聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/8/9 Ⅰペテロ書2章9~11節「いい人でなく新しい人に」ニューシティカテキズム34

2020-08-08 09:46:51 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/9 Ⅰペテロ書2章9~11節「いい人でなく新しい人に」ニューシティカテキズム34

 イエス・キリストと出会うこと、イエスを信じて生きることは、本当に素晴らしい事です。本当に素晴らしい出会いです。私たちは聖書を通して、主イエスに出会い、主イエスを知っていきます。主イエスが私たちを愛して、私たちのために十字架にかかって死に、よみがえって、今もともにおられ、永遠に私たちはこの方のものであることを知っていく時、私たちの生き方は新しくされていきます。「洗礼を受けてクリスチャンになる」というと、すぐに窮屈そうなイメージを持たれることがあります。しかし、主イエスは私たちに「いい人」になることを求める方ではありません。良い行いをしたら救ってあげる、ではなく、もう私たちを愛してくださって、何も良い行いがなくても、ただイエスを信じるだけで私たちは、神の子供とされるのです。そのイエスと出会い、自分が愛され、この世界に神がよいご計画を持っておられると知ることが、私たちの生き方や行動も、良いものに変えずにおかないのです。それぐらい素晴らしい出会いです。

第三四問 私たちはただ恵みによって、ただキリストによって贖われているにもかかわらず、今もなお良い行いをして、神のみことばに従わなければならないのですか? 答 はい、なぜなら、ご自身の血によって私たちを贖ってくださったキリストは、私たちをご自身の御霊によって新しくしてくださるからです。それゆえ、私たちの人生が神への愛と感謝を表わすものとなり、御霊の実によって信仰を確信し、敬虔な行動によって他の人がキリストへと導かれるようになるためです。

 ここでは、前回お話しした、私たちの救いが、私たちの行いによらず、ただキリストの恵みによって救われる、ということを踏まえて、
「それにも関わらず、今もなお良い行いをして、神のみことばに従わなければならないのですか」
と問うています。そして、その答は、
「はい」!
 良い行いをして神の御言葉に従うことは必要です!と断言します。
 イエス・キリストは私たちをご自身の血、つまり命によって贖ってくださいました。私たちを神様のものとして取り戻してくださいました。もう私たちは、自分が誰であるかも分からないままに生きる必要はなくなりました。また、神様に気に入ってもらうために、良い行いをしなければ、という苦しい、惨めな考えもしなくてよくなりました。主イエスが私たちを贖ってくださったからです。それだけではなく、主は聖霊を働かせてくださって、私たちの考えや生き方も、新しくしてくださるのです。それもまた一方的な恵みの御業です。まだ、私たちには古い考えが染みついていて、神の愛や清さが十分分かっていません。だから、神の言葉に従うことが窮屈に思えたり、損になったり、嫌だなぁと思うこともあるでしょう。だから聖書で、時には厳しく、悪口や姦淫や嘘や怒りが罪であることを思い出させてもらうことは、私たちにとって必要です。でもそれは、私たちを窮屈にするのではありません。むしろ、私たちを自由にするのです。
 ここには、イエスを信じる者にとっての良い行いの意味が三つ書かれています。
 第一は「私たちの人生が神への愛と感謝を表すものと」なること、
 第二は「御霊の実によって信仰を確信する」こと、
 三つ目は「敬虔な行動(=信仰から行動する生き方)によって他の人がキリストに導かれるようになる」こと、この三つです。

 良い行いをするのは、神様に気に入ってもらうためとか、神様に応えるため、良い行いをしなくちゃ怒られるから、ではなく、感謝からです。愛してくださって、有り難う。恵みを注いでくださって感謝します。この感謝で生きることなのです。神様に愛されて、新しくされたから、生き方も感謝に溢れるのです。いい人になろうとはしないでください。すでに神様に愛されているのです。私たちの本心も、願いも、限界も、すべてご存じのイエスが愛してくださった。その感謝から、心を込めた生き方をして、自分がされて嬉しかったことを人にもするだけです。主イエスにあるがまま愛されているからこそ、その愛にふさわしく生きよう、嘘や暴力や不正などせずに生きたいのです。
 そして、私たちの行いが新しくされる時、それは私たちの努力以上に、私たちの中に結ばれた「聖霊の実」です。自分の生き方を通して、私たちは本当に主が私を救ってくださったのだ、と確信することが出来ます。ガラテヤ書5章22、23節にこうあります。
御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。…
 私たちの中に、キリストは聖霊によって実を結ばせてくださるのです。これは、私たちがキリストの恵みに与っていることの保証です。勿論、それは私たちが立派な人になるとか、清らかな心のふりをすることではありません。
 キリスト者の「良い行い」は、無理をしていい人を演じることではありません。これは、私たちの努力である以上に、聖霊の「実」なのです。特に、この最後にあるのは「自制」です。私たちは、自分の心や行動を治めるようになる。それが聖霊の実には欠かせません。人からどう見られるか、自分の間違いを認めたくない、そんな衝動で行動してしまう癖が減っていく。むしろ、人からどう見られようと正直になれる、嫌なことは嫌、無理なことは無理とハッキリ言える。でも、喜ぶことは喜び、人への思いやりを持って、無理はしないけれど気に懸けていける。そういう自由さが、神様に愛され赦されている者の実となるのです。
 そして、そのようなキリスト者の姿、私たちの伸び伸びと、正直に、喜びを持って生きている姿を見て、周りの人に「あの人の信じている聖書ってどんな本だろう。あの人の信じているイエス様ってどんな方だろう?」という思いが起こされます。これはあなたが証しを立てるというより、主イエスご自身の方法なのです。聖書の知識だけでなく、私が恵みによって豊かに潤されることが、他の人にとっても祝福となり、新しい、イエスとの出会いに用いられていく。それが次々とつながって、今に至っているのです。
 イエス様の素晴らしさは、皆さん一人一人がイエス様との出会いによって変わる事で明らかになります。今、この時代に世界を少しでも良くするために、悲しみが少しでも癒やされるために、人の心に光が点るために、自分に出来ることは何でしょうか。それを私たちがさせてもらえるとは、なんと嬉しいことでしょう。それは決して小さな、無意味なことではありません。主が私たちを通して証しされる、救いの御業なのです。

「天の父よ、あなたは私たちを罪から救ってくださいました。どうか私たちがまだ罪に支配されているかのように、罪に留まることがありませんように。あなたが与えてくださった律法は、私たちの生きる道しるべです。どうかこれらの命令を宝とし、私たちを知る人々がみな、私たちの良い行いを見てあなたを崇めるようになりますように」
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2020/8/2 ガラテヤ書2章16節「何を信じるか 誰を信じるか」ニューシティカテキズム33

2020-08-01 14:57:08 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/2 ガラテヤ書2章16節「何を信じるか 誰を信じるか」ニューシティカテキズム33

 「何を信じるか 誰を信じるか」。二つは似て違います。「何」を信じるか、地球は丸いと信じる、明日は晴れだと信じる、いつかコロナが収まると信じる。それが「何を信じる」です。神を信じる、という時も「神がいると信じる」という意味のことは多くあります。それと違って「誰を信じる」は、友達や誰かが「信頼できる」と信じる。嘘をつかない、その人の言葉や人格を信頼する、という意味です。「神を信じる」も、神がいると信じるだけでなく、神を信頼する、神の言葉を信頼して、自分の生き方もお任せする、という意味です。教会では、当然、イエス・キリストを信じます。今から二千年前、エルサレムで十字架に死んだ「ナザレのイエス」が神の一人子キリストであり、私たちの主であり、私たちを救って下さり、今もともにおられて、これからもずっと私たちを導き、世界を完成させてくださる。そう信じています。でも、そういう知識を信じるという以上に、イエス・キリストというお方を、信頼し、安心していくのですね。
 そして、私たちは、特にイエス・キリストが私たちの救い主だと信じます。イエスを私たちの救い主として信頼する。だから、私たちの行いとか何かも足さないと不十分であるかのようには考えないのです。今日は、私たちの信仰がイエスというお方への信頼であることを、何か別のものを頼ろうとしなくていいことだと学びましょう。

第三十三問 キリストへの信仰を持つ者は、自分の行いやそれ以外の何かに救いを求めるべきですか? 答 いいえ、そうするべきではありません。救いに必要なすべてはキリストにあるからです。良い行いによって救いを求めることは、キリストが唯一の贖い主であり救い主であることを否定することになります。

 私たちはイエス・キリストに信頼しつつ、それだけでは足りないように思ってしまうことがあります。奉仕や礼拝や、献金や苦行に頼ることがあります。また、私の信仰、イエスへの信頼が不十分だ、と思ってしまうこともよくあります。イエス・キリストが救い主だと言いながらも、でも、それだけでは心細くて、自分たちも何かしなくてはいけないはずだ、と思い込んでいる。それが、私たちに染みついている傾向です。だから、今日のこの問いではそのことを取り上げて、「いいえ、…救いに必要なすべてはキリストにあるからです」と言うのです。だから、私たちはイエス様を信頼するのです。
 もっと言えば、私たちはキリスト教という宗教を信じるのでもありません。イエスは、宗教については語りませんでした。私もあまり「キリスト教」という言い方は好きではありません。キリスト教という教え、宗教、考え方といった途端に、イエス・キリストというお方への信頼とは違う信仰になってしまいます。私たちは、私たちを救うために、この世界に来られて、十字架にかかり、死んでよみがえってくださったイエス・キリストを信頼します。イエスも、私たちに、ただ信じることをお求めになるのです。
2:16 しかし、人は律法を行うことによってではなく、ただイエス・キリストを信じることによって義と認められると知って、私たちもキリスト・イエスを信じました。律法を行うことによってではなく、キリストを信じることによって義と認められるためです。というのは、肉なる者はだれも、律法を行うことによっては義と認められないからです。
 何か、神様の律法、戒めを守ること、何かをすることでは、神様との正しい関係を結ぶことはできません。ただ、私たちのために、イエスが完全な橋渡しをしてくださった。神であるイエスが、人間となってこの世界に来られて、私たちのために死んで下さいました。十字架という、想像を絶する苦しみを引き受けて、罪の赦しを引き受けてくださいました。そのことに私たちが何かを足さなければならない、何かいいことをしなければとか、信じ方をもっと純粋にしなければ救われないなんて考えたら、それはイエス・キリストの御業をとても薄っぺらにしてしまうことでしょう。
 イエスの所にやってきた人の中には
「何をしたら永遠のいのちを得ることが出来ますか」
と質問した人もいました。「何をしたら」「私が何をすれば」という質問に対して、イエスは、全財産を捨てるとか、敵を愛するという生き方が出来るか考えさせられました。私たちには、神様との間に橋を架けるような良い行いをする力は全くありません。もし私たちが、神様との関係を作るような力があれば、イエス・キリストがわざわざこの世界に来て、十字架の苦しみを受ける必要はありませんでした。出来ないから、イエス・キリストが来て下さったので、そこに私たちが何かを足すような必要はありません。
 神の側からの一方的な贈り物としての救いを信じることは、私たちの生き方をどう変えるでしょうか。大違いに変えます。救いが差し出されて、信じることだけが求められているのであれば、私たちの周りに何があっても、それは私たちの行いが足りないからだと思う必要はありません。この福音を知らなければ、病気になったり感染症が大流行したり、大雨や地震や災害があったりすれば、それは自分か誰かの不信心のせいではないか、神の要求に誰かが応えていないから、と思うことが起きます。私たちが何かしなければ神様との関係は回復できない、と言う考えが、いやなこと、苦しい事を見る目を歪めてしまいます。また、大変な思いをして辛い人にも、「そんなことが起きたのは、あなたの神様に対する行いに問題があるからに違いない」と責めることも起きます。そして、そんな神様との関係に疲れたり、神を憎むようになってしまうのです。

 イエス・キリストが救って下さる。私たちは、そこに何も付け加える必要はなく、ただイエスを信頼するだけ。そう信じるキリスト者は、コロナウィルスや悲劇的な出来事の中でも、神の罰とか自分の足りなさを責めることはありません。何しろ、イエス・キリストご自身が、この世界に来て、病気や苦しみに触れてくださったのです。すべての罰を負われたのです。私たちの救いを願って完全な贖いを果たしてくださり、「わたしを信じなさい」と言って下さったのです。私たちは勇気をもって生きることが出来、ほかの人にも神の祟りや天罰ではない、信頼に満ちた生き方を伝えていくことが出来ます。

「ただ一人唯一の神よ、どうか私たちが自分の良い行いに頼ったり、その行いによって救われたのだと信じて生きたりすることのないように助けてください。ただ恵みのみに頼り、主こそ救いの創始者であり完成者であるという約束に命を懸けることができますように。そしてこのように生きることで、あなたの恵みを讃えることができますように」
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2020/7/26 Ⅰペテロ書1章1~2節「成長させてくださる神」ニュー・シティ・カテキズム31

2020-07-26 15:55:15 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/26 Ⅰペテロ書1章1~2節「成長させてくださる神」ニュー・シティ・カテキズム31

 今日のタイトルは「成長させてくださる神」としました。「成長」。これはキリスト教会の考える救いをよく表した言葉でしょう。教会に限らず、多くの宗教でも「救い」を歌います。しかし、同じ「救い」という言葉でも意味は様々です。キリスト教会でいう救いとは、どういう事でしょうか。今日読んだペテロの手紙第一はこう言います。
…選ばれた人たち、すなわち、父なる神の予知のままに、御霊による聖別によって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人たちへ。恵みと平安が、…ますます豊かに与えられますように。

 「イエス・キリストに従うように」。
 これが、神が私たちに考えておられる「救い」です。ここに、前回も「使徒信条」で確認した「三位一体」が出て来ます。父なる神の予知、ご計画のままに、御霊(聖霊)による聖別、お働きによって、イエス・キリストに従うことが私たちに始まる。この父と御霊とイエスの三位一体のチームワークで、私たちに与えられる救いがあるのです。私たち人間は、それぞれに自分なりの「救い」を考えて、神さまに期待します。イエス・キリストがそれを叶えてくださることを期待します。その私たちの理想よりも、神は遥かに大きく、私たちの救いを考えています。それが、私たちがイエス・キリストに従って歩む、という私たちの変化・成長なのです。
第三十二問 義認と聖化とはどういう意味ですか?
答 義認とは私たちが神の御前に義と宣言されることで、私たちのためのキリストの死と復活によって可能となりました。聖化とは私たちの義が徐々に成長していくことで、私たちの内に働く御霊によって可能となりました。
 「義認」と「聖化」。この二つの言葉が、いきなり出て来ます。それは、この二つの言葉が、キリスト教の救いを分かりやすく教えてくれるからです。まず、私たちは、キリストの身代わりの死と復活によって、自分の罪の罰を受けることなく、義とされます。私たちは、イエスの死のゆえに、もう「罪人」とか「滅びの子」という肩書きではなく、「神の子ども」「キリスト者」という立場を戴けるのです。誰も、それを否定できる人はいません。神ご自身が、私たちの罪を赦しを願い、御子イエスが罰を受けてくださったので、誰もそのことに文句を言う筋合いはありません。

 それは私たちの親子関係にも似ています。親が子どもを産んで、出生届を出せば、もうその子どもは正式な親子関係を持ったのです。まだその子は、そんなこと知らないかもしれません。どんなお父さんで、自分がその子どもであることがどういうことか、赤ちゃんには分からないでしょう。それでも、もう事実、その家の子どもなのです。赤ちゃんがまだしわくちゃでも、何か病気や障害があっても、泣いたりおしっこをもらしたりしていても、誰かが何と言おうと、その子はまぎれもなく、親にとっての子どもです。
 「義認」とはそういうことです。神が私たちを、義と認め、神の子どもとして受け入れてくださったのです。神の御子イエスが、私たちのために人となってくださって、私たちの罪も引き受けてくださったので、私たち人間が、神の子どもという立場をもらいました。まだ私たちは、それがピンと来ないかもしれません。神さまがよく分からず、びくびくしてしまうかもしれません。他の人が、「お前が神さまの子どもになるなんて、信じられないよ」とか「そのうち見捨てられちゃうよ」とか、勝手なことをいうかも知れません。でも、人がどんなことを言おうと、イエス・キリストが私たちの救い主だということは、もう神が私たちの裁きではなく、義を宣言してくださった。神の家族の立場をいただいたのです。これが「義認」という、救いの一面です。

 でもそれで終わりではありません。赤ちゃんは、いつまでも赤ちゃんでいたら勿体ないです。段々成長します。自分で歩くようになり、考えるようになり、社会のことを学んでいきます。そして、本当にその家の子どもらしく、言葉や仕草や考え方を身につけていきます。身分がその家の子どもだ、というだけでなく、心も人格も、頼もしい少年、青年、大人に成長していくでしょう。心も生き方も本当にその家の子どもになるのです。
…聖化とは私たちの義が徐々に成長していくことで…。
 神が下さった「義」(神との正しい関係)は、私たちの中で徐々に成長していきます。それは
「私たちの内に働く御霊によって可能と」
なった、神の子どもとしての成長です。神の子イエスが、父なる神様に信頼して、父に従ったように、私たちも神に信頼して、神に従っていきます。イエスが、私たちを愛して、私たちを受け入れてくださったように、私たちも、自分も他の人も心から愛して、受け入れるようになります。まだ罪や悩みはあります。完璧になるのでも、完璧なイエスの真似をするのでもありません。イエスは、真似とか見せかけなんて、全く気にしなかったのです。そして、イエスは、私たちを、罪も弱さも問題がどんなにあろうとも、私たちを愛し、喜んでくださり、神の子どもに受け入れてくださいました。
 そして、聖霊は私たちが成長するよう働き続けてくださっています。だから、私たちも、そのイエスのように、聖霊のように、不完全な自分を愛します。成長途上の隣人や他の人を愛し、その長い成長を助け合います。それも、一生掛けて、愛するように、素直に生きるように、心から与えるように、神さまの愛を受け取れるように、少しずつ少しずつ、成長させていただくのです。

 C・S・ルイスという人がこんな事を言っています。
「神は私たちを幸せにしたいのではない。私たちを成長させたいのだ」。
 そうです。神は私たちを成長させてくださる方です。それが、聖書を通して語られている救いです。イエス・キリストが下さったのは「罪の赦し」(義認)から始まって、「義に成長する」(聖化)の旅という大きな救いです。そして、神は私たち一人一人を違うように作られたのですから、一人一人に違う旅を用意しています。誰もが、特別なその人生を歩みながら、神の子どもとして成長して行きます。そして、お互いのその歩みを通して、励まされたり助け合ったり、一緒に神の御業を崇めていくのです。「義認」と「聖化」。立場と成長。神が下さる救いは、本当に豊かなものです。その救いの旅を、一緒に歩んで行きましょう。

「私たちの救い主、主よ、あなたは義認の御業を完全に成し遂げ、今、聖化の御業を始めてくださっています。私たちが完成に辿り着く最後まで、あなたがその旅路を守り導いてくださることを信じます。どうか日々私たちを主の似姿へと造り変え、あなたの道にふさわしいものとしてください。アーメン」
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2020/7/12 ユダ書3節「何を信じていますか」ニュー・シティ・カテキズム31

2020-07-11 15:05:22 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/12 ユダ書3節「何を信じていますか」ニュー・シティ・カテキズム31

 「クリスチャンは何を信じていますか?」と聞かれたら、皆さんは何と応えるでしょう?前回、私たちは「信仰」とは「信頼」だと学びました。聖書を通して、キリストを信頼できる方として知り、私たちに救いを下さる方として信頼し、またその方の言葉に信頼して従っていくことです。今日は、もう少し具体的に、私たちに差し出されている信仰の内容について見ていきましょう。そうすると、「クリスチャンは何を信じていますか?」と聞かれたときに、どのように応えれば良いかが分かるようになります。
第三十一問 真の信仰によって私たちは何を信じるのですか?
答 福音で私たちに教えられた全てのことです。「使徒信条」は私たちが何を信じているかを次のような言葉で表しています。
 私たちは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。また、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、処女マリアから 生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。主はそこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。私たちは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。

 週報に印刷されている「使徒信条」、朝の礼拝で毎週告白している「使徒信条」は、キリスト教会の最も古い信仰告白です。使徒が作ったのではありませんが、まだ使徒たちが生きていた時代に近い、紀元2世紀に教会の中で作られました。洗礼を受けたい人はこの「使徒信条」を学び、これを告白することを求められました。それから二千年近く、今でも世界中の教会で告白されている、共通の信仰を表しているものです。
 ここには、父、子、聖霊の三つの信仰告白があります。私たちの信じるのは、父、子、聖霊の、三つであって一つである、三位一体の神です。私たちの理解を超えた大いなる神が、父、子、聖霊のチームワークで、私たちを治めておられます。
 そして、ここには、天地創造、イエス・キリストの受胎、歴史的な誕生と苦しみ、十字架の死と復活と着座、将来の裁き、聖霊の働きである教会、私たちの交わり、罪の赦し、永遠のいのち、大事なことが十分に盛り込まれています。
 そして、この使徒信条を告白している人たちが世界中に何億といます。これまでの二千年、これからの何年(何十年か、何千年か、何万年か分かりませんが)、文字通り、主イエスが「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」その日まで、この信条を告白し続ける、何十億という人たちとともに、私たちもこの信仰を告白していくのです。ワクワクすることです。

 使徒信条は、私たちが何を信じているのか、福音とはどんなことか、要点をまとめています。ですから、どうぞこの言葉を使って、私たちが何を信じているかを、人に伝えるのに利用してください。
 また、自分自身に対しても、この使徒信条を教えて上げましょう。私たちは、福音を伝えるように命じられていますが、誰よりも福音を伝えるべき相手は、自分自身です。使徒信条や聖書の知識、また「神学」というキリスト教の学問は人を教えたり説得したりするためのものではありません。まず、私たちが自分自身の心の奥深くに、父、子、聖霊への信頼を深めるためのものです。こんな素晴らしく、力強い神を信頼しながら生きられるのです。私たちが、不安になったり、孤独を感じたり、自分を守れない弱さを覚えたりする時に、聖書の言葉で武装するのではありません。福音を、自分自身にゆっくり、静かに、語り、主への信頼をいただくのです。自分に対してゆっくり、力強く「私は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我は、そのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず。…」そのように言い聞かせてください。その積み重ねは、私たちの中に神への信頼を育てます。神への信頼を持つ心を育てられます。それは、私たちの生き方、心持ちを大きく変えずにはおれない強みです。

 今日はユダ書3節を読みました。ユダの手紙は、あのイエスを裏切った「イスカリオテのユダ」とは別のユダが書いた手紙です。とても短いですが、こう言われていました。
1:3 愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
 新約聖書の時代にも、「ひとたび伝えられた信仰のために戦う」必要が生じる、危機がありました。それは、教会の中に、福音を歪めて解説して、何をしてもいいんだ、自分たちの欲のままに生きてもいいんだ、という人たちが入り込んでいたようです。その状況を憂えたユダが、手紙を書いたのです。私たちの伝えられている信仰は、頭の中や口先の言葉だけのものではありません。何を信じているかをよくよく考える時、私たちの生き方、考え方、行動も変わってきます。完璧な聖人になるわけではありませんが、しかし、人を操作しよう、欲しいままに生きよう、関係を壊しても構うもんか、というような生き方は出来なくなっていくのです。このユダ書から選んだ「派遣の言葉」は、
20愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠の命に導く、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
と言います。「自分たちの最も聖なる信仰」とは「あなたの最大限精一杯聖い信仰」ではなく、神が私たちに下さった信仰、使徒信条に要約された信仰は「最も聖なる信仰」だ、ということです。私たちが戴いた信仰は、最高に聖く、私たちをも聖める力を持っています。この信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊の助けをいただきながら、祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。永遠のいのちに導く私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。そこまで言わせるほどのキリスト教信仰なのだと、それを私も信じているのだと、使徒信条は思い出させてくれるのです。

「天地の造り主よ、私達の信仰を告白する実に素晴らしい信条に命を吹き込んで下さい。どうか私たちが、時空を超えて実現しているあなたの救いの歴史を、神学的真理と切り離してしまう事がありませんように。どうか私達が不信仰のまま揺れ動くのでなく、私達を死からよみがえらせてくださる神の真理の上にしっかり立つことが出来ますように」
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2020/7/5 ガラテヤ書2章10~20節「受け入れ信頼できる方」ニュー・シティ・カテキズム30

2020-07-04 13:07:11 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/5 ガラテヤ書2章10~20節「受け入れ信頼できる方」ニュー・シティ・カテキズム30

 「受け入れ、信頼できる」。これは、今日のニュー・シティ・カテキズム30に出て来る言葉です。イエス・キリストへの信仰を言い表しています。イエス・キリストを信じるってどういうことでしょう? 遭ったこともない人をどうしたら信じられるのでしょうか? イエスを信じますって、分からなくても言えばいいのでしょうか? そういう質問に対する答の中に、「受け入れ、信頼し、依り頼む」という言葉があるのです。

問20 イエス・キリストへの信仰とは何ですか?
答 イエス・キリストへの信仰とは、神がみことばによって示されたすべての真理を受け入れること、キリストを信頼すること、そして、救いのために、福音によって私たちに差し出されたキリストのみを受け入れ、主に依り頼むことです。

 まず、神はみことば、聖書を私たちに下さっています。それは、私たちが神を信じるために必要なすべての真理を十分に示すためです。私たちは聖書を通して、神が私たちに何を呼びかけているかを知ることが出来ます。イエスご自身が、こう仰いました。
ヨハネ5章39節あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
 この他にも、聖書にはわたしのことが書いてあると言いました。他にも、聖書はイエスについて証ししています。

ヨハネ5:46モーセが書いたのはわたしのことなのですから。
ルカ24:27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
使徒3:18-19しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。19ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

 聖書が書かれたのは、私たちがイエスを信じるためだと、あちこちに書かれています。聖書のことばを通して、イエスを信じることが出来ます。聖書を読んだことはなくても、イエスについて聞いたり読んだりすることもあるでしょう。それならば尚更、聖書にはイエス・キリストがどんなお方か、どんなお話しをして、どんなことをなさったのか、私たちにとってどんなお方なのかが、詳しく書かれています。イエスに出会った人たちが変えられて行った事も書かれています。それを読まないなんて勿体ないです。聖書を通して知るイエスは、思い描いていたイメージとは違います。もっと自由で、もっと優しかったり、意外にそっけなかったりします。私が考えるイエスではなく、聖書でを通して語られている、遥かに豊かなイエス様との出会いが聖書にはあります。聖書を読むことは、私たちの信仰を育てるのです。
 今日のガラテヤ書を書いたパウロも、イエスに会ったことはありませんでした。もうイエスは十字架と復活の後、天に上っていなくなってから、パウロはキリスト教に触れたのです。それでも主はパウロに、出会ってくださいました。それはとても奇蹟的な出会いでしたが、そのパウロは聖書をよく読み、人々にも聖書にイエスの事が書いてあると繰り返して語っています。聖書を通してイエスは出会ってくださるのです。聖書を通して真理を受け入れたら、イエスに信頼することも始まります。だから、パウロはここで、ただ信じるだけでなく、もっとすごいことを言っています。
ガラテヤ2:19、20…私はキリストとともに十字架につけられました。20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
 聖書に書かれている「信じる」という言葉は、ただイエスの言葉に同意します、本当だと賛成します、というだけではありません。その中に飛び込んでいく、という言葉です。それは信頼する人の手の中に飛び込むのと同じです。飛び込んでも大丈夫と信じるといっても、水が怖いと思うなら、本当に信じているとは言えないですね。イエスを信じる、とは、本当にイエスが私を救ってくださる。イエスを私の救い主、私の神、私が信頼していいお方なんだ、ということです。イエスは、信頼できるお方です。

 「信仰」の反対は何でしょうか。それは「疑い」とか「不信仰」よりも「恐れ」です。信頼の反対は、信頼できるものがない、恐れや不安ですね。イエスは何度も「恐れるな」と仰いました。こわがらなくてもよい、大丈夫だ、安心しなさい、わたしがともにいる、と仰いました。イエスを信頼することは、イエスがいるのだから、恐れなくて良い、安心してイエスに従っていけば良い、ということです。
 時々、この事を勘違いして、イエスを信じて欲しい余りに、「信じなければならない」「恐れるなんて不信仰だからダメだ」と言ってしまうことがあります。でも、そんな風に強く言われたら、かえって怖くなってしまいますね。「信じなければならない」って言われるより、「信頼していい」と言われた方がホッと出来ます。イエスは、信じなければならないと命じる以上に、恐れなくて良い、わたしがともにいる、わたしを信頼しなさい、と仰るのです。

 最後の「救いのために、福音によって私たちに差し出されたキリストのみを受け入れ、主に依り頼むことです」は、長くて分かりにくいですね。ここで大事なのは、キリストが私たちを救ってくださる、ということです。「福音」とは「良い知らせ」という意味ですね。いい知らせです。それは、イエスが私たちを救ってくださる王だ。どんな人よりも、また私自身よりも、世界の王様や権力者や悪魔なんかよりも、遥かに強く、イエスが私たちを必ず救ってくださる、という知らせです。
 だから、私たちはイエスを信頼して良いのです。ただ、その教えが立派だとか、すばらしい愛のお方だという以上に、私自身が救いを必要としていて、その救いの良い知らせ(福音)が差し出しているのが、イエス・キリストという唯一の救い主なのです。私たちは自分を救えません。努力とか、宗教とか、お金とか仕事とか、色んなもので救ってもらえるような錯覚を持ちますが、どれも不完全で、到底不十分です。ただ、イエスだけが、私たちが受け入れるに値する救い主なのです。私たちは、聖書を通して、イエスに信頼し、イエスに飛び込むようにして、自分の人生をお任せするのです。どうぞ一人一人祈ってください。

「イエス様。御言葉を通してあなたが分かってきました。まだまだ分からない事だらけで、これからも迷うとしても、あなたが神の子で、私たちの救い主で、世界の王であることを信頼したいのです。どうぞ、私たちの心と人生の中心に来てください。あなたを信頼して、私をお任せします。御言葉の通り、私の罪を赦し、神の子どもとして、歩ませてください」

 このような祈りを今日、そして毎日捧げてよい。こんな信頼をしてよいお方なのです。



信仰の創始者である主よ、あなたは、あなたがご自分を現される通りのお方であると信じます。あなたのみことばは真実で、あなたが私たちを救う唯一の希望であることを信じます。私たちは見えるものに頼らず、あなたの約束を信じて信仰に歩みます。アーメン
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