2020/11/15 ルカ伝3章16節「洗礼の水が示すもの」ニューシティカテキズム45
前回と今週は「洗礼」についてお話ししています。今日は、洗礼が示すものは何かを教えられて、その事を通して、主イエスの深い恵みを覚えましょう。
第四十五問 水による洗礼は罪そのものを洗い流すものですか?
問 いいえ、キリストの血と聖霊による刷新のみが私たちを罪から清めます。
洗礼という儀式そのものが罪を洗い流すのではありません。こんなことをわざわざ言うのは、洗礼そのものが罪を洗い流すのだと思われることが、昔から今に至るまで多いからです。
洗礼を受けたら、きっと心が生まれ変わって、すっかり聖い自分になるに違いない、と思っている人もいます。
また、「洗礼という儀式を受けたら、もう教会に行ったりしなくても天国に行ける」と思って洗礼を受ける人もいます。だから、洗礼を受けたら礼拝に来ないつもりでいるのです。
あるいは、洗礼に使う水に、特別な力があると思って「聖水」と呼んで、病気を治したり、悪霊を苦しめて追い出したりする力があると思われている時代もありました。
また、聖書の舞台のヨルダン川で洗礼を受けると、特別な効能があると思われていることも少なくありません。
でも、そうではないのです。
今日の聖書の言葉では、主イエスがおいでになる前、洗礼者ヨハネがこう言いました。
ルカ3:16「そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」
ヨハネは水で多くの人に洗礼を授けていました。そして、やがておいでになるキリストの事をこう語ったのです。その方は、自分よりも遙かに力がある。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼を授ける。そう言いました。その言葉の通り、主イエスがおいでになり、弟子たちに洗礼を授けてくださり、教会はイエスの御名によって、洗礼を大事にしています。教会で行う洗礼は、水で行っていますが、それは、主イエスが授けてくださるバプテスマを象徴しています。ですから、洗礼そのものに力なんかないよ、洗礼の水に特別な力があるなんて迷信だよ、と笑って終わるのではなく、洗礼を通して示されている、主イエスのすばらしい力、私たちに対する御業をこそ覚えたいのです。
また、この言葉のあと、ヨハネはイエスを見て、こう言いました。
ヨハネ1:29「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」。
イエスが、世の罪を取り除いてくださる。「子羊」はイスラエルの神殿儀式で、罪の贖いを果たすために屠られて、捧げられてきた動物です。ここでは、イエス・キリストこそ、神の子羊として十字架の上に自分を捧げてくださって、完全な罪の贖いを果たして下さるお方だ、と言われているのです。罪をきよめるのは、十字架に死んでくださった主イエスの死です。このことは、もう一人の別のヨハネがこう言っています。
Ⅰヨハネ1:7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのです。洗礼が水を使うのは、私たちが主イエスの血によってすべての罪をきよめられることを表しているのです。
そして、ニューシティカテキズム45では、
「キリストの血と聖霊の刷新」
と言っていました。キリストの血によって私たちが罪をきよめられるようにしてくださるのは、聖霊なる神のお働きです。キリストはご自身の十字架の働きを、聖霊によって私たちに届けてくださいます。その意味で、洗礼の水は、聖霊なる神も表しています。
洗礼者ヨハネは、キリストが
「聖霊と火によって」
洗礼を授けると言っていました。キリストのお働きは、十字架に死んで三日目によみがえっただけでなく、その働きを聖霊なる神に託して、私たちに届けてくださるのです。私たちの心に、確りと働くよう、聖霊を遣わしてくださったのです。その聖霊のお働きによって、私たちは、自分の罪を認め、嘆き、救いを願い、みことばに惹かれます。礼拝で讃美をし、平安や喜びを与えられ、希望や愛を与えられます。「聖霊と火」というのは、「火のような聖霊の働き」、つまり刷新のことだと言えるでしょう。火も水とは違う形で、ものを清めますね。火で消毒したり、不純物を取り除いたり、料理をして食べられるようにします。主イエスは、聖霊のお働きによって、私たちの心を新しくしてくださる。それは、水や火のイメージで語られるような、豊かな働きです。新しく、きよくしてくださるのです。
Ⅰコリント12:13「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」
洗礼は、聖霊によって私たちが新しくされていくことを示しています。主イエスが、私たちにいのちを下さり、罪を赦して、きよく新しい心を下さっていく。その事が水の洗礼に豊かに表されています。その途上にある私たちだとは、なんと嬉しいことでしょうか。そして、その途上にあるのですから、「洗礼を受けたのだから、これでいいや」などと投げ出さず、いつも、聖霊によって新しくされること、心をきよくしていただくことを求め続けましょう。きよめてもらう必要のある心を、素直に差し出しましょう。そのことを、水と火のイメージは、大いに助けてくれます。
私たちの心は、渇いていないでしょうか。潤って、瑞々しくあるでしょうか。また、冷たく、燻っていないでしょうか。温かく、熱く燃えているでしょうか。
この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
ヨハネ4:13-14
洗礼は、主イエスが私たちのために血を流され、聖霊がそれを私たちに届け、私たちを新しくして下さる約束です。生涯かけて、この恵みに肖らせていただきましょう。
「神の小羊、主よ、私たちの受ける洗礼は、私たちを救ったのが自分自身の義ではなく、キリストの義によることのしるしです。どうか洗礼そのものが私たちの信仰の対象にならないよう助け、洗礼を通して美しく表現されているイエスのきよめの御業に目を向けることが出来ますように。アーメン」