聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2022/1/30 Ⅰ列王記18章「火のテスト」こども聖書㊺

2022-01-29 11:17:50 | こども聖書
2022/1/30 Ⅰ列王記18章「火のテスト」こども聖書㊺

 今日の箇所、まことの神である主の預言者エリヤと、偶像の神バアルの預言者たちの対決です。イスラエルの民は、主なる神様に導かれてここまで来たのに、その神を捨てて、偶像の神様、強そうなバアルの神に心を向けてしまっていました。

十八22そこで、エリヤは民に向かって行った。「私一人が主の預言者として残っている。バアルの預言者は四百五十人だ。23私たちのために、彼らに二頭の雄牛を用意させよ。彼らに、自分たちで一頭の雄牛を選び、それを切り裂いて薪の上に載せるようにさせよ。火をつけてはならない。私は、もう一頭の雄牛を同じようにし、薪の上に載せて、火をつけずにおく。

 どちらが本当の神か、証明しよう。どちらも、生贄の祭壇に火をつけずに置き、それぞれの神に祈って、火をつけてくれる方が本物だ、という挑戦でした。

24おまえたちは自分たちの神の名を呼べ。私は主の名を呼ぶ。そのとき、火をもって答える神、その方が神である。」民はみな答えて、「それがよい」と言った。

 バアルの預言者が先に始めました。朝から晩まで、四百五十人の預言者が叫びました。

26…「バアルよ、私たちに答えてください。」しかし何の声もなく、答える者もなかった。そこで彼らは、自分たちが造った祭壇のあたりで踊り回った。



 それでも何も起きません。エリヤは彼らを嘲って、馬鹿にします。しかし、

28彼らはますます大声で叫び、彼らの慣わしによって、剣や槍で、血を流すまで自分たちの身を傷つけた。29このようにして、昼も過ぎ、ささげ物を献げる時まで騒ぎ立てたが、何の声もなく、答える者もなく、注目する者もなかった。



 そこで、今度はエリヤの番です。エリヤは、主のための祭壇を築きます。それは久しぶりの主のための祭壇でした。イスラエルの十二部族の数をとって、十二の石の小さな祭壇を築きました。そして、なんと彼はここに水をかけます。



32…祭壇の周りに、二セアの種が入るほどの溝を掘った。…34「四つのかめに水を満たし、この全焼のささげ物と薪の上に注げ」と命じた。…「もう一度それをせよ」…「三度目をせよ」と言ったので、彼らは三度目をした。35水は祭壇の周りに流れ出した。彼は溝にも水を満たした。

 四つの瓶に満たした水を三度、さあ、瓶に何杯分の水ですか?









 そう、十二杯です。イスラエルの十二部族の数の石と、同じ数だけの水です。勿論、水を掛けたのだから、インチキではありませんよ、むしろ絶対に火が付くなんて無理なような状態ですよ、という事でもあったでしょう。そのビショビショの小さな祭壇の前でエリヤは祈ります。

36…「アブラハム、イサク、イスラエルの神、主よ。あなたがイスラエルにおいて神であり、私があなたのしもべであり、あなたのおことばによって私がこれらすべてのことを行ったということが、今日、明らかになりますように。37私に答えてください。主よ、私に答えてください。そうすればこの民は、主よ、あなたこそ神であり、あなたが彼らの心を翻してくださったことを知るでしょう。


 一度こう祈っただけです。大声でずっと叫んだり、踊ったり、自分の身を傷つけて血を流したりはしませんでした。エリヤがこう一度祈ると、主は答えられました。すると、

38…主の火が降り全焼の捧げ物と薪と石と土を焼き尽くし溝の水もなめ尽くした。39民はみなこれを見てひれ伏し、「主こそ神です。主こそ神です」と言った。



 すごいですね。主は本当の神です。人間が考えたバアルと違って、生きておられ、そして、水でビショ濡れの祭壇に天から火を下して、生贄を焼き尽くすことの出来る神。こうして、バアルの預言者たちは負けて、エリヤの神こそ本物だと分かりました。

 では、バアルは壊されて、イスラエルの民は主への信仰に立ち帰ったと思いますか?いいえ、そうではありませんでした。この後、アハブ王の妻イゼベルがこれを聞くと、

十九2すると、イゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言った。「もし私が、明日の今ごろまでに、おまえのいのちをあの者たちの一人のいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」



 これを聞いたエリヤは怯えて、荒野に逃げてしまうのです。そうです。こんなものすごい奇蹟も、民の心をほんの僅かな間、動かしただけでした。
「主こそ神です。主こそ神です」
と熱狂した民の心は、冷めるのも早く、すぐに元に戻ってしまいました。天から火を下すような奇蹟は、主の力を確かに証明しました。しかし、それ以上に、そんな奇蹟では民の心を深く変えることは出来ない、という人間の姿を証明したのです。

 後に、イエスも多くの奇蹟をなさいましたが、それは人の深い変化を殆どもたらしませんでした。イエスの弟子たちは、エリヤの出来事を思い出して、自分たちを受け入れないサマリヤの人たちのために、天から火を下すよう祈ろうと考えました。

ルカの福音書九54…「主よ。私たちが天から火を下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」55しかし、イエスは振り向いて二人を叱られた。

 イエスはこのような考えを叱られます。なぜなら人の変化は、奇蹟とか人かそんな脅しでは起きないとご存じだからです。それは上辺の一時的な変化しかもたらしません。イエスは私たちを変えるため、大きな奇蹟より、ご自分のいのちを与えることを選ばれました。エリヤも、この出来事を通して、人の心を変えようとする虚しさを手放して、自分が主に信頼して、出来る事をして、人を育てるよう、変えられていきます。

 天から火が下った、聖書でも最も目覚ましい奇蹟の一つが教えています。人の考えは大きな奇蹟を見ても変わらない。華々しい力を見せられたら、私たちの信仰を知ってもらったり、クリスチャンも増えるだなんて思うのは妄想に過ぎない。その事を、この「火のテスト」は明らかにしました。ただ主の恵みが人の心を変えるのです。イスラエル十二部族を象徴する祭壇に、主が天から火を下してくださいました。ただ主の深い恵みによって、主ご自身の忍耐と犠牲によって、長い時間を掛けて、私たちの生き方が取り扱われていくのです。主は私たちの心も、どんな人の心も、燃やしてくださいます。


「主よ、目覚ましい奇蹟を期待し、憎らしい人をあざ笑ってやりたい愚かな誘惑から、私たちをお救いください。そんな見えるしるしより、私たち自身の冷えた心を燃やして、私たちをあなたの証しとしてください。あなたこそ神です。奇蹟よりも十字架をもって自らを与えたもうイエス様こそ、本当に力ある神。あなたに私たちも従わせてください」
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2022/1/23 Ⅰ列王記17章「ツァレファテのやもめ」こども聖書㊹

2022-01-22 12:04:27 | こども聖書
2022/1/23 Ⅰ列王記17章「ツァレファテのやもめ」こども聖書㊹

 預言者エリヤは、イスラエルに雨が降らなくなると告げました。それは、本当の神から離れていた人々に、世界を創り、雨を降らせ、太陽を昇らせ、私たちに食べ物を下さるのは、本当の神だけであることを力強く知らせるためでした。神である主は、エリヤを細いケリテという川へ行かせ、烏にパンと肉を運ばせてエリヤを養いました。しかし、

7…しばらくすると、その川が涸れた。その地方に雨が降らなかったからである。

 その川も涸れてしまったのです。どうしましょう。そこに導かれたのは神なのに。時に神は、そのようなことをなさいます。でも、それも神のお考えがあってのことです。

8すると、彼に次のような主のことばがあった。9「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしはそこの一人のやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

 ツァレファテは、イスラエルの更に北、シドンの国の町です。そこまで100km以上はあるでしょう。何より、シドンは異教の国です。アハブ王が今、神を冒涜して礼拝しているバアルの神はシドンの宗教であり、シドンの王女イゼベルこそアハブ王の妻となって、夫をバアル礼拝に引きずり込み、後々までイスラエルを操った女傑です。そのシドンの町ツァレファテに行け、と主は言われるのです。

10彼はツァレファテへ出て行った。その町の門に着くと、ちょうどそこに、薪を拾い集めている一人のやもめがいた。そこで、エリヤは彼女に声をかけて言った。
「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」
11彼女が取りに行こうとすると、エリヤは彼女を呼んで言った。
「一口のパンも持って来てください。」
12彼女は答えた。
「あなたの神、主は生きておられます。私には焼いたパンはありません。ただ、かめの中に一握りの粉と、壺の中にほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本の薪を集め、帰って行って、私と息子のためにそれを調理し、それを食べて死のうとしているのです」

 シドンも雨が降らず、食べ物がなかったのでしょうか。そうではなかったけれど、この女性は貧しくて、食べ物があと少ししかなく、息子と二人の最後の食事を食べて死ぬしかないと絶望していたのでしょうか。もう明日への希望さえ持てない。そんな女性でした。



「あなたの神、主は生きておられます」
は、エリヤの神は生きておられるけれど、私には関係ない、私の神は死んでしまった、という皮肉な言葉にも聞こえます。こんな言葉をいう女性は頼りになるでしょうか。この投げやりな言葉に、こちらまで絶望してしまいそうにならないでしょうか。しかし、エリヤは言いました。

13…「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。その後で、あなたとあなたの子どものために作りなさい。14イスラエルの神、主が、こう言われるからです。『主が地の上に雨を降らせる日まで、そのかめの粉は尽きず、その壺の油はなくならない。』」

 この言葉を、エリヤがいつ聞いたのかは分かりません。ここに来る前だったのか、この時に主がエリヤに語りかけられたのか。興味はありますが、エリヤはこの主の言葉を根拠に、やもめに
「恐れてはいけません」
と言いました。そして、その信頼の証しとして、まずエリヤのために小さなパン菓子を作れと言います。彼女にも、主が生きておられる神であることを信じるよう求めます。そして、彼女はそれに従うのです。

15彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。16エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。



 彼女は行って、エリヤの言葉の通りにした。それは丁度5節で、エリヤが主に言われた通り、ケリテ川に行った、というのと重なります。異教徒のやもめが、主の言葉の通りに行動する。そして、思い切って、自分のためを差し置いて、エリヤのために、パンを焼いて与える。この決断が、この状況を変えるのです。本当に主の言葉の通り、瓶の粉は尽きず、壺の油はなくならなかった。彼らはずっと、パンを食べ、生き延びることが出来ました。この母子は生き延び、エリヤもこの家で養ってもらいました。聖書にはこの後、もう一つ、大きな出来事があったことが書かれています。その出来事を経て、

17:24 その女はエリヤに言った。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」



 異国のシドン人の貧しい女性、もう息子ともども死ぬしかないと思っていた女性が、こんな言葉を口にするのです。イスラエルの王アハブや、国民たちも、エリヤを疎んじていました。エリヤの語るのが主の言葉であることを認めようとしませんでした。そんな中この女性が、こういう告白をしたことは、本当に不思議なことです。決して小さくない、かけがえのない尊いことです。そして、神様はそのようなことをなさるお方です。後に、イエスはこの出来事を引き合いにして、集まった人々に語られます。

ルカ4:25~26「まことに、あなたがたに言います。エリヤの時代に、イスラエルに多くのやもめがいました。三年六か月の間、天が閉じられ、大飢饉が全地に起こったとき、26 そのやもめたちのだれのところにもエリヤは遣わされず、シドンのツァレファテにいた、一人のやもめの女にだけ遣わされました。」

 今日の出来事を引き合いにして、イエスは神の眼差しの思いがけなさを語られました。すべての人にとって、まことの神が神として働かれます。聖書の言葉を私たちへの言葉として従いましょう。自分だけでなく、他の人にもそうであることを覚えましょう。恐れることなく、持っているものを分かち合いましょう。
 それが一握りの粉やほんの少しの油のような、小さなものであるとしても、主はそれも私たちをも用いられます。主が祝福のために用いて下さることを信頼して、主の言葉に従って、生きてゆきましょう。



「主よ、あなたの言葉は真実です。私たちもその言葉を信じます。多くを持っていれば、あなたを忘れ、僅かしかなければあなたを恨む、そんな私たちをもあなたが引き寄せて、生かしてくださいます。どうぞ、全ての人に、命と信仰を与えてください。感謝と分かち合う心を与えて、新しくしてください。エリヤを遠くへ遣わし、主イエスご自身が遠くに来られた、その深い憐れみを、私たちの生涯においても豊かに現してください」
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2022/1/16 Ⅰ列王記17章「エリヤとからす」こども聖書㊸

2022-01-16 10:54:40 | こども聖書
2022/1/16 Ⅰ列王記17章「エリヤとからす」こども聖書㊸

 前回は「栄華を極めたソロモン王」の話をしました。誰よりも賢く、繁栄の絶頂を築いたソロモンの足元では民衆が、重税に喘ぎ、重労働に疲れ果てていました。



 そうして、ソロモンの子どもの時代には王国は南北に分裂してしまいます。



 半分以上の人々が、もう一緒にやっていられない、自分たちこそ神様の民だ、と違う王を立てて、分かれてしまったのです。そのような時代が三百年ほど続きました。そして、王が何度も変わり、六番目の王がアハブ王でした。彼は、イスラエルの国の歴史でも最悪の王の一人でした。

Ⅰ列王記十六章30節オムリの子アハブは、彼以前のだれよりも主の目に悪であることを行った。31…彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻とし、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。32さらに彼は、サマリアに建てたバアルの神殿に、バアルのために祭壇を築いた。33アハブはアシェラ像も造った。こうしてアハブは、彼以前の、イスラエルのすべての王たちにもまして、ますますイスラエルの神、主の怒りを引き起こすようなことを行った。

 誰よりも主の目に悪であることを行い、外国の王妃を娶って、その神バアルを拝んで、神殿と祭壇まで作りました。そうして、ますます主の怒りを引き起こすようなことばかりをしたのです。このアハブ王と妻イゼベルの時代のことが、列王記には十九章にも亘って詳しく記されています。その時代に活躍した一人が、預言者エリヤでした。

 神様に背いて分裂していた時代、最悪だった時代の、最悪なアハブ王の時代。それは、神様が無視するか、すぐに滅ぼしても良かったような時代です。けれども、その時代にこそ聖書はじっくりと目を留めています。大預言者エリヤが登場して、活躍をします。それによって、アハブが反省したり、国が改善されたりしたわけではありません。しかし主はエリヤを遣わして、いくつもの大切な言葉を伝えさせました。

 この主の言葉を預かる人。聖書にいう「預言者」は、神の言葉を預かった人です。予言者というと、まだ起きていない未来の出来事を予め言葉にする人です。聖書の預言者は将来のことを話すこともありますが、それよりも大事なのは、神の言葉を預かって伝えることです。今、ここに生きる人に、神が何を仰っているかを伝える事です。

17:1 ギルアデの住民であるティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私が仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない。」

 アハブは、北イスラエル王国の首都サマリアにいました。バアルのための神殿を建てていました。そのバアルの神は、農業の神、豊作の神、つまり雨を降らせる神ともいわれていました。そこにエリヤがやってきました。

 エリヤはギルアデの住民と言われます。ギルアデは、イスラエルより東の、ヨルダン川を挟んだ向こう、田舎の地域です。田舎者のエリヤが、王の前に立っていうのです。
「私のことばによるのでなければ、ここ数年の間、露も降りず、雨も降らない」
と。アハブ王がどんなに威張って、バアルが雨の神様だとか何だとか言おうと、主が遣わされた、田舎者のエリヤはその前に立って、アハブ王にもの申すのです。そして、実際に、この時から数年間、雨は降りません。民の水も、畑の農作物や家畜の飲み水も少なくなり、どうやって生きられたのでしょうか。どうしようも出来ません。アハブ王とイゼベルの勢いはまったくの空威張りに過ぎなくなってしまうのです。しかし、エリヤ自身も雨が降らなければ困ります。

17:2それから、エリヤに次のような主のことばがあった。3「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。4あなたはその川の水を飲むことになる。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

 エリヤはサマリアを去って、身を隠せと言われます。アハブは、エリヤの言葉が図星なのに何も言い返せず、負けを認めるより腹を立て、捕まえて殺そうとしたのでしょう。主はエリヤをヨルダン川の東のケリテ川に行かせるのです。この川もまもなく枯れるのですから、細い川だったのでしょう。



 それはエリヤにとっては、とても心細い事だったかもしれません。そんな所に身を隠さなければならないなんて。でも、

5 そこでエリヤは行って、主のことばどおりにした。彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだ。6 何羽かの烏が、朝、彼のところにパンと肉を、また夕方にパンと肉を運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

 エリヤは、逃げた先で、主は約束通り、烏を遣わしました。どうやってか、烏は朝にも夕方にも、パンと肉を運んできたのです。不思議ですね。どうやったのでしょう。誰かの家からもらってきたパンを、エリヤの前に届けてくれたのでしょうか。それとも、うっかりエリヤの頭の上に毎日落としてしまっていたのでしょうか。



 エリヤも不思議だったに違いありません。それ以上に、烏を使う、という主のやり方そのものが、不思議でした。烏は律法では、汚れた動物でした。生贄にしたり、食べたりすることは禁じられている、あまり好ましくないような鳥です。でも神は、その烏に命じて、エリヤを養わせたと言います。何故か毎日、エリヤにパンと肉をどこからともなく運んできてくれます。それも、肉なんて一回でもご馳走だったはずです。それを一日二回食べるなんて、ビックリするようなご馳走だったのでしょう。神様は、烏も用いるし、田舎者のエリヤも預言者とされますし、最悪の北イスラエル王国にも語りかけておられました。私たち人間には計り知ることの出来ない不思議を、神はなさるのです。

 その不思議をエリヤは信じました。王の前に立つなど思いも及ばなかったでしょうが、王より遙かに偉大で、雨も烏もすべてを支配しておられる神を信頼しました。水がない時、主はエリヤをケリテ川に逃れさせ、烏の運ぶパンと肉で養わせました。その不思議な導きを、私たちは信じるのです。アハブを打ち負かすことは出来なくても、アハブよりも確かな主を信頼して、御力によって強められることこそ、私たちの証しなのです。

ヤコブ書5:17エリヤは私たちと同じ人間でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六か月の間、雨は地に降りませんでした。

「天と地を作り、雨も烏も、エリヤも私たちも愛したもう神様。私たちも、あなたの声を運ばせてください。人の言葉に振り回され、人の力に屈しそうになる時、どうかその愚かさから救い、勇気をもってあなたに信頼させてください。あなたが私たちを養い、導き、苦しみや渇きを通っても、必ず、主の恵みを観させてくださることを信頼します」
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2022/1/9 Ⅰ列王記3-9章「賢い王ソロモン」こども聖書㊷

2022-01-08 12:48:47 | こども聖書
2022/1/9 Ⅰ列王記3-9章「賢い王ソロモン」こども聖書㊷

 ソロモン王の事を、イエスは
「栄華を極めたソロモン」
と言いました。ソロモンの時代、父王のダビデの時代よりも更に北に領土を伸ばしました。ソロモンは主のために立派な神殿も建てました。その経済力で、豪勢な生活をしたことも分かります。実に「栄華を極めたソロモン」でした。



 しかし、ソロモンの働きの中で最も注目したいのは、彼が神から知恵を授かったことです。王となったばかりの彼に、主は夢に現れて、

…主は夜の夢のうちにソロモンに現れた。神は仰せられた。「あなたに何を与えようか。願え。」 Ⅰ列王記3章5節

 こう問われて、何をソロモンは願ったでしょうか。それが、知恵でした。

善悪を判断してあなたの民をさばくために、聞き分ける心をしもべに与えてください。さもなければ、だれに、この大勢のあなたの民をさばくことができるでしょうか。」 3章9節

 これは主の御心にかなう願いでした。

11 神は彼に仰せられた。「あなたがこのことを願い、自分のために長寿を願わず、自分のために富を願わず、あなたの敵のいのちさえ願わず、むしろ、自分のために正しい訴えを聞き分ける判断力を願ったので、

 富や敵の命では無く、判断力を願った。そこで、

12見よ、わたしはあなたが言った通りにする。見よ。わたしはあなたに、知恵と判断の心を与える。あなたより前に、あなたのような者はなく、あなたの後に、あなたのような者は起こらない。13そのうえ、あなたが願わなかったもの、富と誉れもあなたに与える。あなたが生きている限り、王たちの中であなたに並ぶ者は一人もいない。14また、あなたの父ダビデが歩んだように、あなたもわたしの掟と命令を守ってわたしの道に歩むなら、あなたの日々を長くしよう。」

 こう言われて、ソロモンは大変賢い知恵をもって、民の問題を裁きます。遠くの国から質問に来た王たちの相談にも、賢く答えたソロモン王でした。私たちも、神様に何を願うかと考えたら、愚かな願いをしないように、賢い判断力、知恵を願いましょう。愚かな願いから救って、知恵を下さい、と願う。ソロモンから学びたいと思います。

 そしてソロモンは七年かけて神殿を建てました。それは、金で飾られた立派な神殿でした。しかし神が大きな神殿を建てなさいと命じたものではありませんでした。ですからソロモンも、この神殿を自慢するような祈りはしません。8章の奉献の祈りで27~28

…神は、はたして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。28あなたのしもべの祈りと願いに御顔を向けてください。私の神、主よ。あなたのしもべが、今日、御前にささげる叫びと祈りを聞いてください。

 どんな立派な神殿だって、神様を入れることは出来ません。だから、ただ神が憐れんでくださり、民がこの神殿に捧げる祈りに、どうぞ耳を傾けてくださいと祈ったのです。この日の夜、主はもう一度ソロモンの夢に現れました。その時の言葉で、

九6もし、あなたがたとあなたがたの子孫が、わたしに背を向けて離れ、あなたがたの前に置いたわたしの命令とわたしの掟を守らずに、行ってほかの神々に仕え、それを拝むなら、7わたしは彼らに与えた地の面からイスラエルを断ち切り、わたしがわたしの名のために聖別した宮をわたしの前から投げ捨てる。…

と言われたのです。ソロモンや後の子孫が、主の言葉に背いて、他の神を慕い求めるなら、いくらこの神殿が立派でもこの神殿を投げ捨てる、と言われたのです。そして、残念なことに、実際そうなってしまいました。ソロモンは後年、主の言葉に聞き従わず、偶像崇拝に走ってしまいます。
 いいえ最初から、ソロモンは多くの妻を娶り、贅沢な暮らしに走って、危うさをちらつかせていました。その心配が、晩年になって本当に当たってしまい、ソロモンは主から離れ、神の言葉よりも、多くの妻たちの言葉に聞き従ってしまうのです。



 後々まで、ソロモンは反面教師として引用されます。ネヘミヤは、

イスラエルの王ソロモンも、このことで罪を犯したではないか。多くの国の中で彼のような王はいなかった。彼は神に愛され、神は彼をイスラエル全土を治める王としたのに、その彼にさえ異国人の女たちが罪を犯させてしまった。(ネヘミヤ13:26)

 また、ソロモンの建てた立派な神殿やもっと立派な王宮、そして彼の贅沢な暮らしは、民の税金や重労働の上に成り立っていました。ソロモンは民に犠牲を強いていたのです。ソロモンの死後、彼の息子に民衆が訴えたのは、ソロモンの時代の苦しさでした。

12:4 「あなたの父上は、私たちのくびきを重くしました。今、あなたは、父上が私たちに負わせた過酷な労働と重いくびきを軽くしてください。そうすれば、私たちはあなたに仕えます。」

 ソロモンは主に知恵を願い、主はそれを喜んで与えてくださいました。でもソロモンがその知恵をえり好みして、富や繁栄を愛したのであれば、どうしようもありません。ソロモンの賢さや神殿建設の業績は、手放しで誉められるものではないのです。
 最初に言ったように、イエスはソロモンについて何度か触れています。その一つが、

ルカの福音書12:27 草花がどのようにして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装ってはいませんでした。

 栄華を極めたソロモンより、野の花の一つの装いは勝っている。どんなにお金や技巧を尽くすより、神が造られた目の前の花、この世界の美しさは遙かに勝っている。そう思う生き方へとイエスは私たちを招かれました。また、ソロモン神殿以上に大きく輝く当時の神殿を見ても、イエスは心を動かされる事がありませんでした。神は、立派な神殿にではなく、私たちとともにいてくださり、私たちの集まりを宮としてここに住んで下さるのです。こういうイエスの言葉も、ソロモンを理想化していませんし、逆にソロモンに問題があったかどうか以上に大事なことに私たちの目を向けさせてくれます。

南の女王が、さばきのときにこの時代の人々とともに立って、この時代の人々を罪ありとします。彼女はソロモンの知恵を聞くために地の果てから来たからです。しかし見なさい。ここにソロモンにまさるものがあります。 (マタイの福音書12:42

 旧約聖書の知恵の書「箴言」は

「イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言」

と始まります。その箴言にあるのは、

「主を恐れることは知恵の初め。聖なる方を知ることは悟ることである」

という知恵の理解です。主を恐れること、聖なる主を知ること。その事は、ソロモンの問題がどうあれ、変わる事がありません。主を知り、主を正しく恐れましょう。お金持ちや王になるためではなく、この世界を創り、野の花の一つ一つも人の栄華が及ばないほどに装い、私たちの救いのため、低く人間になることも厭わなかった主を知り、主を恐れましょう。この主が、私たちに本当に賢い生き方を下さるのです。

「聖なる主よ、栄華を極めたソロモンより、知恵と富に満ちたあなたが、多くを得ようとするより、すべてを捨てて、私たちのために貧しくなってくださいました。あなたの愚かさは、人間の賢さに勝り、あなたの愛は世界の輝きに勝ります。どうぞ私たちに本当に賢い生き方をお与えください。愚かな願いから救い、人からは愚かと見えようとも、あなたの恵みに心を燃やされて、本当に尊い生き方をさせてください」
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2022/1/2 Ⅱサムエル記1~7章「王となったダビデ」こども聖書㊶

2022-01-01 12:50:27 | こども聖書
2022/1/2 Ⅱサムエル記1~7章「王となったダビデ」こども聖書㊶
 少年ダビデは、巨人ゴリヤテを倒し、やがて王になりました。王になるまで、そして、王になってから死ぬまでのことも、聖書にはたっぷり書かれています。この『こども聖書』では、とても簡単に、ダビデの生涯をまとめています。詳しく話せば切りが無いほどの事が、聖書には書かれています。そして、多くの人に愛されている聖書の人物です。

 1つ、ダビデはとても感情の豊かな人です。
 先ほど、ダビデが神の箱を持ち帰ったとき、通りで喜んで踊ったと書かれていました。神が私たちとともにいることを、現す箱でした。神がモーセに命じて造らせた箱です。今のように聖書もない、イエスが来て下さるよりもずっと前、この箱が、神がともにおられることをよく現していたのでしょう。その箱が、長い間、大切にされなかったのを、ダビデは思いきって運び上げて、エルサレムの都に移動させたのです。その時、ダビデは躍り上がって喜び、居合わせた人たちにも大盤振る舞いをして、一緒にお祝いしました。踊るだけで無く「力の限り跳ね回った」とあります。それは、妻のミカルが見ていて、恥ずかしくなり、蔑むほどでした。それほど、ダビデは嬉しい時には、子どものように喜び、はしゃいで、楽しむ人でした。



 そのダビデは、沢山の詩を書きました。聖書の詩篇は、旧約聖書の真ん中で、長いページ数を占める大きな書です。その中の150篇のうち、73篇がダビデによるとされています。
 その中には、神への賛美、信仰告白、偽りのない信頼を寄せる詩も沢山あります。羊飼いと羊に譬えて、私たちを養ってくださる主をほめたたえます。
 また、自分が苦しい時に、主に助けを求めて祈る、嘆きの詩篇もいっぱいあります。

「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか。」

と叫んだりします。
 そして、不当な目にあわされたつらさを吐き出す、呪いの詩篇もあります。敵を滅ぼして下さい、と、心にある憎しみや毒をぶちまけていて、私たちは戸惑うほどです。聖書に、こんな激しい悪口があっていいんだろうかと思いそうになります。でも、それほどに、ダビデは感情の豊かな人でした。
 詩篇は「感情の解剖図」だと言われます。詩篇には、言い表されていない感情はないからです。つまり、私やあなたの心にある、喜び、憎しみ、妬み、悲しみ、寂しさ、孤独、恐れ、憧れ、辛さ、麻痺、幸せ…そうしたすべてを、ダビデは包み隠さずに歌ってくれています。だから、私たちはダビデに親近感を覚え、ダビデを通して、慰められるのです。私たちも、こんなふうに赤裸々に祈っていいんだ。神を賛美するとき、踊ったり跳ね回ったりしてもいいんだ、それぐらい嬉しい事なのだ、と知るのです。



 その詩篇の中で、大切なものの1つが、51篇です。その表題には

「指揮者のために。ダビデの賛歌。ダビデがバテ・シェバと通じた後、預言者ナタンが彼のもとに来たときに」

とあります。バテ・シェバはダビデの部下ウリヤの妻でした。ダビデの妻はもう既に何人もいたのです。それでも問題なのに、ダビデは更に飽き足らず、部下の妻を自分の所に呼び寄せて、犯してしまいます。その上、それを隠そうとして、家来のウリヤを殺すことにして、更に他の兵士たちも巻き添えにして、殺してしまうのです。それは酷い行為です。こんな酷い罪をダビデは犯した人でもあります

詩篇五一篇
1神よ、私を憐れんでください。あなたの恵みにしたがって。
私の背きを拭い去ってください。あなたの豊かな憐れみによって。
2私の咎を私からすっかり洗い去り、
私の罪から私をきよめてください。…
4私はあなたにただあなたの前に罪ある者です。
私はあなたの目に悪であることを行いました。
5ご覧ください。
私は咎ある者として生まれ
罪ある者として母は私を身籠もりました。

 ダビデのしたことは、決して正当化できることではありません。しかし、その言い訳できない罪を犯して、大きな後悔と、消せない過去を持つダビデが、聖書に大きく登場していることが、慰めでもあるのです。今も、大きな過ちを犯した人、後悔してもしきれない間違いで立ち上がれない人、心に悲しみと傷を抱えた人が自分を重ねるのです。

16まことに私が供えても
あなたはいけにえを喜ばれず
全焼のささげ物を望まれません。
17神へのいけにえは砕かれた霊。
打たれ砕かれた心。
神よあなたはそれをさげすまれません。

 こう祈るダビデの言葉が、今も私を慰めてくれます。多くの人を慰めています。

 最後に、ダビデ王は、主のために家を建てよう、神殿を建てようとしましたが、それを神は許可しません。代わりに、主は、わたしがダビデの家を末代まで祝福して、ダビデの子孫から、永遠の王を立てる、という契約(ダビデ契約)を立ててくださいました。

Ⅱサムエル七12あなたの日数が満ち、あなたが先祖とともに眠りにつくとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子をあなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。13彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしは彼の王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。…16あなたの家とあなたの王国は、あなたの前にとこしえまでも確かなものとなり、あなたの王座はとこしえまでも堅く立つ。」

 こうして、ダビデ王は、やがて世界を正しく治めて下さる王の家系に加えられたのです。新約聖書の一頁には、長い系図がありますが、その始まりは

「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」

とあり、ダビデがとても大事な役割を果たした事が強調されています。そして、イエス・キリストは「ダビデの子」と何度も呼ばれています。ダビデは、やがておいでになるイエス様とも重なるのです。

 ダビデはとても人間らしい、私やあなたと同じ、感情の豊かな人でした。王となってから沢山の間違いもし、最悪な姦淫と殺人という罪さえ犯した人です。でも、そのダビデを神は愛し、王にし、祝福なさいました。罪には厳しく迫りながら、回復も惜しまれませんでした。だから、ダビデも自分の気持ちを開いて、神を心から信頼し、苦しい時には絶望や刺々しい言葉さえ、飾らずに祈れたのです。私たちもそうです。神は私たちの心をすべてご存じです。どんな大きな間違いをしてもそれでも愛し、私たちの躍りを喜んで受け入れてくださいます。その事を現したのは、ダビデの子イエスです。ダビデを通してイエスを知り、ダビデのように、いいえ私らしく主を信頼して歩みましょう。



「主よ、新しい年の最初に、ダビデ王の生涯を思い巡らさせてくださり、感謝します。私たちの心の喜びも、棘も、闇も憧れも、すべて知っておられる主よ。私たちにも、あなたが祈りを与えてください。心からの歌を歌わせてください。涙を流させてください。躍り上がるほどの喜びも与えてください。そうして、主イエスが、私たちのとこしえの王でいてくださる事を味わい知り、あなたの善き御支配を見る年としてください」

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