聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問19 「人間の悲惨」創世記三章1~10節

2014-09-17 15:10:15 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/09/14「人間の悲惨」創世記三章1~10節       ウェストミンスター小教理問答19

 

 人間が神様から離れてしまった結果、この世界には罪と悲惨が入って来てしまいました。今日は、「悲惨」について聞きましょう。

問 人間が堕落して陥った状態の悲惨とは、何ですか。

答  全人類は、彼らの堕落によって神との交わりを失い、今では神の怒りと呪いの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と、死そのものと、地獄の永遠の苦痛を免れなくされています。

 悲惨とは、どういうことでしょうか。「悲しく惨めなこと」と書きます。そんな酷(ひど)い話しは聞きたくもない気がします。けれども、今日の答の大事なことは、悲惨というのはそういう惨めなこと、というだけではないんだ、と言っていることです。

 全人類は、彼らの堕落によって神との交わりを失い、今では神の怒りと呪いの下にあり、そのため、この世でのあらゆる悲惨と、死そのものと、地獄の永遠の苦痛を免れなくされています。

と言っているのです。まず、神との交わりを失って、神の怒りと呪いの下にある。それが、一番の「悲惨」ですよ。他の悲惨は、その結果ですよ。一番の悲惨は、神様との交わりを失ったことだと、聖書は教えているのです。

 今日見た、創世記三章の所には、アダムとエバが神様との約束を破って、神様に背を向けた「堕落」のことが書いてありました。その時、人は罪が入ってしまいましたけれど、同時に「悲惨」も始まっているのですね。それは、何でしょうか。彼らが、お互いに裸であることを隠して、神様が来られたときにも、

…神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

とありますね。神様との交わりが壊れてしまったのです。今までは、神様が来られたら、喜んで、心から礼拝をして、お話しをしたり、ワクワクして神様の声を聴いていたのではないでしょうか。愛であり人間を造ってくださった大いなる神様との時間は、人間にとって、幸せなこと、自然なこと、素晴らしいことでした。でも、その楽しい、落ち着けるはずの交わりから、逃げだし、隠れるようになった。それは本当に惨めなことです。

 ドラマでもこんな場面があるでしょう。幸せな家庭があるのに、外で何か悪い事をしてしまった人が、家に帰ってきても、とても落ち着かない。何となく後ろめたくて、不自然になり、居たたまれなくなってしまう。そういう場面を見ると、もうやってしまったことの悲惨な結果が始まっているなぁ、と思うのですね。いくらご馳走が出ても、優しく、楽しく話しかけられても、ますます惨めな気分になるのですね。神様に背を向けた人間は、家族以上に大事な、心の支えになる神様との交わりを壊してしまいました。神様から逃げずにはおれないくせに、それでも神様の代わりに自分を支えてくれるものが欲しくて、お金を神様にしたり、みんなからスゴいなあと言われたいと夢見たり、何かを神様にせずにはおれなくなります。健康で長生きをして、お金持ちになり、セレブな家庭を築けたら幸せになれるんじゃないか。有名になったり、すごい記録を残したりしたら、満たされると思いたいのです。でも、一番大切な神様との交わりがないならば、そういう人生は悲惨なのです。お金も、一番になることも、家族も、神様ではありませんから、いつかはなくなってしまいます。そうして、最後は死んで、死んだ後、最後にすべての人がよみがえらされて、神様の裁きを受けるときには、

…地獄の永遠の苦痛…

に入ることが待っているだけです。それは、その人が願ったとおり、永遠に神様との交わりから断たれた状態です。それが、どんなに恐ろしいのかは想像も出来ません。

 イエス様は、私たちのために救いの御業を果たしてくださいました。そこで、私たちがイエス様を信じることによって、罪からだけでなく、悲惨からも救われました。とはいっても、まだクリスチャンであっても、いろいろな悲惨な目には遭います。テストで悪い点を取ることもあるし、病気や悲しい出来事も、容赦なく襲いかかります。死は必ずやってきますし、祈っていても早死にすることだってあります。でも、イエス様は仰いました。

マタイ二八20「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」

 いつもともにいます。決してあなたを見捨てず、あなたを離れない。あなたはわたしの民、わたしの子、永遠にわたしの愛する者だよ、と仰るのです。私たちは今、この神様の前から逃げなくて良いのです。嘘や胡麻菓子や隠し事をせずに、私たちの全部を知った上で、私たちとの親しい交わりを持ってくださる神様を信じられるのです。いろんな悲惨があっても、神様はそのことさえもご存じで、そこから大切なことを始めてくださると約束されています。

 イ・チソンさんという韓国の女性がいます。この方は今から14年前、大学生の時、自動車事故で全身の半分以上という大火傷を負い、瀕死の状態になりました。生き伸びはしたものの、顔も変わり果てた彼女は、お兄さんに「お兄ちゃん、私を殺して。こんなになって私、生きていけないわ」と叫んだそうです。最初、病院に担ぎ込まれたとき、駆けつけた牧師さんは、20分何も言えずに黙っていた末に、ご家族に「この時のための信仰です。この状況を乗り越えるための信仰です」と語りました。その言葉を思い出し、励まされながら、チソンさんは留学して大学を卒業し、リハビリや社会活動のために活躍しています。今、火傷の前の顔に戻ったわけではありませんが、彼女はこう書いています。「本当に重要なものは、目に見えるものではなく、目に見えないものだということをこの体験から教えられました。神さまの愛と平安を与えられている今の私は、前よりも人生が楽しいです。バカげて聞こえるかもしれませんが、昔の美しい顔に戻りたくありません」。「私も女の子だし1人の人間です。可愛いものが大好きです。でも、決して可愛いとは言えないこの顔を見ながら本当に平安でいられることは、神様が下さった奇跡だと思います。今、私は本当に幸せです」。

 イエス様が下さる信仰は、悲惨をもただの悲惨ではなくしてしまいます。悲惨が起きる人生ですが、どんなになっても私達を愛し、ともにいてくださる主が、必ず私たちを導き、そこから新しい道を始めてくださいます。私達も「本当に幸せ」と言えるのです。

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ルカ18章31~34節「すべてのことが実現する」

2014-09-17 15:07:40 | ルカ

2014/09/14 ルカ18章31~34節「すべてのことが実現する」

 

 イエス様が十字架にかかって死なれる前に、その死を何度か予告されていましたが、今日の所でもまたご自身の死をお話しになります[1]。何度目かではありましたが[2]、全く同じ事を仰ったのではなく、少しずつ新しい事、詳しい事も明らかにされた。でも、それを弟子たちはサッパリ理解できなかった。そう、今日の話は教えています。本当にこれは大切なことでした。

31さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、

とわざわざあるのも、この言葉がどれほど大切なメッセージであったかを裏付けていますし、

…彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。

とあるのは、このイエス様が引き渡され、嘲られ、苦しめられて殺されてよみがえることが、預言者たち(これは今の旧約聖書を指す、当時の言い方です)、つまり聖書に書いてある、キリストについてのメッセージの全体像だ、とも言われているわけです。

 聖書の前半、「旧約聖書」はメシヤ(キリスト)と呼ばれる方、真の王がやがておいでになって世界を正しく治めてくださることを証ししています。新約聖書は、そのメシヤであるイエス様がおいでになってからのことを中心に書かれています。そのメシヤのおいでをイエス様の時代の人々は待っていた訳ですが、でも、彼らの念頭にあったのは、自分たちを豊かにしてくれるメシヤでした。今世界を支配しているローマ帝国を爽快に吹き飛ばして、繁栄と安楽をもたらしてくれる、そういうメシヤだったのです。けれども、イエス様は仰います。聖書に書いてあるメシヤとは、異邦人に引き渡され、嘲られ、辱められ、殺されるメシヤなのだ。そして、三日目によみがえるのだ。そう言われるのです。

 これは、このルカの福音書が最後まで貫いているテーマであって、最後の二四章、復活の後に、まだそれを信じない弟子たちに対しても、「預言者たちが言っていたではないか、

二四26キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」

 そう言われて、聖書全体を説き明かされた、と書いてあるのですね[3]。キリストは苦しみを受けて、よみがえられる。苦難や反対などものともせずに、敵を蹴散らして勝利される、そういうお方ではなく、苦難を受け、反対者や敵たちに馬鹿にされ、痛めつけられて殺される。その末に、よみがえられる。そういうお方だと聖書は旧約の預言から、新約の実際のイエス様のご生涯に至るまで、証ししているのです。

34しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

 本当に分からなかったのだ、と強調されていますね。何故かと言えば、隠されていたからだ、と言っています。でもそれは、イエス様が隠してさえおかなければ、分かったはずだ、というのではありません。二四章ではイエス様が彼らの心を開いて分からせてくださるのですが[4]、ここではまだそうはなさらずに、閉ざされた心をそのままにしておられます。そういう意味で隠されていたのであって、わざと分からないようにされたのではありません。イエス様が、英雄的なメシヤではなく、無力で、無抵抗に、見下され、罵られ、十字架に葬られてしまうメシヤだなどとは、弟子たちは勿論、私達人間にとっては理解できないこと、分からないことなのです。神様が、私達の心を開いて悟らせてくださらなければ、決して信じて受け入れることなど出来ない、不思議な方法です。けれども、そうした低い道こそが、真の神様の道です。

 前回、イエス様は、永遠のいのちを手に入れたいと質問してきた役人に、持ち物を売り払って、天に宝を積む生き方を始め、

ルカ十八22「そのうえで、わたしについて来なさい」

と仰いました。その役人はそこで立ち往生してしまいましたが、弟子たちは、

28…「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」

と胸を張りましたね。イエス様は、彼らに、ご自分に従うために払った犠牲には確かに有り余る報いがあると言われました。しかしその上で今日の続きで、その弟子たちをさらに近くに呼び寄せられて、この言葉を仰ったのです。すると、どういうことになりますか。弟子たちは、自分の家を捨ててイエス様に従って来たと自慢しましたが、イエス様は、ご自分がさらに卑しめられ、苦しみの道を通っていくのだ、と言われるのですね。そうすると弟子たちは、自分たちも、そのような狭い道、低い道を通るイエス様について、厳しい道を従って行かなければならないことになります。それは当然、嫌です。抵抗したくなります。信じたくないのです。だから、彼らは(どんな人も)イエス様の言葉がサッパリ分からないと思ってしまうのです。

 勿論、わざわざ苦しい関係に飛び込んだり自分を痛めつけたりするようなことはイエス様もなさいませんでした。でも、イエス様の生涯には苦しみが付きまとっていましたし、私たちもイエス様に従うことに、家内安全や長寿、繁栄、自分の繁栄や自分の名誉を期待するのではなく、それらを捨てること、失うことをむしろ心得ておくべきです。

 ひと言で言ってしまうと、イエス様が人として最低の扱いを受けられた事は、神様の私たちに対する御真実の「本気度」を現しました。

ヨハネ三16神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 神がひとり子をお与えになった、そこでどんなに酷く、残酷な扱いを受けても、死に至るまで決して投げ出されず、その御業を成し遂げられたことによって、神とひとり子イエス様は、私たちを本気で愛しておられることを現してくださったのです。一方の私たちは、苦しみの篩(ふる)にかけられたらどうでしょうか。囲いに覆われて、立派なことを言ったり善人めいた表情を浮かべたりしても、侮辱や艱難に遭えば化けの皮は剥がれます。自分がどれほどイエス様に従いたくないか、イエス様とはかけ離れているかを思い知らされます。過去に受けてきた傷が露わになります。見たくない自分の本性を見ざるを得ません。それは、私たちにとっては避けたいことです。けれども、イエス様は、そのような私たちの心根をお取り扱いになるのです。

 私たちの本性、罪、自己中心、様々な傷や恐れを知っておられるイエス様は、口先での信仰や安全圏の中での信仰を求めてはおられません。私たちが、他人のフリを止めて、あるがままの私-渇いた者、不完全で傷ついた小さな者、罪に弱い、イエス様を本当に必要としている事に気づいて、その私たちを愛し、お救いくださるイエス様への、心からの告白へと導かれるのです[5]。そしてその先に、復活のいのち、永遠のいのち、限りなく深い祝福を備えてくださっているのです。そのためにイエス様は、耐えがたい、想像を絶する苦難を通られたのです。

 

「従いたいと願いつつ、従いたくない、我が道を行きたい自分もあることを告白します。そのような私を変えて下さい。篩われて、傲慢を砕かれて、主の恵みに潤され、主の愛に癒されて、新しくされていただくこと。それは、私たちの願いである以上に、主の御業であり、聖書の成就です。どうぞ、私達を導き、主の十字架と復活の恵みを悟り続ける生涯を歩ませて下さい。」



文末脚注

 

[1] ルカでは七回目。五35「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」、九22「人の子は、必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、そして三日目によみがえらなければならないのです。」、44-45「『このことばをしっかりと耳に入れておきなさい。人の子は、いまに人々の手に渡されます。』しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。このみことばの意味は、わからないように、彼らから隠されていたのである。また彼らは、このみことばについてイエスに尋ねるのを恐れた。」、十二50「しかし、わたしには受けるバプテスマがあります。それが成し遂げられるまでは、どんなに苦しむことでしょう。」、十三32-33「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはあり得ないからです。』」、十七25「しかし、人の子はまず、多くの苦しみを受け、この時代に捨てられなければなりません。」

[2] マタイ、マルコの平行記事で言えば、「三度目の受難予告」ですが、上述の通り、ルカでは七回目です。

[3] ルカの福音書二四章全体。特に、25-27節、44-48節を参照。

[4] ルカ二四章45節「そこで、イエスは、聖書を悟らせるために彼らの心を開いて」。

[5] 「恐らく、「とにかく実行」という考えが持つ一番深刻な問題は、そこには“キリストの死を通してもたらされたいのち”とい贈り物の余地がほとんどないことでしょう。成熟とは試行錯誤を繰り返しながら成長する過程であり、次のようなサイクルで起こります。
1.やってみる 2.失敗する 3.恵みと赦しを受け取る 4.失敗の結果を自分の責任として受け入れる。 5.その結果から学ぶ 6.もう一度やってみる 7.今度は少しはましにやる 8.また失敗する。
 こんな具合です。ヘブル人への手紙五章十四節は、私たちは経験によって学ぶと言っています。失敗しても非難されないと知っていると、より早く成長します。もっと多くのリスクを負います。しかし「実行第一」に縛られて生きていると、失敗から学べなくなります。この間違った思い込みは、成熟のサイクルの邪魔になるか、最悪の場合、それをなし崩しにしてしまいます。一方の恵みは、私たちが愛を失わずに試行錯誤しながら成熟できるよう、守ってくれます。」ヘンリー・クラウド、ジョン・タウンゼント共著『クリスチャンの成長を阻む12の誤解 “聖書的”思い込みからの解放』(中村佐知、中村昇共訳、地引網出版、2006年)278-279頁。キリストに従う道は、痛みを通ります。それによって、私たちは自分の本心に気づきます。罪、欲望、傷。それに気づかされることから、私たちは立ち上がり、本当の回復、成長、内なる人の形成が始まるのです。ただ、自分の意志や善意、信仰力などでは十字架の道を背負うことは出来ないのです。

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