもなく、もっと大事な戒めもあるだろうにとも思いますし、男女関係の逸脱が多かったりして、非常にアンバランスですね[7]。「こんなこと普通しないだろう」と思うのですね。でも、そういう、言われなくても分かりそうなことをやらかしてしまうのが、私たちなのです。

 ここで15節でも24節でも

「ひそかに」

と繰り返されています。これがキーワードです。18節の

「盲人にまちがった道を教える」

もバレにくい意地悪な行為です。20節から23節の獣姦や近親相姦も秘かになされるでしょう。私たちは、誰も見ていない時、隠れた時、「魔が差した」と言われるような間違った行動を取ってしまいやすい。秘かに、ごまかしたり横柄になったり、欲望や感情だけで行動したりしかねないのです。神も見ていないとか、誤魔化せるとか思ってしまうのです。大声では言えない秘かな楽しみで、幸せになれるかのように思う。自分のしたことには必ず結果と責任が伴う現実から目を背け、周りが見えなくなるのです。けれども、ここでは「のろわれる」と繰り返されています。幸せは、神が下さることをここまで十分体験して、約束されているのに、人目を憚るような選択で幸せになれるというのは勘違いでしかない。そっちに行ってはいけない。その先にあるのは呪いだ。そう気づかせてくれる[8]

 ここに挙げられているのは具体的な行動です。でもそれが言いたいのは、そういう具体的な禁止事項を全部守ってさえいればいい、という型にはまった表面的なことではありません。今までとは違う具体例を変化球のように投げながら、一番大事なことを思い出させるのです。神が私たちの秘かな生き方、全ての行動までも見ておられる。私たちが本当に心から神を信頼し、隠し立てのない、真実な生き方をすることが、呪いから離れ、祝福に生きることなのです。神は私たちが秘かに何をしているかも全部ご存じですし、その更に奥にある深い闇や弱さもすべてご存じです。その上で私たちを見放すことなく、むしろそこから出て来るように強く命じられます。いいえ、言葉で命じるだけでなく、二つの山の間に立たせたり、焼き肉の匂いを嗅がせたり、歌を作って歌わせながら覚えさせたりなさいます。遂には、神が御自身のひとり子イエス・キリストをこの世に送られ、十字架にかけられ、闇の中で死なれました[9]。そこからよみがえられたキリストは何とかして私たちに、コソコソしなければならない生き方から、喜び歌い恥じることのない生き方へと、踏み出させようとしてくださるのですね。[10]

3.祝福の民として生きる

 明治から大正に生きたキリスト者の詩人、八木重吉がこんな詩を詠みました。

 愛のことばを言おう
 ふかくして、みにくきは
 あさくして、うつくしきにおよばない
 しだいに深くみちびいていただこう
 まずひとつ愛のことばを言いきってみよう」
[11]

 人の心には、こんな大声で言うのも憚られるはずの行動をしかねないドロドロとした闇があります。私たちには深い醜さがあるとしても、だからこそ、まだ理解の出来ない美しい言葉、愛の言葉を口にしていこう。次第に深く導いていただこう。今日の箇所と重なります。

 9静まりなさい。イスラエルよ。聞きなさい。きょう、あなたは、あなたの神、主の民となった。[12]

10あなたの神、主の御声に聞き従い、私が、きょう、あなたに命じる主の命令とおきてとを行いなさい。

 あなたは、あなたの神、主の民となった。でもその心にはまだとんでもない衝動が秘かにありました。将来、確実に大きな間違いをしでかすに違いないことは、申命記でもハッキリ言われます。聖書全体がそういう人間の危うさを見据えています[13]。でも、そういう人間の闇やダメさ加減を百も承知の上で、神が私たちを御自身の民としてくださいました。私たちに、強く、でも手を替え品を替える心遣いでもって、行くべき道を示してくださるのです。

 私たちに与えられているのは言葉だけではありません。いのちも食べ物も与えられています。山や鳥や花も、主が私たちに、それを見て、主の教えを思い出すようにと置いて下さったものです。教会も、讃美歌も、多くのキリスト者の友人や歴史や世界に生きている方々も、私たちを囲んでいる雲のような証しです。
 同時に、それとは反対のメッセージもたくさん入って来ますね。そういう声に流されて、覚醒剤や不倫に手を出したり、公私混同してお金を使い込んだり、ヘイトスピーチや暴言をしたり、家族を歪めてしまう例は枚挙に暇がないのです。でも私たちはそれを対岸の火事とか、あの人たちは呪われて、私たちはそんな馬鹿はしないとは言いません。私たちもそんな馬鹿をしかねません。どんな大失態をした人も、もう自分を貶める事をやめて、新しく生きるようにと呼びかけられるのです[14]。そこまでなさるキリストを、私たちは信じているのです。だから私たちは、この方を喜び、この方を歌い続けるのです。

「主よ。私たちをあなたの民として、祝福へと導きたもう幸いを感謝します。私たちの心はどんなに危うく、のろいさえ厭わないかもあなた様はご存じで、私たちに深く、強く、語り掛け、働き続けてくださいます。私たちも秘かな所でこそ主と交わり、いつも主の掟に目も足も向かわせ、賛美の歌を、愛の言葉を口にして、あなたの限りない恵みの証しとならせてください」


[1] シェケムの歴史的意味も重要。Wikipediaより「シェケム(Shechem,ヘブライ語: שְׁכֶם‎または文字列שְׁכָם )は旧約聖書に登場する地名である。パレスチナの中央に位置し、今日のヨルダン川西岸地区におけるナーブルス(英語 Nablus,アラビア語:  نابلس) )附近のテル・エル・バラータ(Tell Balata,アラビア語:  تل بلاطة)であるとされている。新約聖書時代のスカルであると言われる。シェケムが最初に登場するのは、アブラハムがカランを出発してカナンに入ったときに、最初に滞在した場所の近くとしてである。モレ(Moreh)の樫の木がある場所で、主がアブラハムに現れて契約を更新された。アブラハムはそこに祭壇を築いて、そこから32km南のベテルに移動した。ヤコブはパダン・アラムからの帰途の途上で、シェケムの前で宿営をした、ハモルの息子たちから土地を買って、祭壇を築き、エル・エロヘ・イスラエルと名付けた。ユダヤ人の伝承によるとその時にヤコブが井戸を掘り、それが、「ヤコブの泉」と呼ばれていると言われ、ヨハネの福音書第4章に登場する。ヨセフの遺体はエジプトから運び出されてシェケムに葬られた。イスラエルのカナン占領後に、ヨシュアは民をシェケムに招集して集会を開いた。民の歴史を回顧して、神とイスラエルの契約の証として、主の聖所のある樫の木の下に大きな石を立てた。シェケムは後に、エフライム族とマナセ族の境界線になり、逃れの町、レビ人の町としてケハテの子らに与えられた。ヤロブアム1世がシェケムにおいて北イスラエル王国を建国した。その後、しばらく北イスラエル王国の首都になった。しかし、南ユダ王国の攻撃を防ぐためにヤロブアム1世は首都をペヌエル、ティルツァに移した。ホセアやエレミヤの時代もシェケムは重要な町であった。しかし、バビロン捕囚以降サマリアの中心的な町になったが、前108年ヨハネ・ヒルカノス1世によって破壊された。」参考文献「新聖書辞典」いのちのことば社、1985年

[2] 3節「すべてのことば」とはあるが、申命記全部はとうてい書けません。恐らく、十の言葉のこと。

[3] 石に手を加えないことは、人間の技巧で、大きく立派な祭壇を造ることに思いが行かないように、との理由です。祭壇や祭壇制作そのものが偶像や誇りになってはならないのでした。

[4] このことは、既に十一章29節では「あなたが、入って行って、所有しようとしている地に、あなたの神、主があなたを導き入れたなら、あなたはゲリジム山には祝福を、エバル山にはのろいを置かなければならない。」と言われていました。そして実際に、ヨシュア記八章30節以下で、この命令は実行されています。そこでの言葉を見ていると、それぞれの山に向かって、つまり、お互いには背中合わせになってだと分かります。ヨシュア記九章33節以下で実行。「それからヨシュアは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いた。31それは、主のしもべモーセがイスラエルの人々に命じたとおりであり、モーセの律法の書にしるされているとおりに、鉄の道具を当てない自然のままの石の祭壇であった。彼らはその上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげた。32その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書いた。33全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立った。それは、主のしもべモーセが先に命じたように、イスラエルの民を祝福するためであった。34それから後、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げた。35モーセが命じたすべてのことばの中で、ヨシュアがイスラエルの全集会、および女と子どもたち、ならびに彼らの間に来る在留異国人の前で読み上げなかったことばは、一つもなかった。」しかしこのヨシュア記八章も、しかし、ヨシュア記八章のこの直後に、イスラエルはギブオンの住民と契約を結んでしまう。八章の前の七章ではアカンの秘かな盗みがあり、その処理をしたのが八章。破綻の中で、なお赦され、回復が示される言葉として聞いたのが、このシェケムでの宣言なのです。

[5]  十一26-37とともに、十二-二六章の規定部分を挟んで、対照的な構造になっています。:

                   十一           26-37:祝福とのろいがモアブで宣言
                                 29-31:ゲリジムとエベルでの祝福と呪いの儀式

                                     32:  戒めに従えとの呼びかけ

                   二六           16-19:戒めに従えとの呼びかけ

                   二七章    ゲリジムとエベルでの(祝福と呪いの)儀式
               二八章    祝福と呪いがモアブで宣言 McConvile, p.387

[6] 申命記三一19以下「今、次の歌を書きしるし、それをイスラエル人に教え、彼らの口にそれを置け。この歌をイスラエル人に対するわたしのあかしとするためである。20わたしが、彼らの先祖に誓った乳と蜜の流れる地に、彼らを導き入れるなら、彼らは食べて満ち足り、肥え太り、そして、ほかの神々のほうに向かい、これに仕えて、わたしを侮り、わたしの契約を破る。21多くのわざわいと苦難が彼に降りかかるとき、この歌が彼らに対してあかしをする。彼らの子孫の口からそれが忘れられることはないからである。わたしが誓った地に彼らを導き入れる以前から、彼らが今たくらんでいる計画を、わたしは知っているからである。」

[7] 15-26のリストは、部分的には既出の律法と対応している。(15-四16、五8;16-二一18-21;17-十九14;18-十九14;19-十18、二四17;20-二二30;21-出二二19、レビ十八23、二〇15;22?レビ十八9、二〇17;23?レビ十八17、二〇14;24?出二一12;25-一17、十六19)。一見して、極めてアンバランス。ちゃんとしたまとめや抜粋と言うよりも、律法の精神をまた新たな変化球で示すのです。

[8] ここには祝福よりものろいが強調されていますが、祝福を求める以上に、のろいに傾く人間の性質がある以上、のろわしいことをしない、という態度こそが、大きな意味を持つのは当然です。主の聖なる民として生きるという強い決心が、のろいを強調して、聖く生きる決意表明となっているのです。

[9] イエスの教えは、罪ある者には情け深く、自分の罪を隠して他者に対して思い上がる者には手厳しい。

[10] 聖書に書かれている沢山の記事は、それを教えています。私たちを愛される神は、私たちが上辺で立派に生きることよりも、私たちの心の底にある隠れた思いや秘かな思いに触れなさるのです。人間が失敗や悲しみや喪失を経ながら、神と深く出会って、神の恵みに信頼していくように、長い時間を掛けて働きかけてくださる。神はそういうお方なのだと思います。

[11] 八木重吉『神を呼ぼう』新教出版社、1961年

[12] 今までは違った、という意味ではなく、これが「モアブ契約」とも言われる、新たな契約締結(契約の更新)であるということです。「きょう」は申命記においては、現在の強調というニュアンスで多用されます。

[13] 26節は、ガラテヤ三10-14で、パウロが引用しています。「というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」11ところが、律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」のだからです。12しかし律法は、「信仰による」のではありません。「律法を行なう者はこの律法によって生きる」のです。13キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである」と書いてあるからです。14このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。」

[14] 不倫や近親相姦がダメだと言いつつ、それをこっそりやってしまおうというような衝動が私たちの中にある。だから、人様の前に出すことを憚られるような思いをあえて大声で言うことが、私たちを少しでも守ることになる。それをコソコソとやろう、黙っていれば分からない、というような言い方をする者には信頼を置いてはならない。

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申命記二六章(5~15節)「天から見おろして」

2016-06-05 17:13:30 | 申命記

2016/06/05 申命記二六章(5~15節)「天から見おろして」

1.聖書のドラマの要約

 今日は礼拝の後に、お試しの映画会をします。最近、聖書を題材にした映画が盛んに公開されています。言い換えれば、それだけ聖書には沢山のドラマがあって、聖書の内容をひと言で言い表すことはとても出来ません。ですから、今日の箇所のように、聖書の所々に、それまでの話の要約があるのはとても助かります。これは申命記で、聖書の最初の方のことですから、聖書全体の要約ではありません。しかし、ここまでの歩みを簡潔に振り返ったまとめです[1]

 5…私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。

 6エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。

 7私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。

 8そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、

 9この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。

10今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」

 自分たちの歴史を振り返り、今、自分たちがここに初めての収穫を得たことを感謝し、神にその初物の中からの供え物を捧げなさい、と言われているのです。イスラエルの民がこれから約束の地に導き入れられ、そこで農耕生活を初めて最初の収穫をしたあと、こういうのですね。12節以下はその先、三年ごとにくり返す、収穫お祭りの後の祈りです[2]。ここには展望が示されています。自分たちがどのような歩みをして今があり、これから先、どのような民として歩んで行くか。勿論、この他にも沢山のことがあったのですけれど、そこからこういうダイジェストをしている、と言う所に、申命記が強調しているメッセージが浮かび上がってきますね。

「さすらいのアラム人」

「寄留」

者であり、

「虐待…労働」

であったのが、主によって連れ出され、この所に今ある。流浪の民で、虐げられて、なすすべのなかった民が、主の力強い大いなる御業によって導き出されて、「乳と蜜の流れる地」と言われるような新しい地を与えられて、そこで収穫を戴いている。そういう歴史の物語を、もう一度語り直すのです。その時、今手にしている収穫も、当たり前ではない、主の恵みだと気づきます。そして、自分たちとともにいる在留異国人やレビ人、孤児(みなしご)、寡婦(やもめ)とも分かち合う、というあり方になるのです。

2.主の宝の民であり、主の聖なる民となる(18、19節)

 申命記では、十二章以来、細々とした規定がずらっと続いていましたが、今日の二六章で、そういう義務の規定は終わります。次の二七章から契約締結の部分です[3]。その、義務の規定の最後の部分で述べられるのが、この振り返りと収穫の感謝なのです。喜ばしく親しい礼拝と感謝ですね。初物を持ってきて主の前に来る。そして、告白と祝福の願いを捧げるのです。この言葉は祭司が言うのではありません。5節でも13節でも

「あなたは」

と言われるように、祭司ではなく民が言うように、自分の言葉として心から言うように命じられているのです[4]。こんなに親密な礼拝は、申命記でもここにしかないのです。そういう親しい礼拝こそ、神と私たちとの関係とはどんなものかを表しているのです。それが、具体的に全生活となるのです。神は、几帳面で口うるさい規定を求めたいのではないのです。神との親しい礼拝の交わりに生きることが、生活のすべての分野に及んで、すべてを新しくなさりたいのです。

18きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたの主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、

19主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束したとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。

 ここに言われるように、イスラエルの民は既に

「主の宝の民」

です。彼らが善い業をすることによって主の民となるのではないのです。既に主の力強い御業によって、事実、主の宝の民とされているのです。しかしそれで終わりではありません。主の宝の民だからこそ、主の命令をすべて守るのです。それによって、主が賛美と名声と栄光とを下さり、彼らを高く挙げ、

「主の聖なる民となる」。

 これは将来への約束であり、民の応答を必要としています[5]。でもそれは、民がしなければダメだ、ということではなくて、そういう新しい生き方、民の使命、主の恵みへの応答をもって生きるということ。民の行動や願いや喜びが変わっていくこと自体、主の恵みなのです。そういう、民の深い所での変化や、全生活が将来どう変わっていくか、という計画も含めて、主はイスラエルの民を「主の聖なる民」とすると約束しておられるのです。私たちにも約束されています。イエス・キリストの救いとは、過去、現在、将来の物語です。

3.天から見おろして祝福してください(15節)

 この後を読むと分かるように、イスラエルの民はあっという間に主への感謝も忘れ、御心に逆らって、偶像崇拝や戦争を始め、弱肉強食の社会を造ってしまいます。神を忘れ、「乳と蜜の流れる地」を罪のない者の血を流して「呪われた地」としてしまいます[6]。決して民の将来は、盤石に守られていた訳ではありません[7]。ここで言われている事自体そう言えるでしょう。在留異国人や孤児、寡婦とあります。「約束の地では誰も死なない、親が子どもを残して死ぬなんてない」とは想定されていません。今までも見てきたように、様々な人間関係のもつれや事件はあり得るというのです。だからここではこう祈るのですね。

15あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。

 ただ「自分たちの今の生活を守っていてください、誰も死なず、誰も孤児や未亡人にならないように」と願うのではありません。

「この地は不完全です。苦しみ、悲しみ、死があります。痛みの多いこの地を、天から見おろし私たちを憐れんでください。私たちが感謝を忘れないように。孤独な方や見知らぬ者と面倒くさがらず分かち合えるよう、憐れんでください。不完全で破れた世界で生きる私たちですが、神の大きな回復の物語の中で生かされていることを覚えていけるように。あなたの祝福を信じて、今この旅路を歩めるように、どうぞ祝福してください」

-そう祈るのです。今が不幸でも苦しくても、主は天から恵みを注ぎ、エジプトでも十字架でも、測り知れない不思議な御業をなされたのです。その御業があって今があるのです。それでもなお最後まで、主が天から下さる祝福を、この地は必要としているのです。

 でも、その天と地をつなぐ祈りを、私たちは捧げるのです。私たちは

「主の宝の民」

として、天と地をつなぐ結び目の一つ一つです。主が天から見おろして祝福して下さいと祈り、周りの人々を迎え入れ、助け、繋がって生きるのです。私たちもこの地も完全とは程遠いのです。祈っていても禍に遭い、悲しみや死を経験します。それでも私たちは、流離(さすら)い人や奴隷ではなく、神の大きな御業によって「主の宝の民」とされて私たちはここに置かれています[8]。出エジプトよりも、バビロンからの帰還よりも大きな、イエス・キリストの十字架の御業に与った私たちが、その物語の途中にある一頁として今を受け止めるのです。天から見おろし、御自身が飛び降りてまで、私たちにいのちを下さったイエスは、私たちを御自身の民としてくださいました。その私たちが働き、家族と過ごし、人と付き合う。そこに何一つ無駄はありません。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをも予め備えてくださったお方なのです。[9]

 

「主イエスの力強く不思議な十字架の御業によって、今、神の宝の民とされている私たちの幸いに感謝します。私たちはあなたのものです。私たちには帰る家が、向かっている故郷があります。今この破れた世界で、自分自身小さく、罪を抱えながら、主に親しく祈り、祝福を求め、備えられた良い行いに励む特権を感謝します。主よ、天から私たちを祝福し続けてください」

 

今日は礼拝後、このDVDをみんなで鑑賞しました~

 

 


[1] 同じような歴史回顧は、ヨシュア二四2-13、Ⅰサムエル十二8、詩篇一三六篇など。

[2] 三年ごとの施しは、十四28-29で明記。

[3] 言わば、ここまでは契約の中身の部分で、この後に契約締結の調印についてです。

[4] しかし何を祈るかは民に任されているのではなく、言葉・内容が備えられている。字面通りを準えるのではなく、「次のように」とある通り、これが土台・モデル・型となって行く。成文祈祷が注目されているのは、縛るためではなく、もっと広がるためであるのに通じます。

[5] 「高くあげる」とは、賛美と名声と栄光を与えること。賛美は主(十21)であり、主こそがイスラエルを諸国の賛美とする方である(四6-8)。

[6] そして、最後にはこの地をバビロン帝国の軍隊に踏みにじらせ、多くの民がバビロンに移されてしまうのです。その事を予見したかのように、この後の二八章以下でも、呪いや警告がこれでもかとばかりに書き連ねられるのです。けれども、ここではそういう将来の危険も見据えた上で将来のことが述べられています。「賛美と名声と栄光とを与えて…高くあげる。…主の聖なる民となる」と言い切れらます。ここには、どうしてもそういう約束を果たそう、という主の熱心が聞こえてこないでしょうか。実際、もっとあとのイザヤ書は、当時のイスラエルのあらゆる罪や傲慢へのさばきを宣告しつつ、最後の五六章から六六章までには、賛美と名声と栄光というこの三つの言葉がバラバラにですが鏤(ちりば)められて約束されています(エレミヤ十三11、三三9、Ⅰペテロ四16でも)。神の恵みに与りながら、背き続けて来た民に厳しく語りつつ、その先には賛美と名声と栄光がある。でもそれをただ指をくわえて、口を開けて待っているのではなく、あなたがた自身の心が深い所で変えられ、主の民としての新しい生き方を果たすようにあなたがたが変えられるという約束があるのです。以下は、準備段階でのメモです。「私たちは、この約束の地に住んではいないし、イスラエルの民がこの地を「乳と蜜の流れる地」ではなく、罪なき者、貧しき者たちの血を流して汚してしまったことも知っている。世界全体が環境破壊や戦争、憎しみ、難民、原爆で破壊され、自分たちさえよければよいという価値観で結局家族も病み、破綻し、ギスギスした人間関係となっている。弱者が顧みられず、核の傘の下での危うい「平和」を保っているに過ぎないことを知っている。ここで私たちが求められているのは何か。主の命令は何か、主の聖なる民として生きるとはどういうことか。精一杯、心を開いて生き、恵みに感謝し、問題を悲しみ、悪を悪として取り上げることを忘れないことでしかないのではないか。「神様が御心をなしてくださる」という盲信・無責任に逃げることなく、与えられた責任を正直に、誠実に果たそうとすることではないか。神の御心を、自分たちに引き下げることもなく、自分たちに無関係に前進することでもなく、自分たち自身の生き方、関わり方が新しくされること、そのように変えられていく物語であることとして受け入れなければならない。」

[7] 申命記八11-18、参照。

[8] シナイや場所の言及がないのは、どこであれ、主への感謝と礼拝を捧げる場所こそが、契約更新の場所となる(なり得るから)。McConvile, p.384.

[9] エペソ二10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスによって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

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申命記二五章(1~4、13~19節)「落伍者を切り倒すような」

2016-05-22 20:07:29 | 申命記

2016/05/22 申命記二五章(1~4、13~19節)「落伍者を切り倒すような」

 

 ちょうど二十年前の今ごろ、東京で三ヶ月だけスーパーでアルバイトをしました。入ってビックリしたのは数字の操作でした。毎週「三割引の日」があるのですが、もとの値段を普段よりも高く設定して、サービスに見せかける。そんなことばかりで、後味の悪い毎日でした[1]。申命記二五章の13節以下で、大小異なる重り石、異なる測り枡を持ってはならない、「完全に正しい重り石を持ち、完全に正しい枡を持っていなければならない」とあります。賞品を売り買いする時に使う重り石や枡を、二種類持って、得になるようにその二つを使い分ける。そういうみみっちい狡(ずる)を禁じていますね[2]。現代、電子機器や技術が発達して、コンピュータで数字の操作が出来ます。お客の目をちょろまかす小細工は次々考え出されます。最近の大手自動車メーカーによる、燃費データの検査のが不正も、まさにこれでしょう。

16すべてのこのようなことをなし、不正をする者を、あなたの神、主は忌みきらわれる。

1.不正の禁止

 この二五章で扱われているのは、様々な不正、不公正だと言えるでしょう。でも、その具体例が一つ一つユニークです。最初の1~3節では、裁判で争いに判決が下されたとき、有罪の人を鞭打ちにする場合のことが書かれています。その時も、どれほど鞭打たれても良いわけではなく、伏させて、裁定人の前で、罪に応じた回数の鞭打ちに止めなければならない。どんなに多くても、四〇回以上鞭打ってはならない、と言われるのです。私の頭に思い浮かぶのは、昔は、悪い人間が捕まったら、保安官は「好きなようにしろ」と言って立ち去る場面です。後はどれほど鞭打たれようと、拷問のような目に遭おうと、それは自業自得だ、というわけです。しかし申命記はそういうやり方を許しません。彼の前で、犯罪に応じた鞭打ち、それも決して四〇回を越えてはならない、というのです。そしてその理由が、最後に付されています。

 3…あなたの兄弟が、あなたの目の前で卑しめられないためである。

 有罪が決まった相手であっても、「兄弟」と見なせ、というのです。決して「大目に見て許してやれ」とは言いません。「どんな罪でも見逃せ」ではないのです。二二章や二四章で見たように、姦淫や誘拐は処刑なのです。ここでは、そういう重罪や刑事犯でなく、「人と人との間で争いがあり」という民事訴訟です。有罪でも鞭打ちが相応しい争いです。そしてその場合に、感情や怒りに任せて、相手をいくら卑しめて構わないと鞭打ってはならない、と歯止めをかけるのです。相手が自分と対等の人格ある人間だと忘れてはならない。更に、

 4脱穀をしている牛にくつこを掛けてはならない。

 臼に繋がれた牛が穀物を踏みながら脱穀をします。踏まれた穀物が臼に入らずに零れるものあるらしいのです。それさえ食べさせまいと牛に口輪(くつこ)を嵌めてはならない、と言うのです。牛にも憐れみを掛けてあげなさい、というのです。使徒パウロは、Ⅰコリント九章でこの言葉を引用しています。それは、自分や教会の教師・伝道者たちが、その働きから報酬を得て、生活を支えられるのは当然であると教えるためでした[3]。そこでパウロはこうも言っています。

Ⅰコリント九9…いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。

10それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。…

 牛のため、以上に、牛にさえ憐れみ深くせよ。同様に、有罪犯さえ過度に卑しめない、袋の中の重り石や測り枡さえ誠実にあろうとする。それは、私たちにとって必要な指導なのです[4]

2.アマレクの記憶を消し去れ

 二五章の最後に、アマレクがしたことを忘れるな、とあります。エジプトを脱出したばかりで疲れている人たちも多かったときに、アマレク人たちがいきなり襲いかかってきました。そして、疲れ切っている落伍者たちをみな切り倒したというのです。何のためにでしょうか。エジプトから出て来て、大したお宝も食料もなかったでしょう。ただ、斬り殺し、弱い者をなぶって倒すために襲いかかった。そういう残酷非情さがアマレク人の精神だったらしいのです。人の命を何とも思わない。弱くて一番後ろから付いていくのが精一杯の落伍者を切り倒して楽しむようなアマレクのあり方を18節で「神を恐れることなく」と言っています。

 しかし、17節では、そのしたことを忘れるな、と言っていますが、19節では、

アマレクの記憶を天の下から消し去らなければならない。これを忘れてはならない。

と言っていますね。忘れてはならないのか、記憶を消し去らなければならないのか、どっちなのでしょうか[5]。いくつかの読み方が出来るのだと思いますが、少なくとも「アマレクの酷い扱いを赦せ、水に流せ」ではないはずです[6]。かといって、いつまでも根に持って、恨み続けることは記憶に囚われることになります。しかし、この二五章の流れを考えると、どうでしょうか。裁判で負けた方を、好きなだけ鞭で打ちかねない人間の残酷さと、アマレク人の残忍な虐殺とは無関係なのでしょうか。小さな不正を放っておけば、やがて大きな不正、残虐な殺人や暴力にさえ歯止めが利かなくなるのではないでしょうか。アマレクの記憶を消し去るとは、私たち自身の生活や行動で不正をしないこと、自分の勝手な感情や気分や都合でごまかしたり搾取したりしない生き方を命じているように思えるのです。[7]

 聖書には皆殺しの危険が沢山出て来ますね。エステル記ではハマンがユダヤ人を皆殺しにしようとし、ヘロデ王は二歳以下の男子を皆殺しにしました[8]。教会の歴史は迫害の歴史でしたし、教会がユダヤ人を迫害してきたのも事実です。そして、あのナチス・ドイツのユダヤ人大虐殺がありました。普通のよき市民が、家では妻や子どもを愛しつつ、収容所ではユダヤ人をガス室に送り込んだ。人間とはそういうことが出来るのだ、とホロコーストは証明してしまいました。アマレクやドイツ人の事ではなく、今の私たちの生活の小さな不正を止める事なしに、アマレクの記憶を天の下から消し去ることは意味がないのだと語られているような気がします。

3.卑しめられないために

 最後にもう一度3節を心に留めましょう。争いで悪かった方で、鞭打ちが相応の人さえ、「卑しめられ」てはならないのです。悪は悪です。罪は罪として報われなければなりません。しかしその報いとは「卑しめられていい」とは違うのです。罪は、人の尊厳を損ないません。私たちが「罪人」だということは私たちの価値が低い、無価値だという意味ではありません。神の目には私たちは高価で尊いと見られています。その尊さを忘れて、虚しい物を追い求めて、罪ある生き方をするのは、勿体ないに違いありません。しかし、だからといって私たちに価値がないのではないのです。どうかすると「自分は罪人だから価値がない」と思うのが信仰的だとか、自分を卑しめなければ傲慢だと誤解される事があります。しかしそうではありません。

 キリストは私たちを尊いと見て下さいました。私たちが弱く、落伍者となっても、主はその私たちを滅ぼされても仕方が無いものとは見做されません。決して卑しめさせたくないと、イエス御自身が人となり、私たちの代わりに鞭を打たれてくださいました。人からの鞭も、私たちが自分で自分を卑しめ鞭打とうとする自虐も、四〇回以下どころ何千回でも、御自身に引き受けて、私たちを回復しようとなさる神です。自分を卑しめる言葉や思いは変えられましょう。自分をも人をも、牛や仕事さえも、神が尊いと見ておられる通りに尊び、喜び、誠実に行いましょう。それこそ、ここで強く命じられて私たちに求められている、神の救いのご計画です。

 

「主よ、あなたが不正を憎まれるのも、私共を祝福に生かすために他なりません。不正が蔓延って、どうせ世界はこんなものだと吐き捨てたくなりますが、あなた様が私共に求められる歩みを聞き取らせてください。あなたは、真実の解放と休息を約束してくださいました。その約束を仰ぐことで、私共が人や自分を貶めず、あなたを恐れ、あなたに倣う者となれますように」



5月は、ヒバリや野鳥のさえずりの季節です。

写真は教会のまわりに多い、イソヒヨドリです。

 

[1] 同じ頃、スーパーマーケットの裏側を暴露した映画が出来たので、それからは随分改善されたとは思うのですが。

[2] こうは言われても、アモス八5、ミカ六10-12で異なるおもりが使用されていることが責められています! 人間の悪、狡は際限がありません。

[3] Ⅰコリント九9以下「モーセの律法には、「穀物をこなしている牛に、くつこを掛けてはいけない」と書いてあります。いったい神は、牛のことを気にかけておられるのでしょうか。10それとも、もっぱら私たちのために、こう言っておられるのでしょうか。むろん、私たちのためにこう書いてあるのです。なぜなら、耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分配を受ける望みを持って仕事をするのは当然だからです。11もし私たちが、あなたがたに御霊のものを蒔いたのであれば、あなたがたから物質的なものを刈り取ることは行き過ぎでしょうか。12もし、ほかの人々が、あなたがたに対する権利にあずかっているのなら、私たちはなおさらその権利を用いてよいはずではありませんか。それなのに、私たちはこの権利を用いませんでした。かえって、すべてのことについて耐え忍んでいます。それは、キリストの福音に少しの妨げも与えまいとしてなのです。13あなたがたは、宮に奉仕している者が宮の物を食べ、祭壇に仕える者が祭壇の物にあずかることを知らないのですか。14同じように、主も、福音を宣べ伝える者が、福音の働きから生活のささえを得るように定めておられます。15しかし、私はこれらの権利を一つも用いませんでした。また、私は自分がそうされたくてこのように書いているのでもありません。私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです。」この結論と前後を見ると分かりますように、パウロは教会の働きによって、教職者が生活を支えられることを聖書的な権利と見つつ、コリントでの状況を踏まえたときに、その権利を行使せず、他の仕事をして、自分の生活を維持することを選択していました。

[4] 家畜への親切は、二二6-7や、箴言十二10「正しい者は、自分の家畜のいのちに気を配る。悪者のあわれみは、残忍である」(新共同訳は「神に逆らう者は同情すら残酷だ。」)。

[5] 新共同訳は分かりやすい文章です。「あなたたちがエジプトを出たとき、旅路でアマレクがしたことを思い起こしなさい。彼は道であなたと出会い、あなたが疲れきっているとき、あなたのしんがりにいた落伍者をすべて攻め滅ぼし、神を畏れることがなかった。19あなたの神、主があなたに嗣業の土地として得させるために与えられる土地で、あなたの神、主が周囲のすべての敵からあなたを守って安らぎを与えられるとき、忘れずに、アマレクの記憶を天の下からぬぐい去らねばならない。」

[6] 参照、豊田信行『父となる旅路 聖書の失敗例に学ぶ子育て』(いのちのことば社、2016年)、87-90頁。疲れ切って落後していった民を襲って略奪し、切り倒すほどの残虐な行為は、神を恐れぬ行為として厳しく責められます。しかし、その記憶を消し去り、憎しみや怒りの記憶に捕らわれないことも必要です。「記憶を消し去ることを忘れてはならない」であり、「したことを忘れない」とも読めます。

[7] 5節から12節までの「レビラート婚」(ラテン語の「義兄levir」から)や、喧嘩の際の妻による介入については、今回は触れていません。様々な切り口から畳みかけながら、モーセは人の中にある不正や隠し持っているエゴに切り込んで来ます。

[8] 旧約聖書エステル記、マタイ二章を参照。また、旧約と新約の間の「中間時代」には、シリヤの王アンティオコス・エピファネスにより、ユダヤ民族が根こぎにされそうになった歴史もありました。「マカバイ記」参照。

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