聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

申命記二四章(1~13節)「記憶を愛の心に」

2016-05-15 15:25:47 | 申命記

2016/05/15 申命記二四章(1~13節)「記憶を愛の心に」

 

 今日の申命記二四章の最初には、離婚と再婚、そしてその再婚も離婚か死別で終わった場合、元の鞘に収まることはしてはならない、という規定が書かれています。とても回りくどいことを言っているようにも思えますが、新約聖書にこの言葉がとても大事な場面で引用されています。読み飛ばせない、大切な意味を持った言葉です。イエスに、パリサイ人たちが尋ねました。

「どんな理由があれば妻を離別して良いのですか。」

 これに対してイエスは、創世記の二章24節の

「人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる」

を引用されて、

「人は神が結び合わされたものを引き離してはなりません」

と答えられます。それに対して、パリサイ人が、

「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」

と言うのですね[1]。この、モーセが言った言葉、というのが、今日の申命記二四章なのです。しかし、お気づきでしょう。モーセは、「離婚状を渡して妻を離別せよ」とは言っていません(新改訳聖書第二版ではそうなっていますが、第三版で改訂されました)。離婚状を書いて妻を離別して、彼女が再婚して、その再婚関係も終わった場合、またその彼女を娶ることは出来ない、と言っているのですね。離婚したければ離婚状を書けとか、どういう理由なら離婚しても良いのか、ではなくて、その反対です。安易な離婚の禁止です。何か気に入らないというぐらいの理由で妻を去らせて、後からやっぱりあの結婚も悪くなかったなぁと思い直したら、復縁したら良い。そんな軽々しい離婚を禁じているのです。それは、結婚という制度を重んじるためでもあり、当時の社会的に弱い立場にある女性を守るためでもありました[2]

 この事は、次の5節の規定にも積極的に表明されています。

 5人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。

 新婚一年は、兵役を免除されるのですね。でも、それは楽をするためではなく、妻を喜ばせるためです。ここにも、女性を大切にする、という視点があります。家庭を大事にすることが、戦争に匹敵する優先事項とされています。同じように、6節や10節から14節では、貧しい人が借金をする場合の担保について教えています。7節では、誘拐は殺人に等しく処刑されると言われています。8節では病人の取り扱い。16節では、犯罪者の家族の取り扱い、17節以下では在留異国人、孤児、寡婦の権利を守ることが命じられています。どれも、非常に具体的です。生活必需品を質にとってはならない、畑に置き忘れた束も、オリーブや葡萄の取り残しも、在留異国人や孤児、寡婦のものだから取り尽くそうとするな、というのです。

 ここには、イエスが仰った、神の基準がハッキリと読み取れます。

マタイ二五40…『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしたのです。

45…『まことに、おまえたちに告げます。おまえたちが、この最も小さい者たちのひとりにしなかったのは、わたしにしなかったのです。』

 「最も小さい者たちのひとり」。離婚された(あるいは離婚されそうな)女性や、犯罪者の家族、感染性の病気の患者や、在留異国人、孤児、寡婦。そうした人にまで、配慮をする。それがイエスの私たちに求められる、新しい生き方なのですね。勿論、私たちはそうした配慮が十分に出来るわけではありません。イエスも、すべての弱者が十分にケアされる、理想的な社会を求めているのではありません。先のパリサイ派との問答で、イエスは、この規定で、離婚を許すようなことをモーセが言っている理由を、「あなたがたの心がかたくななので」許したのだと仰いました。人の心が頑固で、愛から遠く離れてしまっている。だから、本来ならば夫婦が深く愛し合うべき結婚が、離婚を認めた方がよい修羅場になることがある、という現実に立っているのです。

 5節の

「新婚一年は、妻を喜ばせることに専念させよ」

という掟を本当に実践したらどうでしょうか。夫が威張って、結婚を自分のためと考えたり、妻を家政婦か召使いのように世話をしてくれるのが当然としたりしないのです。かといって、夫が妻の奴隷になるのでもありません。それは結婚ではなくて、主従関係になります。夫婦として向き合いつつ、本当にしてほしいことを知り合っていく一年です。男性が「こういうことをしたら妻は喜ぶだろう」と思い込んでも、それは妻の本当に喜ぶことではない場合もあるでしょう。愛には五つの「言葉」があると言います。お手伝いや配慮が嬉しい人もいれば、言葉で愛を語って欲しい人もいます。キスやタッチやスキンシップで愛を感じる人もいれば、一緒に時間を過ごしたい人もいますし、プレゼントが愛だと感じる人もいます[3]。そういう相手の愛を理解して、何をしてほしいのかを一年かけるなら素晴らしい事ですね。

 しかし、人の心が頑なだとそういう関係にはなりません。むしろ、してもらっていない事を考え、自分が中心になり、被害者意識を持ちます。そういう冷え切った中で、離婚を頭ごなしに禁じるより、モーセは離婚を許した上で、安易な離婚を諫めたのです。それは人を守るためでした。しかし、そうしたらそうしたで、パリサイ派は「どういう理由ならいいのか」という方向に逸脱したのですね。イエスはそういう本末転倒な議論から、人を原点に引き戻されました。神が人を男と女という違う人格に作られ、その違う者が相手を喜ばせ、受け入れ、一年ならず生涯ともに寄り添って生きる結婚を定められたのであって、本来人がそれを引き離してはならない。それを阻んでいるのは私たちの頑なさだと気づかせてくださったのです。

 皆さんは人の頑なさで苦しんだことがありますか。理解されない辛さの体験はありますか。身内に犯罪者や容疑者がいることで嫌な思いをしたことはありますか。病気で汚い者のように扱われたことがあるでしょうか。いいえ、あなた自身が、そのように人を扱ったことがないでしょうか。この聖書の勧めは、そういう社会に宛てられています。決して杓子定規な規定や、綺麗事の理想論ではありません。不当に離婚したり、軽々しく縒りを戻そうとしたり、人攫(ひとさら)いや監禁事件も起き、弱さや貧しさにつけ込む人間の冷たい現実は、三千年以上経った今も変わらないぐらい、人間は頑なですね。

 でもイスラエル人は、その事を誰よりも分かっていました。エジプトで奴隷であった苦しみ、人間性さえ奪われる苦しみを味わってきた記憶がありました。そしてそこから救い出された歴史がありました。だからその事を思い出しなさい、と繰り返して言われています[4]。その記憶は、今ここで身寄りの無い人々に対してどう接するべきかの指針になるのです。字面通りの行動だけなら思い出さなくても出来ます。でも自分たちの痛みを思い出し、それを被害者意識とか内向きにせずに、他の人も苦しんでいる、ここにも辛い思いをしている人がいて、助けを必要としている。自分は何をしてもらって嬉しかったか、この人はどうだろうか。そう思いを馳せる手がかりにも出来ます。痛みの記憶を愛するための力にして、もっと心を込めて生きるよう、頑なな心を開くようにと、私たちは招かれています[5]

 

「主よ。貧困や病気や死があります。人の頑なさを変えることも、自分の頑なさを変えることも私たちには出来ません。しかし、あなたは私たちのために御自身を捧げてくださいました。私たちを顧み、神の家族としてくださいました。それゆえ、喜びも悲しみも苦しみも、私たちの全ての記憶が、他者を愛し、この苦難の絶えない世界でともに生きる力になりますように」



鳴門の春、ユーカリの花も咲いてきました(ウチノ海総合公園)

[1] マタイ十九3-12。「パリサイ人たちがみもとにやって来て、イエスを試みて、こう言った。「何か理由があれば、妻を離別することは律法にかなっているでしょうか。」4イエスは答えて言われた。「創造者は、初めから人を男と女に造って、5『それゆえ、人は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となる』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。6それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。」7彼らはイエスに言った。「では、モーセはなぜ、離婚状を渡して妻を離別せよ、と命じたのですか。」8イエスは彼らに言われた。「モーセは、あなたがたの心がかたくななので、その妻を離別することをあなたがたに許したのです。しかし、初めからそうだったのではありません。9まことに、あなたがたに告げます。だれでも、不貞のためでなくて、その妻を離別し、別の女を妻にする者は姦淫を犯すのです。{そして離縁された女を妻とする者は姦淫を犯すのです。}」10弟子たちはイエスに言った。「もし妻に対する夫の立場がそんなものなら、結婚しないほうがましです。」11しかし、イエスは言われた。「そのことばは、だれでも受け入れることができるわけではありません。ただ、それが許されている者だけができるのです。12というのは、母の胎内から、そのように生まれついた独身者がいます。また、人から独身者にさせられた者もいます。また、天の御国のために、自分から独身者になった者もいるからです。それができる者はそれを受け入れなさい。」

[2] また、この規定には「再出発の奨励」も聞き取れます。最初の離婚が間違っていたといつまでも後悔を引き摺ることは御心ではないのです。あの結婚や離婚の判断の是非に縛られることなく、前進することこそが主の御心なのだ、そう思える規定です。

[3] 参照、ゲーリー・チャップマン『愛を伝える5つの方法』(いのちのことば社、デフォーレスト千恵訳、2007年)。この本は、結婚についてオススメの『結婚の意味』(ティモシー・ケラー、いのちのことば社、2015年)などでも紹介されています。なお姉妹編に同著者とロス・キャンベル共著『子どもに愛が伝わる5つの方法』(いのちのことば社、中村佐知訳、2009年)も。

[4] 18節、22節。

[5] 「エジプトで奴隷であったことを思い出す」は、十六12にも言われます。しかし、この二四章では、前後に在留異国人や孤児、寡婦のことは言われていますが、奴隷についての言及はありません(十六章には言及あり)。しかし、奴隷であったことを思い出すことが、在留異国人や孤児や寡婦への正しい態度に直結すると言われています。ある意味では両者の体験は、本質的には違わない、ということでしょう。苦しめられる側の思いと解放の喜びとを思い起こして、憐れみ深く、公平に扱え、ということです。それゆえ、神の律法では例外規定はないのです。お金持ちや王、身分の高い者が例外扱いされることはありません。むしろ、責任ある者こそ、その権力の誘惑に負けずに、厳しく自律することが求められるのです。

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申命記23章(15~23節)「のろいを祝福に変えられた」

2016-05-08 14:23:04 | 申命記

2016/05/08 申命記二三章(15~25節)「のろいを祝福に変えられた」

 

 申命記の二三章を、1節からではなく15節から読みましたが、説教題は5節の、

 5…あなたの神、主は、あなたのために、のろいを祝福に変えられた。あなたの神、主は、あなたを愛しておられるからである。

から取りました。背景にあるのは、民数記二二章から二四章の出来事ですが、神の民は、神がのろいを祝福に変えて下さることを信じます。神が私たちを愛しておられるので、呪いも祝福に変えて下さるし、神はそれが出来るお方であると信じます。しかし、神にそのようなことが出来ると信じても、実際自分の身に、呪いや禍が降りかかると、それを神が自分のために祝福に変えて下さるとは信じがたくなるのも、正直な現実です。神には不可能はないとは信じても、その力を自分のために働かせてくださるとは信じ切れなくなるのです。自分がもっと神に認めてもらえるように頑張るとか、信心深い生き方をしないと、神も自分を気にかけないのだ、と考えやすいのです。神の民の二流市民か、まだ余所者のような意識なのかもしれません。

 今日は5節から説教題を取りましたが、前半は朗読しにくいように思いましたので、15節以下を読んでいただきました。1節には障害者差別のような規定があります。2節も「不倫の子」はダメだと言われて、3節以下では「アモン人とモアブ人」への民族差別のようです。障害とか生まれた事情とか民族などで、受け付けてもらえないのだとしたら、やっぱり神の民になるのは難しいのでしょうか。神は差別の神、冷酷なお方なのでしょうか。しかし、

15主人のもとからあなたのところに逃げて来た奴隷を、その主人に引き渡してはならない。

16あなたがたのうちに、あなたの町囲みのうちのどこでも彼の好むままに選んだ場所に、あなたとともに住まわせなければならない。彼をしいたげてはならない。

と言われています。この場合の「奴隷」とは、イスラエルの同胞の奴隷というよりも、外国から逃げて来た奴隷を念頭に置いています。その外国がどの外国か、アモン人とモアブ人はダメなのか、エドム人とエジプト人ならいいのか、そんなことは言いません。民族や人種を問わず、逃亡奴隷は突き返したり虐げたりせず、住みたい場所を選ばせて、ともに暮らすようにと言われています。これは、驚くべき規定ではないでしょうか。しかも、当時の国際法だと、友好関係にある国同士は、逃亡奴隷の引き渡しも協定を結ぶのが常識だったそうです。ということは、申命記が逃亡奴隷を引き渡さないと決めると言うことは、他の国家との同盟関係は持てないのです。近隣諸国との利害協定よりも、逃げて来た奴隷を守る方を優先する。そう考えても、聖書が観ている所が、ビックリするほど人道的だと気づくのですね。[1]

 そして、これは前半の規定でも変わりません。1節で言われているのは、事故や病気などで損傷した男性のことではなく、人為的に切り取って去勢した男性、つまり「宦官」です。宗教上の、あるいは政治や職業上の理由で、その人の男性としてのあり方を一生否定してしまう。それがここでは禁じられているのであって、怪我や病気での身体障害者となっている人が拒否されているのではないのです。しかも、後には宦官でさえ受け入れられますね。

イザヤ五六4まことに主はこう仰せられる。「わたしの安息日を守り、わたしの喜ぶ事を選び、わたしの契約を堅く保つ宦官たちには、

 5わたしの家、わたしの城壁のうちで、息子、娘たちにもまさる分け前と名を与え、絶えることのない永遠の名を与える。

 6また、主に連なって主に仕え、主の名を愛し、そのしもべとなった外国人がみな、安息日を守ってこれを汚さず、わたしの契約を保つなら、

 7わたしは彼らを、わたしの聖なる山に連れて行き、わたしの祈りの家で彼らを楽しませる。彼らの全焼のいけにえやその他のいけにえは、わたしの祭壇の上で受け入れられる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれるからだ。[2]

 宦官も外国人も、全ての民が主に仕え、主に礼拝と祈りを捧げるように招かれ、楽しみ、受け入れられる[3]。そういう約束へと展開するのです。申命記や聖書の最初では、大事な原則が具体的に述べられます。体を傷つけたり、不倫をしてはならないことを厳しく教えています。しかし、その字面だけを盾にして、本当に大事な、正義や憐れみや真実が見失われる時、それが修正されるのも聖書です。21節以下では、誓願を果たせとありますが、これもまた後に乱用されて、無責任な誓願もされていきます[4]。そこで、この二千年後、イエスは言われました。

マタイ五34…決して誓ってはいけません。…[5]

37…あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。…

 こういう流れがあるのですね。他にも「不倫の子」でいえば[6]、後にはダビデ王の不倫の子ソロモンが王となります。「モアブ人」は十代目の子孫さえ主の集会に加われないとありますが、「ルツ記」にあるように、ダビデの曾お祖母ちゃんのルツはモアブ人でした[7]。新約聖書の一ページ目の長い系図は、不倫や外国人の血がイエスの家系に入っていたことを強調しています[8]。不倫の子もモアブ人も、主の集会に加えられたのです。そして、使徒の働きではもっと積極的に、神の民は広がっていって、宦官や外国人たちを迎え入れていますね[9]

 そしてそこには、彼らが加わりたい、という魅力があったからです。お情けや無理遣りに「入れてやる」と言われても入りたいとは思えません。奴隷としてこき使われている者が、あそこに行けば自由になれると、逃げて来るような自由さがあったのです。貸せるほどに財産を持つ者が利子でますます富むような社会ではあるな、と言われるのです。口で約束したことは必ず守るとか、腹一杯食べるけれどお持ち帰りはしないとか、不倫はしない、人を呪わない、そういうあり方を大事にするのです[10]。けれども仕事で成功せよとか、嫌でも逃げるな、などガチガチに型にはめることは言われません。模範的な生き方をせよとか、クリスチャンらしくすべきだとも押しつけず、むしろ自由や個性を奪われて苦しむ奴隷が、ここに逃れてきて息をつくことが出来る場所としたいのです。そのための最低限のルールが述べられているのです。[11]

 何よりも、その根底には、私たちを愛しておられる神がおられます。私たちに降りかかる、呪いのような禍や、どんなことをも、神が祝福に変えて下さる。そのような約束が、神の民に与えられています。人の悪意とか敵意とか、禍や災害が降りかからないわけではないのです。病気や死、不幸な出来事は無差別に襲いかかります。そういうことがない「祝福」は言われていません。そうではなく、呪いやどんなことをさえも、神は「祝福」へと変え、万事を益としてくださるのです。それは経済的な祝福とか、個人的な成功よりももっと深く、豊かな「祝福」です[12]。私たちを愛し、ひとり子をさえ惜しまずに与えてくださった神が、私たちの生涯に働いておられます。今はまだ、呪いは呪いとしか見えず、どうしてそれが祝福になるかは分からなくても、神は一つ一つを特別なご計画によって、必ず祝福に変えて下さるのです。

 

「主よ、あなたの祝福は、どんな呪いよりも強く、どんな者をも受け入れ、神の民としてくださる、強く確かな約束です。そして、最も呪わしい呪いは、主ご自身が引き受けてくださいました。心挫く出来事を避けようとせず、なおあなたを信頼し、希望と寛大さを与えてください。痛みや傷の深い世界ですから、あなたからの祝福をもって祝福し合う民とならせてください」



[1] 6節「あなたは一生、彼らのために決して平安も、しあわせも求めてはならない」も、友好関係を結ばない、ということであって、民族差別ではありません。律法が命じるのは、どんな人をも、個人的に虐げたり、辛く当たったり、不正を行ってはならない、という対人関係だったのです。

[2] イザヤ五六3「主に連なる外国人は言ってはならない。「主はきっと、私をその民から切り離される」と。宦官も言ってはならない。「ああ、私は枯れ木だ」と。」

[3] 「王の献酌官」であったネヘミヤも宦官であったと考えられます。ネヘミヤ記一11。

[4] 19-20節では「利息」を取ることを禁じていますが、当時の経済と現代の貨幣経済とを単純に同一視することは無理があります。銀行業や金融業は利息で成立しており、イエスの譬えでも「銀行にあずけるべきだった」ともあります。当時の「利息」は、50%など、現代でも「高利貸し」としか思えない法外なもの。ここから、利息は非聖書的、とは言えませんし、利息の支払いを拒否するなどもってのほかです。

[5] マタイ五33「さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われたのを、あなたがたは聞いています。34しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。…」

[6] 「主の集会」申命記で、この二三章でしか使われない語。

[7] ルツ記参照。

[8] マタイ一5-7。

[9] 使徒の働き八章など。

[10] 9-14節では、主の祝福に答えて、自分たちの中に醜いもの(汚物や排泄物)を放っておかない生活が求められています。14節「あなたの陣営はきよい」は「きよくせよ」という命令ではなく、すでにきよいとされていることに注意。

[11] ただし、契約の本体であるキリストが来られる以前の旧約故、まだこの時点での限界もあった面もありましょう。イエスが来られた時に、聖所の幕は裂け、神と人との隔てが取り除かれ、すべての人が受け入れられるが、旧約では、まだその和解を「待ち望む」段階であったのです。

[12] 神から離れている人間の中では、「神の祝福」そのものの理解が、経済的豊かさや権力や安定になりやすいのです。誓願を止めるのも、誓願を無意味な形式とするのも、奴隷を(積極的にではなく、消極的にであったとしても)虐げることに荷担するのも、貸して上げられるほど豊かなのに利息を取ろうとするのも、みんな私たちの中にある「奪われたくない、損をせず得をしたい」という自己中心です。常にお金のことを考え、損得をはじき出す私たちの「貪り」という偶像崇拝であり、生けるまことの神の祝福を信じ切れない惨めな姿です。与え、他者を生かし、喜んで気前よく惜しみなく、というあり方から程遠い、自分たちさえよければよい、という醜い「祝福」であるならば、それが奪い取られて、本来の祝福に立ち帰ることこそ祝福です。

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申命記二二章(1~12節)「知らんぷりをするな」

2016-05-01 14:29:53 | 申命記

2016/05/01 申命記二二章(1~12節)「知らんぷりをするな」

 

 私はウッカリ者で、落とし物、忘れ物の常習犯です。特に、帽子や手袋を通勤電車に忘れたことは数知れません。その度に駅の落とし物窓口に行くのですが、その時にまた帽子の特徴を聞かれても、書いてあった文字が何だったかが思い出せない、ぐらいの忘れっぽい性格です。それでも落とし物を拾って届けてくださった方がいて、何度も返って来ました。そんな私には今日の律法は格別有り難い律法です。「人がなくしたものを見つけたなら、知らぬふりをしていてはならない。それを返しなさい、あるいは遠くの人や知らない人であれば、わざわざ探して遠くまで出かける必要はないにせよ、保管しておきなさい」です[1]。有り難い規則です。

 「聖書の律法は面倒臭い、几帳面すぎる」そう思いたくなる事もあります。しかし、する側からはそう思えても、してもらう側は実に有り難い気配りです。家畜や着物がなくなったとか、道で立ち往生して本当に困っている時が想定されているのですね。そして、自分が助けてもらいたいように、他の人が困っていれば、知らぬふりをせず助けなさいと言われているのです。

 しかし、今日の箇所では

「知らぬふりをしてはならない」

と三度も言われています。また、

「見つかる」

という言葉もこの二二章には何度も出て来ます。誰も見ていない時、知らぬふりをしようと思えば出来ない訳でもない時、見つからずに隠せそうに思えるその時にも、聖書は光を当てています。むしろ、隠れた所において何をしているか、という本心こそ、神は光を当てられ、そこでの生き方を問われるのです[2]

 あの「良きサマリヤ人の譬え」[3]で、祭司やレビ人、神に仕え、人からの尊敬を受けている立派な立場の人たちが、道で強盗に遭って倒れている人を見た時にどうしたでしょうか。彼らは

「反対側を通って行った」

とあります[4]。普段、礼拝や宗教的な指導でどれほど立派で、欠かせない役割を果たしていても、見えない所での彼らの行動は、神の御心から離れていることを証ししたのです。しかし、普段は敵対していたサマリヤ人が、そこを通った時、強盗に襲われた人を助けてあげました[5]。イエスは、

ルカ十36この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

と尋ねられました。異国人で、反対側を通って見なかったことにも出来るその人に、あわれみ深く接し、その隣人になったのは誰か、と問われました。そして、

37…「あなたも行って同じようにしなさい。」

と仰ったのです。主は私達が、見る人のいない所で「知らぬふり」をしやすいことをご存じです。見える所、人前では良い人に見せよう、キリスト者らしく取り繕おうとします。でも、隠れた所、誰も知り合いのいない町や人混みで、あるいは夜道や、部屋で一人の時、家庭の密室で、見つかったら評判を落とすような行動を取ってしまうことをご存じです。買い物で、旅先で、間違い電話を受けた時、知らない人とぶつかった時、自分がされたら嫌な態度を取って、そんな行動を取ったことも忘れかねない私達であることをご存じです。しかし、神はそこをご覧になって、そういう隠れた所での失敗を責め、重箱の隅を突かれるのではありません。ただ、そのような時にも「知らんぷり」をする生き方を止めなさい、と言われるのです。[6]

 6たまたまあなたが道で、木の上、または地面に鳥の巣を見つけ、それにひなか卵が入っていて、母鳥がひなまたは卵を抱いているなら、その母鳥を子といっしょに取ってはならない。

 7必ず母鳥を去らせて、子を取らなければならない。それは、あなたがしあわせになり、長く生きるためである。

 何と細かい指導でしょうね。けれどもそれは、「細かすぎて、五月蠅(うるさ)すぎる」という意味ではなく、「繊細でデリケート」なという意味での、御心の細やかさだと思うのです。たまたま見つけた鳥の巣で、母鳥と雛が一緒であれば、「得をした!」と丸ごと取りたくなるでしょう。

 絵本の『まのいいりょうし』はまさにそんな話です[7]。「てっぽう一発って…かもを十五わに大いのしし、山のいもなら二十五本、えびっこやどじょっこやざこはおもたいほど、大きなきじのたまごを十こ」。でもその話でも、巣から卵を十個拾うのは母雉が逃げた後なのです。巣ごと卵も一絡げにではない所に、優しさを感じます。申命記も、母鳥と卵や雛を丸ごと戴かず、母鳥を去らせよ、と命じます。狩猟自体を禁じたのではないのです。雛や卵を取るのも可哀想ではあるのですけど、その母鳥の母性本能につけ込んで、全部捕まえてはならない。母鳥の気持ちを少しでも想像するのです。取るのであれば、母鳥を去らせてから、子だけを取れ、と言われる。そして、そうした場面でする小さなことが、幸せと長生きのためと言われるのです。イエスは「空の鳥を見よ。雀の一羽でさえ天の父のお許しなしには落ちることがない」と言われました[8]。天の父が小さな雀の一羽一羽にさえ慈しみ深い方であるように、私達も道で見かけた鳥の家族にさえ想いを致せ、と言われます。

 「愛とは想像力である」

と言います。8節で言われている、屋上に手すりをつけることも、自分は落ちないから大丈夫、というだけでなく、誰かが落ちることがないように、という「想像力」ですね。将来この家に来る人を想像する。木の上の鳥、迷子になっているのを見かけた羊の飼い主にまで想像力を働かせるように、と言われるのです。そしてそれは、主が私達に幸せになって欲しいから、なのです。

 この戒めの根底にあるのは、主ご自身の憐れみです。主が、民に求めておられることは、主がまずしてくださったことなのです。エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエルの民を主は憐れんでくださいました。決して「知らぬふり」をせず、その叫びに耳を傾けてくださいました。主が、私達の苦しみを御自身の苦しみとして、深く知ってくださいました。だから民に対しても、知らぬふりをせず、誰に対しても自分がしてほしいように想像力を働かせて行動することを求められるのです[9]。私達の中には、知らんぷりを通したい狡(ずる)い気持ちがあります。誰も見ていない所で涌き上がる我が儘な想いがあります。でも、主はそういう感情や欲求があることを責め立てて、悪人呼ばわりなさるのでもないし、私達にも恥や否定的な感情を抱かせたいのではないのです。むしろ、その逆に、その隠れた所で身勝手な思いが出て来る時にこそ、他者の思いを想像しなさい、自分がして欲しいような行動を選びなさい、神がいつでもどこでも私達の苦しみにも狡にも知らぬふりをなさらない方であることを思い出しなさい。そうすることで、私達のすべてに、神を迎え入れなさい[10]。そういう招きをここに聞くのです。

 イエスは、苦しむ人の反対側を通る生き方をしている人間を、天の上から責め、裁き、批判するのではなく、放っておけずに、自らこちら側に飛び込んで来てくださいました。そうして私達のために死なれただけでなく、私達の生き方も、温かい想像力のある者へと変えてくださるのです。自分勝手な妄想に生き、知らぬふりで胡麻菓子て、隠し事や言い訳をしながら生きる生き方は詰まらないものです。そこから、神の想像力にならって、他者の立場に自分を置くことが出来るようにされていく。そういう幸せへと、主は私達を招かれるのです。[11]

 

「主よ。私達が善人を装うのでも、隠れた罪の思いに恥じ入るのでもなく、私達の全て、全生活が、全時間が、あなたの愛の眼差しの中にあることを感謝します。知らぬふりをしている自分に気づかせてください。その気づきから、決して知らぬふりをしないあなたを仰がせてください。私達を慈しみ、私達にも慈しみ深い生き方を選ばせて、神の民の歩みに加えてください」

まのいいりょうし

[1] 出二三4、5に既出している命令でもあります。

[2] 隠れた所で何をしているか、が問われるというのは重要なテーマです。二九29「隠れていることは主のもの。しかし…」も、聖定的御心と啓示的御心という読み方がよくされますが、本来は、このような意味でしょう。

[3] 参照、ルカ一〇30-37。

[4] ルカ一〇31「たまたま、祭司がひとり、その道を下って来たが、彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。32同じようにレビ人も、その場所に来て彼を見ると、反対側を通り過ぎて行った。」

[5] 同33「ところが、あるサマリヤ人が、旅の途中、そこに来合わせ、彼を見てかわいそうに思い、34近寄って傷にオリーブ油とぶどう酒を注いで、ほうたいをし、自分の家畜に乗せて宿屋に連れて行き、介抱してやった。35次の日、彼はデナリ二つを取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『介抱してあげてください。もっと費用がかかったら、私が帰りに払います。』」

[6] ここでは5節の「男が女の衣装を、またその逆をすることの厳禁」には触れませんでした。ここから、性的マイノリティを罪とする読み方もあります。しかし、現代の医学的な事実で、男女の差がハッキリしない先天的な肉体もあることや、心が女性の人が男性の体を持っている場合もあると分かってきました。その場合には、むしろ、隠れた「本当の性」に苦しむ方が不自然であり、カミングアウトすることを招かれているとも言えます。そして、それを受け入れる度量も必要です。

[7] 瀬田貞二再話 /赤羽末吉画『まのいいりょうし』福音館書店、1975年。因みに、同じタイトルで、小沢正作、飯野和好画(教育画劇出版、1996年)というものもあるようです。

[8] マタイ十29「二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。30また、あなたがたの髪の毛さえも、みな数えられています。31だから恐れることはありません。あなたがたは、たくさんの雀よりもすぐれた者です。」

[9] 「イスラエルの民が知らぬふりをしないように求められているのは、彼らがエジプトや荒野において、知らぬふりをなさらないお方に導かれて来た恵みの経験をしているからである。イスラエルの民はその恵みに答えて、知らぬふりをしない生き方をするように期待されている。それ故知らぬふりをしないで生きる道は、知らぬふりをなさらないお方を見上げて行くことである。「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった」(詩篇二二24)とある通りである。」宮村武夫『申命記 新聖書講解シリーズ』いのちのことば社、156頁。

[10] マザー・テレサの言葉にこのようなものがあります。「人は不合理、非論理、利己的です。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行いなさい。目的を達しようとするとき、邪魔立てする人に出会うことでしょう。気にすることなく、やり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、善を行い続けなさい。あなたの正直さと誠実さとが、あなたを傷つけるでしょう。気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。けり返されるかもしれません。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい。気にすることなく、最良のものを与え続けなさい…。」

[11] 今回は、二二章の他の規則については割愛しましたが、特に後半の、結婚以外の性交渉についての厳しい規定は、重要です。ただし、純潔と潔癖は違います。結婚までの処女性が絶対視されているのではありません。再婚は禁じられていないことからも明らかです。「処女のしるし」も「月経のしるし」と理解すべきだとも言われます。ここでは、処女かどうか、というよりも、処女でないことを隠したまま結婚していること、場合によっては既に別の男との子どもを妊娠していて、夫がそれと知らずに育てて長子とすることが厳しく戒められています。犯した罪は、自分から告白し、赦しをいただくことは出来るのです。過去の事実としては残るが、人がそれを責めることは出来ません。しかし見つかるまで隠しておくなら、罰を招くのです。
 また、これらの戒めは死刑を宣告しており、厳しすぎるとも考えられます。実際、古代中近東では、同じような規定も、もう少し「寛大」でした。しかしそれは、金持ちや男性にとっての「寛大」です。つまり、貧民や奴隷、女性にとっては著しく不利であり、暴力や不実にも涙を呑んでなかったふりをせざるをえなかったのです。13節以下の「処女のしるしを見なかった」というのも、堂々と裁判に訴えるのではなく、個人的な中傷です。しかし、そうした陰口や悪意をも神は非難され、女性を守り、裁かれるのです。
 また、12節の「房」については民数記十五37-41を参照。房が神の御心を思い起こさせるリマインダとなるのです。しかし、この房を大きくすることで敬虔さをパフォーマンスする、という本末転倒がイエスの時代には起こります。マタイ二三5、参照。

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申命記二一章(1~9節)「いつも水の流れている谷」

2016-04-17 22:20:01 | 申命記

2016/04/17 申命記二一章(1~9節)「いつも水の流れている谷」

 

 先月、土曜日のサスペンス劇場で鳴門が舞台になったことがありました。サスペンス物が大好きな方もおられますが、神も謎かけと謎解きはお好きな方です。そしてモーセは申命記で、「殺人事件」を何度も想定しています。趣味ではなくて、現実的に色々な想定もしています。今日の箇所では、犯人が見つからなかった場合、です。これはサスペンスものでは絶対想定しないケースではないでしょうか。最後まで誰が殺したか分からない、では落ち着けません。しかし、今日の申命記ではそのような場合もあるという現実を見据えています。そしてその時に、ただ不安を抱えたり疑心暗鬼になったり、「自分たちは関係ない、無実だ、むしろ被害者だ」という態度を取るのではないのです。その時、遺体発見現場から最も近い町を調べて、その町の長老たちが、儀式をしなければならない。それが、3節後半からの、

…まだ使役されず、まだくびきを負って引いたことのない群れのうちの雌の子牛を取り、

 4その町の長老たちは、その雌の子牛を、まだ耕されたことも種を蒔かれたこともない、いつも水の流れている谷へ連れて下り、その谷で雌の子牛の首を折りなさい。

 まだ使ったことのない小さな雌牛を、耕したり種を蒔いたりしたことのない谷まで連れて行き、雌牛の首を折る、というのです。まだこれからという雌牛を犠牲にすることも、どれほどの距離があるか分からない谷川まで出かけていくことも、勿体ないことでもあります。「とばっちり」とも言えます。けれども、そうして出かけていって、雌牛の首を折り、

 5そこでレビ族の祭司たちが進み出なさい。…

 6刺し殺された者に最も近い、その町の長老たちはみな、谷で首を折られた雌の子牛の上で手を洗い、

 7証言して言いなさい。「私たちの手は、この血を流さず、私たちの目はそれを見なかった。

 8主よ。あなたが贖い出された御民イスラエルをお赦しください。罪のない者の血を流す罪を、御民イスラエルのうちに負わせないでください。」彼らは血の罪を赦される。

 自分たちは潔白ですでは終わりません。自分たちは手を下した犯人ではないにしても、その犯罪が民の中で行われた以上、その罪の赦しを願い、その罪を除き去る責任はあるのです。

 9あなたは、罪のない者の血を流す罪をあなたがたのうちから除き去らなければならない。主が正しいと見られることをあなたは行わなければならないからである。

 注意したいのは、ここで何故殺人事件が起きたのか、その犯人が見つかりもせず、未解決で終わったのは何故なのか、というようには考えられていないのです。こんな事件が起きたのは何かの呪いではないのか、とか、神の御心はどこにあるのか、もっと言えば、神の前に正しく歩んでいたならこんな事件は起きるはずがない、という発想はここにありません。そういう原因探し(新たな「犯人」捜し)をするのではなく、ただその事態に対して、どう対処すべきなのか、が示されています。私たちもよく、何か思いがけない出来事があると、そこから神の御心を読み取ろうとしたり原因をほじくり返そうとしたりする過ちに陥りやすいものです。しかし、その思いがけない出来事の原因を神に問うよりも、その出来事に対して自分が何をなすべきか、どう応答することが神の御心か、そう考えて行動すること。それこそが、神の御心なのですね。そしてここでは、迷宮入りになった事件を、知らんぷりをしてやり過ごすのではなく、正しい神の前にちゃんと持っていって、自分たちの痛みであり、責任の一端があることを認めて、主の赦しを希(こいねが)うことです。これが、9節の「主が正しいと見られること」なのです。

 解決されていない事件がそのままあると、不安や疑いや気味の悪さなどで心が毒される一方、何もなかったようなふりをする、という方法は取られがちです。ここで命じられているのはそれとは正反対ですね。犠牲は払うけれど、ちゃんとその問題を引き受けて、向き合っておくのです。そのプロセス自体もこっそり儀式だけ済ませるというのではありません。レビ族の祭司たちを招いて、立ち会ってもらうのです[1]。密室でなく、公式にしなければなりません。そうやって、神の前に、起きた事件を差し出して、あわれみと回復を求める。勿論、見つからなかった犯人の罪まで赦されるわけではありません。しかし、いつまでもその未解決事件を引き摺って、話さないけれども誰もが気持ち悪さを抱えたまま、という苦しみから、神は解放してくださいます。赦しを信じて歩んで行こうと、ここでは励まされているのだと思うのです。

 その象徴が、四節の

「いつも水の流れている谷」

です。この谷は、耕したことも種を蒔いたこともない、つまり人里離れた場所、それなりの距離があったでしょう。そこに、いつも水の流れている谷がある[2]。両岸には、詩篇一篇にあるように

「時が来ると実がなり、その葉は枯れない」

木があったでしょう。人が畑にすることもない辺(へん)鄙(ぴ)な場所で、無駄のように水が流れ続け、木を潤し育てています。水を飲みに動物が来、その木の実を啄(ついば)む鳥たちもいた筈です。

 聖書の最初のエデンの園にも、川が流れていました。一つの川がエデンを潤し、そこから全地を潤す四つの大河となっていたとあります[3]。エデンのある木を育て、動物や人間たちの全ての生活を豊かに育んだ川です。エデンから神に背いて追い出され、喉も魂も渇くようになった人間に、神は何度となく水を与え、井戸を掘らせ、泉に導かれました。詩篇や預言書(特にイザヤ書、エゼキエル書)では、神の祝福の約束が川で与えられます[4]。そして聖書の最後、黙示録二二章も

「水晶のように光るいのちの水の川」

の描写で始まります[5]。神は、流れ続ける川を、民に対するいのちの祝福のシンボルとして示されます。私たちはその谷川を慕い喘ぐ鹿のようなものですが[6]、今日の箇所は、その谷川に行って、流れ続ける川の畔に立たなければならないと言うのです。殺人事件があって、それが解決できない。心を闇が覆って、全地が汚れたように思える時も、世界が呪わしいように見える時もあるのです。その時にこそ、川の流れる谷の所に行き、自分たちの立つ地は、決してただの荒野ではないと覚えるのです[7]

 殺人事件ではありませんが、男性に騙され、結婚に何度も失敗した女性がおりました。荒んだ人生を送って来て、誰とも会いたくなく、しかし水を汲まない訳にはいかないので、昼日中に井戸にやってきたこの方にイエスは仰いました。

「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」[8]

 そして、彼女はイエスとの出会いによって、本当に溢れる喜びを持ちました。自分の人生の意味が分かったわけではありませんが、過去を恨む生き方から、過去をも知った上で、受け入れてくださったイエスによって、彼女の人生は、荒野の中でいのちの水を渾々(こんこん)と湧き出させ始め、周りにも溢れたのです[9]。世界は荒野であり、人生には理不尽なことも起きます。私たちの歩みはその中で無駄にヒッソリ流れている川のようなものです。それでも、御言葉や祈り、静まりによって、イエスからいのちを戴き続け、愛と赦しと悔い改めと執り成しをもって歩むなら、私たちの存在は、いのち溢れる泉となるのです。[10]

 

「主よ、心塞ぐこと多く、ドラマのような解決のない現実に、うつろな思いで渇く者を、あなたはいのちの川へと招かれます。その御配慮を感謝致します。過去に蓋をし忘れようとしても、過去を恨み呪っても心は荒むばかりです。どうぞ私たちに、主を仰ぐ者に約束された満たされた心を与えてください。そうして世界の尊さ、人生の価値を取り戻す泉としてお用いください」



[1] レビ人の祭司たちがここにいる理由は書かれていません。彼らには何の役割もないのです。「雌の子牛」は、首を折られるだけで、屠られて血を注ぎ祭壇に燃やされる犠牲とはされません。ですから、祭司たちは、生け贄の儀式のために必要なのでもないのです。ただ、立ち会うため、です。レビ人は「彼らは、あなたの神、主が、御自身に仕えさせ、また主の御名によって祝福を宣言するために選ばれた者であり、どんな争いも、どんな暴行事件も、彼らの判決によるからである。」と説明されています。主の臨在と祝福を覚えるために、彼らはここに招かれます。この事件ののろいや責任逃れなどといった、恐れに裏付けられた儀式ではなく、主の祝福と主への奉仕をそこでも覚えるために、わざわざレビ人が同席するのです。

[2] 季節だけ、雨が降ったときだけ出来るかれ谷(ワディ)ではなくて、いつも水が流れ続けている谷です。

[3] 創世記二10「一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。11第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。12その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。13第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。」

[4] 詩篇四六4「川がある。その流れは、いと高き方の聖なる住まい、神の都を喜ばせる。」、六五9「あなたは、地を訪れ、水を注ぎ、これを大いに豊かにされます。神の川は水で満ちています。あなたは、こうして地の下ごしらえをし、彼らの穀物を作ってくださいます。」、イザヤ四三19「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。」、またエゼキエル書四七章1~12節には、新しい神殿から水が流れて川となり、渡ることのできない川となっていく様子が描かれています。「8…この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。9この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。…12川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食料となり、その葉は薬となる。」

[5] ヨハネの黙示録二二1「御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、2都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。3もはや、のろわれるものは何もない。…」

[6] 詩篇四二1「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」

[7] 無法者が好き勝手にして、捕まらなかった、してやったと笑っているような呪わしい地ではないのです。死が支配している地でもないのです。ここに、いつも流れている川があるように、神はこの世界にいのちを与えてくださいました。誰も畑にしないようなこの場所で、いのちを流れさせ続けている川があるように、神はこの荒野のような世界にもいのちを与えてくださるのです。無駄なように思えることでも、神が祝福なさるのです。

[8] ヨハネの福音書四13-14「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。」。また、同七38「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」

[9] イエスは、やがてもたらされる世界に命の水の川が流れていると語るのではありません。その川が、今ここにおいても流れることを約束されています。どこにもかしこにも、ではありません。全地が覆われるのはまだ先です。

[10] 「それでも夜が明ける」という映画があります。アメリカの黒人奴隷の酷かった時代の実話を元にしています。一人の老いた黒人の葬儀の場面が出て来ます。集まった黒人たちが歌います。「ヨルダン川は流れよ、流れ続けよ」。ヨルダン川とは、奴隷解放の象徴でした。また一人が奴隷のまま酷使されて死んでしまったその葬儀の場で、絶望ではなく、流れ続ける川を歌いました。投げやりになっていた主人公も、この「Run, Jordan, run」の部分を、段々と力強く熱唱していく、大変印象的な場面です。確かに彼ら、虐待されていた黒人たちにとっても、聖書の語る「川」は希望を与えていました。

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申命記二〇章(1~9節)「戦いよりも大事なこと」

2016-04-10 20:19:00 | 申命記

2016/04/10 申命記二〇章(1~9節)「戦いよりも大事なこと」

 

 今日の箇所は戦争について教えています。日本の法律も変わって、戦争が遠い話ではなくなり、都会の真ん中で、テロに遭うかもしれない時代になってしまいました。安全の壁に守られた中で戦争や平和を論じ、「聖書は好戦的だ」「旧約の神は戦いの神だ」などと聖書の血(ち)腥(なまぐさ)い記事を批判する時代から、もっと現実的なこととして戦争を考える時代になりました。しかし今日の箇所は、とても戦争に対して冷静で、水を差すような視点を語っています。戦争をしようとする軍人や将軍にとって、今日の箇所は、絶対に開きたくない箇所であるはずです。

 確かに1節から3節の前半ぐらいなら勇敢にも聞こえます。戦いに出るときは恐れるな、神、主がともにおられる、と勇ましい。弱気になるな、恐れるな、と士気を鼓舞されます。しかし、うろたえるな、おじけるな、と余り繰り返されると、帰ってこれから始まる戦いが厳しいものだと印象づけてしまうようです。そして5節以下は、軍の人材確保からは最悪の勧告ですね。

 5新しい家を建てて、まだそれを奉献しなかった者はいないか[1]。その者は家へ帰らなければならない。彼が戦死して、ほかの者がそれを奉献するといけないから。

 同様に、ぶどう畑を作ってまだ収穫していない者、婚約したけれどまだ結婚していない者は、戦闘に加わるよりも、帰って自分の家に住み、ぶどう畑の収穫をし、結婚しなさい、と言われるのですね。それも、ぶどう畑の収穫をさっさとして来いとか、結婚式だけ挙げてまた戻って来い、ではありません。二四章5節では、新婚後、一年は兵役を免除されて、妻を喜ばせなさい、とあります[2]。また、ぶどう畑は作ってから収穫するまで、五年待たなければならないとされていました[3]。ですから、ぶどう畑を作った者が帰って収穫をして来るなら、何年も兵役を免除されることにもなったのです。だめ出しが8節ですね。

 8…「恐れて弱きになっている者はいないか。その者は家に帰れ。戦友たちの心が、彼の心のようにくじけるといけないから。」

 ここには戦死の可能性が明言されています。「主が守ってくださるのだから、必ず生きて帰れる」などと楽観的な保証はしてくれません。神がともにおられるから戦いを恐れるな、とは言われるものの、命懸けであり死ぬこともあり、狼狽(うろた)え怖じけたくもなるほど、熾烈を極めるのですね。だからこそ、安易な戦争への突入は窘(たしな)められています。1節で、

馬や戦車や、あなたよりも多い軍勢を見ても

とありますが、平時から馬や戦車や最強の軍事力を持とうとしない、ということです[4]。軍人たちにはやりにくい考えだったでしょう。武器や戦車、戦闘機、軍事技術を万端にし、いざ戦争となれば、集まった兵士たちを鼓舞し、勝利を夢見させ、恐れて逃げ帰ろうとすることなど力尽くでも許したくないのではないでしょうか。残した生活や家族のことなど考えさせないか、その家族のためにこそ戦え、と士気を高める方向に持っていったはずです[5]。申命記の言葉は、それとは正反対です。むしろ、戦争に勝つことが最大の目的になってしまう時、人間の生活や農業や夫婦といった、人間としての基本的な営みが犠牲になることを厳しく戒めるのです。軍人の論理が社会を支配するなら、市民は後回しになる。軍隊は国民よりも作戦や勝利を優先しがちなのです。赤紙が来れば断れない。兵士のストレスや秘密保持などのため、夫婦や家庭は深く傷つき、苦しんでいます。19節20節には、包囲戦において、不必要に木を切り倒すことが禁じられていますね。戦争において、自然や環境が無闇に破壊されます。勝つため、あるいは敵を少しでも苦しめるためならば、自然を簡単に壊すのです。その復元には何年、何十年もかかりますし、永久に戻せない場合もあります。これの最たる行為がヒロシマ、ナガサキ。原子爆弾の投下でした。その後も、朝鮮半島の地雷の野原、ベトナムの枯葉剤、湾岸戦争の劣化ウラン弾、そして辺野古です。

 ここでは「恐れず戦え」と言われています。戦わなければならない現実はあるのです。しかし、では普段から強く負けない兵器、軍事技術、最強の軍人たちを育てよう、というのはまた反対の極端な危険です。でも戦争とはそういう誘惑があるものです。その原理は形を変えて社会を動かし、人間性や家族や自然を破壊しています。国家や政治家、中央の生活や、強い人々の欲や利益のため、庶民や地方は顧みられていない。軍事予算が福祉を減らすのも、原発問題や過労死などは、まさにそれです。あるいは個人個人が、自分の責任に向き合いたくなくて、大義ある戦争や大事業や仕事の成功、または教会の奉仕や活動に逃げて、本当に大切にすべき、家庭や人間らしい営みを犠牲にしてしまうこともありがちです[6]。容易い誘惑です[7]

 10節から15節には、遠くの国々と戦わなければならない場合のことが書かれています。まず降伏を勧めること、だまし討ちや奇襲攻撃はしないのですね[8]。捕虜にした場合は、申命記は彼らを在留異国人として大切にするよう命じるのです[9]。苦役に服すると言っても、好きなように虐げていい、人間扱いする必要はない、ということではありませんでした。

 でも16節から18節には、カナンの地のヘテ人、エモリ人たちの絶滅が命じられます。これは正直、やはり抵抗を覚えます。そのまま納得して無理に説明しようとしてはならない言葉だとも思います。ただ、この地の人々が、忌みきらうべき事、子どもの人身御供や近親相姦など、人としてあるまじき文化だったのも事実です。戦いにおいては容赦なく、それこそ軍隊の論理、国家の都合で動いていた国です。そういう国に対して、神は厳しく立ち向かわれるのです。

 「聖絶」は神が特別に、ハッキリと命じられた場合だけのものです。人間がこれを持ちだして、敵を壊滅することを正当化する事は決して許されません。私たちは、神が本当に強く、悪を憎まれることを厳粛に覚え、自戒すべきです[10]。「神がともにおられるのだから恐れない」という告白を乱用して、変な楽観論を持って欲しくはないし、この言葉でもって家庭や生活を犠牲にするような事はしたくないのです。戦争は大変です。まず戦争が起きないよう努めるべきです。ここを読んで「聖絶などしてはならない」と言える現代であれば尚更、私たちは平和づくりが求められています。そして、戦争以上に、人間の生活や農業、夫婦という小さな営みを、また自然環境を守るための戦いを優先したいと思います。これらを失うことはどれほどの悲しみでしょう[11]。それもまた簡単な戦いではありませんが、私たちの神、主がともにおられますから、恐れず弱きにならず、この戦いをしていくのです[12]

 キリストは、この戦いの絶えない世界に、全く大胆で、思いもかけない新しいあり方を示されます。自分の欲望や利益のために人を押しのけるとか、自分の狭い正義感のために人間らしさや家庭や自然も壊して構わないとか、そういう人間の愚かさを覆されるのです。神がともにおられるとは、そのようなものとして私たちが生きることです。私たちの小さな手の業には、自分や出会った人たちの家庭には、この自然には、国家の戦争の勝利にも引けを取らない価値がある。それを守るための戦いは簡単ではないとしても、神がともにおられるほどの尊い意義があるのだと確信して、自分の人生をシッカリ生きるのです。

 

「私たちを愛したもう天の父よ。『恐れてはならない』と言いたもう御声に励まされて、私たちが平和のため、日本や近隣の国々のため、隣人や家庭、小さな人たちのために、労し、戦うことが出来ますように。惑わされず、また逃避せずに、大切なものを守らせてください。大変ではあっても、あなたの愛する私たちの歩みに、かけがえのない価値を確信させてください」

 



[1] 「奉献する」とありますが、実際には、竣工した上で住み始めている、ということでしょう。P. C. Craigie, The Book of Deuteronomy, The New International Commentary on the Old Testament, p.273.

[2] 申命記二四5「人が新妻をめとったときは、その者をいくさに出してはならない。これに何の義務も負わせてはならない。彼は一年の間、自分の家のために自由の身になって、めとった妻を喜ばせなければならない。」 これは「妻を喜ばせる」ためであって、「子どもを産むため」ではないことも注目。結婚の目的の一つは、子孫を産むためですが、それ以上に人格的な交わりこそが目的です。子孫を多く産んで国力を増強するために結婚するのではありません。それならば、結婚は国家繁栄のための手段となってしまいます。

[3] レビ記十九23-25。

[4] この事は、十七16で王に対する注意として戒められていました。

[5] たとえば、以下の記事を参照。「卓越したリーダーはチームの士気を高め、人をやる気にさせるすぐれた演説術を身につけている。ナポレオンの演説は次の三つの要素を含んでいた。 一、まず最初に兵士らの過去の功績を称賛する。これは部下を認め心からの信頼を示すことで、彼らの自尊心を煽る効果がある。 二、次にこれからやる共同の目標を告げる。ここで戦う相手をはっきりさせる。 三、そして最後に敵をののしり、魅力的な褒美を与えることを匂わせる。相手をおとしめることで「自分たちは有利である」と思わせ、かつ「頑張れば褒美が手に入るのだ」というエサを最後に持ってきてやる気を引き出すのだ。戦いに臨む兵士に伝えなければならないことは、これですべてなのだ。」ナポレオンの演説術「人間力」エピソード集「君ならできる。目標はこれだ。敵はまぬけだ。褒美もでかいぞ」

[6] 単調な現実に目を向けるのが面倒臭いから、ますます家や農業や結婚を後回しにして、もっと血湧き肉躍る、戦争とか「国を守る」という大義に酔い痴れる、という力も働くでしょう。「家族のためだ」と言い聞かせて給料を入れるだけで、本当に家族にとっての家長(夫、父親)としてじっくり向き合うことを避けてしまうのです。

[7] 教会も又、「聖戦」の名の下に十字軍などを行いました。十字軍は「聖絶」を掲げたが、時代的には現状への不満のはけ口としてイスラムとの戦いにすり替えたのです。今ここでの仕事に忠実にあるよりも、他に敵を作ることによって、問題を押しつけてやり過ごそうという誘惑は人間に大きいのです。

[8] しかし、士師記十八27ではダン部族がこれをしています。「彼らは、ミカが造った物と、ミカの祭司とを取って、ライシュに行き、平穏で安心しきっている民を襲い、剣の刃で彼らを打ち、火でその町を焼いた。」

[9] 特に、二一10-14では、捕虜の女性さえ、権利を与えられるとされています。その他、律法全体の正義や憐れみ、権利保護の対象に入るのであって、エジプトの奴隷のような非人間的な扱いは断じて禁じられていたのが申命記律法であったことを忘れてはなりません。

[10] McConvilleは、三つのポイントをあげて、本章と聖書の戦争についての記事を読む上での助けとしています。①生きている以上、戦争は避けられず、なんらかのスタンスを持つ必要がある。イスラエルの戦争は主(ヤハウェ)の教唆とその先導のもとになされることを本質とする。②申命記の戦争律法は、現在の戦争にすべてが当てはまるわけではない。現代に「聖戦」はない。③聖書の戦争論は、神が悪と戦われることの象徴である。悪と戦闘とは、地上的な形を取り、最終的には天における戦争と切り離すことは出来ない。J.G. McConville, Deuteronomy, Apollos Old Testament Commentary, IVP, pp.322-323.

[11] 5-7節は、二八30と共鳴している。「あなたが女の人と婚約しても、他の男が彼女と寝る。家を建てても、その中に住むことができない。ぶどう畑を作っても、その収穫をすることができない。」

[12] 恐れずに戦争に行け、家の事は心配するな、ではありません。恐れずに、家の事を大事にせよ、自分の生活の義務を果たせ、なのです。それこそが、国を守る力です。「今日においても、一つの健全な家庭が形成されるなら、その家庭が及ぼす社会的影響は実に広く、深いものがある。家庭の形成、保持のため、どれほど厳しい戦いがなされ犠牲が払われても、行き過ぎとは言えない。日常生活において、家を建てたり、ぶどう畑を管理活用したり、家庭の形成や保持など、武力によらない種々様々な戦いがある。こうした日常の営みこそ何よりの力であり、国を守る力なのである。」宮村武夫『申命記 旧約聖書講解シリーズ』p.142

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