2016/05/15 申命記二四章(1~13節)「記憶を愛の心に」
今日の申命記二四章の最初には、離婚と再婚、そしてその再婚も離婚か死別で終わった場合、元の鞘に収まることはしてはならない、という規定が書かれています。とても回りくどいことを言っているようにも思えますが、新約聖書にこの言葉がとても大事な場面で引用されています。読み飛ばせない、大切な意味を持った言葉です。イエスに、パリサイ人たちが尋ねました。
「どんな理由があれば妻を離別して良いのですか。」
これに対してイエスは、創世記の二章24節の
「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」
を引用されて、
「人は神が結び合わされたものを引き離してはなりません」
と答えられます。それに対して、パリサイ人が、
「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」
と言うのですね[1]。この、モーセが言った言葉、というのが、今日の申命記二四章なのです。しかし、お気づきでしょう。モーセは、「離婚状を渡して妻を離別せよ」とは言っていません(新改訳聖書第二版ではそうなっていますが、第三版で改訂されました)。離婚状を書いて妻を離別して、彼女が再婚して、その再婚関係も終わった場合、またその彼女を娶ることは出来ない、と言っているのですね。離婚したければ離婚状を書けとか、どういう理由なら離婚しても良いのか、ではなくて、その反対です。安易な離婚の禁止です。何か気に入らないというぐらいの理由で妻を去らせて、後からやっぱりあの結婚も悪くなかったなぁと思い直したら、復縁したら良い。そんな軽々しい離婚を禁じているのです。それは、結婚という制度を重んじるためでもあり、当時の社会的に弱い立場にある女性を守るためでもありました[2]。
この事は、次の5節の規定にも積極的に表明されています。
5人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。
新婚一年は、兵役を免除されるのですね。でも、それは楽をするためではなく、妻を喜ばせるためです。ここにも、女性を大切にする、という視点があります。家庭を大事にすることが、戦争に匹敵する優先事項とされています。同じように、6節や10節から14節では、貧しい人が借金をする場合の担保について教えています。7節では、誘拐は殺人に等しく処刑されると言われています。8節では病人の取り扱い。16節では、犯罪者の家族の取り扱い、17節以下では在留異国人、孤児、寡婦の権利を守ることが命じられています。どれも、非常に具体的です。生活必需品を質にとってはならない、畑に置き忘れた束も、オリーブや葡萄の取り残しも、在留異国人や孤児、寡婦のものだから取り尽くそうとするな、というのです。
ここには、イエスが仰った、神の基準がハッキリと読み取れます。
マタイ二五40…『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです。
45…『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』
「最も小さい者たちのひとり」。離婚された(あるいは離婚されそうな)女性や、犯罪者の家族、感染性の病気の患者や、在留異国人、孤児、寡婦。そうした人にまで、配慮をする。それがイエスの私たちに求められる、新しい生き方なのですね。勿論、私たちはそうした配慮が十分に出来るわけではありません。イエスも、すべての弱者が十分にケアされる、理想的な社会を求めているのではありません。先のパリサイ派との問答で、イエスは、この規定で、離婚を許すようなことをモーセが言っている理由を、「あなたがたの心がかたくななので」許したのだと仰いました。人の心が頑固で、愛から遠く離れてしまっている。だから、本来ならば夫婦が深く愛し合うべき結婚が、離婚を認めた方がよい修羅場になることがある、という現実に立っているのです。
5節の
「新婚一年は、妻を喜ばせることに専念させよ」
という掟を本当に実践したらどうでしょうか。夫が威張って、結婚を自分のためと考えたり、妻を家政婦か召使いのように世話をしてくれるのが当然としたりしないのです。かといって、夫が妻の奴隷になるのでもありません。それは結婚ではなくて、主従関係になります。夫婦として向き合いつつ、本当にしてほしいことを知り合っていく一年です。男性が「こういうことをしたら妻は喜ぶだろう」と思い込んでも、それは妻の本当に喜ぶことではない場合もあるでしょう。愛には五つの「言葉」があると言います。お手伝いや配慮が嬉しい人もいれば、言葉で愛を語って欲しい人もいます。キスやタッチやスキンシップで愛を感じる人もいれば、一緒に時間を過ごしたい人もいますし、プレゼントが愛だと感じる人もいます[3]。そういう相手の愛を理解して、何をしてほしいのかを一年かけるなら素晴らしい事ですね。
しかし、人の心が頑なだとそういう関係にはなりません。むしろ、してもらっていない事を考え、自分が中心になり、被害者意識を持ちます。そういう冷え切った中で、離婚を頭ごなしに禁じるより、モーセは離婚を許した上で、安易な離婚を諫めたのです。それは人を守るためでした。しかし、そうしたらそうしたで、パリサイ派は「どういう理由ならいいのか」という方向に逸脱したのですね。イエスはそういう本末転倒な議論から、人を原点に引き戻されました。神が人を男と女という違う人格に作られ、その違う者が相手を喜ばせ、受け入れ、一年ならず生涯ともに寄り添って生きる結婚を定められたのであって、本来人がそれを引き離してはならない。それを阻んでいるのは私たちの頑なさだと気づかせてくださったのです。
皆さんは人の頑なさで苦しんだことがありますか。理解されない辛さの体験はありますか。身内に犯罪者や容疑者がいることで嫌な思いをしたことはありますか。病気で汚い者のように扱われたことがあるでしょうか。いいえ、あなた自身が、そのように人を扱ったことがないでしょうか。この聖書の勧めは、そういう社会に宛てられています。決して杓子定規な規定や、綺麗事の理想論ではありません。不当に離婚したり、軽々しく縒りを戻そうとしたり、人攫(ひとさら)いや監禁事件も起き、弱さや貧しさにつけ込む人間の冷たい現実は、三千年以上経った今も変わらないぐらい、人間は頑なですね。
でもイスラエル人は、その事を誰よりも分かっていました。エジプトで奴隷であった苦しみ、人間性さえ奪われる苦しみを味わってきた記憶がありました。そしてそこから救い出された歴史がありました。だからその事を思い出しなさい、と繰り返して言われています[4]。その記憶は、今ここで身寄りの無い人々に対してどう接するべきかの指針になるのです。字面通りの行動だけなら思い出さなくても出来ます。でも自分たちの痛みを思い出し、それを被害者意識とか内向きにせずに、他の人も苦しんでいる、ここにも辛い思いをしている人がいて、助けを必要としている。自分は何をしてもらって嬉しかったか、この人はどうだろうか。そう思いを馳せる手がかりにも出来ます。痛みの記憶を愛するための力にして、もっと心を込めて生きるよう、頑なな心を開くようにと、私たちは招かれています[5]。
「主よ。貧困や病気や死があります。人の頑なさを変えることも、自分の頑なさを変えることも私たちには出来ません。しかし、あなたは私たちのために御自身を捧げてくださいました。私たちを顧み、神の家族としてくださいました。それゆえ、喜びも悲しみも苦しみも、私たちの全ての記憶が、他者を愛し、この苦難の絶えない世界でともに生きる力になりますように」
鳴門の春、ユーカリの花も咲いてきました(ウチノ海総合公園)
[1] マタイ十九3-12。「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、5『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」7彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」8イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。9まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。{そして離縁された女を妻とする者は姦淫を犯すのです。}」10弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」11しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。12というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」
[2] また、この規定には「再出発の奨励」も聞き取れます。最初の離婚が間違っていたといつまでも後悔を引き摺ることは御心ではないのです。あの結婚や離婚の判断の是非に縛られることなく、前進することこそが主の御心なのだ、そう思える規定です。
[3] 参照、ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』(いのちのことば社、デフォーレスト千恵訳、2007年)。この本は、結婚についてオススメの『結婚の意味』(ティモシー・ケラー、いのちのことば社、2015年)などでも紹介されています。なお姉妹編に同著者とロス・キャンベル共著『子どもに愛が伝わる5つの方法』(いのちのことば社、中村佐知訳、2009年)も。
[4] 18節、22節。
[5] 「エジプトで奴隷であったことを思い出す」は、十六12にも言われます。しかし、この二四章では、前後に在留異国人や孤児、寡婦のことは言われていますが、奴隷についての言及はありません(十六章には言及あり)。しかし、奴隷であったことを思い出すことが、在留異国人や孤児や寡婦への正しい態度に直結すると言われています。ある意味では両者の体験は、本質的には違わない、ということでしょう。苦しめられる側の思いと解放の喜びとを思い起こして、憐れみ深く、公平に扱え、ということです。それゆえ、神の律法では例外規定はないのです。お金持ちや王、身分の高い者が例外扱いされることはありません。むしろ、責任ある者こそ、その権力の誘惑に負けずに、厳しく自律することが求められるのです。