2020/9/20 ピリピ書4章6節「神は祈りに必ず応えます」ニューシティカテキズム39
夕拝では「祈り」についてお話しています。神に祈ることは、イエス・キリストが与えてくださった救いの大事な一面です。聖霊がイエス・キリストの救いを私たちに届けてくださることは、私たちが天の父なる神に親しく祈る恵みが大きく含まれています。祈りは、主イエスが下さった、私たちへの特別な贈り物です。祈らないなんてもったいないのです! ですから、私たちの祈りに対する態度も、それに相応しいものです。
第三十九問 どのような態度で祈れば良いのですか?
答 愛、忍耐、感謝をもって、神がキリストのゆえに、私たちの祈りを常に聞いてくださるということを信じて、神のみこころに謙虚に従って祈ります。
祈りに相応しい態度は、まず「愛、忍耐、感謝」です。これは、案外、私たちは考えない態度かもしれません。でも、天地を造られた大いなる神様に祈れる。それだけで、恐れ多いことですね。しかもここにあるように「神がキリストのゆえに、私たちの祈りを常に聞いてくださるということを信じて」祈るのですね。自分の祈りなんか聞かれているんだろうか、神は本当に聞いて下さるんだろうか、そんな風に考えるのではないのです。キリスト・イエスが私たちを救って下さったのだから、神は私たちの祈りを常に聞いて下さる。神は祈りを必ず聞いておられる。そう信じるのです。
何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
ピリピ書4章6節
感謝をもって献げる祈りと願いを、神は知って下さいます。私たちの祈りは、神に聞かれる。そう約束されています。これは、本当に不思議な事です。私たちも人の話を聞くことはとてもエネルギーを使います。一人の話を聞くのも、簡単なことではありません。二人がいっぺんに話したら聞くのは大変。まして、五月蠅いところや、少し離れたりしたら、もう話を聞くのは難しい。神は、この宇宙よりも大きい方で、この世界の本当に本当に本当に……小さな地球に住む、小さな小さな小さな……私たち人間です。そして、世界には今八十億人ぐらいの人がいます。その八十億の人が、みんな違う願いを持っていて、それを同時に祈っていても、私一人の祈りを聞いて下さるのでしょうか。そんなことを思い煩わないでいいのです。神は、私たち一人一人の祈りを、もらさず聞いていて下さいます。この世界を支えている神は、必ず私たちの祈りを聞いて下さるのです。私たちの祈りが舌足らずで、しどろもどろ、うまく言いたいことが言えなかったとしても、神は私たちの祈りを確り聞いています。私たちが嘘やごまかしや、言い訳を並べても、神は私たち以上に本当のことをすべてご存じです。言葉を聴いているだけでなく、私たちの願いや思いや事情も全部、神はごぞんじです。世界の何十億の人の心を、神はもらさず知っておられ、一人一人にぴったりと寄り添っておられます。
神は私たちの祈りを聞いて下さいます。それは、私たちが願ったように必ずなる、ということではありません。神は私たちの祈りを聞かれますが、神は神の御心を成し遂げられます。私たちは、自分の願いがどうしてもかなってほしいと当然思いますが、でも、神は私たちとは違う、そして、私たちよりももっと大きく素晴らしい願いを持っているものです。ですから、私たちは祈りを、自分の願いを押し通すためではなく、「神の御心に謙虚に従って祈ります」。神様の御心がなりますように。神様のご計画がなりますように。祈りは、神と取引したり、神を操作しようとしたりすることではありません。世界よりも大きく、そして、その神の前に本当に小さな人間すべての願いも漏らさず聞いておられる、大いなる神を、自分と対等な関係だと引き下ろしたらおかしな話です。
神が私たちの祈りを必ず聞いておられる確信。そして、神の御心への謙虚な従順。それが、祈りにおける相応しい態度です。それを言い表すのが、この三つです。愛と忍耐と感謝。神が私たちを愛してくださっているのですから、私たちも神を愛しましょう。愛を忘れず、祈りましょう。自分の願いにおいても、祈る内容に愛をもって、また、愛することが出来るよう求めて、祈りましょう。そして、忍耐をもって祈りましょう。
主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。
Ⅱペテロ3:8
祈りとは待つことです。待つことが出来ない者は祈ってはいけません。
すぐに答えられないからといって、諦めたり腹を立てたりしてはもったいない。神のタイミングに期待して、忍耐をもって祈り続けましょう。神のご計画は、長いのです。
そして、感謝をもって祈りましょう。祈る時、私たちは自分の願いのことしか考えられないかもしれません。その祈りがかなうかどうかで、祈ること自体、神との関係自体が変わるように考えてしまいます。でも、本当に大きな悩みを祈っていると、どう祈れば良いのか、どうなってほしいのか、どうなることが一番いいのか分からなくなります。病気で苦しんでいる人が死にそうな時、死ななければ病気で苦しいまま生きていれば幸せなのか、死んだ方が楽だけど周りの人は辛くなるのがいいのか、本当にどうなることが最善なのか、分からなくなることが良くあります。そうやって祈っていくうちに、結局、私たちは感謝することしか出来なくなります。その人が今生きていること、今日まで生かされてきたこと、私がその人と出会えたこと、他の人にとっても大切な人であること…そうしたハッキリした神様の御業を思って、感謝するようになります。それと似たようなことが、いろいろな祈りにおいて起きます。感謝こそ祈りの態度です。
愛、忍耐、感謝、そして神がキリストのゆえに聞いて下さると信じ、神の御心に謙虚に従う。これは、私たちのあるべき態度というよりも、神がどんなお方かを知るなら、当然じわじわとでも私たちの中に湧き上がってくる態度です。「こうでなければ祈りに相応しくない」と力まないでください。むしろ、神がどれほど確かな関係を下さっているか、神が必ず聞いてくださっているから、何も思い煩わなくてよいのだ、と知れば、力むことがなくなって、神様の前に出て、手も心も開いて、神に祈りを捧げることが出来るのです。そうです、祈りは献げるものです。願いも私たちの心も献げる事なのです。
「愛なる父よ、愛されるひとり子の御名によって私たちはあなたに近づきます。どうか祈りの答えがすぐに得られないときも、私たちの祈りに忍耐を与えてください。あなたが良いものを与え、私たちを害するものを遠ざけてくださることを信じ、信頼することができますように。あなたの道は私たちの考えを超越していますから、私たちはあなたの権威ある愛に信頼しつつ、祈り願い求めます。アーメン」