聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/12/26 第一サムエル記17章「ダビデとゴリアテ」こども聖書㊵

2021-12-25 12:34:02 | こども聖書
2021/12/26 第一サムエル記17章「ダビデとゴリアテ」こども聖書㊵

 巨人ゴリアテと、少年ダビデの戦い! これは聖書の中でも最も有名な話の一つかもしれません。後の王さまとなるダビデの、純粋で勇敢な信仰を伝えてくれます。
Ⅰサムエル十七4一人の代表戦士が、ペリシテ人の陣営から出て来た。その名はゴリヤテ。ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。5頭には青銅のかぶとをかぶり、鱗綴じのよろいを漬けていた。胸当ての重さは青銅で五千シェケル。6足には青銅のすね当てを着け、背には青銅の投げ槍を負っていた。7槍の柄は機織りの巻き棒のようであり、槍の穂先は鉄で、六百シェケルあった。…



 見上げる身長と怪力の巨人。そのゴリアテが率いるペリシテ人が、聖書の物語に出てきて、神の民を圧倒しています。今ここでゴリアテに飲まれて震えています。彼は、
8…叫んだ。「…一人を選んで、おれのところによこせ。9おれと戦っておれを殺せるなら、おれたちはおまえらの奴隷になる。だが、おれが勝ってそいつを殺したら、おまえらがおれたちの奴隷になって、おれたちに仕えるのだ。」

 このように言われるのは、イスラエル人にとって、自分たちだけでなく、自分たちの神、主をも馬鹿にされる、酷い屈辱でした。怒って立ち向かって当然でした。でも、彼らは何も出来ないのです。聖書には、本当の神様が、ここまで導いてくださった物語が続いていました。今までも、何度も救われて来ました。大きなエジプトの国に奴隷として捕らわれて暮らしていた所を、神の力によって救い出されて、ここまで旅をして来たのです。それなのにすっかり怯えています。そこにやって来たのが、少年ダビデでした。

 ダビデがその戦場に来たのは、戦うためではありません。まだ少年でしたから。ダビデのお兄さんたちが戦いに出ていたので、お父さんからお弁当を預かり「これを食べて頑張って」と言うためです。しかし、お兄さんたちもどの兵士たちも怯えてしまっています。ダビデはゴリアテの言葉を聞いて、驚いて、腹を立ててしまいます。

26ダビデは、そばに立っている人たちに言った。「このペリシテ人を討ち取って、イスラエルの恥辱を取り除く者には、どうされるのですか。この無割礼のペリシテ人は何なのですか。生ける神の陣をそしるとは。」

 これを聞いてお兄さんは、生意気な、と腹を立ててダビデを叱りますが、ダビデは黙りません。それを聞いたサウル王がダビデを呼び寄せると、ダビデはサウルに言います。

32…このしもべが行って、あのペリシテ人と戦います。」

 こういうダビデは、決して無鉄砲ではありませんでした。少年といっても既に十五歳よりも大きかったはず。そして、羊飼いとして羊を獣から守るため戦ってきました。

36しもべは、獅子でも熊でも打ち殺しました。この無割礼のペリシテ人も、これらの獣の一匹のようになるでしょう。生ける神の陣をそしったのですから。」37…「獅子や熊の爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

 この通り、ダビデはここまで戦ってきた経験がありました。またサウル王は自分の頑丈な鎧兜を貸してくれました。けれど、それはダビデには重すぎて、歩くのもやっと。ダビデはその鎧は断る勇気をもってお返しします。頑丈でも重すぎる鎧は、かえって危ない。そんなことを十代のダビデも十分知る経験値、現実を見る目を持っていました。

40そして自分の杖を手に取り、川から五つの滑らかな石を選んで、それを羊飼いの使う袋、投石袋に入れ、石投げを手にし、そのペリシテ人に近づいて行った。


 
近づいてくるダビデを見て、巨人ゴリアテはすっかりコケにします。

43~44節「…おれは犬か。杖を持って向かって来るとは。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデを呪った。…さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。

 こんなに笑われてもダビデはちっとも動じません。神様がいるのですから勇敢です。

45…おまえは、剣と槍と投げ槍を持って私に向かって来るが、私は、おまえがそしったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かう。46…すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るだろう。47…この戦いは主の戦いだ。主は、おまえたちをわれわれの手に渡される。」

 すると、ゴリアテはダビデに近づいて来ます。ダビデはゴリアテに走って行きます。

49ダビデは手を袋の中に入れて、石を一つ取り、石投げでそれを放って、ペリシテ人の額を撃った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに地面に倒れた。51ダビデは走って行ってペリシテ人の上に立ち、彼の剣を奪ってさやから抜き、とどめを刺して首をはねた。



 こうして少年ダビデは巨人ゴリヤテを倒し、ペリシテ人は散らされてしまい、戦いに負けそうだった臆病なイスラエルの国は生き延びることが出来たのです。


 ダビデの神は、私たちの神です。世界を創り、私たちをも今日まで守り、導いてくださいました。それでも私たちは新しい壁にぶつかると、神を信じるより、絶望したり諦めたりしやすいものです。今までの恵みを忘れて、もうダメだと思い込んでしまう。そうした時、神は意外にもダビデのような少年を突破口とします。教会に来たばかりの人、未信者の家族、眼中になかった部外者、無神論者さえ、神は遣わされて、私たちの疑いを超えた、神の力を見せてくれる。そんな体験も聖書にはちりばめられているのです。

 何よりも神の子キリストがそうです。力強い英雄として現れることも出来たのに、小さな赤ん坊で現れ、田舎者として活動し、最も惨めな十字架に殺された。しかし、それは最も強い神が、人のあらゆる思い込みを超えた勝利でした。
 今、皆さんが恐れているのは、どんな敵でしょうか。ダビデがゴリアテを倒したように、イエスはすべての敵を打ち負かされるお方です。そのお方に私たちも信頼しましょう。そして、私たちもそこに加えられましょう。私たちのこれまでの小さな経験、信頼を、いや私たち自身を一つの石として、主の物語が進むために、どうぞ用いて下さい、とお献げしましょう。

「大いなる神様。1年の最後に、今日までの恵みを覚え、感謝と賛美を捧げます。クリスマスの、主の計り知れない謙りと十字架と復活の力を崇めます。その恵みに預かりながらも、今置かれている困難にはあなたの新たな力により道が開かれることをその都度必要としています。ここまで導かれた主よ、どうぞこれからも導いてください。それを信じさせて、そのために私たちをお使いください。そうして御名を崇めさせてください」
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2021/12/19 こどもクリスマス おはなし

2021-12-18 14:34:32 | こども聖書


 今年のクリスマス絵本、どうでしたか? 特に印象的だったのはどんな絵でしたか?
 僕も、ヘロデ大王の顔が一番大きいなぁ~と思いました。クリスマスなのに、イエス様よりも、ヘロデ大王の顔のほうが大きい。そう思って聖書を読んでみると、確かに、聖書の言葉でも、ヘロデ大王はイエス様が生まれたことを妬み、殺そうとした人です。この人の事は、当時の歴史の資料にも残っています。大変、権力欲が強く、純粋なユダヤ人では無いのに、ずる賢く立ち回って、いくつもの窮地を切り抜け、ローマ帝国に取り入って、「ユダヤ人の王」という地位を手に入れました。彼は建築家として、エルサレム神殿も立てました。しかし、非常に疑り深く、権力の座を脅かす人は、妻や実の子どもでも次々に処刑しました。自分の権力の座を絶対に手放したくない王だったのです。
 そのヘロデと対照的なのが、イエス様です。イエス様は、この世界の本当の王、永遠の権力者です。私たちが礼拝し、感謝と賛美を捧げるべきお方は、イエス様です。しかしこのイエス様は、その権力の座にしがみつきませんでした。むしろ、その栄光の座を惜しまずに捨てて、人間となることを選ばれました。誉められるとか仕えられるとか、自分の地位を脅かされたり、笑われること。どれも、ヘロデ大王なら我慢できなかったことでしょうが、イエスはそんな事には拘りませんでした。なぜなら、イエスは、誰がなんと言おうと、王であり権力をお持ちの方だからです。本当に強い人は、人がなんと言おうと動じることはありません。ヘロデ大王は、本当の王ではないからこそ、自分の立場にしがみついて、それを失うことを恐れました。イエス様は、本当の王だから堂々と見た目に拘らず、完全に虚しくなり、マリヤの胎に宿り、赤ん坊として生まれてくださいました。それは、私たちに一番近づくため、私たちの心に触れて、私たちの王となってくださるためでした。そして、やがては私たちの罪のために十字架に殺されるためでした。イエス様は、私たちのことをひたすらに愛し、ご自分を与える王なのです。
 クリスマスの話でも、ヘロデ王が出てきます。今、教会でクリスマスを祝って、聖書の言葉を聞いても、普段の生活ではなんだか全然違うなぁ、ニュースになることにも、学校でのことも、神様なんて全然出てこないなぁ、と思っているかも知れません。でもそれこそイエス様が、ヘロデと同じような権力者の王ではない証です。人の上でチヤホヤされることを願う王ではなく、私たちの所にまで降りて来られて、近くにおられて、私たちを強めてくださる。私たちの罪も妬みも知って、その赦しのために、十字架にまで卑しめられることも厭われませんでした。そういうイエス様こそが、本当にこの世界を治めて、本当に平和な世界を作って下さるのですね。ヘロデや一番を狙う人たちには到底出来ないことです。
 だからこそヘロデもイエス様の誕生を恐れました。そして、私たちが、イエス様を知って、この世界で目立ちたい誉められたいという生き方から、仕える生き方に変えられていくことは、この世界のあり方をじわじわとひっくり返していくことなのですね。

 クリスマスにお生まれになり、私たちのために十字架にかかり、甦ったイエス様は、本当に私たちを変えてくださり、この世界を変えられる王なのです。

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2021/12/12 第一サムエル記16章「ダビデ」こども聖書㊴

2021-12-11 12:50:06 | こども聖書
2021/12/12 第一サムエル記16章「ダビデ」こども聖書㊴

 聖書に出て来る「ダビデ」は、旧約聖書の中でも最も詳しく描かれている人です。この人が、イスラエルの歴史で、二番目の王となりました。ダビデは、聖書の中で、イエス様の次に愛されている人かも知れません。今日は、そのダビデの話の最初です。
 最初の王サウルは、ひどく神から離れ、神はサウルを王から退けることにしました。祭司サムエルは、とても悲しみました。そのサムエルに、主は言われました。

Ⅰサムエル記十六1…「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」

 こうして、サムエルは、ベツレヘムの町に行き、エッサイという人とその家族と会うことにしました。エッサイは、サムエルに言われて、息子たちを連れてきました。

6彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。
 
 エリアブは長男でしたから最初に連れて来られたのでしょう。そして、サムエルが見ても、長男エリアブは背が高くて、体格もよくて、一目で好きになりました。そして、今の王サウルも、背が高くてハンサムでしたから、サウルの代わりになる新しい王も、見た目も大事。…私たちもそう思いますよね? ところが主はサムエルに言われました。

7…「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 サムエルはエリアブのうわべ(外見)を見ました。しかし主は心を見て、エリアブを退けていました。神様は外見で人を選ばれることはなさらないのです。そして、次男が連れて来られ、三男が連れて来られました。

10エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んでおられない。」

 どうしましょう、こうして連れて来られた全員が、主の目には叶いませんでした。

11サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。「まだ末の子がのこっています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」

 お父さんのエッサイは、末の子は連れて来なくていいだろう、と思ったのですね。お父さんの目にも、あの子を連れてくるなんて必要ない。そう思った子がダビデです。

12エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」

 ダビデは末っ子で小さかったのですが、血色が良く、うわべは美しかったのですね。神様はうわべを見ない、ということは、見るからにだらしない人を選ばれる、ということでもありませんね。ダビデの姿は立派でしたが、だから選ばれたのではないのです。主がダビデの心を見て、お選びになったのです。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
 私は、これは聖書で一番大切な言葉の一つだと思っています。私たちはどうしても見える所しか考えませんが、主は私たちに見えない、心をご覧になっています。私たちのことも、心をご覧になっています。神は私たちの見せかけではなく、心をご覧です。それも、私たちの心の罪や弱さも、あるがままを深くまで見て、愛しておられるのです。

 こうして、主はダビデを選ばれて、将来の王とされました。この後、ダビデが正式に王の座に即位するのは三十歳のころ。この時はまだ十代前半だと思われます。ですから、十五年前後、ダビデは王となるまでの訓練を受けるのです。その最初が、実は、最初の王サウルに仕えることでした。彼は王の立場のプレッシャーに耐えきれずにいました。

14さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。15サウルの家来たちは彼に言った。「16…上手に竪琴を弾く者を探させてください。わざわいをもたらす、神の霊が王に臨むとき、その者が竪琴を手にして弾くと、王は良くなられるでしょう。」

 そして、家来の一人が琴の上手な弾き手として名前を挙げたのがダビデでした。

21ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼がたいへん気に入り、ダビデはサウルの道具持ちとなった。…23神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。

 音楽の力って、スゴいですね。こうしてダビデは、不安に怯えるサウルを慰め、支えることからその働きを始めました。この後も王になるまで、戦ったり逃亡生活をしたり、自分の心を試されたり、人から励ましを受けたりします。何より、主がどんな時もともにおられることを味わい知る、大事な準備をしていきます。主がダビデに求めたのは、見た目の格好いい王で、人からチヤホヤされるヒーローであるよりも、ダビデが、自分の心を見ておられる主を見上げて、人に仕える王であることを願っておられたからです。



 この時からやがて千年ほどして、もう一度神は、
「ベツレヘムに行きなさい。そこに王がいます」
と仰せになりました。今いる王に失望して悲しむ人たちをベツレヘムに行かせ、新しい王と出会わせました。その王は、人が思うような立派な姿ではありませんでした。王に相応しい豪華な産着と立派な揺り籠の代わりに、布にくるまれて、家畜の餌入れに寝かせられていました。それは、このダビデのずっとずっと後の子孫として生まれた、イエス・キリストでした。この方も、人から仕えられるためではなく、人に(私たちに)仕えるために来られ、悲しむ者、捨てられたと思って狂いそうな人たちを慰めてくださる王です。私たちとともにおられて、音楽や試練や仕えることを通して、私たちを治めてくださるお方なのです。クリスマスは、その王の誕生をお祝いする時です。



「ダビデの子、イエス・キリストの主よ。私たちはうわべしか見えなくても、あなたは心をご覧になり、心に働いておられます。小さなダビデを選ばれた出来事も、私たちへの素晴らしい贈り物です。どうぞこのクリスマスに、私たちの王である、ダビデの子イエスを覚え、あなたの良き御支配に、私たちの目を開き、私たちを新しくしてください」
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2021/11/28 第一サムエル記9、10章「サウル王さま」こども聖書㊳

2021-12-04 12:48:15 | こども聖書
2021/11/28 第一サムエル記9、10章「サウル王さま」こども聖書㊳

 今から3千年ほど昔、聖書の中の歴史で、はじめて王が立てられました。エジプトの奴隷生活から救い出されて、新しい生活を始めたイスラエルの民は、神を忘れて、他の国のように自分たちにも王様が欲しい、と言い出したのです。そこで、神は王をお与えになることになりました。その時に神が立てられたのが、キシュの子サウルでした。

2キシュには一人の息子がいて、その名をサウルといった。彼は美しい若者で、イスラエルの中で彼より美しい者はいなかった。彼は民のだれよりも、肩から上だけ高かった。



 若いといっても、彼には既に青年の子供がいました。家族はあっても若々しく、イケメンで、民の中で一番の長身でした。神は、この人をイスラエルの最初の王として選ばれました。しかしサウルはそんなことは知りません。ただ、いなくなったロバを捜しに、出かけたのです。なかなか見つからず、やってきたのが、あの祭司サムエルの町でした。神は、ロバを捜すサウルたちの足を不思議にも、サムエルと出会うように導いておられました。そして、サムエルには、王となるサウルが来ることを告げていたのです。

九15主は、サウルが来る前の日に、サムエルの耳を開いて告げておられた。16「明日の今ごろ、わたしはある人をベニヤミンの地からあなたのところに遣わす。あなたはその人に油を注ぎ、わたしの民イスラエルの君主とせよ。彼はわたしの民をペリシテ人の手から救う。民の叫びがわたしに届き、わたしが自分の民に目を留めたからだ。」

 民が、主を差し置いて「王様が欲しい」と言い出したのは、大変神様に失礼なわがままでした。神を拒むことでした。それでも神は、民を拒んで見捨てはしません。隣のペリシテ人からの攻撃に苦しめられ、叫んでいる声を聞いておられました。神はこの苦しみに目を留めてくださり、サウルを君主としてペリシテ人から救うと決められたのです。そして、ロバを捜してやってきたサウルと出会った時、主はサムエルに告げられました。

17サムエルがサウルを見るやいなや、主は彼に告げられた。「さあ、わたしがあなたに話した者だ。この者がわたしの民を支配するのだ。」

 サウルが捜していたロバは、実はもう家で見つかっていました。しかしサウルは、王を捜していたサムエルに見つけられ、捜してもいなかった大きな役割を見つけたのです。しかし、そのことをサムエルから仄めかされた時、サウルは尻込みをします。

21…「私はベニヤミン人で、イスラエルの最も小さい部族の出ではありませんか。私の家族は、ベニヤミンの部族のどの家族よりも、取るに足りないものではありませんか。どうしてこのようなことを私に言われるのですか。」

 自分の部族は最も小さく、自分の家は更に小さいのです。自分はただ、ロバを探しに来ただけです、そう遠慮しました。でも神は、サウルを選んでくださったのです。翌朝、

十1サムエルは油の壺を取ってサウルの頭に注ぎ、彼に口づけして言った。「主が、ご自分のゆずりの地と民を治める君主とするため、あなたに油を注がれたのではありませんか。

 こう言って、この後のことを予告すると、すべては予告通りになりました。

9サウルがサムエルから去って行こうと背を向けたとき、神はサウルに新しい心を与えられた。これらすべてのしるしは、その日のうちに起こった。

 サウルは、新しい心を与えられて、イスラエルを救う王となる準備を始めたのです。サムエルは、イスラエルの民を集めて、サウルを王として紹介する時、こう言います。

18…「イスラエルの神、主はこう言われる。『イスラエルをエジプトから連れ上り、あなたがたを、エジプトの手とあなたがたを圧迫していたすべての王国の手から救い出したのは、このわたしだ。』19しかし、あなたがたは今日、すべてのわざわいと苦しみからあなたがたを救ってくださる、あなたがたの神を退けて、『いや、私たちの上に王を立ててください』と言った。…」

 こうは言いながらも、サムエルは神が立てられた王としてサウルを紹介します。

24サムエルは民全体に言った。「主がお選びになったこの人を見なさい。民全体のうちに、彼のような者はいない。」民はみな、大声で叫んで「王様万歳」と言った。

 こうしてサウル王が誕生しました。実はこの後、サウルはせっかく王になったのに、人の言葉や評判を恐れて、神に従いません。背の高いイケメンのサウルは、心の中には、自分は小さい、出身部族も最少で、失敗するんじゃないかと、不安を抱えていました。とても悲しい晩年を迎えます。



 でも、そのサウルを主は王にしました。その神の選びに、サウルは自信を持てば良かったのです。その恵みを、人々も喜んで良かったのです。

26サウルもギブアの自分の家へ帰って行った。神に心を動かされた勇者たちは、彼について行った。27しかし、よこしまな者たちは、「こいつがどうしてわれわれを救えるのか」と言って軽蔑し、彼に贈り物を持ってこなかった。しかし彼は黙っていた。

 ここでは、サウルについて行った人が「神に心を動かされた勇者たち」、サウルを軽蔑して悪口を叩いた人は「邪な者たち」と言われます。後に失脚するにしろ、この最初の所では、そんな不吉な予兆はありません。王を求めた動機が悪くても、神は人々を愛してくださり、サウルを王として選んでくださって、民を治めようとされたのですから。

 私たちがロバや小さなものを捜していて、自分のことを小さい、つまらないと思っていても、神様は私たちを捜して、私たちに大切な仕事を任せてくださいます。人があなたのことを、背が高いとか低いとか、誉めたり、けなしたり、何を言おうとも、私たちの内側を神様はご覧になって、私たちを愛し、大切な仕事を果たさせてくださいます。

 そして、有り難い事に、私たちは王になろう、救い主になろうとする必要はありません。サウルが失敗し、その後の人間の王様も決して完璧な王にはなれませんでした。それは本当の王であるキリストがやがて来られるからでした。そして、キリストとしてイエスが来られました。最後は十字架にかけられましたが、そこから甦ったキリストこそ、私たちの王であり、救い主です。私たちが自分を小さく、弱いと思う時も、人の言葉に一喜一憂して不安になる時も、イエスが私を治めてくださっています。今、ロバならぬ何かを捜している道でも、その道にも主の導きがあることを信じるのです。



「王なる主よ。サウルを通して、私たちを拒まず、救いたもうあなたの御支配を覚えて、ありがとうございます。私たちが捜しているよりも、遙かに大きく素晴らしい、思いがけないことを、あなたが備えてくださっています。いじけた心から救い出し、勇気と信頼をもって生きる恵みを与えて、あなたの大きな御支配の一部を担わせてください」
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2021/11/28 第一サムエル記3~8章「サムエル」こども聖書㊲

2021-11-27 12:56:59 | こども聖書
2021/11/28 第一サムエル記3~8章「サムエル」こども聖書㊲

 前回は、ハンナという女の人のことをお話ししました。そのハンナが、神に祈った末に与えられたのがサムエルでした。そして、ハンナは約束通り、サムエルを祭司エリの家に連れて行き、サムエルを捧げました。今日はこのサムエルのその後をお話しします。

 サムエルは、神を礼拝するための場所で寝ていました。エリはもう年を取って、目が見えなくなっていました。その夜、主なる神様がサムエルを初めて呼ばれたのです。
Ⅰサムエル三4主はサムエルを呼ばれた。彼は、「はい、ここにおります」と言って、・・・

 しかし、サムエルは自分を呼んだのが、主だとは思わず、エリだと思ったので、
 5エリのところに走って行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。帰って、寝なさい」と言った。…



 エリは眠っていましたが、サムエルも寝惚けたのだろうと思ったのでしょうか。
…それでサムエルは戻って寝た。

6主はもう一度、サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは「呼んでいない。わが子よ。帰って、寝なさい」。



 サムエルはまた勘違い、エリもまた眠ったところを起こされて、サムエルは寝ていた場所に戻ります。
 まるでコントですね。

 主も、笑っていらしたのかも知れません。

7サムエルは、まだ主を知らなかった。まだ主のことばは彼に示されていなかった。
 これはサムエルが主の言葉を聞いた初めての体験でした。そこで、三度目です。
8彼は起きて、エリのところに行き、「はい、ここにおります。お呼びになりましたので」と言った。エリは、主が少年を呼んでおられることを悟った。



 エリはようやく、サムエルが寝惚けているのではなく、主が少年を呼んでいることを悟りました。エリは祭司でしたが、神様はエリではなく、まだ少年のサムエルに語りかけていたのです。エリは、神がもうサムエルを、新しい指導者として選ばれたことを悟ったのかもしれませんね。そこで、エリはサムエルにとても大事なことを伝えます。

「行って、寝なさい。主がおまえを呼ばれたら、『主よ、お話しください。しもべは聞いております』と言いなさい。サムエルは行って、自分のところで寝た。
10主が来て、そばに立ち、これまでと同じように、「サムエル、サムエル」と呼ばれた。サムエルは「お話しください。しもべは聞いております」と言った。

 お話しください、しもべは聞いております。
 これがサムエルの祈った最初の祈りです。
この時、サムエルに告げられたのは、決して、うれしいことやすばらしいお知らせではありませんでした。むしろ、祭司エリが、二人の息子のわがままを、放っておいていることへの厳しい裁きでした。ですから、サムエルはその後、朝になっても、主の告げた言葉をエリに伝えることを恐れました。けれども、エリは覚悟が出来ていたようです。

16…「わが子サムエルよ。」サムエルは「はい、ここにおります」と言った。

 この時は、本当にサムエルを呼んだのはエリで、サムエルがエリに「ここにおります」と言ったのは、ふさわしかったのです。こうして、サムエルはエリに、主の言葉を告げました。この時からサムエルは、人々に主の言葉を取り次ぐ働きを始めたのです。

19サムエルは成長した。主は彼とともにおられ、彼のことばを一つも地に落とすことはなかった。20全イスラエルは、ダンからベエル・シェバに至るまで、サムエルが主の預言者として堅く立てられたことを知った。

 こうしてサムエルは、主の言葉を取り継ぐ指導者となりました。敵との戦いに奮い立たせ、イスラエルの人々の信仰を回復させ、大切な働きをしました。

※ 北にダン、南にベエル・シェバ。中央が、ミツパ、ギルガル、ベテルの辺り。

七15サムエルは、一生の間、イスラエルを裁いた。16彼は年ごとに、ベテル、ギルガル、ミツパを巡回し、これらすべての聖所でイスラエルを裁き、17ラマに帰った。そこに自分の家があり、そこでイスラエルをさばいていたからである。

 こうしてサムエルは一生を過ごしました。それは、不安定で、苦労の多い生涯でした。外国との戦いもあり、イスラエルの人々はすぐに信仰から離れてしまいます。そして、子どもたちも、真っ直ぐに育ってくれず、父親としても無力を味わっていました。

八1サムエルは、年老いたとき、息子たちをイスラエルのさばきつかさとして任命した。…3…この息子たちは父の道に歩まず、利得を追い求め、賄賂を受け取り、さばきを曲げていた。4イスラエルの長老たちはみな集まり、ラマにいるサムエルのところにやって来て、5彼に言った。「ご覧ください。あなたはお年を召し、ご子息たちはあなたの道を歩んでいません。どうか今、ほかのすべての国民のように、私たちをさばく王を立ててください。」

 これは年老いたサムエルにとって、とてもガッカリする言葉だったでしょう。他のすべての国が誰を王にしていようと、イスラエルには神である主が王であるのです。そのことを忘れて「他の国のように王を」と言われて、サムエルは自分の全生涯が否定された気になったでしょう。そこで、サムエルは主に祈りました。すると、

7主はサムエルに言われた。「…彼らは、あなたを拒んだのではなく、わたしが王として彼らを治めることを拒んだのだから。…」

 こうしてサムエルの晩年は、立てた王の尻拭いに奔走して終わります。サムエルの生涯はとても苦労の多い、悔しさや悲しみの多いものでした。だからこそサムエルは主に聴き続けたのです。「主よお話しください。しもべは聞いております」と祈ったのです。

 私たちの生涯もイエス様を信じたら楽な人生になるわけではなく、周りにも教会にも家庭にも、色々あるのです。私たちが信じるイエス様ご自身、そうでした。敵の中傷や憎しみ、群衆の病気や罪、弟子も鈍感で、思うようにはならず、最後は十字架に殺されました。だからこそ、イエスは人の言葉に振り回される事なく、父なる神様の声に聴き続けました。



 私たちも、痛みや涙の中、「主よ、お話しください。しもべは聞いております」と短く祈ればいいのです。この祈りによって、私たちの唯一の王、イエスに立ち戻るのです。十字架を担った主が、どんな時にも私たちの主でいてくださるのです。



「主よ、お話しください。しもべは聞いております。今日はこのサムエルの祈りを感謝します。私たちも、心騒ぐことの多い中でこの祈りに立ち戻り、あなたに耳を傾けさせてください。他の人のように、ではなく、誰よりも素晴らしいあなたが私たちの神でいてくださる幸いに立たせてください。あなたが王でいてくださり、有り難うございます」


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