2014/05/04 ウェストミンスター小教理問答2 「神の栄光を現す道」Ⅱテモテ三15-17
先週は、
「人のおもな目的は、何ですか。答 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」
というお話しをしました。今週はそれに続く、ウェストミンスター小教理問答の問2をお話しします。それは、
「神は、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教えるため、どんな基準を授けていてくださいますか」という問です。言い換えると、神の栄光を現し、神を喜ぶ、という私たち人の目的は、どうやったら果たすことが出来るのか。それを教えてくれるのは何か、ということです。どうしたら分かるでしょう? 学校の先生か、立派な人か、教会の牧師か。それとも、お祈りしたり、自分でマジメに考えたりしたら、何だって良いんでしょうか? このウェストミンスター小教理問答ではこう答えます。
「旧新約聖書にある神の御言葉だけが、私たちに神の栄光をあらわし神を喜ぶ道を教えるただ一つの基準です。」
聖書は神の言葉であって、それが私たちに、どうすれば神の栄光を現して、私たちが神様に造られた尊いいのちを生きられるかを教えてくれるのです。だから、聖書を読むことはとても大切です。今日の聖書の言葉には、こう書かれていました。
聖書はあなたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。
それは、神の人が、すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となるためです。
聖書は他の本と違って、神様が人に神様の御心を教えるために、何百年にもわたって、色々な人を通して書かせてこられた、特別な本です。この聖書をよくよく読むことを通して、私たちは、神様の救いを戴くことが出来ます。教えられ、訓練されて、整えられるのです。だから、聖書を、少しずつでも毎日読みましょう。分からないところは、人に聞きながら、読み続けて下さい。
なぜ他の本を読むとか自分なりに一生懸命生きていても、神様の栄光を現すことにはならないのでしょうか。実はそこに、私たちと神様との大切な関係が分かるんではないかと思います。つまり、何か正しい事、素晴らしい生き方をすることが、神様が私たちに第一に望んでおられることではないのです。神様は、私たちに語りかけておられます。今は聖書があります。昔は、その聖書に出て来るように、色々な人に語りかけておられました。神様は、私たちがその神様の声に聞くことを願っておられます。神様の声に、心の耳を傾けて、聖書を通して語っておられる神様の方を向き、私たちもまた、神様に祈ったり、聖書の言葉にお答えする。そういう「会話」が大事なのですね。
聖書は神様の言葉で、嘘や作り事は入っていません。本当に神様から届けられた、特別な御本だと思えなければ、これに聞くことも難しいでしょう。そして、そうまでして、神様は私たちとの間の関係を大切にしてくださっているのですね。私たちが神に聴くために、時間を取り、静まって、聖書を学びながら、何よりも神様を信頼し、神様を喜ぶ。そういう私たちを、神様は、大切に思っていてくださる、ということです。そして、私たちは、世界を造られたこの大いなる神に耳を傾けます。自分のために生きるのでなく、神様を第一にして生きることそのものが、神様の栄光を現し、神様を喜ぶことなのです。15節に、
幼いころから聖書に親しんで来たことを知っているからです。
とありますね。私たちが幼い頃から聖書に親しんでいることは、本当に素晴らしい恵みです。そして、その聖書を通して、学んで確信したところに留まっていなさい、とパウロは言います。そのためには、聖書が人間の本であると同時に、神様の言葉であると信じることがどうしても必要です。「他の本と大して変わらない、人間が考えて書いたもの、だから間違いや嘘も入っている」と考えているなら、聖書に信頼することは出来ません。勿論、聖書の中には難しい事もたくさん書かれています。よく分からないこともあります。聖書を読めば、簡単に神様の御心が分かるわけではありません。悩み事や、迷っている事があって、聖書をパッと開けば答があるとか、そんなことを考えてはいけません。でも、私も十代には、聖書を読むのが面倒くさいから、枕の下に聖書を入れたら夢で神様のお告げが聞けないかと、馬鹿なチャレンジをしていたことがあります。ある人は、パッと開いて、神様の御心を占おうとします。あるいは、聖書の好きな箇所だけをいつも繰り返していて、他の所は深く考えない、というのも間違いです。サタンはそういう聖書の使い方をして、私たちを騙そうとするということも聖書には書いてあります。聖書から抜き出した言葉ではなく、聖書の全部に繰り返して聞き続けるのです。自分にとって、難しかったり、好きになれない言葉と出会う時こそ、私たちがもっと広く大きくなる大切な時なのです。
神様の栄光を現し、神様を喜ぶという、私たちの目的に生きるためには、聖書にしっかりと立つことが大事です。聖書には難しい言葉も沢山ありますが、それ以上に、素晴らしい言葉、神様の栄光を教えてくれる言葉がもっと沢山あります。そして、その言葉を通して、私たちが、神様の栄光を現す「すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者となる」のです。自分の願うような答とかいい言葉はすぐには出て来ないかもしれません。けれども、そうでなくても、こう祈りながら、聖書を読み続けましょう。「神様、聖書を有難うございます。どうぞ、聖書の言葉で、私たちが神様の語っておられる事を聴けるように助けてください。私たちが、神様の子どもとして成長して、すべての良い働きに相応しく十分整えていただけますよう、お願いします。そうして神様の栄光を現して、神様をますます喜んでゆけますように」。そう祈りましょう。
「天地の造り主なる神様。あなたがそのお言葉で世界を造られたように、私たちも聖書の言葉によって神様の子どもとしていただけることを感謝します。色々な声に惑わされないで、聖書の御言葉にしっかりと聞いて、神様の素晴らしさを信じて、証しさせてください」
2014/05/04 申命記一1~18「空の星のように」(#207)
今日から、毎月第一聖日に、申命記を読みます。旧約聖書の五番目の書、です。大切な御言葉、よく知られた御言葉も多くありますし、新約聖書に引用されている言葉も、六〇カ所以上あると言いますから 、楽しみにして聞いていきたいと思います。
イスラエルの民が、奴隷となっていたエジプトから連れ出されて、ようやく約束の地を、ヨルダン川の向こう側に眺める所までやってきた時でした 。その、約束の地にこれからいよいよ入る、という時に、ここまで民を導いてきた偉大な指導者モーセが、民に語った言葉です。モーセ自身は、約束の地に入ることは出来ず、ヨルダンの手前で息を引き取ると告げられていました。実際、この申命記は、最後の三四章をモーセの死で閉じます。ですから、モーセにとっては「遺言説教」とも言えます。これまでの歴史を振り返りつつ、これからの新しい歴史を迎えるに当たってのオリエンテーションをするのです。
2ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。
とあります。ところがその十一日の道のりを彼らが踏破して辿り着いたのは、
3第四十年の第十一月の一日…
でした 。このことは、四章までの長い前置きでも、九章から十一章まででももう一度、と丁寧に振り返られるのですが、ひと言で言えば、イスラエルの民が神様に何度も何度も逆らい続けたからですね。強情に、呟いて、不信仰な態度をとり続けたからでした。だから、その時の成人世代が全員滅びるまで、四十年間、荒野を彷徨って、一巡りの世代交代をさせられたのです。今ここにいるのは(モーセとヨシュアとカレブ以外は)四十年前は子どもだったか、まだ生まれていなかった民です。でも、その新しい世代も、親の世代の罪と失敗を改めて心に留めて、自分の課題、弱点として謙虚に認めつつ、主を信頼して歩むことを心に刻む必要がありました。だから、モーセはここで説明し 、語っているのです。過去を振り返りつつ、将来への道筋を示していくのです。「回顧と展望」なのです。
そして、これは、この時の新しい世代だけの事ではありません。その後のイスラエルの民も、この申命記や聖書の書物を読み続けてきました。そこに実は約束されていた真の王、キリスト・イエスがおいでになった後も、新約の教会は、この申命記にも聞き続け、自分たちの振り返るべき歴史と将来への展望を聞き取ってきたのです。今の私たちにとっても、これは三千四百年以上前の出来事でありながら、自分たちに語られているかのように聴ける言葉です。気付かされ、励まされ、育てられたいと思います。
6私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた 。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。
7向きを変えて、出発せよ。…
「ホレブ」でイスラエルの民は、主との契約の中に入れられて、十戒を与えられました 。幕屋も指示通りに造り、神を礼拝する民としてのあり方は十分に明かされました。その後、そこを出発する時点から、モーセは語り始めています。そして、新しい地、約束の地、更に、北方のレバノンや大河ユーフラテス川まで、と広大な版図(はんと)を示されて、その地に進んでいくよう、言われていたことを思い出させます。今、遂にその地を実際に臨みながら、四十年前に主が、この地に進み行くことを命じておられたことを振り返らせます。そして、それが、命令だけでなく、
8見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。
と、確かな約束があったことを思い出させます。これは、励ましであり、希望ですね。でも、その地を手にすることが約束されているのですけれども、モーセはここで9節から18節に、興醒めのような、場違いにも思える話を持ってくるのですね。
9私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。
10あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。
11-どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるようにー
12私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。
13あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。
どうしてここで、こんな話かと考えると、いくつかの理由があると思います。
まず、最初に言っているように、彼らが空の星の数ほども多く増えていたという事実を感謝しているのですね。モーセひとりでは、責任を負いきれないほど多くの民になっている。父祖アブラハムには子どもがなかなか与えられませんでした。そのアブラハムに主は夜空の星を見上げさせて、あなたの子孫はこのように多くなる、と言われました。まだひとりも子どもがいないのに。でもその言葉をアブラハムは信じました。主はそれをアブラハムの義と認めて下さった、とあります 。その約束が今や成就して、星の数ほども多い民となって、この地に帰って来たのです。ですから、こんなに増えて大変だ、ではなくて、更に今の「千倍に増やして祝福して下さるように」ともモーセは付け加えているのです。
でも、そうやって増えたら増えたで、やっぱり問題も増えていくわけです。モーセは、そこで民の全体だけを見て、小さな問題や末梢の人など切り捨てて仕方がないとは考えませんでした。部族毎に、知恵と悟りと経験がある人を出してかしらとして立てることを考えました。モーセだけではダメなのです。いくら偉大な指導者が一人いても、出来る事には限りがあります。民は、自分たちの中から、モーセと同じように、主の御心に沿った指導が出来る人を選ぶのです。そうして、民の一人一人が、主の御心に沿って生きるよう、教えられ、訓練される。それは、これから新しい地に入って行く上でも、物凄く大事な確認事項だったのではないでしょうか。この申命記の説教を聞く上でも、他人事(ひとごと)だとか上の空で聞き流す危険があった。だから、モーセは、ここで、自分たちの旅の始まりで、さばきつかさを選んだ意味を確認しているのだと思います。知恵があり、悟りがあり、経験がある。人の話をよく聞く、身内の者もそうでない者も、在留異国人をも、分け隔てなく、正しく裁く(16節)。外国人も、身分のあるなしも、偏見を持たずに、というのは今の私たちにも大変重要な基準です。そして、人を恐れず、神の裁きを果たさせて戴くこと。最後に、これも大事ですが、難しすぎることは無理に判断せずに、もっと知恵のある人に助けてもらうという謙虚な姿勢。そういう指導者を立て、また、訓練すること。これが、民の隅々にまで、正しい裁きをもたらすために、神様が人間に下さった方法なのです。
それはまた、裏を返せば、もう一つの意味にも繋がります。それは、モーセが、民の大きさに囚われず、一人一人を大切にしようとした、という事です。それは自分一人では無理だからこそ、指導者たちを立てたのです。12節にある通り、生きていけば、揉め事と重荷と争いは尽きません。身内同士でも、他人とでも、文化の違う人とも衝突や諍いがあります。そこで、偏った裁きや未熟な裁きでねじ込まれて、立場の弱い者が泣き寝入り、となりかねない。モーセはそれではいけない、と思ったのです。むしろ、その問題が起きたことを通して、正しく裁かれる神の御心が現されて、互いに助け合い、生かし合い、乗り越えて、祝福に変えていけるように、と願いました。空の星のように多い民の、その一人ぐらい泣いていても、悪に走っても、人を恐れていても仕方がない、とは思わなかった。全員が揉め事を解決し、重荷をちゃんと負い、争いを和解に変えていくようにと願った。でもそれは、モーセ一人で、優れた指導者一人で出来る事ではないでしょう。組織とか人材活用というのが、神様が人間に与えられた方法なのです。だから、モーセはここで、基準を与えるだけでなく、それを落とし込むための組織をもって、見える形で、民の隅々にまで届くようなあり方を確認しているのです。
現実には、この制度を歓迎した民も、立てられた頭(かしら)たちも主に従いませんでした 。それでもモーセはこの方法に立ち戻ります。不完全な指導者を通してでも、失敗を繰り返しながらでも、です。人がなお増えて、同時に、一人一人が主のかけがえのない民として整えられ、成長するよう願うのです。問題を通して、ますます主の御言葉に聞くようになる。モーセが望んだように、私たちもまた、そのような共同体となる展望を与えられるのです。
「私たちの重荷を担いたもう主よ。御子イエスの贖いによって、約束の地に入る将来を確信させられていることを感謝します。その確信のゆえにこそ、どうぞ私たちを整えて下さい。主が今も教会に牧師や長老をお立てくださり、一人一人を導いておられることを感謝します。生きる上での揉め事や重荷を分かち合う中、いよいよ御言葉に聞き、罪を捨て、助け合わせ、逞(たくま)しく育ててください」
文末脚注
1. ヨハネ、コロサイ、Ⅰテサロニケ、Ⅱテモテ、Ⅰ・Ⅱペテロを除く23巻に引用聖句が見出されるそうです。(Thompson)
2. ここにある多くの地名は、正確な場所を同定できません。ヨルダンの向こう側、エドムの地辺りの地名でしょう。
3. 「第四十年の第十一月の一日」。これは、申命記中、唯一の日時記録です。
4. 5節の「説明」は、二七8「(石の上に)はっきりと書きしるす」と訳されています。ホレブでの契約を語り直しつつ、それをただ繰り返すのでなく、説明し、生かし、これから入る約束の地での生活を整えるために、彼らの心に刻みつけるような言葉で、モーセは語り出します。私たちが、御国に入ろうとするにも、神の民としてなお戦い・誘惑のある中で生きるにしても、この申命記は大いに私たちの道筋を示してくれるのです。
5. ここから、申命記は全て、モーセの一人称で語られます。「私」「私たち」と。
6. 出エジプト三1、十七6、三三6。これらを合わせ読むと、モーセに主が柴の火の中に現れた地も「ホレブ」であり、岩を打って水を出した地(後の「マサ」「メリバ」)もホレブと呼ばれていますから、広い地域であったと考えられます。しかし、ここで「ホレブ」と言えば、主が契約を結ばれた、シナイ山と(ほぼ)同義であることは明らかです。
7. 創世記十五5-6。
8. 人々は「あなたが、しようと言われることは良い」と賛同しました。さばきつかさたちも立てられました。18節では、すべてのなすべきことは告げられたとありました。でも、なぜまた、申命記という説教が語り直されたのでしょうか。それは、次回の19節以下示されるとおり、民の罪の現実があるからです。反逆の事実を踏まえるからこそ、改めて、モーセはここに語り直していくのです。
今日から、毎月第一聖日に、申命記を読みます。旧約聖書の五番目の書、です。大切な御言葉、よく知られた御言葉も多くありますし、新約聖書に引用されている言葉も、六〇カ所以上あると言いますから 、楽しみにして聞いていきたいと思います。
イスラエルの民が、奴隷となっていたエジプトから連れ出されて、ようやく約束の地を、ヨルダン川の向こう側に眺める所までやってきた時でした 。その、約束の地にこれからいよいよ入る、という時に、ここまで民を導いてきた偉大な指導者モーセが、民に語った言葉です。モーセ自身は、約束の地に入ることは出来ず、ヨルダンの手前で息を引き取ると告げられていました。実際、この申命記は、最後の三四章をモーセの死で閉じます。ですから、モーセにとっては「遺言説教」とも言えます。これまでの歴史を振り返りつつ、これからの新しい歴史を迎えるに当たってのオリエンテーションをするのです。
2ホレブから、セイル山を経てカデシュ・バルネアに至るのには十一日かかる。
とあります。ところがその十一日の道のりを彼らが踏破して辿り着いたのは、
3第四十年の第十一月の一日…
でした 。このことは、四章までの長い前置きでも、九章から十一章まででももう一度、と丁寧に振り返られるのですが、ひと言で言えば、イスラエルの民が神様に何度も何度も逆らい続けたからですね。強情に、呟いて、不信仰な態度をとり続けたからでした。だから、その時の成人世代が全員滅びるまで、四十年間、荒野を彷徨って、一巡りの世代交代をさせられたのです。今ここにいるのは(モーセとヨシュアとカレブ以外は)四十年前は子どもだったか、まだ生まれていなかった民です。でも、その新しい世代も、親の世代の罪と失敗を改めて心に留めて、自分の課題、弱点として謙虚に認めつつ、主を信頼して歩むことを心に刻む必要がありました。だから、モーセはここで説明し 、語っているのです。過去を振り返りつつ、将来への道筋を示していくのです。「回顧と展望」なのです。
そして、これは、この時の新しい世代だけの事ではありません。その後のイスラエルの民も、この申命記や聖書の書物を読み続けてきました。そこに実は約束されていた真の王、キリスト・イエスがおいでになった後も、新約の教会は、この申命記にも聞き続け、自分たちの振り返るべき歴史と将来への展望を聞き取ってきたのです。今の私たちにとっても、これは三千四百年以上前の出来事でありながら、自分たちに語られているかのように聴ける言葉です。気付かされ、励まされ、育てられたいと思います。
6私たちの神、主は、ホレブで私たちに告げて仰せられた 。「あなたがたはこの山に長くとどまっていた。
7向きを変えて、出発せよ。…
「ホレブ」でイスラエルの民は、主との契約の中に入れられて、十戒を与えられました 。幕屋も指示通りに造り、神を礼拝する民としてのあり方は十分に明かされました。その後、そこを出発する時点から、モーセは語り始めています。そして、新しい地、約束の地、更に、北方のレバノンや大河ユーフラテス川まで、と広大な版図(はんと)を示されて、その地に進んでいくよう、言われていたことを思い出させます。今、遂にその地を実際に臨みながら、四十年前に主が、この地に進み行くことを命じておられたことを振り返らせます。そして、それが、命令だけでなく、
8見よ。わたしはその地をあなたがたの手に渡している。行け。その地を所有せよ。これは、主があなたがたの先祖アブラハム、イサク、ヤコブに誓って、彼らとその後の子孫に与えると言われた地である。
と、確かな約束があったことを思い出させます。これは、励ましであり、希望ですね。でも、その地を手にすることが約束されているのですけれども、モーセはここで9節から18節に、興醒めのような、場違いにも思える話を持ってくるのですね。
9私はあの時、あなたがたにこう言った。「私だけではあなたがたの重荷を負うことはできない。
10あなたがたの神、主が、あなたがたをふやされたので、見よ、あなたがたは、きょう、空の星のように多い。
11-どうかあなたがたの父祖の神、主が、あなたがたを今の千倍にふやしてくださるように。そしてあなたがたに約束されたとおり、あなたがたを祝福してくださるようにー
12私ひとりで、どうして、あなたがたのもめごとと重荷と争いを背負いきれよう。
13あなたがたは、部族ごとに、知恵があり、悟りがあり、経験のある人々を出しなさい。彼らを、あなたがたのかしらとして立てよう。
どうしてここで、こんな話かと考えると、いくつかの理由があると思います。
まず、最初に言っているように、彼らが空の星の数ほども多く増えていたという事実を感謝しているのですね。モーセひとりでは、責任を負いきれないほど多くの民になっている。父祖アブラハムには子どもがなかなか与えられませんでした。そのアブラハムに主は夜空の星を見上げさせて、あなたの子孫はこのように多くなる、と言われました。まだひとりも子どもがいないのに。でもその言葉をアブラハムは信じました。主はそれをアブラハムの義と認めて下さった、とあります 。その約束が今や成就して、星の数ほども多い民となって、この地に帰って来たのです。ですから、こんなに増えて大変だ、ではなくて、更に今の「千倍に増やして祝福して下さるように」ともモーセは付け加えているのです。
でも、そうやって増えたら増えたで、やっぱり問題も増えていくわけです。モーセは、そこで民の全体だけを見て、小さな問題や末梢の人など切り捨てて仕方がないとは考えませんでした。部族毎に、知恵と悟りと経験がある人を出してかしらとして立てることを考えました。モーセだけではダメなのです。いくら偉大な指導者が一人いても、出来る事には限りがあります。民は、自分たちの中から、モーセと同じように、主の御心に沿った指導が出来る人を選ぶのです。そうして、民の一人一人が、主の御心に沿って生きるよう、教えられ、訓練される。それは、これから新しい地に入って行く上でも、物凄く大事な確認事項だったのではないでしょうか。この申命記の説教を聞く上でも、他人事(ひとごと)だとか上の空で聞き流す危険があった。だから、モーセは、ここで、自分たちの旅の始まりで、さばきつかさを選んだ意味を確認しているのだと思います。知恵があり、悟りがあり、経験がある。人の話をよく聞く、身内の者もそうでない者も、在留異国人をも、分け隔てなく、正しく裁く(16節)。外国人も、身分のあるなしも、偏見を持たずに、というのは今の私たちにも大変重要な基準です。そして、人を恐れず、神の裁きを果たさせて戴くこと。最後に、これも大事ですが、難しすぎることは無理に判断せずに、もっと知恵のある人に助けてもらうという謙虚な姿勢。そういう指導者を立て、また、訓練すること。これが、民の隅々にまで、正しい裁きをもたらすために、神様が人間に下さった方法なのです。
それはまた、裏を返せば、もう一つの意味にも繋がります。それは、モーセが、民の大きさに囚われず、一人一人を大切にしようとした、という事です。それは自分一人では無理だからこそ、指導者たちを立てたのです。12節にある通り、生きていけば、揉め事と重荷と争いは尽きません。身内同士でも、他人とでも、文化の違う人とも衝突や諍いがあります。そこで、偏った裁きや未熟な裁きでねじ込まれて、立場の弱い者が泣き寝入り、となりかねない。モーセはそれではいけない、と思ったのです。むしろ、その問題が起きたことを通して、正しく裁かれる神の御心が現されて、互いに助け合い、生かし合い、乗り越えて、祝福に変えていけるように、と願いました。空の星のように多い民の、その一人ぐらい泣いていても、悪に走っても、人を恐れていても仕方がない、とは思わなかった。全員が揉め事を解決し、重荷をちゃんと負い、争いを和解に変えていくようにと願った。でもそれは、モーセ一人で、優れた指導者一人で出来る事ではないでしょう。組織とか人材活用というのが、神様が人間に与えられた方法なのです。だから、モーセはここで、基準を与えるだけでなく、それを落とし込むための組織をもって、見える形で、民の隅々にまで届くようなあり方を確認しているのです。
現実には、この制度を歓迎した民も、立てられた頭(かしら)たちも主に従いませんでした 。それでもモーセはこの方法に立ち戻ります。不完全な指導者を通してでも、失敗を繰り返しながらでも、です。人がなお増えて、同時に、一人一人が主のかけがえのない民として整えられ、成長するよう願うのです。問題を通して、ますます主の御言葉に聞くようになる。モーセが望んだように、私たちもまた、そのような共同体となる展望を与えられるのです。
「私たちの重荷を担いたもう主よ。御子イエスの贖いによって、約束の地に入る将来を確信させられていることを感謝します。その確信のゆえにこそ、どうぞ私たちを整えて下さい。主が今も教会に牧師や長老をお立てくださり、一人一人を導いておられることを感謝します。生きる上での揉め事や重荷を分かち合う中、いよいよ御言葉に聞き、罪を捨て、助け合わせ、逞(たくま)しく育ててください」
文末脚注
1. ヨハネ、コロサイ、Ⅰテサロニケ、Ⅱテモテ、Ⅰ・Ⅱペテロを除く23巻に引用聖句が見出されるそうです。(Thompson)
2. ここにある多くの地名は、正確な場所を同定できません。ヨルダンの向こう側、エドムの地辺りの地名でしょう。
3. 「第四十年の第十一月の一日」。これは、申命記中、唯一の日時記録です。
4. 5節の「説明」は、二七8「(石の上に)はっきりと書きしるす」と訳されています。ホレブでの契約を語り直しつつ、それをただ繰り返すのでなく、説明し、生かし、これから入る約束の地での生活を整えるために、彼らの心に刻みつけるような言葉で、モーセは語り出します。私たちが、御国に入ろうとするにも、神の民としてなお戦い・誘惑のある中で生きるにしても、この申命記は大いに私たちの道筋を示してくれるのです。
5. ここから、申命記は全て、モーセの一人称で語られます。「私」「私たち」と。
6. 出エジプト三1、十七6、三三6。これらを合わせ読むと、モーセに主が柴の火の中に現れた地も「ホレブ」であり、岩を打って水を出した地(後の「マサ」「メリバ」)もホレブと呼ばれていますから、広い地域であったと考えられます。しかし、ここで「ホレブ」と言えば、主が契約を結ばれた、シナイ山と(ほぼ)同義であることは明らかです。
7. 創世記十五5-6。
8. 人々は「あなたが、しようと言われることは良い」と賛同しました。さばきつかさたちも立てられました。18節では、すべてのなすべきことは告げられたとありました。でも、なぜまた、申命記という説教が語り直されたのでしょうか。それは、次回の19節以下示されるとおり、民の罪の現実があるからです。反逆の事実を踏まえるからこそ、改めて、モーセはここに語り直していくのです。