聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問32「この世において様々な益に」 エペソ一章3~6節

2015-01-06 09:25:49 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/01/04 ウェストミンスター小教理問答32「この世において様々な益に」

                                                        エペソ一章3~6節

 神様が私たちを、救いに召してくださることを、私たちはどのように考えているでしょうか。今日の、ウェストミンスター小教理問答32は、私たちの「救い」のイメージを豊かに膨らませてくれる言葉ではないかと思います。

問 有効に召命される人々は、この世において、どのような益にあずかるのですか。

答 有効召命に召命される人々は、この世において、義認、子とすること、聖化、またこの世においてそれらに伴い、あるいはそれらから生じるさまざまな益、にあずかります。

 「益」を言います。神様が私たちを、イエス・キリストの福音を受け入れるように力強く働いてくださる、「有効」に「召命」してくださることに続いて、「益」を語るのです。この事自体、素晴らしい事ではないでしょうか。いいえ、そもそも聖書が語る言葉が、信じて従う者に約束されている「祝福」や「益」なのです。神様が、イスラエルの民の父祖であるアブラハムに、最初に語った言葉からしてそうでした。

創世記十二1「あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

 わたしが示す地へ行きなさい。

 2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、

 あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

 あなたの名は祝福となる。

 3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

 地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 モーセが民に語る言葉も、預言者たちが語る悔い改めのメッセージも、神様の豊かな祝福を語っています。本来、神様がお造りになったこの世界そのものが、あらゆる動物や様々な植物でバラエティに富んだ、色とりどりの豊かな世界でした。そこには、神様の喜びや想像力を凝らした世界がありました。その世界に置かれた人間に対しても、神様は祝福を溢れさせようと願っていらっしゃいました。ですから、私たちがこの神様との関係に入れられるならば、当然のように、豊かな益を期待してよいのです。

 よく「御利益宗教」という言い方がされますね。家内安全、商売繁盛、無病息災、そんな願いを叶えるには、どこの神社が良い、どこの宗教の方がよい、などと考えることを「御利益主義」と言って見下すのです。けれども、キリスト教は、御利益を軽蔑したり、御利益はないと否定したりするのではありません。むしろ、最大の豊かな御利益を約束されています。本当にこの世界をお造りになった、全知全能の神様のお約束ですから、これ以上確かな約束はありません。そして、神様ご自身が私たちを祝福しようと願っておられるお方です。有効召命とは、その祝福(御利益)にも直結しているのです。

エペソ一3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

 「天にあるすべての霊的祝福」! すごい表現です。神様は、私たちが想像もつかないほどの祝福を考えておられるのです。けれども、その後に続いているのは、

 4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

 5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。

 6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

 私たちが、御前で聖く、傷のない者とされること、言い換えれば、イエス・キリストによって神様の子どもとなることを、愛をもって定めておられました。今日のウェストミンスター小教理問答32で、

 …この世において、義認、子とすること、聖化、またこの世においてそれらに伴い、あるいはそれらから生じるさまざまな益、にあずかります。

とありますが、義認と子とすることは、神様の側の「決定」ですから、救われた時、その瞬間に、罪を赦されて義とされ、神の子とされるのです。そういう立場はもう持ちます。そして、「聖化」は「決定」ではなく「みわざ」と言われていて、ずっと続いていくことです。それは「聖」と「化して」いくことですが、神様の子どもとして、中身も神様に似た者とされていく、ということですね。私たちはイエス・キリストを信じた時点で、既に、罪を赦されて神の子どもという立場を与えられています。そして、生涯掛けて、その神の子としての成長をいただくのです。そして、そこに伴って、様々な益も約束されているのです。

 よく「御利益主義」と言われるのは、その肝心な神様との関係が回復して、親しい交わりが与えられることをそっちのけに、それに伴って与えられる筈の喜びや繁栄ばかりを求めていることではないでしょうか。それは、余りに勿体ないことですし、神様に対しても失礼でしょう。神様との関係にこそ、最大の祝福と喜びである「愛」があるのです。神様が全てのことを益として下さる、というローマ書八章28節の約束も、この神の子どもとして成長していく上での「益」であって、私たちが願い、嬉しがるような「益」ではないのです。でも、神様は、私たちが願う以上、想像するより遥かに優れた「益」をご計画なさっておられます。目の前のことは辛くても、長い目で見て、最大の益を用意されているのです。有効召命とはそういう祝福を含んでいるのです。

 一年が始まって、この夕拝で、多くの人が初詣で願うように、良いことばかりを神頼みするようなことはしません。でも、私たちは、神様から希望を頂いています。諦めや悲観的な思いは捨てましょう。神様は、すべてを働かせて、益として下さいます。最善の、最高のご計画の中で、私たちを愛する子どもとして導き、祝福してくださいます。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記四章32~49節「心に留めなさい」

2015-01-06 09:08:29 | 申命記

2015/01/04 申命記四章32~49節「心に留めなさい」

 

 申命記四章のこの箇所は、三四章まで続きます申命記の最初の部分から、第二の段落に移っていく節目に当たります。モーセの説教の結びの勧めが、力強く語られています。ここでモーセは、これから約束の地に入ろうとするイスラエルの民に、彼らがこの四十年の間に経験してきた、出エジプトの出来事、シナイ山で契約を結んだ出来事を思い起こさせます。

32さあ、あなたより前の過ぎ去った時代に尋ねてみるがよい。神が地上に人を造られた日からこのかた、天のこの果てからかの果てまでに、これほど偉大なことが起こったであろうか。このようなことが聞かれたであろうか。

33あなたのように、火の中から語られる神の声を聞いて、なお生きていた民があっただろうか。

34あるいは、あなたがたの神、主が、エジプトにおいてあなたの目の前で、あなたがたのためになさったように、試みと、しるしと、不思議と、戦いと、力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力とをもって、一つの国民を他の国民の中から取って、あえてご自身のものとされた神があったであろうか。

 こう畳みかけるように言ってから、その目的をこうモーセは言います。

35あなたにこのことが示されたのは、主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るためであった。

 主だけが神であって、他には神はない。それをあなたが知るために、ここまでの数々の御業があって、あなたがたが神の民とされたのだ。その目的に尽きる、と言うのです。

 ここでモーセの言葉を聞いている民の中には若者もいました。大半が、この四十年の間に生まれた者たちであって、直接、出エジプトやシナイ山での光景を目にしたわけではありません。ですから、直接奇跡や不思議な出来事を見たというより、イスラエルの民とは出エジプトの御業に与った民である、その民であるあなたがたに語る、とモーセは訴えているのです。

 それから三千五百年も後の私たちは、聖書の奇跡を読んでも、自分自身にはこういう奇跡的な体験はしたことがなくて、この時代にタイムトラベルでも出来ればいいのになぁ、と思ってしまったりするかも知れません。しかし、私たちもまた、この神の民に加えられて、聖書を与えられて、数々の奇跡や御業を、自分たちの歴史として共有しています。直接の目撃や体験をしていなくても、その記憶を継承して、その歴史の上に自分たちも今ここにあるのです。そして私たちにも、そうした神様の御業、摂理、導きが、

…主だけが神であって、ほかには神はないことを、あなたが知るため…

という目的(ゴール)へと向かわせるものであることを覚えたいのです。新年礼拝という切り口で考えるなら、この一年に私たちにどんなことが起きようとも、それは、究極的には、主だけが神であって、他に神はないことを私たちが心から知るために通って行く出来事なのです。

 それは「主だけが神である」というアタマの中の知識だけの話ではありません。

39きょう、あなたは、上は天、下は地において、主だけが神であり、ほかに神はないことを知り、心に留めなさい。

40きょう、私が命じておいた主のおきてと命令とを守りなさい。あなたも、あなたの後の子孫も、しあわせになり、あなたの神、主が永久にあなたに与えようとしておられる地で、あなたが長く生き続けるためである。

 こう言い換えられるように、主を唯一の神とする、と信じることは、その主の掟と命令とを守り行うことに直結します。主を神だと言いながら、生活においてはその主の言葉を侮(あなど)っているなら、本当は、主が唯一の神ではなく、自分の方が神になっているのです。すべての事は、主だけが神であり、その神が私たちを幸せにしてくださると知って、その掟に従うため。人間が造った他の神は神ではないし、自分もまた、神ではないのだと知るため。そのために、主は様々な力強い御業を果たされて、私たちにご自身を現して、私たちが、この主との、他にはない交わりに生きるように導いてくださっているのだ、そう教えられるのです。

 繰り返しますが、私たちは、自分のために証拠を求めて、奇跡や特別な御業を求めてはなりません。すでにそれは起きた事であり、私たちはその中に生かされているのです。今も主は私たちに御業をなしておられる。そう信じる事が、主が神であるという告白に通じます。特別なこと、自分たちにとって手頃な御業や幸せを求めて、それがなければ信じることも服従も拒めるかのように考えるとしたら、まだ自分が神よりも上に立とうとしているのです。主はここで幸せを語っておられます。けれども、その本当の幸せに至るためには、まず私たちは試みられ、戦いや恐ろしい思いさえ通りながら、整えられる必要があるのです。

 41節以下の、三つの町を取りのけた事は、まさにそのことを物語っているのでしょう。

42以前から憎んでいなかった隣人を知らずに殺した殺人者が、そこへ、のがれることのできるためである。そのものはこれらの町の一つにのがれて、生き延びることができる。

 憎しみや計画的ではなくて隣人を死なせてしまった場合、加害者が逃れることの出来る町が設けられました。そこに住む限り、被害者の家族の復讐から守られて暮らす事が出来る、「逃れの町」の規定です。これから入る約束の地での生活に、この「逃れの町」は最優先課題の一つとして実行されるのですね。新しい生活に、こんな町を備えなければならない。誰かを死なせてしまうこともあるかもしれない。自分の愛する家族が被害者になって、加害者を殺したくなることが起きるかも知れない。そんな時の解決策が、加害者が「逃れの町」で再出発をするというギリギリの規定です。そんな複雑な事態も想定しておきなさい、と主は言われるのです。

 神様を礼拝して律法に従って生きていれば、決して悲劇や災難、不条理で人生の歯車が狂ったりはしない、などとは約束されません。イエス・キリストが十字架で贖いを果たしてくださったと信じても、こんな複雑な事件が降りかかることはあるのです。そこで信仰を投げ出してしまうのではなく、そんな歩みの中でなお、主の掟と命令とを守る。そうして、主が、主だけが神であり、他に神はいないという告白に生きていく。そういう生き方へと導かれるのが、贖い主なる主が語られる旅路です。私たちの思いや力、理解には限りがあります。私たちは神ではなく、ちっぽけな存在です。でも、その私たちを顧み、間違いや不条理に巻き込まれずにはおれないこの地上の歩みにも御業を現し、主を神として生きる人生を送るようにと、主が私たちに語りかけ、働きかけて、幸せを用意してくださっています。

 39…心に留めなさい」

と言われます。毎日の生活、ふとした時、何をしていても、唯一の神である主とその御言葉を心に留める。喜びの時もあれば、どうしようもない悲しみの時もある中、いつも主を見上げて、主の御手に委ねて、従う道は、主が必ず幸いに至らせてくださいます。

 

「あなた様だけが神であるとの告白を、私たちのすべての生活において、貫かせてください。いつも、あなた様の礼拝の民として生きる幸いをお恵みください。偉大な真の創造主が、私共を心にかけて、神ならぬものを恐れる過ちから救い出そうと、人生を導いておられます。その測り知れない慈しみをもって、私共を、取り分け苦しみの中にある方を、お支えください」

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする