2012/12/16 ローマ書七7-13「むさぼってはならない」
イザヤ書十一1-9 ルカ伝一46-55
ローマ書七章の今日の箇所から、パウロは「私は」と、一人称単数で語り始めます。有名な、パウロの告白に入っていきますが、今日は、その入口でしょう。次回からは現在形で語りますが、今日のところでは過去形です。
「 7それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」
律法によって罪を知った、という言葉です。ここでパウロは、ずっと続けてきた、私たちがもはや罪に対しては死んでいる、恵みによって救いの中にすでにある、ということを語っていますが、律法の下にはいない、とも言い換えてきたわけです。そこで、では律法は罪なのか、という反論を想定してこう言うのです。ただ、パウロは決して一般論とか知識を弄んでいるのではなく、自分自身の体験として語っているということも心に刻みたいところです。
「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」
そうは言っても、決して律法が来るまでは全く罪意識というものがなかったのではないはずです。人間には最初から律法が与えられており、ユダヤの社会もローマ帝国も、善悪の概念を持ってはいたのです。しかし、それは人間の基準で考えた「罪」です。「最大多数の最大幸福」と言ったり、社会を形成する上でのルールを考えたりするのであって、それ自体が人間を中心としていて、天地の主である神に従うものではありません。ですから、神の律法が来るときに初めて、人は罪を知るのです。
とはいえ、パウロはユダヤ教徒として、生まれた時から律法の中で育てられてきたはずです。彼はパリサイ派に属していましたから、厳格に律法を学び実践しようとしてきたのです。それならば、なぜ、こういう言い方をパウロはしているのでしょうか。
ここでパウロは、
「律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、」
と言っています。これは、律法の中心である「十戒」の最後に当たる第十戒「むさぼってはならない」を要約しているのでしょう 。私は以前、ここで「するな」と言われたらかえってますますそれがしたくなる、という人間の心理のことを言っているのだろう、というぐらいにしか考えていませんでした。「むさぼるな」でも「盗むな」でも、とにかく人間はそういう反抗心を持っているのです。けれども、それはそうですが、ここではやはり、「むさぼるな」であることに意味があるのですね。
十戒は、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」としてはならない行為を示していますが、最後の第十戒だけは、むさぼってはならない、欲しがってはならない、と心の思いを規定しているのです。これは、十戒全体が、外面的な行為だけではなく、内面の思いをも要求していることを表しているわけです。そんなことまで言われたら堪らない、と大方の人は思うでしょう。ユダヤ人たちもそうでした。厳格に律法を守るとしたパリサイ派、律法学者の教えでさえ、行為は厳格に律しても、それさえ守っていれば律法を遵守したことになる、と考えたのです 。
本来ならば、私たちの心が正しくあることは喜ばしいことであり、いのちに至ることです 。10節でもパウロは、
「いのちに導くはずのこの戒め」
と語っています。しかし、心に貪りがある罪の現実を、私たちは言われたからといって正すことは出来ないのですね。パウロが言う通り、
「 8…罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」
パウロは、エペソ書五5で、
「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者、むさぼる者-これが偶像礼拝者です、-」
と言っています。貪る者は偶像礼拝者だと言うのです 。神よりも自分の欲しいものを愛するのです。いいえ、神さえも、自分の願いを叶えてくれるしもべとしてしまうのです。これは、神に対する根本的な罪です。そして、それが罪だと言われても、人間は何とかして抵抗しようとします。反抗するという抵抗は勿論、何とか抜け道を捜したり、どこまでならいいのかとか、じゃあ何でもダメなのかとか、色々と屁理屈を並べたりする。そして、パウロが言うことには、言われると却って意識してしまう自分の心理にも気づいたということがあるでしょう。「むさぼるな」「ほしがるな」と言われることによって、パウロは自分の罪に気づいたのです。自分は、今まで生きている、正しく歩んでいる、と思っていたのが、律法によって、あらゆる貪りがうごめいている自分に気づいたのです。
「戒めが来たとき」
という、その時に、目が開けて、律法の、神の御心の真意を悟り、自分が罪に死んでいる事実に気づいたのです。
「13ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
14では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」
律法の戒めが悪いのではないのです。それは、いのちへの道なのです。しかし、私たちの中にある罪が、その道を毛嫌いして、自分を貫こうとすることが明らかになる。あらゆる欺きの手を尽くして、神様をも引きずり下ろして自分を通そうとする私の姿に気づかされるのです。妬みや不満も、貪りが形を変えたものに過ぎませんけれども、そういう自分の醜さは、本当に、極度に罪深いと言わざるを得ないものです。
けれども、それは私たちをただ卑しめ、貶めるためなのでしょうか。そうではありません。自分がそれなりに善人だと思っていた幻想は打ち砕かれるのですが、それによってやはり私たちが、罪に気づき、主の救いと憐れみを求めさせることに繋がるのです。これについては、七章を続けて読むうちに見えてくることですが、今日は、それと共に私たちの救いというのが、本当に、この貪りの心を「罪」として明らかにされて、そこから自由にされていく、そういう救いであることを覚えたいと思うのです。貪りが偶像礼拝だとすれば、なおのこと、私たちの願い、欲、また妬みや不平などの感情が取り扱われて、本当に主なる神だけを礼拝するようになることは、救いにとっての本質的なことに違いありません。そして、私たちが、主にあって満ち足りて、あるもので感謝するようになることは勿論、今あるものさえも、「なくてはならぬものはただひとつ」という告白の前には、なくてもよいもの(ないほうがよい、ではないですが)そう言い切れるようになっていく。主イエス様を知れば知るほどに、自分というものも含めて、すべてを惜しまずに、ますます身軽になっていくことが、キリスト者の成長であり、救いの前進なのだと心に確りと刻みたいのです。
アドヴェントを過ごしながら、独り子イエス様を与えてくださったほどの私共への愛を味わいたいと思います。神としての権威や富とは正反対の、丸裸の赤ん坊としてお生まれになってくださったイエス様の御愛を深く心に刻みたいと思います。私たちのために、人となられたとき、「少しはあれも」「これは捨てたくないな」などとはお考えにならなかったイエス様でした。そのイエス様によって私たちが救われているのであり、私にとって心地よい救いではなく、イエス様に似た者、神の愛において成熟する救いに与っています。
神に従う者になりたい、愛する者になりたい-これは、貪りとは相容れない願いです。そして、私たちが「むさぼってはならない」という律法をいくら声高に与えられても決して貪らなくなることは出来ないのであって、ただ神が私たちに、聖霊によって、神を信頼し、あるもので感謝し、主に従うことと、隣人(となりびと)を愛する愛を増してくださる、その恵みによってのみ、変えていただけるのです。クリスマスに向けて、主が私たちのうちにもお宿りくださって、私たちの心を軽くしてくださるようにと祈りましょう。
「私共を愛したもう主の御愛によって、私共を新しくしてください。本当になくてはならぬものと、なくてもよいものとを見分けさせて、貪りを捨て続けさせてください 。主イエス様は、私共を愛し、喜んで丸裸の幼子になり、最後は十字架をも厭われませんでした。私共のうちにも、この主を信じる幸いを宿らせて、心から御降誕を祝わせてください」
文末脚注
1 出エジプト記二〇17「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」が全文です。
2 ですから、マタイ伝五章では、イエス様が当時の律法理解を示した上で、神の律法が要求していることの、とてつもないレベルを教えておられます。また、「富める青年」との会話でも、「彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」」と応じているのです。
3 このことは、出エジプト記十九5、レビ記十八5、申命記六25などでも明言されています。そして、イエス様御自身も、ルカ伝十28で仰っています。
4 また、コロサイ書三5でも繰り返しています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」
5 有名なラインホルド・ニーバーの祈り「主よ。与えてください。変えるべきものを変える勇気を。変えるべきでないものを変えない忍耐を。そして、その二つを見分ける知恵を」より。
イザヤ書十一1-9 ルカ伝一46-55
ローマ書七章の今日の箇所から、パウロは「私は」と、一人称単数で語り始めます。有名な、パウロの告白に入っていきますが、今日は、その入口でしょう。次回からは現在形で語りますが、今日のところでは過去形です。
「 7それでは、どういうことになりますか。律法は罪なのでしょうか。絶対にそんなことはありません。ただ、律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、私はむさぼりを知らなかったでしょう。」
律法によって罪を知った、という言葉です。ここでパウロは、ずっと続けてきた、私たちがもはや罪に対しては死んでいる、恵みによって救いの中にすでにある、ということを語っていますが、律法の下にはいない、とも言い換えてきたわけです。そこで、では律法は罪なのか、という反論を想定してこう言うのです。ただ、パウロは決して一般論とか知識を弄んでいるのではなく、自分自身の体験として語っているということも心に刻みたいところです。
「律法によらないでは、私は罪を知ることがなかったでしょう。」
そうは言っても、決して律法が来るまでは全く罪意識というものがなかったのではないはずです。人間には最初から律法が与えられており、ユダヤの社会もローマ帝国も、善悪の概念を持ってはいたのです。しかし、それは人間の基準で考えた「罪」です。「最大多数の最大幸福」と言ったり、社会を形成する上でのルールを考えたりするのであって、それ自体が人間を中心としていて、天地の主である神に従うものではありません。ですから、神の律法が来るときに初めて、人は罪を知るのです。
とはいえ、パウロはユダヤ教徒として、生まれた時から律法の中で育てられてきたはずです。彼はパリサイ派に属していましたから、厳格に律法を学び実践しようとしてきたのです。それならば、なぜ、こういう言い方をパウロはしているのでしょうか。
ここでパウロは、
「律法が、「むさぼってはならない」と言わなかったら、」
と言っています。これは、律法の中心である「十戒」の最後に当たる第十戒「むさぼってはならない」を要約しているのでしょう 。私は以前、ここで「するな」と言われたらかえってますますそれがしたくなる、という人間の心理のことを言っているのだろう、というぐらいにしか考えていませんでした。「むさぼるな」でも「盗むな」でも、とにかく人間はそういう反抗心を持っているのです。けれども、それはそうですが、ここではやはり、「むさぼるな」であることに意味があるのですね。
十戒は、「殺してはならない」「姦淫してはならない」「盗んではならない」としてはならない行為を示していますが、最後の第十戒だけは、むさぼってはならない、欲しがってはならない、と心の思いを規定しているのです。これは、十戒全体が、外面的な行為だけではなく、内面の思いをも要求していることを表しているわけです。そんなことまで言われたら堪らない、と大方の人は思うでしょう。ユダヤ人たちもそうでした。厳格に律法を守るとしたパリサイ派、律法学者の教えでさえ、行為は厳格に律しても、それさえ守っていれば律法を遵守したことになる、と考えたのです 。
本来ならば、私たちの心が正しくあることは喜ばしいことであり、いのちに至ることです 。10節でもパウロは、
「いのちに導くはずのこの戒め」
と語っています。しかし、心に貪りがある罪の現実を、私たちは言われたからといって正すことは出来ないのですね。パウロが言う通り、
「 8…罪はこの戒めによって機会を捕らえ、私のうちにあらゆるむさぼりを引き起こしました。律法がなければ、罪は死んだものです。」
パウロは、エペソ書五5で、
「あなたがたがよく見て知っているとおり、不品行な者や、汚れた者、むさぼる者-これが偶像礼拝者です、-」
と言っています。貪る者は偶像礼拝者だと言うのです 。神よりも自分の欲しいものを愛するのです。いいえ、神さえも、自分の願いを叶えてくれるしもべとしてしまうのです。これは、神に対する根本的な罪です。そして、それが罪だと言われても、人間は何とかして抵抗しようとします。反抗するという抵抗は勿論、何とか抜け道を捜したり、どこまでならいいのかとか、じゃあ何でもダメなのかとか、色々と屁理屈を並べたりする。そして、パウロが言うことには、言われると却って意識してしまう自分の心理にも気づいたということがあるでしょう。「むさぼるな」「ほしがるな」と言われることによって、パウロは自分の罪に気づいたのです。自分は、今まで生きている、正しく歩んでいる、と思っていたのが、律法によって、あらゆる貪りがうごめいている自分に気づいたのです。
「戒めが来たとき」
という、その時に、目が開けて、律法の、神の御心の真意を悟り、自分が罪に死んでいる事実に気づいたのです。
「13ですから、律法は聖なるものであり、戒めも聖であり、正しく、また良いものなのです。
14では、この良いものが、私に死をもたらしたのでしょうか。絶対にそんなことはありません。それはむしろ、罪なのです。罪は、この良いもので私に死をもたらすことによって、罪として明らかにされ、戒めによって、極度に罪深いものとなりました。」
律法の戒めが悪いのではないのです。それは、いのちへの道なのです。しかし、私たちの中にある罪が、その道を毛嫌いして、自分を貫こうとすることが明らかになる。あらゆる欺きの手を尽くして、神様をも引きずり下ろして自分を通そうとする私の姿に気づかされるのです。妬みや不満も、貪りが形を変えたものに過ぎませんけれども、そういう自分の醜さは、本当に、極度に罪深いと言わざるを得ないものです。
けれども、それは私たちをただ卑しめ、貶めるためなのでしょうか。そうではありません。自分がそれなりに善人だと思っていた幻想は打ち砕かれるのですが、それによってやはり私たちが、罪に気づき、主の救いと憐れみを求めさせることに繋がるのです。これについては、七章を続けて読むうちに見えてくることですが、今日は、それと共に私たちの救いというのが、本当に、この貪りの心を「罪」として明らかにされて、そこから自由にされていく、そういう救いであることを覚えたいと思うのです。貪りが偶像礼拝だとすれば、なおのこと、私たちの願い、欲、また妬みや不平などの感情が取り扱われて、本当に主なる神だけを礼拝するようになることは、救いにとっての本質的なことに違いありません。そして、私たちが、主にあって満ち足りて、あるもので感謝するようになることは勿論、今あるものさえも、「なくてはならぬものはただひとつ」という告白の前には、なくてもよいもの(ないほうがよい、ではないですが)そう言い切れるようになっていく。主イエス様を知れば知るほどに、自分というものも含めて、すべてを惜しまずに、ますます身軽になっていくことが、キリスト者の成長であり、救いの前進なのだと心に確りと刻みたいのです。
アドヴェントを過ごしながら、独り子イエス様を与えてくださったほどの私共への愛を味わいたいと思います。神としての権威や富とは正反対の、丸裸の赤ん坊としてお生まれになってくださったイエス様の御愛を深く心に刻みたいと思います。私たちのために、人となられたとき、「少しはあれも」「これは捨てたくないな」などとはお考えにならなかったイエス様でした。そのイエス様によって私たちが救われているのであり、私にとって心地よい救いではなく、イエス様に似た者、神の愛において成熟する救いに与っています。
神に従う者になりたい、愛する者になりたい-これは、貪りとは相容れない願いです。そして、私たちが「むさぼってはならない」という律法をいくら声高に与えられても決して貪らなくなることは出来ないのであって、ただ神が私たちに、聖霊によって、神を信頼し、あるもので感謝し、主に従うことと、隣人(となりびと)を愛する愛を増してくださる、その恵みによってのみ、変えていただけるのです。クリスマスに向けて、主が私たちのうちにもお宿りくださって、私たちの心を軽くしてくださるようにと祈りましょう。
「私共を愛したもう主の御愛によって、私共を新しくしてください。本当になくてはならぬものと、なくてもよいものとを見分けさせて、貪りを捨て続けさせてください 。主イエス様は、私共を愛し、喜んで丸裸の幼子になり、最後は十字架をも厭われませんでした。私共のうちにも、この主を信じる幸いを宿らせて、心から御降誕を祝わせてください」
文末脚注
1 出エジプト記二〇17「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。すなわち隣人の妻、あるいは、その男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを、欲しがってはならない。」が全文です。
2 ですから、マタイ伝五章では、イエス様が当時の律法理解を示した上で、神の律法が要求していることの、とてつもないレベルを教えておられます。また、「富める青年」との会話でも、「彼は「どの戒めですか」と言った。そこで、イエスは言われた。「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この青年はイエスに言った。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」」と応じているのです。
3 このことは、出エジプト記十九5、レビ記十八5、申命記六25などでも明言されています。そして、イエス様御自身も、ルカ伝十28で仰っています。
4 また、コロサイ書三5でも繰り返しています。「ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」
5 有名なラインホルド・ニーバーの祈り「主よ。与えてください。変えるべきものを変える勇気を。変えるべきでないものを変えない忍耐を。そして、その二つを見分ける知恵を」より。