聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/11/1 ローマ書6章4節「見える化された福音」ニューシティカテキズム43

2020-10-31 23:58:46 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/11/1 ローマ書6章4節「見える化された福音」ニューシティカテキズム43
 昨日は「宗教改革記念日」でした。今から500年前、一五一七年10月31日、ドイツのマルチン・ルターが『九十五箇条の提題』を発表し、聖書の福音を取り戻す「宗教改革」が進みました。聖書の福音、聖書に書かれているキリストの御業が、教会の中心であると確認された、大きな出来事でした。この宗教改革は聖書を取り戻した運動ですが、聖書の説教だけではなく、聖礼典を大事にしました。福音の説教と、聖礼典の正しい執行。この二つが、教会が教会であるしるしです。今日から「聖礼典」の話です。

第四十三問 聖礼典とはなんですか?
答 神により与えられ、キリストにより定められた聖礼典、すなわち洗礼と主の晩餐は、私たちがキリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている事の、目に見えるしるしであり証印です。これらを用いることにより、聖霊が福音の約束を、私たちに対してより完全に表して、確かなものとしてくれます。
 まず、聖礼典とは「洗礼と主の晩餐」という二つの儀式です。
 洗礼は、水で洗って、教会に加わる入会儀式です。

 聖餐は、その洗礼を受けた人たちが、パンと葡萄酒の杯をいっしょにいただく食事です。

 この二つの儀式が「聖礼典」です。
 この洗礼と聖餐の聖礼典は、主イエスがこれらのことを行うようにと命じられたもので、その後の使徒の働きや手紙を通して、実践していたことが分かるものです。
ローマ6:4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
 このバプテスマを訳したのが「洗礼」という言葉です。この言葉から、手紙を書いたパウロも、ローマの教会でも、バプテスマ(洗礼)が行われていたことが分かります。同じように、主の晩餐についても、聖書の中でキリストが命じて、教会が実践していたことが分かります。ですから、私たちも、主イエス・キリストが命じられ、教会が行い続けてきたこととして、洗礼と主の聖晩餐を実践しているのです。なぜ、キリストは、この二つの聖礼典を教会に定められたのでしょうか。それは、このカテキズムでは、
…私たちがキリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている事の、目に見えるしるしであり証印です。…
と言われています。私たちは、キリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている。これは、キリストの福音のエッセンスです。キリストの死と復活は、私たちを新しい、また永遠のつながりへと私たちを入れてくれました。主イエスは私たちを、ご自身との新しい関係に入れて下さっただけでなく、その新しい関係に入れられた者たちとして、私たちをもお互いに新しく、永遠の「神の家族」として出会わせ、結び合わせてくださっているのです。主イエスが下さった戒めはこれです。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節
 主が私たちを愛し、私たちを私たちのままで受け入れ、喜び、尊んでくださったように、私たちもお互いを受け入れ、喜ぶ。互いに操作したり、裁いたり、比べたり、馬鹿にしたりも妬んだりもしない。押しつけ合ったり、縛ったり我慢したりせず、お互いに自由で、お互いに最善を図り、尊び合っていく。そういう家族に私たちは入れられて、やがて完全にそうなろうとしています。まだその途中で、問題や失敗があり、取り組むべき課題はありますが、やがて、私たちは完全に和解して、主にあって一つとされます。それが、キリストが私たちにしてくださったことです。その信仰の共同体として結ばれている事の、目に見えるしるしであり、証印であるのが聖礼典なのです。

 私たちにとって大事な正典は聖書です。聖書は、神のいのちの言葉です。聖書は、私たちに知識をもたらします。私たちの知性に語りかけ、私たちの考えを新しくします。でも、その言葉や知識を耳で聞くだけで、見えない真理を信じれば良いのでしょうか。いいえ、聖書そのものがそうは言っていません。主イエスご自身が、その教えと言葉を耳で聞くだけでなく、目も手も口も舌も使っていただく聖礼典を定めてくださいました。
 そこで、私たちは、言葉や教えだけではピンとこない福音を、聖礼典という見える形で五感を使って味わうのです。洗礼の水は、ヒヤッとしたり頭や全身が濡れたりします。聖餐では、パンと杯を見て、手に取って、口に入れて味わって、飲み込んでおなかに下っていきます。そして、その食事を一緒に食べている会衆が周りにいてくれます。その事を通して、
「ああ、本当に、私は罪を洗われて、神の子どもの一人にされたんだ。私のために、主イエスは十字架に掛かって肉を裂かれ、血を流され、そして私たちにご自身を与えてくださったんだ。私を受け入れてくれる神の家族がここにいるんだ」
と味わうのです。頭の知識に加えて、体で、目で、手で、舌で福音を味わうのです。ですから、聖礼典は福音を見える形で私たちに示す「しるし」であり、私たちの全感覚で福音が刻み込まれる「証印」なのです。主イエスがそれを定めてくださり、主イエスの聖霊は聖礼典を用いて、私たちに福音を味わわせ、刻みつけてくださるのです。

 そうです。私たちは、主イエス・キリストの福音が完全であり、聖霊がそれを間違いなく私たちに届けてくださることを信じます。福音が不完全だから聖礼典が補うのではなく、私たちが鈍感だから、主イエスは私たちを思いやって、聖礼典を定め、私たちに福音を確り届けてくださるのです。
 今、新型コロナウイルスの蔓延で、鳴門キリスト教会でも聖餐式は半年以上ずっと行っていません。それはとても寂しいことです。でもそのような私たちの弱さ、限界、一緒に食事が出来ないウィルスの問題も、主イエスはご存じです。私たちの弱さを思いやって下さる主イエスが、今の時も私たちの信仰を支え、私たちを養い、また相応しい時に再開させてくださるでしょう。
 そして、やがて、本当に目に見える形で私たちは主イエスとお会いし、神の民として永遠を喜ぶのです。

「福音を与えてくださる神よ。あなたは私たちが見て、感じて、味わうことのできる恵みのしるしを与えてくださいました。どうか私たちがあなたの命令に従ってこの聖礼典を守り、自分自身ではなくあなたの救いの御業に目を向けることができるよう助けてください。しるしそのものを崇めて、その先にある救い主の姿が見えなくなってしまうことのないように、どうかお守りください。アーメン」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/10/25 ローマ書6章4節「聖書は人を作る」ニューシティカテキズム42

2020-10-24 12:42:24 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/25 ローマ書6章4節「聖書は人を作る」ニューシティカテキズム42

 今週31日は、「宗教改革記念日」です。今から五百三年前、1517年の10月31日に、ドイツの修道士マルチン・ルターが「九十五箇条の提題」という文書を張り出しました。その事から、ヨーロッパ中の社会が大きく揺さぶられて、「宗教改革」という歴史的な大改革が始まっていきました。それまで、キリスト教はヨーロッパに広まって、教会は社会の中心になっていましたが、いつのまにか、神のことばよりも、教会の教えの方が大事になっていました。ですから、ルターは、当時の教会の教えはおかしいと言ったのですが、それだけではなく、聖書の言葉を大事にするように願って、聖書を初めてドイツ語に翻訳したり、聖書から説教をしたりする事も、そこから始まっていったのです。

 今週は「宗教改革記念日」を迎えますので、この日曜日を「宗教改革記念礼拝」とします。聖書の言葉の大事さを、今日の第四十二問で、確認していきましょう。

第四十二問 どのように神の御言葉を読み、聞くべきですか?
答 私たちが信仰をもって受け入れ、心に蓄え、私たちの生活において実践していくことができるために、努力、準備、そして祈りをもってです。

 まず、ここで「神の御言葉」と言われているのは、聖書の事です。聖書は、神の御言葉です。聖書は、何百年もかけて、何十人もの人が関わって書かれ、まとめられてきた書物ですが、それは同時に、神が多くの人を動かして、長い時間をかけて書かせた書物です。聖書は、ただ人間が、神について書いたものを集めた本ではなく、神ご自身が書かせて、人間に与えられた書物なのです。聖書そのものが、神からの贈り物、神から人間への手紙でもあり、物語であり、語りかけなのです。
聖書はすべて神の霊感によるもので、… Ⅱテモテ3章16~17節
 「聖書はすべて神の霊感によるもの」。この「霊感」とは、神の霊が働いて、という言葉です。神の息が吹き込まれている、というニュアンスもあります。私たちが持っている日本語の聖書は、その神が霊感された元々の言葉を翻訳したものです。ですから、翻訳された聖書には何通りもあって、訳した言葉には違いもあります。見直す内に、もっと良い訳に直した方がいいものもあるでしょう。それでも、元々の聖書は、神がご自身の息を吹き込んで、人間に書かせて、今も私たちに手渡されている言葉-神の霊が書き下ろされた、私たちに送られた書物なのです。宗教改革を始めたルターが取り戻したのは、この神の言葉の権威でした。人間の言葉よりも、聖書において神が語られている真理の教えこそ、私たちの土台です。教会のあり方を決めるのは、聖書に示されている道筋です。その事を回復したのが宗教改革であり、私たちはその伝統に立っています。
 その「神のみことば」は何のために読めばいいのでしょうか? ここには、聖書は、
すべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。
と目的が書かれています。この「神の人」とは誰か特別な人のことではありません。神様のものとされた人、私たちのことですね。私たちを教え、戒め、欠点を矯正し、正しさを訓練してくれる、それが聖書が神の言葉だということです。私たちが、聖書によって教えられて、良い働きにふさわしく、整えてくれる。それが、神が私たちに聖書を与えてくださった目的です。ですから、読む私たちは、そのための態度をとって読みましょう。神が私に教えようとしていることが分かりますように、私を戒めてくださることを素直に受け入れていくことが出来ますように、そういう信仰と祈りで読むのです。
答 私たちが信仰をもって受け入れ、心に蓄え、私たちの生活において実践していくことができるために、努力、準備、そして祈りをもってです。
 私たちの毎日の生活や、趣味や楽しみのために、努力や準備を惜しまないでしょう。旅行に行くには、下調べをしたり、荷物を作ったり、天気を調べたりします。体調を崩さないよう、健康に気をつけて、よく眠っておくでしょう。同じように、聖書は私たちを整えてくれる神の言葉なのですから、時間をとって学んだり、疑問を調べたり、準備をするのです。
 何よりも、祈りです。「神様、私が聖書の言葉をよく分かりますように、受け入れることが出来ますように、心に蓄えて、生活の中で実践していくことが出来ますように」と祈るのです。神が多くの人に聖霊を働かせて、聖書の言葉を書かせたように、それを聴く私たちも、聖霊が働いて下さって、聖書を理解できるように、そして、心に深く蓄えて、私たちが変えられて、生活に実践させていただけるよう祈りましょう。

 最後に、聖書が神の言葉であることを、生き生きと思い描いて終わりましょう。聖書は、昔、神が書かれた言葉だとは言わず、聖書が神の言葉であるとは、神が昔から今も、そしてこれからもずっと語っておられるということ、神がその言葉によって、この世界を造り続け、御心を造り続けておられる、ということです。イザヤ書55章10~11節に、
わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、あなたがたの道は、わたしの道と異なるからだ。-主のことば-天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。雨や雪は、天から降って、もとに戻らず、地を潤して物を生えさせ、芽を出させて、種蒔く人に種を与え、食べる人にパンを与える。そのように、わたしの口から出るわたしのことばも、わたしのところに、空しく帰って来ることはない。それは、わたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成功させる。

 聖書が神の言葉であると打ち出したルターの宗教改革は、神の言葉の力を表した出来事でした。聖書を下さった主は、今も、その言葉を通して働いておられます。神の言葉が世界を新しくています。この世界に、神のご計画を成し遂げ、成功させられます。とりわけ、私たちに聖書において語りかける主は、私たちが主の御心を知り、神の子どもとして成長するよう働いてくださいます。私たちを神の人として作り、育てて、整えておられます。宗教改革をなされた主は、今もこの世界の中に働いておられ、私たちを変え、世界に御心を成し遂げています。それが、聖書が神の言葉であるという信仰です。

「みことばを下さった主よ、私たちがみことばを他の何にも勝る宝とすることができるように助けてください。どうか私たちの思いと唇に、みことばがいつもありますように。みことばによって私たちの考えが変えられ、私たちの生き方が新しくなりますように。あなたの完全なみことばに倣う弟子、忠実なしもべとさせてください。アーメン」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/10/11 マタイ伝12章1~8節「真実の愛、安息の主」

2020-10-10 12:53:04 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/11 マタイ伝12章1~8節「真実の愛、安息の主」

招  詞  ヨハネの黙示録19章5~7節
祈  祷
賛  美  讃美歌79「褒め称えよ造り主を」
*主の祈り  (マタイ6:6~13、新改訳2017による)
交  読  詩篇130篇(31)
賛  美  讃美歌54「喜びの日よ」 ①②
聖  書  マタイの福音書12章1~8節
説  教  「真実の愛、安息の主」古川和男牧師
賛  美  讃美歌54 ③④
応答祈祷
報  告
*使徒信条  (週報裏面参照)
*頌  栄  讃美歌544「天つ御民も」
*祝  祷

 前回は、マタイ11章28~30節、
「すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」
を読みました。それに続いて12章
「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。」
と今日の出来事が紡がれて、イエスが下さる「休み」、またイエスが「心が柔和でへりくだっている」方として豊かに現されていきます。
 「安息日」とは当時の土曜日で、聖書の律法では、一切の労働を止めて、神を聖とする日でした。現在、日曜日が休日のカレンダーがあるのも、私たちが日曜日に礼拝に集まるのも、この規定の延長でのことです。しかしここで弟子たちが
「穂を摘んで食べ始めた」
事が、
「安息日にしてはならないこと」
と非難されています。当時「安息日にしてはならない」項目が二三四も造られていて[1]、穂を摘むのは収穫行為、それを揉んで籾殻を取るのは脱穀として禁じられていたそうです[2]。仕事を止めて礼拝する、より、仕事とは何か、にずれてしまったのです。
 3しかし、イエスは言われた。「ダビデと供の者たちが空腹になったときに、ダビデが何をしたか、4どのようにして、神の家に入り、祭司以外は自分も供の者たちも食べてはならない、臨在のパンを食べたか、読んだことがないのですか。
 これは、旧約聖書のⅠサムエル21章の記事です。後に王となるダビデは、逃亡中、神の前に備えられていた「臨在のパン」、一週間ごとに交換した後は祭司だけが食べる事を許されていたパンを、祭司からもらいました[3]。祭司以外は食べてはならない、という規定より、ダビデと供の者たちの空腹を、祭司は考慮してくれたのですね。また、5節では、
また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる…
 神殿で仕える祭司は、安息日にも働いているわけですから、労働を禁じる律法は適用されないのです[4]。この事を持ち出して、イエスはパリサイ人の批判に応えました。この後、
 6あなたがたに言いますが、ここに宮よりも大いなるものがあります。
 以前の聖書の訳では「宮よりも大いなる者」でした[5]。者、つまりイエスが宮よりも偉大だ、という理解です。新しい訳、また他のほとんどの翻訳聖書も「もの」、つまり、誰かのことではなく、何かの事としています。ではその「宮よりも大いなるもの」は何かというと、
 7『わたしが喜びとするのは真実の愛。いけにえではない』とはどういう意味かを知っていたら、あなたがたは、咎のない者たちを不義に定めはしなかったでしょう。
 「宮よりも大いなるもの」、いけにえよりも主が喜びとするのは、
「真実の愛」
です。神が喜ぶのは、安息日の規定や様々な義務を死守することだ、空腹でも我慢して神に従うのだ、という犠牲的な信仰かと思いきや、主は
「わたしが喜ぶのは真実の愛」
と仰有るのです[6]。
 欄外に「あるいは「あわれみ」」とある通り、「憐れみ」という言葉なのですが[7]、元々の旧約聖書ホセア書6章6節の言葉が「真実の愛」、変わらない恵み、強い誠実さ、神の本質を現す強い言葉なのです[8]。私たちは、この「真実の愛」の神が、世界を造り、私たちを救い、回復してくださることを信じます。そして、神がこの世界を創造された事と、その神である主が奴隷であった民を解放して贖ってくださった事を覚えるのが安息日でした[9]。真実の愛を喜ばれる主が、この世界を作って、今も支え、人を奴隷生活から解放してくださった。それを覚えるために人は、週に一日、仕事や雑用を離れて主を見上げるのです。仕事に追われて、重荷を負うて、何かしら「生け贄」(犠牲)や非難が当然な社会で疲れていても、一週間に一日は主の前に行き、安息をいただく。そして、私たちに犠牲を求めるのでなく、喜んで変わらない愛を注いでくださる神、私たちのためにひとり子イエス・キリストが犠牲となってくださり、そして、死から日曜日の朝、よみがえってくださった主イエスを覚えるのです。その主の言葉に生かされて、残りの六日に送り出される。何があっても私を変わらず愛して安息を与えてくださる神の言葉に生かされて、「~しなければ」という言葉だらけの生活に出て行くのです[10]。
 なのに、腹ぺこで麦の穂を摘んで食べずにおれない人を見て、「安息日を破った」と鬼の首を取ったように責めるのでは全く逆です。むしろそういう杓子定規な信仰、神が喜ぶのは真実の愛よりも犠牲や規則の遵守であると振りかざして、咎のない者たちを不義に定めている、そっちの罪の方が重い。あなたがたは聖書を読んではいても、その意味を分かっていない、と指摘されたのです。主が喜ばれるのは、まず私たちが主の真実の愛を受け取ること、そして、私たちも互いに、規則や犠牲を要求するのでなく、真実の愛の中に見ていくようになることです。
 最後8節
「人の子は安息日の主です」。
 イエスは「安息の主」です[i]。私たちに命を与えて、安息を与えて、ご自身を「臨在のパン」として与えてくださったお方です。人の空腹や疲れ、重荷を負い、咎を負わされている辛さを深く憐れみ、
「わたしのもとに来なさい」
と招いて、休ませてくださる主。私たちを非難や、犠牲や規則から解放してくださった方。そのために命を捨て、そして日曜の朝に復活して、今も生きて働いておられるます。
 「安息の主」と仰有った主イエスが、この復活の日曜に、私たちの重荷を下ろさせ、色々な柵からも解放して、安らがせてくださいますように。

「主よ、この日曜日、私たちはあなたの素晴らしい創造と、主イエスの復活と、聖霊の降ったペンテコステを祝って、ここに集められました。本当に、あなたは私たちに真実で、恵みを注いで止まないお方です。私たちを罪や咎、冷たい心から救い出し、あなたの愛の中に安らがせてください。安息の主が、私たちを休ませ、私たちをその安息を運び届ける器としてください」

脚注:

[1] 横浜指路教会礼拝説教 「日曜日は誰のものか」 伝道師 矢澤 励太 より。

[2] そして、パリサイ人がそれを指摘したのは、単なる杓子定規な適用という以上に、目障りになってきていたイエスをやり込める狙いだったのでしょう。

[3] 後のダビデ王が命を狙われて追われていて空腹だった時、神の箱が置かれていた幕屋に行った時の事です。サムエル記第一21章1~6節「ダビデはノブの祭司アヒメレクのところに来た。アヒメレクは震えながら、ダビデを迎えて言った。「なぜ、お一人で、だれもお供がいないのですか。」2ダビデは祭司アヒメレクに言った。「王は、あることを命じて、『おまえを遣わし、おまえに命じたことについては、何も人に知らせてはならない』と私に言われました。若い者たちとは、しかじかの場所で落ち合うことにしています。3今、お手もとに何かあったら、パン五つでも、ある物を下さい。」4祭司はダビデに答えて言った。「手もとには、普通のパンはありません。ですが、もし若い者たちが女たちから身を遠ざけているなら、聖別されたパンはあります。」5ダビデは祭司に答えて言った。「実際、私が以前戦いに出て行ったときと同じように、女たちは私たちから遠ざけられています。若い者たちのからだは聖別されています。普通の旅でもそうですから、まして今日、彼らのからだは聖別されています。」6祭司は彼に、聖別されたパンを与えた。そこには、温かいパンと置き換えるために、その日主の前から取り下げられた、臨在のパンしかなかったからである。」 このパンについては、レビ記24章に記されています。「2「あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の、質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。3アロンは会見の天幕の中、あかしの箱の垂れ幕の外側で、夕方から朝まで主の前に絶えずそのともしびを整えておく。これはあなたがたが代々守るべき永遠の掟である。5あなたは小麦粉を取り、それで輪形パン十二個を焼く。一つの輪形パンは十分の二エパである。6それを主の前のきよい机の上に一列六つずつ、二列に置く。7それぞれの列に純粋な乳香を添え、覚えの分のパンとし、主への食物のささげ物とする。8彼は安息日ごとに、これを主の前に絶えず整えておく。これはイスラエルの子らによるささげ物であって、永遠の契約である。9これはアロンとその子らのものとなり、彼らはこれを聖なる所で食べる。これは最も聖なるものであり、主への食物のささげ物のうちから、永遠の定めにより彼に与えられた割り当てだからである。」 この言葉から、ダビデが「臨在のパン」を食べたのが、安息日だったことも推測できます。

[4] 民数記28章9-10節「安息日には、傷のない一歳の雄の子羊二匹と、穀物のささげ物として油を混ぜた小麦粉十分の二エパと、それに添える注ぎのささげ物。10これは、安息日ごとの全焼のささげ物で、常供の全焼のささげ物とそれに添える注ぎのささげ物に加えられる。」

[5] 口語訳、新改訳、また英訳聖書のKJV、NKJVは「宮よりも偉大な者one (who is) greater than the temple」と理解しています。新共同訳、聖書協会共同訳、ESV、NASV、RSVは「物something greater than the temple」とします。旧来の「偉大な者」から、「偉大な物」への移行をうかがえます。

[6] この「喜ぶ」は「御心とする、意思する、願う」という意味のセローです。ホセア書の原語も、求める、願う、喜ぶというハファーツ。神を喜ばせるために、私たちが真実の愛があるかどうか、ではなく、神ご自身の御心の本質、方向性が「真実の愛」ということです。

[7] ギリシャ語「エレオス」。なお、こちらも参考に。「真実の愛」と訳された根拠について

[8] ホセア6章6節「わたしが喜びとするのは真実の愛、いけにえではない。全焼のささげ物よりむしろ、神を知ることである。」 これは、マタイが9:13でも引用していた、旧約理解のキーワードです。

[9] 出エジプト記20章8~11節「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。9六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」 一方、申命記5章12~15節では「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。13六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。14七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中の中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」と、エジプトの奴隷生活から導き出された事が安息日の根拠とされ、それが、奴隷の労働をも免除する義務と結びつけられています。

[10] その「真実の愛」を覚える礼拝のために、祭司は安息日でも仕えて働くのです。

[11] 「人の子」というのはメシア(キリスト)を指す聖書の用語の一つで、イエスはご自分がメシアであることを現すのに、この言葉を専(もっぱ)ら用いました。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/10/11 マタイ伝6章5~9節「祈りのプレゼント」ニューシティカテキズム41

2020-10-10 12:36:12 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/11 マタイ伝6章5~9節「祈りのプレゼント」ニューシティカテキズム41

 前回「私たちは何を祈るべきですか?」という問いに「イエスご自身が私たちに教えた祈りを含めて、神のみことば全体がどう祈るべきか導き、祈りの言葉を示し導きます」と学びました。「イエスご自身が私たちに教えた祈り」それが「主の祈り」です。その事を確認するのが、今日の「ニューシティカテキズム」第四十一問です。

第四十一問 主の祈りとは何ですか?
答 天にいます私たちの父よ。
御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
御心が天で行われるように地でも行われますように。
私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。
私たちの負い目をお赦しください。
私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。

 「ニューシティカテキズム」では「主の祈り」についてはこう確認するだけです。一つ一つの項目を詳しく見ていくことはせず、次の42問からは「御言葉」のテーマになります。ですから、今日も、主の祈りの丁寧な解説はしません。一つ一つ丁寧に見ていけば、きりが無いぐらい、これは素晴らしい祈りです。そして、その祈りを私たちが味わって祈れることは、本当に素晴らしい幸いです。「主の祈り」は主イエス・キリストが私たちに下さった祈りのプレゼントです。
 そうです。今でも世界中の教会が、世界中のキリスト者が、それぞれの言葉で、毎週、毎日、「主の祈り」を祈っています。私たちが「主の祈り」を祈る時、それは世界中の人々の祈りの輪に加わっている。数え切れない多くの人たちの祈りの伝統に、私たちも入ったのです。そう思うだけでもワクワクしませんか。「天にいます私たちの父よ」と祈る時、この「私たち」はこの会堂にいる人たちや、ここには見えない、でも、ここで「主の祈り」を祈っている方々とも、そして、日本や世界や、歴史上の何億というキリスト者とともに「私たちの父よ」と祈っているのです。その人たちとともに「私たち」と祈る特権が与えられたのです。一つの神を「私たちの父」と呼ぶ、強いつながりに入れられました。世界には、言葉や肌の色や国籍で違いがあります。
 文化や伝統で衝突したり戦争さえしたりしています。「あいつと俺たちは違う」っていう言葉が強く当たり前にあります。「主の祈り」は、そんな世界で、バラバラだった人たちを「私たち」と一つにするのです。言葉も通じない、肌の色も違う、好きな食べ物や、音楽の趣味も全然合わない、そういう人たちを、イエス・キリストは、神を「私たちの父」と呼ぶ、一つの家族としてくださいました。ですから、私たちは「自分だけ」の祈りはしません。自分さえよければ、という祈りではなく、周りの人、違う人、敵や知らない人も含めて祈ります。勿論、自分のために祈っていいのです。私のためにも、多くの人が祈ってくれているのです。私のために、「私たちの」と、一緒に祈ってくれている大勢の人を覚えて遠慮無く自分のためにも祈り、周りの人やすべての人のためにも祈るのです。

 しかし、その「私たち」のための祈りの前に「主の祈り」は
「私たちの父」
のために祈ります。

御名が聖なるものとされますように。
御国が来ますように。
みこころが天で行われるように、地でも行われますように。

 この「御名」とは、天の父、あなたのお名前ということです。「御国」とは、天の父、あなたが王である国、ということです。「御心」とは、天の父、あなたの願い、お考え、あなたの喜ばれることが、ということです。この世界を作られたのは神です。それなのに、この世界の中に生かされている人間が、神様を忘れ、自分が王になろうとして、神様を礼拝するのも、自分の願いを叶えてもらうため、というちぐはぐなことが起きているとしたら、それは一番の問題です。
 主イエスは「主の祈り」を教えるに先立って、自分を見せびらかしたり、長々と祈ってやっと聞いてくれるような神だと思ったりするような勘違いをしないように教えられました。神を小さく、自分の方が大きく考えたままでは、祈りは始まりません。だから、「主の祈り」は、私たちの名前や思いよりも、まず天の父の「御名が聖なるものとされますように」「御国が来ますように」「御心が行われますように」と祈るのです。その事で、私たちは自分が神様に成り代わってしまう愚かさから救い出されるのです。
 そして、後半は「私たちの」と繰り返します。
私たちの日毎の糧…
私たちの負い目…
私たちに負い目のある人たち…
私たちを試みにあわせないで…
 私たちが生きるのに必要なこと、食べ物やすべての必要、また、赦し、誘惑や悪からの守りを祈ります。ここに、私たちにとって本当に必要なことのエッセンスが詰め込まれています。「主の祈り」がなければ、私たちは自分の中に、どんな期待を持っているでしょう。どんな願いを祈ろうとしているでしょう。その願いは正直なもので、大事な願いだとしても、だからこそ、「主の祈り」の大きな願いの中に、自分の願いを置く時に、その願いさえも、新しい目で見ることが出来るようになります。

 主イエスは、私たちにこの祈りをプレゼントしてくださいました。私たちがどう祈れば分からない時も、主の祈りを祈ることが出来ます。とても、祈る言葉が出てこないほど疲れて、気持ちが萎えている時も、主の祈りがあることで、祈りの言葉を唱えることが出来ます。それを味わいながら、ゆっくりと祈りながら、時には言い換えたり、自分の言葉で言い直したり、繰り返したり、思いを挟みながら、祈って良いのです。イギリスの教会の礼拝で、司祭がみんなの前で「御国が来ますように」と祈った後、「主よ、私たちはもうこの祈りを二千年も祈っているのですよ」と言ったそうです。私たちも、主の祈りを祈りながら、そんな言葉を挟んでもいいのです。

 「主の祈り」は、主イエスが私たちに教えてくださった祈りです。神のひとり子イエスが、私たちに「天にいます私たちの父よ」と祈るよう教えてくださったことは計り知れない恵みです。毎日、この祈りを祈りましょう。毎日、沢山の願いや問題や痛みがあります。この世界で、神に向かって「天にいます私たちの父よ」と呼べることの幸せを、そして一緒に祈る大勢の家族がいる喜びを、主の祈りは与えてくれるのです。

「天におられる私たちの父よ、あなたが教えてくださった祈りを祈るとき、どうかその言葉が口先だけの言葉になりませんように。この祈りの願いが、私たちの心からの叫びでありますように。あなたの偉大なる御名のために、主の御国が地上に、また私たちのうちに、来ますように。アーメン」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/10/4 エペソ書3章14~21節「祈り方を教えて」ニューシティカテキズム40

2020-10-03 12:26:06 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/10/4 エペソ書3章14~21節「祈り方を教えて」ニューシティカテキズム40
 
 イエス・キリストは、私たちに祈る特権を下さいました。私たちは天の神に向かって、「天にいます私たちの父よ」と祈る事が出来ます。「イエス様のお名前によって」と祈ることが出来ます。この、親しく祈る特権で、私たちは何を祈ればよいのでしょうか。
第四十問 私たちは何を祈るべきですか?
答 イエスご自身が私たちに教えた祈りを含めて、神のみことば全体がどう祈るべきか導き、祈りの言葉を示し導きます。
 ここでは、神の御言葉全体が、私たちに、何を祈るべきかを導き、具体的にどういう言葉で祈るかも教えて、私たちの祈りを手引きしてくれている、と言っています。聖書を読むのは、ただ私たちが神について頭の知識を増やすためというより、私たちが神にもっと親しく祈り、神との豊かな祈りの関係を味わい、喜び、祝うようになるためです。聖書は、私たちが祈るために、神が与えてくださった手引き、ガイドブックです。

 聖書には、たくさんの祈りの言葉が出て来ます。でも、意外とそれは気づかれていません。私たちの頭は、神さまってこういう方のはずだ、神さまの要求ってすごく厳しく、難しいはずだ、神さまが喜ばれる祈りってきっとこうだろうと、いろいろと考えていることが多いのです。ですから、イエスが祈りについて教えた時も、最初に
マタイ6:5祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。…7また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。8…彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。
と、神を小さく考える誤解を糺しています。私たちも、神を小さく考えて、沢山の誤解をしています。聖書に、祈り方が示されている、といっても、「きっと、自分には難しいだろうなぁ」と思ってしまっているかもしれません。安心してください。聖書は、私たちに、あなたや私が考えたこともないくらい、豊かな祈りで満ちています。
 先に読んだ、エペソ書の言葉を思い出してください。なんと豊かな祈りでしょう。
3:16 どうか御父が、その栄光の豊かさにしたがって、内なる人に働く御霊により、力をもってあなたがたを強めてくださいますように。17信仰によって、あなたがたの心のうちにキリストを住まわせてくださいますように。
 私たちは、このように祈って良いのです。父なる神よ、あなたの栄光の豊かさに従って、聖霊なる神さまによって、私たちを強めてください。私たちに信仰を与えて、心のうちにキリストを住まわせてください。「欲しい物を願っていい」と言われたら、私たちは何を願うでしょうね。私たちがどんなものを思いつくとしても、聖霊が私たちを強め、キリストが私たちの心に住んで下さる。これよりも頼もしく大胆な祈りは、到底重いも及びません。それほどの事が、聖書では無条件に願われているのですね。そればかりではありません。続く言葉は、もっともっと大胆です!
…そして、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、18すべての聖徒たちとともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、19人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。そのようにして、神の満ちあふれる豊かさにまで、あなたがたが満たされますように。

 私たちは、神の「愛に根ざし、愛に基礎を置いている」んですって。教会の周りには、夏にはゴーヤが、今は無花果が実を付けています。そのゴーヤの苗も、無花果の木も、植える前には土を耕したり、肥料を埋めたり、毎日水を蒔いたりしました。ゴーヤの苗も無花果の木も、知らないでしょうけれど、根ざしている土は、十分に準備された基礎です。私たちも、実は、豊かな神の愛に根ざし、神の愛に基礎を置いて、今ここにあるのです。その愛の、広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持ちますように。それが人知(人の知識)を遥かに超えたキリストの愛であるかを知ることが出来ますように、と祈っています。私たちは、自分が愛に根ざしていることが分からず、自分で頑張らなきゃ、神の愛っていってもよく分からないしなぁと思っていることが多いものです。神に対する愛や信頼よりも、不信とか恐怖とか、殺伐とした思いでいるかもしれません。でも、聖書の祈りは、そんな私たちが、神の大きな愛の中に生かされていることを知ることが出来るように、そして、私たちがその神の満ち溢れる豊かさにまで満たされますように、と祈るのです。これが聖書の祈りです。
 『聖書の祈りが私の祈りになる』という本もあります。また、聖書の特に「詩篇」は祈りの宝庫です。詩篇は、人間の感情のすべてがある、魂の解剖図鑑だとも言われるぐらいです。祈祷会では、詩篇を一つずつ読んでいますが、嘆きや願い、賛美や告白の大胆さに、私たちの祈りはお行儀良すぎて、聖書の祈りがなんと大胆かを思わされます。その「詩篇とともに祈る」という本もあります。また「イエスとともに祈る」という手引きもあります。聖書は、私たちの祈りの手引きです。特に、イエスが私たちに教えてくださった「主の祈り」は、毎日、世界中で祈られている、素晴らしいお手本です。

 聖書には祈りの手引きがあります。もっと言えば、実は、聖書を私たちが読むこと自体が祈りなのです。私たちが言葉を出すだけが祈りではありません。まず神が語られて、私たちがそれに耳を傾ける。そこに既に祈りは始まっています。神は私たちに語ってくださり、私たちに何を願うか、どんな豊かな祈りがあるのかを示してくださいます。私たちが思ってもいない祈りの言葉を心に教えてくださいます。それに私たちが聴き、それを自分の言葉で繰り返す。そして、それを神が受け取って下さる。神が語り、私たちが聴き、私たちが語り、神が聴かれる。この場がそのまま、祈りなのです。

「祈りを聞いてくださる神よ、私たちの願いと祈りが、あなたの生けるみことばによって正しいものとなりますように。みことばによって励まされ、不可能と思えることも祈る信仰を与えてください。みことばによってみこころを知り、あなたに愛される神の子として主に近づくことができますように。また、みことばによって私たちはひざまずき、あなたが必要であることを知ることが出来ますように」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする