2017/12/24 ルカの福音書2章8-20節「歩み寄る神」
1.羊飼いへの知らせ
今日、世界中で祝われるようになったクリスマスは、イエス・キリストのお生まれを祝うお祭りです。イエスを忘れたドンチャン騒ぎやただのロマンチックな季節になっているとしても、こんなに世界に広まったほど、キリストの誕生の喜びは大きな喜びだったのです。その最初は決して華やかではありませんでした。また、その喜びや素晴らしさを賑やかに盛り上げることもありませんでした。それが野原の羊飼いたちに知らされ、羊飼いたちを通して、多くの人がキリストの誕生を知らされたということは、人間の常識や予想を超えた、驚きだったのです。
8さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
ベツレヘム周辺のどこかで羊の群れを守っていた羊飼いに主の使いが現れ、主の栄光で照らしたのです。その時、彼らは「ウットリ」や「ビックリ」を超えて「非常に恐れた」のです[1]。
10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
救い主がお生まれになった。この神の民全体への大きな喜びを真っ先に告げ知らされるのが、羊飼いだとは誰も、本人たちさえ思いもしませんでした。神はそんな意外な人選をなさいます。
こういうと、私たちは「きっとそれには訳があるに違いない。羊飼いたちが人一倍熱心だったから、実は信仰深かったから」などと原因を求めたがります。聖書はそういうことはひと言も言っていません。でもそれこそ、私たちにとっての慰めですね。神は、信仰深いか、よいクリスチャンか、資格や価値があるかどうかで人を選ぶのではなく、そういう眼中にない人の所に来て下さるのです。神御自身が、私たちの所に歩み寄ってくださって、予想もしなかった「大きな喜び」を知らせてくださるのです。それも勿体ないほどの大きな喜びです。
神の知らせが羊飼いたちに選ばれた、というギャップだけではありません。
12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
救い主がお生まれになったこと、その方が貧しい庶民と同じように「布にくるまって飼葉桶に寝ている」こと、それこそあなたがた(貧しい羊飼いたち)のためだというしるしだ、ということ。どれもが不思議で意外です。それともう一つ、しみじみと思うのが13節です。
13すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
2.天の軍勢が現れて
羊飼いはたった何人かだったでしょう[2]。せいぜい多目に見ても
「おびただしい天の軍勢」
の前には大差ないでしょう。天使の軍勢の大合唱というまたとない光景の観客としては甚だ物足りなくはありませんか。せっかくの大演奏なら、もっと場所や規模や人数を選んで相応しく、と私たちは考えます。でも、ここでは、数人の貧しい夜勤の労働者、雇われ作業者の前に、御使いの大軍勢が現れて、神を賛美するのです。「フラッシュモブ」というのがあります。公共の場でいきなりダンスや歌や演奏が始まるようなパフォーマンスです。あまり押しつけがましくて迷惑な場合もありますが、よく考えられて準備されたパフォーマンスは素晴らしい。皆が笑顔になり、幸せになります。予想もしなかった、楽しい美しいものに触れるのは、将に恵みの味わいです。私も四国に来て、特にこの一年、三好の祖谷や高知や愛媛を訪ねて、美しい景色を見て心が洗われるような思いに何度もなりました。イエスは
「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」
と仰いました[3]。「太陽や雨が誰にも同じように注ぐのは当たり前の自然現象ではないか」と思うところですが、イエスは太陽が昇り、雨が降るのは、その一人一人への神の赦し、和解、愛のしるしなのだとサラッと仰るのです。私たちが凹んだり後悔したり孤独な時、美しい音楽や雄大な景色や思いがけない出会いがあって泣けてくるのは、赦しや愛を体験しているから、心の奥の何とも言えない渇いた所に水がしみ通るからではないでしょうか。
羊飼いたちに天の大軍勢が現れて、神への賛美を聞かせたこと。天の芸術を一握りの羊飼いたちに惜しげなく聞かせたこと。それは羊飼いたちにとって、神の限りない恵みの体験でした。
3.栄光が神に、平和がみこころにかなう人々に
この賛美は短いながら、クリスマスの讃美歌やミサ曲の「グローリア」、数え切れないバリエーションに歌われて、素晴らしい合唱に再現されてきました。実際これがどれほど美しく力強い歌声だったかは想像の域を出ません[4]。ただその賛美の中身はハッキリしています。
「いと高きところで神に栄光、地の上で平和がみこころにかなう人々に」
ここで平和は
「御心にかなう人々に」
であって、「すべての人」とは言われません。けれどもこれを聞かされた羊飼いたちにとって他人事であるはずがありません。彼らは自分が御心にかなう人とは思ってもいなかったでしょう。その羊飼いたちをも神が顧みて、神の方から歩み寄ってくださり、平和を下さるのです。私たちも、自分が神に叶うように、神を喜ばせるような生き方に励む以前に、まず神が私たちに歩み寄り、勿体ないという言葉では到底足りないほどの恵みを下さり、私たちを治め、素晴らしい喜びを戴くのです。神の民として救われて、神の御心にかなう者としていただくのです。その御心を拒んだまま、自分勝手な平和や幸せを望むことは出来ません。怖ろしいほどに尊い神の御心を軽んじたまま、安全や自分の願いだけを求めることは何を願っているか分からないだけです。太陽も雨も、自分の命も喜びも、素晴らしいもの、美しいもの全てを下さっている神の御心に触れられて、私たちが神の民とされて、平和が来るのです。
その平和をもたらすため世界の主であるキリストがこの世に来られました。野原の羊飼いたちに知らせ、天使の大合唱を聞かせてまで、神に栄光、地に平和、と力強く約束なさいました。飼葉桶に寝ているみどりごは本当に小さな存在です。それをロマンチックに考え、教会でも毎年忙しく祝いながら、どこかで自分の生活や、毎日の仕事、世界の争い、そして自分自身にため息をついてしまうものです。そうしてため息をついている私たちの所に、キリストが来てくださったのです。地の上に争いや差別でなく、平和をもたらし、私たちを御心にかなう人と呼ばれます。そのために、神御自身が限りなく身を低くし、貧しい子のような形で寄り添い、喜びの歌を望外の形で届けてくださいました。天の軍勢が歌い上げる大きな神の恵みを、私たちも聴いています。惜しげもなく、神は私たちにこの平和の知らせを伝えておられます。
キリストの低い御生涯は、羊飼いを始め全ての人に平和をもたらす始まりです。今も主は人の心の奥深くに、この世界の隅々に働いて、地の上に本当の平和を造っておられます。やがて狼と小羊が、羊飼いと王、人種も敵味方も一緒に主の民とされて、神を心からあがめる平和へと、私たちは進んでいます。その道は平坦ではありません。だからこそ、キリストが約束してくださった平和へと歩んでいる、という信仰は、どんな武器や脅しよりも強いのです。この希望が、どんな悪政や差別や搾取をも覆すのです。平和が今もすべての人に届きますよう、悲しみや争いの中にある人にこそキリストの喜びの歌が届くために、遣わされたいと思います。
「主がこの世界に来られ、羊飼いに平和の歌声を聞かせてくださいました。その喜びが世界に溢れています。あなた御自身が、私たちの所に来られて、平和となってくださいました。どうぞあなたの恵みによって私たちがこの恵みを十分に味わい、感謝し喜び歩めますように。今その平和を目指し、分け隔てなくこの平和を届け生きることで、クリスマスを祝えますように」
[1] 現代の多くのクリスマスの絵では、ぷっくらした可愛らしい天使がニコニコした羊飼いたちと可愛い羊たちの周りで歌っている、というのどかな光景が描かれます。聖書のオリジナル版や数々の名画では天使は可愛いよりも威厳があって圧倒するような輝きがあって、羊飼いたちは驚いて顔をかばって描かれ、そして羊はたいてい無関心です。
[2] やとわれ羊飼いで、当時の群れの規模を考えても、そう大人数ではなかったと想像します。また、後でマリアとヨセフと飼葉桶のみどりごを捜して、羊たちとともに行けるのも、あまりの大人数では難しいでしょう。どんなに多いとしても、御使いの軍勢ほどとは思えません。
[3] マタイ五44、45。
[4] そもそも人が思うような美しさとは全く違うものだったのかもしれません。神の国の文化は、西洋の音楽のイメージだけではなく、世界中の言語や文化の多様性を含めた、バラエティ豊かなものなのですから。