聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/9/20 ピリピ書4章6節「神は祈りに必ず応えます」ニューシティカテキズム39

2020-09-19 17:26:31 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/9/20 ピリピ書4章6節「神は祈りに必ず応えます」ニューシティカテキズム39

 夕拝では「祈り」についてお話しています。神に祈ることは、イエス・キリストが与えてくださった救いの大事な一面です。聖霊がイエス・キリストの救いを私たちに届けてくださることは、私たちが天の父なる神に親しく祈る恵みが大きく含まれています。祈りは、主イエスが下さった、私たちへの特別な贈り物です。祈らないなんてもったいないのです! ですから、私たちの祈りに対する態度も、それに相応しいものです。
第三十九問 どのような態度で祈れば良いのですか?
答 愛、忍耐、感謝をもって、神がキリストのゆえに、私たちの祈りを常に聞いてくださるということを信じて、神のみこころに謙虚に従って祈ります。

 祈りに相応しい態度は、まず「愛、忍耐、感謝」です。これは、案外、私たちは考えない態度かもしれません。でも、天地を造られた大いなる神様に祈れる。それだけで、恐れ多いことですね。しかもここにあるように「神がキリストのゆえに、私たちの祈りを常に聞いてくださるということを信じて」祈るのですね。自分の祈りなんか聞かれているんだろうか、神は本当に聞いて下さるんだろうか、そんな風に考えるのではないのです。キリスト・イエスが私たちを救って下さったのだから、神は私たちの祈りを常に聞いて下さる。神は祈りを必ず聞いておられる。そう信じるのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
ピリピ書4章6節
 感謝をもって献げる祈りと願いを、神は知って下さいます。私たちの祈りは、神に聞かれる。そう約束されています。これは、本当に不思議な事です。私たちも人の話を聞くことはとてもエネルギーを使います。一人の話を聞くのも、簡単なことではありません。二人がいっぺんに話したら聞くのは大変。まして、五月蠅いところや、少し離れたりしたら、もう話を聞くのは難しい。神は、この宇宙よりも大きい方で、この世界の本当に本当に本当に……小さな地球に住む、小さな小さな小さな……私たち人間です。そして、世界には今八十億人ぐらいの人がいます。その八十億の人が、みんな違う願いを持っていて、それを同時に祈っていても、私一人の祈りを聞いて下さるのでしょうか。そんなことを思い煩わないでいいのです。神は、私たち一人一人の祈りを、もらさず聞いていて下さいます。この世界を支えている神は、必ず私たちの祈りを聞いて下さるのです。私たちの祈りが舌足らずで、しどろもどろ、うまく言いたいことが言えなかったとしても、神は私たちの祈りを確り聞いています。私たちが嘘やごまかしや、言い訳を並べても、神は私たち以上に本当のことをすべてご存じです。言葉を聴いているだけでなく、私たちの願いや思いや事情も全部、神はごぞんじです。世界の何十億の人の心を、神はもらさず知っておられ、一人一人にぴったりと寄り添っておられます。

 神は私たちの祈りを聞いて下さいます。それは、私たちが願ったように必ずなる、ということではありません。神は私たちの祈りを聞かれますが、神は神の御心を成し遂げられます。私たちは、自分の願いがどうしてもかなってほしいと当然思いますが、でも、神は私たちとは違う、そして、私たちよりももっと大きく素晴らしい願いを持っているものです。ですから、私たちは祈りを、自分の願いを押し通すためではなく、「神の御心に謙虚に従って祈ります」。神様の御心がなりますように。神様のご計画がなりますように。祈りは、神と取引したり、神を操作しようとしたりすることではありません。世界よりも大きく、そして、その神の前に本当に小さな人間すべての願いも漏らさず聞いておられる、大いなる神を、自分と対等な関係だと引き下ろしたらおかしな話です。

 神が私たちの祈りを必ず聞いておられる確信。そして、神の御心への謙虚な従順。それが、祈りにおける相応しい態度です。それを言い表すのが、この三つです。愛と忍耐と感謝。神が私たちを愛してくださっているのですから、私たちも神を愛しましょう。愛を忘れず、祈りましょう。自分の願いにおいても、祈る内容に愛をもって、また、愛することが出来るよう求めて、祈りましょう。そして、忍耐をもって祈りましょう。
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
Ⅱペテロ3:8

祈りとは待つことです。待つことが出来ない者は祈ってはいけません。

 すぐに答えられないからといって、諦めたり腹を立てたりしてはもったいない。神のタイミングに期待して、忍耐をもって祈り続けましょう。神のご計画は、長いのです。
 そして、感謝をもって祈りましょう。祈る時、私たちは自分の願いのことしか考えられないかもしれません。その祈りがかなうかどうかで、祈ること自体、神との関係自体が変わるように考えてしまいます。でも、本当に大きな悩みを祈っていると、どう祈れば良いのか、どうなってほしいのか、どうなることが一番いいのか分からなくなります。病気で苦しんでいる人が死にそうな時、死ななければ病気で苦しいまま生きていれば幸せなのか、死んだ方が楽だけど周りの人は辛くなるのがいいのか、本当にどうなることが最善なのか、分からなくなることが良くあります。そうやって祈っていくうちに、結局、私たちは感謝することしか出来なくなります。その人が今生きていること、今日まで生かされてきたこと、私がその人と出会えたこと、他の人にとっても大切な人であること…そうしたハッキリした神様の御業を思って、感謝するようになります。それと似たようなことが、いろいろな祈りにおいて起きます。感謝こそ祈りの態度です。

 愛、忍耐、感謝、そして神がキリストのゆえに聞いて下さると信じ、神の御心に謙虚に従う。これは、私たちのあるべき態度というよりも、神がどんなお方かを知るなら、当然じわじわとでも私たちの中に湧き上がってくる態度です。「こうでなければ祈りに相応しくない」と力まないでください。むしろ、神がどれほど確かな関係を下さっているか、神が必ず聞いてくださっているから、何も思い煩わなくてよいのだ、と知れば、力むことがなくなって、神様の前に出て、手も心も開いて、神に祈りを捧げることが出来るのです。そうです、祈りは献げるものです。願いも私たちの心も献げる事なのです。



「愛なる父よ、愛されるひとり子の御名によって私たちはあなたに近づきます。どうか祈りの答えがすぐに得られないときも、私たちの祈りに忍耐を与えてください。あなたが良いものを与え、私たちを害するものを遠ざけてくださることを信じ、信頼することができますように。あなたの道は私たちの考えを超越していますから、私たちはあなたの権威ある愛に信頼しつつ、祈り願い求めます。アーメン」
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2020/9/6 詩篇62篇8節「祈りとは神に心を注ぐこと」ニューシティカテキズム38

2020-09-05 12:25:42 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/9/6 詩篇62篇8節「祈りとは神に心を注ぐこと」ニューシティカテキズム38

 神は私たちを救うため、御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。主イエスは、十字架に命を捧げて、三日目に復活されて、天に帰られました。そして、私たちに聖霊なる神を遣わしてくださって、私たちは神からの救いをいただきます。その救いとは、何より神との関係の回復です。ですから、聖霊が私たちに下さる恵みの最大の二つは、私たちが祈ることが出来るようになること、そして、聖書の御言葉を理解できるようになること。この二つです。今日から、祈りについてお話しします。しかし、祈りについて私が話し、皆さんが聴く、という事だけで終わらず、皆さんの毎日の生活の中で、祈ってください。神に祈ることが出来る、祈ってよい! 私たちの祈りを聴いて下さり、待っていて下さる神がおられる。それは、皆さん一人一人が、祈ることで覚える恵みです。そのために、今日から「祈り」についてお話をします。

第三十八問 祈りとは何ですか? 
答 祈りとは私たちの心を、賛美、嘆願、罪の告白、そして感謝によって神に注ぎ出す事です。

 祈りって何だろう? 何を祈ればいいか分からないから祈れない。そう思う人は多いでしょう。ですからここに祈りの四つの要素が書かれています。賛美、嘆願、罪の告白、感謝です。これは、私たちが神に祈るときの四つの内容です。
 まず「賛美」。神の美しさ、素晴らしさ、偉大さ。神が世界を造られた御業や、造られた世界に現された知恵や不思議さ。また、神の真実や、御言葉の確かさ。私たちへの愛、主イエスの福音の尊さを褒め称えることです。たとえ、願いや引っかかっている疑問があっても、この世界そのものが、私たちの理解を超えた神の偉大さを現しています。私たちの存在や生きていること自体が、神の手の業による、奇蹟です。そして、この世界の苦しみの底にまで来て下さり、十字架の苦しみを引き受けられた、御子イエスの恵みがあります。イエスは復活して今も生きて、治めておられます。神を賛美するに相応しい方であると崇める思い。これは、私たちが神に祈るときに欠かせないことです。そして、神を賛美する理由は、決してつきることがありません。
 その次に「嘆願」。私たちの願いのため、必要のため、自分だけでなく、家族のため、地域のため、国家のため、世界のため、貧しい人、苦しむ人のために、神が助けてくださり、憐れんでくださるよう祈ります。心にある小さな願いや、大きな心配事。私たちの生活にも、この世界にも、願う必要のある問題はたくさんあります。心を痛めることがあれば、すぐに「神様、このことを助けてください。あの人を救ってください」。具体的に自分の思いを祈りましょう。願いを神に捧げましょう。
 三つ目は「罪の告白」です。自分の過ち、思い上がり、私たちの中には何かしら、後ろめたいことがあるものです。また、神を神としない、自分が神のようになってしまうこと、人を踏みにじったり妬んだりぞっとするような思いを抱くことは絶えません。その自分の非を、謙虚に告白しましょう。私たちの罪のために、主イエスは十字架に死んでくださいました。その事実をもう一度思い起こして、自分の罪を告白しましょう。
 最後は「感謝」。神の恵みが私たちに注がれていることに感謝します。願いが聞かれたことも感謝でしょう。願いが聞かれなくても、違う恵みに気づかされます。いつも神がともにいてくださる恵みがあります。自分を支えてくれる家族や友人も恵みです。今あること、ここまで十分にあった恵みに、心から感謝する。これも祈りに相応しい、大切な要素です。神を自分たちの願いのためだけの小さな神に引き下ろすことを止めて、既にある恵みを覚えるのです。感謝することが難しい時は、「感謝できる事に気づけますように」と祈ればいいのです。感謝のある心になることは、大きな恵みです。

 さて、この四つの要素は祈りの手がかりです。ただ、神に賛美と嘆願と罪の告白と感謝を捧げることが祈りなのではありません。最も大事なのは
「私たちの心を神に注ぎ出すこと」
です。心にもない賛美や願いをささげても、それは祈りではありません。心にもない罪の告白や感謝をどれほど立派な言葉で唱えても、それは神が求めている祈りではありません。神が求めているのは、流ちょうな祈りや、敬虔そうな褒め言葉や感謝ではありません。もし、神がそんなものを求めているのだとしたら、誰かの立派な祈りを録音して、ずっとプレーヤーから流し続けておけばいいかもしれません。でも、神は、そんなものなど求めません。神が聖霊を遣わしてまで、私たちに下さったのは、私たちが神を心から信頼して、自分の心を神に注ぎ出すことです。
詩篇62篇8節「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」

 でも、いきなり心にあることを神に祈る、というのは難しいものです。その時、先の四つの要素が助けになります。賛美、嘆願、罪の告白、感謝。この四つを、手がかりにしていくことで、私たちは自分の心にあるモヤモヤとした思いを神に祈る事が出来ます。人の書いた祈りの文章を通して、自分の言いたいことを言葉にすることが出来ます。どう祈ればよいか分からなかったことが、ああ、自分の心にあったのは、賛美だったんだ、感謝だったんだ、願いだったんだ、罪の告白がしたかったんだ、と気づかせてもらえるのです。
 嬉しい事だと思います。私たちの心にあるのは、神への賛美、嘆願、感謝なのだと気づけることは。また、この私たちの心にある思いをすべて、神に注ぎ出せば、神が受け取ってくださる、という事は。

 箴言16章1節にこうあります。
人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る。
 私たちの心には色んな計画があります。将来のことも、今晩のことも、何かしら企んだり予測したりしているものです。それを、舌に上らせる、つまり言葉にして祈って見ると、その自分の計画、企みがどんなものか、祈る中で主が(聖霊が)導いて、教えてくださいます。心の中にあるものを、祈ることで私たちが知っていき、それを主にお委ねしていくことが出来るのです。正直に、そして、主への信頼をもって、祈りましょう。

「我が偉大なる避け所、私たちを祈りに招いてくださり感謝します。あなたは遠くにおられません。私の近くにいてくださり、私たちの祈りを聞いてくださいます。どうか、絶えず、あなたの御前に私たちの心を注ぎ出すことができますように。偽らず、私たちの本当の姿であなたの恵みの御座に近づくことができますように。アーメン」
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2020/8/30 エペソ書6章17~18節「光も思いも与える神」ニューシティカテキズム37

2020-08-28 15:52:23 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/30 エペソ書6章17~18節「光も思いも与える神」ニューシティカテキズム37

 夕拝では、しばらく「聖霊なる神」のお話をしています。天の父なる神様は、ひとり子イエス・キリストを私たちの救い主として、この世界の送ってくださいました。そのイエスは、私たちに聖霊を使わしてくださって、救いを受け取ることが出来るようにしてくださいます。この父と子と聖霊様の、連係プレーがあって、私たちは確かに救いに与るのです。今日はその続きを、「ニューシティカテキズム」の三七問から見ましょう。
第三十七問 聖霊は私たちをどのように助けてくださるのですか? 答 聖霊は私たちに罪を認めさせ、私たちを慰め、導き、霊的な賜物を与え、神に従う思いを与えてくださいます。そして私たちが祈ることができるよう、また神のみことばを理解できるようにしてくださます。

 聖霊は、私たちをどう助けてくださるのですか? ここには、七つのことが書かれています。
①罪を認めさせ、
②私たちを慰め、
③導き、
④霊的な賜物を与え、
⑤神に従う思いを与えてくれ、
⑥祈れるようになり、
⑦神の御言葉を理解させてくれる。

 聖霊が私たちを助けてくれるのは、このように豊かな内容です。主イエスは仰いました。
わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのです。 ヨハネ15:5

 ブドウの枝が、木につながっていれば、豊かな実を結びます。それは枝が、木から養分たっぷりの水をもらうからです。私たちもそうです。御霊が私たちに、キリストの豊かな恵みを届けてくださるから、豊かな命を得ます。罪を認めること、慰め、導き、霊的な賜物、神に従う思いをいただけます。もし聖霊様が私たちに働かれなければ、どうなるでしょう。折れた枝のようになります。枝は木から折られたら、枯れてしまいます。養分をもらわなければ、枝はゆっくりと朽ちます。枯れ枝になってしまいます。細々と生きていく、少ししか実を結べない、というどころではありません。枯れるのです。
 聖霊様が働かなければ、私たちも枯れるのです。私たちはイエス様から離れては、何もすることはできないのです。何も、です。何か出来るとしたら、それは、聖霊様が私たちに命を注いでくださっているからに他なりません。聖霊が私たちを助けてくださるとは、私たちが願う特別なことをしてくださる、というよりも、私たちが罪を認めたり、慰めや導きをいただき、なにかをすることが出来る、そのすべてが聖霊の助けなのだ、ということです。聖霊なしで、私たちができる限りの事をして、後の足りないところを、埋め合わせてくれる、というよりも大きな助けなのです。

 今日の説教題を「光も思いも与える神」としました。聖霊が私たちを助けてくださることを、光と思いで表せると思ったのです。聖霊様が私たちの心を照らすと、私たちの心に光が差し込んで、私たちは自分の罪が分かります。神である聖霊に、私たちは何も隠すことができません。だから、自分のあるがままの姿や、隠していたことにも気づきます。私は臆病で、怖くなってしまうと、自分の失敗を神様が何とかして隠して、ごまかせるように助けてくださいと願ってしまっていたものです。それは、聖霊が下さる光とは反対です。光は、隠すのではなく、隠さずに、正直にどんな問題も認めさせるのです。でも、それだけではありません。聖霊は、私たちに思いも下さるのです。隠そう、ごまかそうとした思いを、もう隠さない、正直に告白しよう。自分の願いのように神様がしてくれたらなぁ、という思いを変えて、神様が下さる慰めや導きよりも素晴らしいものはない!という思いに変えてくださるのです。

 今日、この聖霊の助けについて学びました。「ニューシティカテキズム」では、次の38問から「祈りについて」お話をして、第42問から「御言葉」についての内容になります。ですから、今日の37問で、聖霊の助けの最後に「私たちが祈ることができるよう、また神のみことばを理解できるようにしてくださいます」とあったのは、その導入でもあるわけです。聖霊の助けの中でも、特に大事なのは、私たちが、父なる神に祈ることができるようにしてくださること、そして、御言葉を理解できるようにしてくださる。祈りとみことば。私たちが神に話し、また、神の言葉を聴く。この神との交わりこそ、聖霊の助けの中でも最大の恵みです。最初に読んだ御言葉でもこうありました。
エペソ6:17救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。18あらゆる祈りと願いによって、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのために、目を覚ましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くして祈りなさい。

 兜、剣、と勇ましい言葉が続きます。ここでは「神の武具」という話が出て来ています。そこでも、最後に出てくるのは「神の言葉」と「祈り」だと気づいてください。私たちが聖書の言葉を理解して、神様に祈るようになる。これが、何よりも私たちを守るのです。それが聖霊が下さる助けです。祈りなんて要らない、聖書も読むのは面倒くさい、と思いますか? そんなことをしなくてもいいよう、聖霊が助けてくれたらな、と思う気持ちもないでしょうか。それが、聖霊の助けは、私たちがますます神様に祈るようになり、聖書を読まずにおれなくなる。神様をますます頼って、神の言葉によって強められる。そういう助けなのだ、とここから語っていくのです。

 先週お話ししたように、聖霊は「メガネ」のようです。

 メガネをかけるとメガネが見えるのでなく、周りが見えるようになります。聖霊が働くと、聖霊が見えるようになるのではなく、イエスが分かり、イエスの御言葉が分かるのです。イエスは愛のお方です。強いよりも、弱さを知り、涙を知り、悲しみを恐れないお方でした。聖霊の力も、私たちをスーパーマンや仙人のように変える力ではありません。イエスのように、人を愛し、傷つきやすくなり、弱さを思いやり、涙を流せるようになるのです。聖霊が下さる思いは、鉄の心ではなく、イエスの心なのです。そして、主イエスがいつも父なる神に祈っていたように、私たちも祈り、聖書に聴いていきましょう。聖霊が助けてくださいます。

「聖霊なる神よ、私たちを導いてください。私たちの心に潜んでいる罪に光を当ててください。私たちには重すぎる使命を成し遂げられるよう整えてください。あなたの喜ばれることを進んで行わせてください。真理のみことばを正しく理解できるようにとりなし、私たちの目を開いてください。アーメン」
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2020/8/23 ヨハネ伝14章16~17節「助け主なる神」ニューシティカテキズム36

2020-08-22 13:39:23 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/23 ヨハネ伝14章16~17節「助け主なる神」ニューシティカテキズム36

 夕拝で、お話をしている「ニュー・シティ・カテキズム」は、今日から最後の部分、第三部に入ります。
 今まで、第一部では「神・創造と堕落、律法」という土台の話を
 第二部では「キリスト、贖い、恵み」という福音の話をしてきました。
 ここからは、神が作られた世界で、救い主イエスの救いが、私たちにどのように届けられていくのか、をお話ししていきます。ただ、聖書のすばらしいお話を私たちが信じるとか、イエス様の救いを私たちが信じる、という以上のことが聖書の救いなのだと、今日から見ていきましょう。その最初に触れるのは、聖霊のことです。先週、信仰も神が下さる、神が信仰を聖霊によってプレゼントしてくださる、というお話をした、その流れです。

第三十六問 聖霊について私たちは何を信じていますか? 答 聖霊は神であり、父、子と共に永遠であり、神は信じるすべての者に聖霊を必ずお与えになります。

 「聖霊」という字を、パソコンで打ち込むと「精霊」と変換されるかもしれません。精霊とはフェアリー、妖精みたいなものですが、教会で言う聖霊は、神ご自身です。この世界のすべてを作り治めている、永遠で、父なる神、御子なるキリストと等しいお方です。その神である聖霊が、御父が決断し、イエス様が人となって果たされた救いの御業を私たちに届けてくださるのです。もっと言えば、神が聖霊なる神を私たちに与えてくださるのです。聖霊が来て下さることによって、私たちは、信じる心を持ち、イエス様の救いに与ることが出来ます。私たちが今、イエス様が少しずつでも分かっていくとしたら、信じたいと思い始めているとしたら、聖書の言葉が私たちの心に働いているとしたら、それは、他ならない聖霊のお働きによるのです。聖霊が私たちのところにきてくださらなければ、決して私たちは、信じることも救いを求める事も出来ません。
ヨハネ一四16そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。17この方は真理の御霊です。世はこの方を見ることも知ることもないので、受け入れることができません。あなたがたは、この方を知っています。この方はあなたがたとともにおられ、また、あなたがたのうちにおられるようになるのです。
 主イエスはこう言われました。イエスが父にお願いして、父が私たちに与えてくださる助け主。それが聖霊です。神は、聖霊を通して、私たちに救いを届け、信仰を与えてくださいます。ですから、私たちが、キリストの救いをいただくことが出来るのです。
 聖霊は「この方」と言われています。聖霊は、神であられて、人格をお持ちです。イエス様と違って、目には見えませんし、父なる神よりももっと思い巡らしにくいですが、何よりも私たちに近くおられ、私たちを愛しておられる、人格的なお方です。聖書には、
「神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。」
という言い方も出て来ます(エペソ4:30 )。悲しまれ、喜ばれ、私たちを愛されるお方です。父なる神も、御子イエスも聖霊をただ遣わすだけでなく、愛しておられます。神は、深く深く愛しておられる聖霊を、私たちのうちに住まわせてくださっています。ですから、この方がただの助け手、力ではなく、心あるお方であることを思い出すために、「聖霊」と呼び捨てにするのではなく、「御聖霊」とか「聖霊様」と呼ぶのは相応しいことですし、私たちの心に聖霊への畏敬の念を呼び覚ましてくれます。本当に恐れ多いことに、聖霊なる神様が、私たちのうちに、信仰を届けて、救いを確かに届けてくださるのです。
 しかし聖霊は、「キリストの御霊」です。私たちにご自身を示そうとはなさいません。私たちが主イエスを知り、主イエスの仰った御言葉を理解するようにしてくださるのです。「聖霊が見たい、感じたい、体験したい」と思う人もいますが、聖霊のお働きは、私たちが主イエスを信頼し、主イエスに結びつくことにあります。中には、聖霊を体験した、身体が熱くなったり、感じたり出来るような出来事をした人もいます。そういう人もいれば、そうでない人もいます。大事なのは、何か特別な霊的体験をすることではなく、私たちがますます主イエスを信じ、イエスに結びつくこと。イエスを知って、イエスへの信仰を深められ、イエスに従うよう変えられていくこと。体験も憧れる気持ちも分かりますが、体験や奇蹟がなくて、信仰を吹き消すような状況の中でも、それでも主イエスに心を向けるような信仰を持っていくことです。それが、聖霊のお働きなのです。
 聖霊の働きは「メガネ」のようです。メガネをかけると、周りが見えるようになります。メガネが見えるようになるのではありません。「目が見える」というのも面白い言い方で、目が見えるのではなく、目の前にあるものが見えるようになるのです。聖霊が来て下さると、聖霊が見えるのではなく、主イエスが見えるように、心の目が開かれるのです。「聖霊は謙虚な神」とか「控えめな神」「慎ましい神」とも言われるのです。

 しかし、聖霊が私たちに働いて、イエスが見えるようになり、神の恵みによって、神の子どもとされたと知るなら、私たちは慎ましいとか、控えめ、遠慮がちに生きるはずがありません。主イエスは、弟子たちに
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、わたしの証人となります」
と言われました(使徒1:8)。聖霊は、私たちに信仰や救いを与えるだけでなく、私たちをイエスの証しとしてくださるのです。神は私たちを通して、私たちの思いを超えた、大きな事をなさろうとしています。そしてそれは、私たちの心に信仰を持つという、目には見えない本当に地味なことからしか始まらない、とてもデリケートなことなのです。その結果、私たちは勇気を持ち、大胆になります。安心して、もっと自分らしく、本領を発揮して、面白い人になるはずです。
 今日も礼拝の最後に、祝福をします。主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、そして「聖霊の交わり」があるように。皆さんに聖霊が来て、働きかけて、主イエスの福音を豊かにいただけますように、そうして主イエスの証人として出て行きましょう。

「助け主、主よ。私たちに聖霊を送り、その御霊を私たちのうちに住まわせてくださり感謝します。聖霊が私たちを戒め、訓練し、力づけ、慰めてくださりありがとうございます。どうか私たちが自分の力に頼らず、御霊の助けによって、信仰の道を進むことができますように。どうか従順の道を歩み、喜びに満たされますように。アーメン」


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2020/8/16 テトス書3章4~6節「神は信仰もくださいます」ニューシティカテキズム35

2020-08-15 14:37:02 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/8/16 テトス書3章4~6節「神は信仰もくださいます」ニューシティカテキズム35

 神は信仰も下さいます。「も」というのは、これまで夕拝でお話ししてきたように、聖書の教えや、イエス・キリストも神が下さったものでした。神は私たちに、罪の赦しも下さり、救いも下さいます。この救いを神からいただくのに、私たちは良い行いとか、何か条件を求められることはありません。ただ、信仰だけでいただけるのです。信仰だけで。では、その信仰は、私たちが一生懸命信じなければならないのでしょうか? いいえ、その信仰も、神が下さるのです! 今日はその事をお話しします。
第三十五問 私たちが恵みのみ、また信仰のみによって贖われたのであれば、この信仰はどこからくるのですか?
答 私たちがキリストから受けるすべての贈り物は、信仰も含め聖霊を通して受け取るのです。
 信仰のみでもらえる、と言っても、その信仰だって、神が私たちに下さった贈り物。だから、私たちは「神様が信じるだけで救ってくださるって言っても、その信じる信仰が自分には足りないなぁ」なんて考えなくていいのです。また、「イエス様を信じるだけでいい」って言っていながら、その最後の信仰を自慢したり、強制したり、信仰が足りないって責めたりすることも、しなくていいんです。だって、信仰も神様が下さる贈り物なのですから。私たちが、救われたい、イエスを信じたい、この福音に預かりたい。そういう思いそのものが、人間が自分で持つことは出来ません。救い主であるイエス・キリストとの出会いそのものが、神からのプレゼントなのです。
テトス三4しかし、私たちの救い主である神のいつくしみと人に対する愛が現れたとき、5神は、私たちが行った義のわざによってではなく、ご自分のあわれみによって、聖霊による再生と刷新の洗いをもって、私たちを救ってくださいました。6神はこの聖霊を、私たちの救い主イエス・キリストによって、私たちに豊かに注いでくださったのです。
 神が現れたとき、私たちが救われるのは、私たちの正しい行いではなく、聖霊なる神が、私たちの中で、再生(もう一度、生きるようになること)と刷新(すっかり新しくしてくれること)をなしてくださるのです。これは、神がイエス・キリストによって成就した贖いを、聖霊によって私たちの心や生き方に届けてくださる出来事です。只管、神の御業です。そうでないと、私たちは救いを求めることも、信じることも、罪を認めることも決して出来ません。いくら神が素晴らしい救いや、慰めに満ちた言葉や、励ましや喜びに満ちたお祝いを約束してくださっても、それを信じるかどうかはあなた次第ですよ、となったら、私たちの心に任されてしまうなら、私たちは神よりも自分を求めようとしてしまうでしょう。聖霊が私たちの心に命を吹き込んでくださって初めて、私たちの心は神との和解、神の子どもとしての生き方を踏み出すことが出来るのです。
 そして、私たちはだんだん年をとれば、頭も働かなくなって、聖書の御言葉も、イエスの名前も忘れるかもしれません。自分が誰かさえ、分からなくなることがあります。信仰どころではなくなります。それで私たちが神との関係も保てなくなるのだとしたら悲惨です。でも、救いは、信仰まで含めてすべて、聖霊のお働きです。すべてを下さる神は、私を救おう、と願って下さったのです。「信じたら救おう、信じなかったら残念でした」ではなく、信じる心も力も贈り物としてくださるのです。もし年をとったり病気になったり、脳死になったりして、信じる力を失っても、それでも神は決して私たちを諦めたり手放したりはなさらないのです。聖霊が私たちを確り捉えてくださるのです。
 「猫の法則と猿の法則」ということを教えてくれた先生がいました。猿は、赤ちゃんを運ぶとき、こどもがお母さんにしっかり捕まります。子どもが手を離したら、落ちてしまいます。お母さん猿がどんなにしっかりしていても、子どもがよそ見をしたりしたら一巻の終わりになります。子どもが一生懸命捕まっていても、最後の最後で手を離してしまうかもしれません。油断は出来ない、安心できない関係です。

 これと同じように、神様の救いが大きくても、それを信じるあなたの努力も必要、という考えは、多くの宗教に、そして、キリスト教の中にもあります。もう一つの「猫の法則」はどうでしょう。
 猫の赤ちゃんは、お母さんが首を加えて運びます。赤ちゃん猫がいくら暴れたりよそ見をしたりうっかりしても、お母さんはますます首をしっかり加えるでしょう。お母さん猫が子ども猫に協力を求めたり、しっかり捕まってなきゃダメよと脅したりすることはありません。お母さんは、子どもではなく、自分を信頼します。勿論、お母さんですから、赤ちゃんを育て、しつけて教えます。子どもは段々成長し、たくましくなっていきます。いつまでも受け身で赤ちゃんのままでいるわけではありません。お母さんの大きな愛の中で、赤ちゃん猫は訓練されたり成長したりするのです。これが「猫の法則」です。

 神様の救いは、この猫の法則のように、神様の側にかかっています。私たちの信仰や努力次第、ではなく、信仰も努力も、神が父となって私たちを育ててくださる贈り物なのです。だから、私たちは最後まで安心できます。そして、その確りとした神との関係の中でこそ、思い上がることなく、謙虚に、そして安心して成長していくのです。
 このような救いを強調するのは、私たちの教会の特徴です。鳴門キリスト教会は「日本長老教会」の教会ですが、長老教会の立つ「改革主義」という神学の特徴は「神の主権」の告白です。神に100パーセントの主権がある。99が神で、最後の1はあなた次第、では決してない。神様が100なのです。そういう信仰が、私たち長老教会の特徴の一つです。神が私を救ってくださる。私たちに信仰を下さったのも神様。すべての良いものは神様から来る。そして、神は私たちに、すべての良いものを惜しみなく下さる、良いお方です。すべては神様の恵み、すべては聖霊が私たちに届けて下さっている贈り物。これからも信仰も、知恵も、忍耐も、喜びも、どうぞ神様私たちにお与え下さい。そう告白しながら、私たちは、神様を礼拝し、神の子どもとして生きていくのです。

「聖霊なる神よ、罪過と罪との中に死んでいたためあなたを求めることができなかった私たちを、あなたは追い求めてくださいました。信仰はあなたからの賜物です。石の心を肉の心に造り替えられる主の救いの恵みがなければ、私たちは誰一人として信仰を持つことはできませんでした。受けるに値しない憐れみを私たちは得たのですから、どうか私たちが誇ることのないように助けてください。アーメン」
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