聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/12/6 マタイ伝13章44~50節「良い真珠を探す救い主」

2020-12-05 12:00:00 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/12/6 マタイ伝13章44~50節「良い真珠を探す救い主」

前奏
招詞  イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美  讃美歌96「エサイの根より」①③
*主の祈り  (週報裏面参照)
交読  詩篇100篇(24)
賛美  讃美歌98「天には栄え」①③
聖書  マタイの福音書13章44~52節
説教  「良い真珠を探す救い主」古川和男牧師
賛美  讃美歌111「神の御子は」①④
献金・感謝祈祷
報告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌栄  讃美歌543「主イエスの恵みよ」
*祝祷
*後奏

 イエスが譬えで教えられた話がまとめられているのが、このマタイ13章です。「天の御国は○○のようなものです。…○○のようなものです」と譬えを重ねて、ご自分がどんな世界を始めようとしているのか、イエスが王である国とはどんなものか、を思い描かせました[1]。13章に7つほどある譬えから、今日は44、45節の譬えを味わいましょう。[2]
44天の御国は畑に隠された宝のようなものです。その宝を見つけた人は、それをそのまま隠しておきます。そして喜びのあまり、行って、持っている物すべてを売り払い、その畑を買います。
 今は現実味がない話ですが、二千年前の当時は宝の保管に畑や地面に埋めるのは手っ取り早い方法だったようです。そのまま持ち主が亡くなって、誰かが見つけることもあったでしょう。畑の宝は畑の所有者のもので、畑を買えばその宝の所有権も手に入れるのは合法的でした。決してこの人は狡(ずる)をしたのではありません。もし宝だけをこっそり持って帰ったら犯罪です。彼はそうはせず、自分の全財産を売り払ってその畑を買って、合法的に宝を手に入れたのです。
 考えてみれば、全財産を売り払うなんて、ちょっとおかしな事です。その宝が莫大で、後は遊んで暮らせる程だった、かは分かりません。大事なのは、その畑に隠されていたなんて思ってもいなかった宝を見つけて、驚いて、そっと隠しつつ、「喜びのあまり」自分の全財産を売り払って、その畑ごと宝を手に入れる、その喜び、思いがけなさです。毎日の単調な生活、期待もせずに汗を流し、豊作を考えるか不作に嘆いたり悩んだりしていた時に、いきなり全く思いもかけない贈り物を見つける。そういうサプライズは、本当に嬉しいこと。余りに嬉しくて、自分の全財産を売り払うことが果たして割に合うかどうかなんて損得勘定は考えずに、手に入れずにおれなくなる。それぐらい、思いがけない贈り物がもたらす喜びは莫大なのです。[3]
 天の御国はそのようなものです。イエスの語る言葉は、理想や高尚な道徳である以上に、現実の私たちの生活や日毎の労働の中に潜む神の生きた御支配です。人は畑を見るだけで、期待通りにならない生活に「神などいない」と思っていても、神こそがこの世界を治め、思いもかけない恵みを育てていることが、ひょんな出来事で姿を現します。正しく良いお方である神が私たちの王であることは予想外の形で現れ、私たちに驚きと笑顔をくれます。喜びのあまり、苦労も文句も忘れて、全財産も投げ打ちたくなる。人生を一変させる出会いをもたらす天の御国が、私たちのただ中にあるのです[4]。「畑に隠された宝」の譬えはそう生き生きと語るのです。

 45節の譬えは、畑に隠された宝の譬えと似ています。どちらも宝や真珠を見つけて、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。よく似た構造ですが、大きな違いもあります。その一つは、先は「畑に隠された宝」が天の御国であったのに対して、ここでは「良い真珠を探している商人」が-「良い真珠が」ではなく-天の御国を譬えるのです。[5]
45天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。46高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います。
 人が神の国を求めたり、救いを探し求めたりしなければ、という以上に、天の御国が先に捜している。高価な真珠を一つ見つけた商人が、持っていた物すべてと引き換えにしても惜しまないように、天の御国は私たちを探し求め、イエスの語る祝福や新しい生き方に私たちを捕らえてくださる[6]。そのために、自らの犠牲をも惜しまない。そういう御国をイエスはここで語ります。イエスは、ルカの福音書19章10節で、ハッキリとこう仰有いました。
「人の子(イエス)は、失われた者を捜して救うために来たのです。」[7]
 イエスは、天の御国の王として、ご自身が失われた人を捜して救うために来られた方です。クリスマスは、神のひとり子イエスが、神としての力や輝かしさまでもすべてを投げ打って、何一つ持たない赤ん坊としてお生まれになったことを覚える時です。それは、私たちを買い取るため、ご自身を代価として贖ってくださるためでした。失われていた人も私たちも、真珠商人が高価な真珠を見つけた喜びにも例えられる思いで、見つけて救ってくださったのです[8]。
 イエスが私たちを、宝を探すように来て、見つけて、ご自分のものになさる救い主。「見つけに来る救い主」です。捜されるなんて、ギョッとしてひるみたくなるかもしれません。「私なんて宝ではありません」と遠慮したくなるかもしれません(笑)。そういう私たちに、イエスは「天の御国は、あなたを宝のように取り戻す国だ」とこの譬えを語ってくださいました。
 私を捜して、見つけて、費用も犠牲も厭わずに払って、私を迎え入れてくださる方がいる。その天の御国を、私たちは何気ない、予想も期待もしない毎日の中で見つけることが出来る。思いがけない贈り物を見つける喜びと、私たち自身が宝のように捜されて、見つけてもらえる喜び。私たちを捜して止まない方がいる、という、考えてもいなかった贈り物が、私たちに届けられるのです。

「王なる神様。あなたの御支配を感謝します。私たちの生活に恵みが見えなくても、あなたの恵みに折々に驚かされ、不思議な御手のわざに出会って、賛美と献身を新たにさせてください。御子イエス様が私たちを宝として探し求め、すべてを捨てて私たちを買い戻されたことを感謝します。見つけられ、見つける喜びが天の御国にあります。まだ、あなたを小さく、冷たく、遠く感じている私たちを、このアドベントにもう一度見つけて、喜びに溢れさせてください」

脚注:

[1] 「天の御国」とは、「天の王国Kingdom of Heaven」(=神が王として治めている国・支配)であって、「天国heaven」ではありません。ここで語られているのは、「どうしたら、死後、幸せな天国に行けるのか」という話ではなく、「天にいます神の御支配はどのようなものか」ということです。これがイエスのメッセージの中心です。神が王となってくださることが中心で、それを抜きにした死後の楽園など、人間の堕落した妄想に過ぎません。一方で、神の「支配」と言った途端に、堕落した人間の色眼鏡では「暴君的な神」を思い描くのも事実でしょう。その「絶対君主」としての神観をも丁寧に塗り替えるのが、主イエスというお方です。

[2] 七つの「天の御国」についての譬えは「種を蒔く人の譬え」(3~9、18~24節)、「良い種の譬え」(24~30、36~43)、「からし種の譬え」(31~32)、「パン種の譬え」(33)、「畑に隠された宝の譬え」(44)、「良い真珠を探している商人の譬え」(45~46)、「海に投げ入れる網の譬え」(47~48)です。結びの51~52節は「天の御国の弟子となった学者」についてですので、七つには含めませんでした。

[3] 「全財産つぎこんで」は、損得勘定では出来ない、と思わせてくれるのは、こちらの記事など。

[4] ルカの福音書17章20~21節「パリサイ人たちが、神の国はいつ来るのかと尋ねたとき、イエスは彼らに答えられた。「神の国は、目に見える形で来るものではありません。『見よ、ここだ』とか、『あそこだ』とか言えるようなものではありません。見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」

[5] この譬えを、天の御国が私たちを、良い真珠のように探すことだとする視点の説教は、他にこちらなど。アボッツフォード改革派教会説教

[6] 日本語では訳されていませんが、ESVでは原文に忠実に、45節を過去形で訳しています。「高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払って(不定過去時制)、それを買いました(不定過去時制)。」 不定過去(既にきっぱりと売り払った/買った)で思い描かせることで、買い切って喜ぶ商人を思い描かせます。これを、イエスが既に来られたことと重ねるまでは、言い切れないでしょう。

[7] 取税人ザアカイの話の結びです。日本語では「捜して」と、今日のマタイ13章45節の「探している」とは違う漢字が使われていますが、原文はどちらもゼーテオーです。

[8] それは、私たち自身の中から出て来る価値ではない。真珠であれ、金やダイヤモンドであれ、価値というものはそれ自体にはない。他者から贈られるものでしか、価値というものはない。神の御国は、私たちが自律した価値を持っているからではなく、私たちに価値を見出して、贈ってくれて、惜しみなく買ってくれるものなのだ。


思いがけない贈り物のもたらす祝福については、こちらの動画をどうぞ!

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2020/11/29 Ⅰペテロ3章18節「思い出す恵み」ニュー・シティ・カテキズム47

2020-11-28 11:55:07 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/29 Ⅰペテロ3章18節「思い出す恵み」ニュー・シティ・カテキズム47

 教会の儀式「聖礼典」は二つあります。洗礼と聖餐式です。洗礼は一度だけ受けます。何度も受け直す必要はありません。一方、聖餐は繰り返して与ります。鳴門キリスト教会では、今はコロナ禍で控えていますが、毎月行ってきました。世界には毎週、聖餐をしている教会も沢山あります。年に一度の教会もあれば、受難週やクリスマスや特別な時に行う教会もあります。私はざっと計算して今まで590回ぐらい、聖餐式を経験してきたことになります。生涯私たちは、パンを裂いて分け合い、一つの杯から飲むのです。
 そうすると、聖餐に与らなければ救われないのか、信仰だけでは不十分で聖餐式があるのではないかと考える人もいるでしょう。あるいは、聖餐のパンやぶどう酒を飲めば、信仰がなくても天国に行けるに違いない、と考える人もいました。主イエス・キリストが救い主であることと、聖餐に与ることはどんな関係にあるのでしょうか?
第四十七問 聖餐はキリストの贖いの業に何か付け加えるのですか?
答 そうではありません。キリストはただ一度の死で御業を全うされました。聖餐はキリストの贖いの御業を祝う契約の食事であり、キリストを見つめる私たちの信仰を強め、将来の祝宴を前もって味わうものです。しかし、悔い改めない心で参加する者は、その飲み食いが自分に裁きをまねくことになります。
 ここにはハッキリと、「そうではありません」。聖餐はキリストの贖いの業に何か付け加えるのでは無い、キリストはただ一度の死で御業を全うされました、と言い切っていますね。キリストが私たちのために、十字架で死んで、三日目に復活された事は、私たちのための完全な贖いです。それは決定的な出来事でした。Ⅰペテロ3章18節で、
キリストも一度、罪のために苦しみを受けられました。正しい方が正しくない者たちの身代わりになられたのです。それは…あなたがたを神に導くためでした。
 この「一度」という言葉を覚えてください。これは、決定的にと完全に、という意味です。英語ではonce for allという表現で、「これっきり」「きっぱりと」「最終的に」「長い間続いていたものにけじめをつける」「とうとう」などとも言い換えられます。キリストが罪のために苦しみを受けられたのは、一度きりで十分な決定的なことでした。二度も必要のない、決定的なことでした。野球でも「決定打」と言うでしょう。いや、十字架の死と復活は、それ以上に、試合開始のサイレンでしょう。もう、新しいゲームが始まったのです。開始のサイレンを何度も鳴らす必要はありませんし、そんなことをしたら混乱してしまいます。主イエスは、ただ一度の死で御業を全うされました。そして、私たちにその救いを届けてくださり、私たちを神のこどもとして導いてくださるのです。聖餐はその決定的なキリストの贖いの御業を祝う契約の食事です。
 その決定的なキリストの贖いの御業を、私たちが祝う時、それはただのお祝いでは終わりません。私たちの信仰は強められます。キリストの過去の十字架の御業と、将来の祝宴が確かにあること、そして、今も私たちを主が導き、養い、強めてくださることを、聖餐を通して思い出すのです。
 主イエスは、聖餐を定めてくださいました。そして、私たちが聖餐を祝う度に、主イエスは聖霊によって私たちの心を養ってくださいます。パンと杯をともに戴く時、私たちは確かに主イエスが、私たちのために十字架にかかり、死んでくださったこと、私たちの罪が赦され、神の子どもとされたこと、主イエスが今も私たちを支え、取りなし、助けてくださること、将来、神の国で食卓に着くことを思い出させて戴くのです。
 聖餐は「記念」とも言います。記念、思い出すこと。それは、ただ昔を思い出すだけではなく、思い出すことによって力をもらう記憶です。思い出すことは恵みです。そうでないと、私たちは恵みを忘れてしまい、疑ってしまうからです。
 洗礼は、ただ一度の洗礼で、ただ一度の決定的なキリストの御業に与ったことを表す聖礼典です。しかしそれだけであれば、私たちは福音を忘れます。普段の生活で、神の言葉よりも人間の言葉をたくさん聞いています。創造主であり、無条件の恵みに満ちた神の言葉よりも、限界がある人間の、不安の言葉、条件付きの考えに染まっています。神や聖書、主イエスや福音も、人間と同じように、限界があり、変わりやすく、安心できないものとして考える癖がついています。主イエスの愛の契約を疑って、不安で生き、教会と普段を使い分けるダブルスタンダードで生きてしまいます。聖餐でさえ、思い出す記念の食事では無く、聖餐を行うことで、救いの足りなさを補うかのように、教会が教えてきた長い時代もあるのです。だからこそ、ここで、確認したいのです。
 聖餐は、キリストの御業が足りないから、信じるだけでは不十分だから、行う儀式ではありません。完全なキリストの御業を覚えるために行う食事なのです。キリストが私のために決定的な犠牲となってくださいました。パンと杯に託して、その事を思い出させてもらいます。赦された者として、愛されて、導かれている恵みに強められ、立ち上がることが出来ます。聖餐は、主イエスの福音を思い出して、私たちを養ってくれます。一方で、その恵みを踏みにじったまま、自分を省みることも、悔い改めることもないまま、聖餐を食べることは、主イエスに対する冒涜として禁じられているのです。

 とはいえ、今はコロナ禍で聖餐を行うことには世界の教会が慎重になっています。聖餐のパンやワインが特別に神聖な力があるのではないし、それを食べる人も特別な力が身につくわけではない。そのような力に私たちは憧れますが、主イエスは私たちに力を下さるより、私たちを助け合わせ、思いやりを持たせ、愛を与えてくださいました。そのために、ご自身が最も弱くなりました。不死身や無敵にならせる代わりに、ご自身が敵のために死に、そこから三日目によみがえってくださいました。

 コロナ禍で聖餐が出来ないことを通して、キリストを思い起こします。聖餐式以外の食事でも主を思いながら、聖餐の再開と、それ以上に主とともに神の国で世界中の人とともに喜び祝う時を待ち望みます。その時に向けての旅を、一日一日導かれて、神の恵みの子どもとして、みことばに養って戴きながら、歩んでいくのです。

「死に打ち勝ってくださった主よ、私たちは聖餐にあずかる度にあなたが完全に成し遂げてくださったその御業を崇めます。どうかこの飲み食いを通して、このような恵みを受けるに値しない私たちが、キリストの素晴らしさのうちに一つとされた信仰を告白することができますように。私たちは悔い改めの心をもって主の食卓に着き、高慢と誇りを捨て、あなたが与えてくださる無条件の愛を楽しむことができますように。アーメン」
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2020/11/22 Ⅰコリント11章23~26節「祝いと歓迎の聖餐式」ニュー・シティ・カテキズム46

2020-11-21 12:59:08 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/22 Ⅰコリント11章23~26節「祝いと歓迎の聖餐式」ニュー・シティ・カテキズム46

 先週まで、洗礼の話をしてきました。洗礼を受けて、正式にキリスト者になると、もう一つの聖礼典、聖餐式に預かれるようになります。その聖餐式の話をしましょう。
第四十六問 聖餐とは何ですか? 答 キリストはすべてのクリスチャンに、感謝と共にキリストとその死を覚え、パンを食べ、杯から飲むことを命じられました。聖餐は神の臨在が私たちの只中にあることの祝いであり、神と、そしてお互いとの交わりに私たちを迎え入れ、私たちの魂に糧を与え養います。また、父の御国にてキリストと共に飲み、食べるその日を期待させるものです。

 聖餐は、パンを食べ、杯から飲むことです。今読みました、Ⅰコリント11章では、その始まりの主イエスがなさった「最後の晩餐」での食事の場面を思い起こさせています。
Ⅰコリント11章23節私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。

 この、一つのパンを裂いてともに食べ、一つの杯から飲む。そのことを通して、主イエス・キリストとその死を覚える、記念の食事が聖餐式です。
 主イエスが、十字架にかかる前、当局の人々に売り渡される直前の夕食で、イエスはパンと杯に託して、ご自身を与えてくださいました。聖餐式は、その時の
「これを行いなさい(行い続けなさい)」
という命令に基づく食事です。そして、私たちが主の死を覚えて、パンと杯をいただくことが大事なのですし、聖餐式を行い続けることを通して、私たちは主イエス・キリストが私たちのためにご自分を与えてくださったこと、主イエスの尊い死を周りの人に告げ知らせていくのです。それが、パンと杯の聖餐式です。
 ニュー・シティ・カテキズムでは、ここに聖餐の意味を三つ並べています。
 第一にそれは、神の臨在が私たちのただ中にあることの祝いです。イエスは、杯を「新しい契約」と仰有いました。聖書には「契約」という言葉が繰り返されていますが、それは「神が私たちの神となり、私たちは神の民となる」という関係を柱としています。
見よ。その時代が来る-主のことば-。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。…これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである-主のことば-。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。 エレミヤ書31章33節

 神が、私たちの神となってくださり、私たちのただ中にいつまでもいてくださる。それが、この「新しい契約」でした。主イエスはそれをこの杯に託して、弟子たちに与え、教会に命じました。ですから、私たちは、パンと杯をいただくことを通して、主イエスが私たちのために十字架にかかったことで、神が私たちの神となり、私たちは神の民となったことを覚えるのです。イエスが十字架で私たちのために死なれたこと、それが十字架という想像を絶する痛ましい死であったことは厳粛な事実です。しかし、聖餐は沈鬱な、いかめしい儀式ではありません。そうまでして、主は私たちをご自分の民としてくださり、私たちを受け入れてくださったのです。ですから、聖餐は、厳粛であるとともに、喜び溢れるお祝いの食事、歓迎のレセプションでもあるのです。

 第二に、聖餐は、神とそしてお互いとの交わりに私たちを迎え入れ、私たちの魂に糧を与え養うものです。神との交わりだけでなく、お互いとの交わりもここにあります。一つのパンを集まったみんなで一緒にいただく。一つの杯をみんなでともに飲む。今日のⅠコリントの11章では、聖餐の教えのきっかけは、教会に分裂があったことでした。
Ⅰコリント11:20…あなたがたが一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにはなりません。21というのも、食事のとき、それぞれが我先にと自分の食事をするので、空腹な者もいれば、酔っている者もいるという始末だからです。
 これでは聖餐ではない、というのです。聖餐は、私たちもお互いに主によって一つ、神の民となったことの証しなのです。元々の主の晩餐は、主イエスが一つのパンを取って、みんなの前で裂いてそれを食べ、一つの杯をみんなで回して飲んだ食事です。私たちは衛生的な事情からしませんが、今でも回し飲みをしている教派も少なくありません。

 聖餐は、私たちがお互いにも交わりを親しく持っていることを証ししています。決して教会は愛や赦しや和解が溢れているばかりではなく、人間関係に悩んだり、ギクシャクしたりすることも多々あります。それでも、主が私たちを一つにし、愛の糧で養ってくださるのです。主イエスは、過去に十字架に死んで下さっただけでなく、今も、私たちに糧を与えて養い、支えて、ひとつのからだとして成長させてくださいます。

 最後に聖餐は、父の御国にてキリストと共に飲み、食べるその日を期待させるものです。主イエスは、最後の晩餐の席でパンとぶどう酒の杯を制定された最後にこう言われました。
「わたしはあなたがたに言います。今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで、わたしがぶどうの実からできた物を飲むことは決してありません。」(マタイ26章29節)
 私たちは杯を戴きながら、主イエスご自身は、私たちとともに新しく飲む天の御国の食卓を用意して、待っていることを約束されています。この約束を聖餐の旅に確かめて、私たちは期待することが出来ます。将来を仰いで、希望を持つことが出来ます。聖餐のパンと杯は、かつての十字架と、現在の養いと、将来の御国の祝宴という豊かな主イエスの養いを、一緒に、味わって覚える恵みなのです。

「主よ、あなたはいのちのパンです。私たちは主を崇める忠実なしもべとして聖餐にあずかります。ふさわしくないままパンと杯を取ることのないよう、私たちは悔い改めと信仰をもってあなたの食卓に近づきます。私たちに罪を犯した者を赦すことができますように。特に、共にパンと葡萄酒を食す兄弟姉妹たちを赦す信仰を与えてください。この食卓にあずかることを通して、あなたの救いの死の御業と、それなしでは生きることすらできなかった私たちの弱さを証しすることができますように。アーメン」
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2020/11/15 ルカ伝3章16節「洗礼の水が示すもの」ニューシティカテキズム45

2020-11-14 11:35:46 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/15 ルカ伝3章16節「洗礼の水が示すもの」ニューシティカテキズム45

 前回と今週は「洗礼」についてお話ししています。今日は、洗礼が示すものは何かを教えられて、その事を通して、主イエスの深い恵みを覚えましょう。
第四十五問 水による洗礼は罪そのものを洗い流すものですか?
問 いいえ、キリストの血と聖霊による刷新のみが私たちを罪から清めます。
 洗礼という儀式そのものが罪を洗い流すのではありません。こんなことをわざわざ言うのは、洗礼そのものが罪を洗い流すのだと思われることが、昔から今に至るまで多いからです。
 洗礼を受けたら、きっと心が生まれ変わって、すっかり聖い自分になるに違いない、と思っている人もいます。
 また、「洗礼という儀式を受けたら、もう教会に行ったりしなくても天国に行ける」と思って洗礼を受ける人もいます。だから、洗礼を受けたら礼拝に来ないつもりでいるのです。
 あるいは、洗礼に使う水に、特別な力があると思って「聖水」と呼んで、病気を治したり、悪霊を苦しめて追い出したりする力があると思われている時代もありました。
 また、聖書の舞台のヨルダン川で洗礼を受けると、特別な効能があると思われていることも少なくありません。
 でも、そうではないのです。
 今日の聖書の言葉では、主イエスがおいでになる前、洗礼者ヨハネがこう言いました。
ルカ3:16「そこでヨハネは皆に向かって言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりも力のある方が来られます。私はその方の履き物のひもを解く資格もありません。その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます。」
 ヨハネは水で多くの人に洗礼を授けていました。そして、やがておいでになるキリストの事をこう語ったのです。その方は、自分よりも遙かに力がある。その方は、聖霊と火であなたがたに洗礼を授ける。そう言いました。その言葉の通り、主イエスがおいでになり、弟子たちに洗礼を授けてくださり、教会はイエスの御名によって、洗礼を大事にしています。教会で行う洗礼は、水で行っていますが、それは、主イエスが授けてくださるバプテスマを象徴しています。ですから、洗礼そのものに力なんかないよ、洗礼の水に特別な力があるなんて迷信だよ、と笑って終わるのではなく、洗礼を通して示されている、主イエスのすばらしい力、私たちに対する御業をこそ覚えたいのです。
 また、この言葉のあと、ヨハネはイエスを見て、こう言いました。
ヨハネ1:29「見よ、世の罪を取り除く神の子羊」。
イエスが、世の罪を取り除いてくださる。「子羊」はイスラエルの神殿儀式で、罪の贖いを果たすために屠られて、捧げられてきた動物です。ここでは、イエス・キリストこそ、神の子羊として十字架の上に自分を捧げてくださって、完全な罪の贖いを果たして下さるお方だ、と言われているのです。罪をきよめるのは、十字架に死んでくださった主イエスの死です。このことは、もう一人の別のヨハネがこう言っています。
Ⅰヨハネ1:7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
 御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめるのです。洗礼が水を使うのは、私たちが主イエスの血によってすべての罪をきよめられることを表しているのです。

 そして、ニューシティカテキズム45では、
「キリストの血と聖霊の刷新」
と言っていました。キリストの血によって私たちが罪をきよめられるようにしてくださるのは、聖霊なる神のお働きです。キリストはご自身の十字架の働きを、聖霊によって私たちに届けてくださいます。その意味で、洗礼の水は、聖霊なる神も表しています。
 洗礼者ヨハネは、キリストが
「聖霊と火によって」
洗礼を授けると言っていました。キリストのお働きは、十字架に死んで三日目によみがえっただけでなく、その働きを聖霊なる神に託して、私たちに届けてくださるのです。私たちの心に、確りと働くよう、聖霊を遣わしてくださったのです。その聖霊のお働きによって、私たちは、自分の罪を認め、嘆き、救いを願い、みことばに惹かれます。礼拝で讃美をし、平安や喜びを与えられ、希望や愛を与えられます。「聖霊と火」というのは、「火のような聖霊の働き」、つまり刷新のことだと言えるでしょう。火も水とは違う形で、ものを清めますね。火で消毒したり、不純物を取り除いたり、料理をして食べられるようにします。主イエスは、聖霊のお働きによって、私たちの心を新しくしてくださる。それは、水や火のイメージで語られるような、豊かな働きです。新しく、きよくしてくださるのです。
Ⅰコリント12:13「私たちはみな、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つの御霊によってバプテスマを受けて、一つのからだとなりました。そして、みな一つの御霊を飲んだのです。」
 洗礼は、聖霊によって私たちが新しくされていくことを示しています。主イエスが、私たちにいのちを下さり、罪を赦して、きよく新しい心を下さっていく。その事が水の洗礼に豊かに表されています。その途上にある私たちだとは、なんと嬉しいことでしょうか。そして、その途上にあるのですから、「洗礼を受けたのだから、これでいいや」などと投げ出さず、いつも、聖霊によって新しくされること、心をきよくしていただくことを求め続けましょう。きよめてもらう必要のある心を、素直に差し出しましょう。そのことを、水と火のイメージは、大いに助けてくれます。
 私たちの心は、渇いていないでしょうか。潤って、瑞々しくあるでしょうか。また、冷たく、燻っていないでしょうか。温かく、熱く燃えているでしょうか。

この水を飲む人はみな、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。
ヨハネ4:13-14
 洗礼は、主イエスが私たちのために血を流され、聖霊がそれを私たちに届け、私たちを新しくして下さる約束です。生涯かけて、この恵みに肖らせていただきましょう。



「神の小羊、主よ、私たちの受ける洗礼は、私たちを救ったのが自分自身の義ではなく、キリストの義によることのしるしです。どうか洗礼そのものが私たちの信仰の対象にならないよう助け、洗礼を通して美しく表現されているイエスのきよめの御業に目を向けることが出来ますように。アーメン」
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2020/11/8 マタイ伝28章19~20節「はじまりの洗礼」ニューシティカテキズム44

2020-11-07 12:55:12 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/8 マタイ伝28章19~20節「はじまりの洗礼」ニューシティカテキズム44

 先週は、教会には洗礼と聖餐式という二つの「聖礼典」がある、という話をしました。聖書や説教だけでなく、儀式に参加することで、私たちは体で、キリストの恵みをハッキリ知ることが出来るのです。今日と来週は、聖礼典の一つ目、洗礼をお話しします。

第四十四問 洗礼とは何ですか?
答 洗礼とは父、子、聖霊の御名によって水で洗うことです。洗礼は、私たちがキリストにあって子となること、罪から清められること、そして私たちの主と、主の教会への献身を表し、確かなものとします。

 洗礼とは「洗う」と書くとおり、水を使って、行います。その水を少し額につけたり、手ですくって頭にたっぷりかけたり、あるいは、体が入るぐらいの水を用意して全身を沈めたりします。聖書に出てくる洗礼は、ヨルダン川という川で行われていました。川や海で、全身を沈める洗礼も多く行われています。いずれにせよ、水を使うのですが、それは何を表しているのでしょうか。洗礼とは何でしょうか。

 まず「私たちがキリストにあって子となること」です。イエス・キリストご自身が、そのお働きの最初に、洗礼を授かりました。ヨルダン川に行き、洗礼者ヨハネに洗礼を授けてほしいと願い出ました。そして、イエスが洗礼を受けた時、天から声がしました。
「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ」マタイ3:17

 イエスは、神の子で、聖なるお方です。洗われなければならない罪など全くないのに、イエスはまず、洗礼を受けました。それは、洗ってもらわなければならない罪がある人間と等しくなるための、限りない謙りでした。その洗礼の時に、「これはわたしの愛する子」という声が響いたのです。イエスの洗礼は、神の父親宣言の時でもありました。そのイエスが洗礼を受け、弟子たちを派遣する時にも洗礼を授けるよう、命じました。

マタイ28:19ですから、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、…

 この時命じたバプテスマは、イエスご自身もヨハネから最初に授かったのです。ですから、私たちがキリスト者として最初に洗礼を受ける時、私たちはイエスに結び合わされます。そして、私たちも天の神が私たちの父となってくださった。イエスにあって、私たちも神の子どもとされたことを確信することが出来るのです。
 キリストも授かった洗礼を私たちも受ける時、私たちはキリストと一つとされ、神の子となったことを確信します。そしてイエスは私たちのために、洗礼を受けただけでなく、完全に人として歩み、十字架に死にまで謙って、私たちのすべての罪を負って、死んでくださったこと、そして、そこからよみがえって、私たちを贖ってくださいました。洗礼は、私たちをキリストに結びつけ、キリストが私たちに結びついてくださったことを表しているのです。ですから、まだイエスを知らなかった人が、教会に来たり、聖書を読んだりして、キリストに出会い、私もイエスを信じたい、キリストの言葉に与りたい、と思うなら、洗礼を授かって、正式なスタートを切るのです。「洗礼なんてただの儀式だ」と思わず、キリストご自身が定めて、正式なスタートとしての洗礼をもうけてくださったのですから、洗礼によって、公式に神の子どもとされるのです。
「さあ、何をためらっているのですか。立ちなさい。その方の名を呼んでバプテスマを受け、自分の罪を洗い流しなさい。」使徒22:16

 次に洗礼は「罪が清められたこと」を表します。私たちは、水で手を洗ったり、うがいをしたり、お風呂や食器を洗います。洗礼で水を使うのは、イエスが私たちの罪を清めてくださったことを表しています。洗礼によって罪が清くなるのではありません。このことは来週詳しくお話ししますが、洗礼の水に特別な力があるのではありませんし、洗礼という儀式に罪をきよめる力があるのでもありません。もしそうだとしたら、有り難いようですが、私たちは罪に責められる度に、洗礼を受け直さなければならないでしょう。しかし、その逆に、洗礼は一度だけ授けられるのです。洗礼を受けて、キリスト者となった後も、私たちは罪を犯します。洗礼の水が私たちの心を清くするのではないのです。まだ心も、言葉も行いも不完全で、とても清くはなりません。しかし、それでも失敗する度に、洗礼を受け直すのでは無く、むしろ、イエスがこの私の罪を赦し、滅びから救ってくださった、という事実に立ち戻るのです。

 いわば、洗礼は、神の子どもとして歩み出すスタートです。キリスト者としての冒険に踏み出す旅立ちです。キリストの教会という大きな旅の一段に、自分も仲間入りして飛び込んだのです。その途中で、私たちは旅人であることを忘れたり、仲間との諍いに疲れたり、他の旅に惹かれたりするかもしれません。その時、私たちがすべきことは、何でしょうか。双六なら「ふりだしに戻る」がありますが、本当の旅もスタート地点のふりだしに戻るのでしょうか。いいえ大事なのはスタートに戻るより、ゴールに向かう事、前に向かって旅を進めることです。むしろ、洗礼は、私たちが既に罪を赦され、神のものとされた旅を始めたのであり、戻る必要がないことを思い出させてくれます。宗教改革者マルチン・ルターも、沢山の問題の中で心が弱くなって酷く落ち込むことがあったそうです。その都度、ルターを支えたのは、自分が洗礼を受けた、という事実でした。イエスが私に洗礼を授けてくださった。私は罪をきよめられ、神の子どもとして歩んでいる、と思い出させてくれるのが、洗礼という水の洗いなのです。

 そして、その旅に加わった以上、私たちは「私たちの主と、主の教会への献身」コミットメントもあります。教会の一員として、互いに責任を持ち、関わり、助け合い、奉仕や献金で教会の運営の一端を担うことも始まります。洗礼は、同じように洗礼を受けた多くの人とのつながり、共同体であることも表すのです。この鳴門キリスト教会の会員となり、また世界の教会とも主にあって結ばれている。その確かさを、洗礼は私たちに表してくれます。また、自分ではなく他の人の洗礼を通しても、私たちは自分が神の子どもとされ、罪を赦され、神の旅に入れられている事実を豊かに教えられるのです。



「私たちをきよめてくださる神よ、私たちはあなたに近づかなければ、罪にまみれた自分自身の心を洗うことはできません。水による洗礼を与えてくださってありがとうございます。洗礼が私たちを救うのではありません。しかし洗礼は、救いを見える形にし、神の養子とされた兄弟姉妹である私たちを一つにします。アーメン」
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