2015/01/04 ウェストミンスター小教理問答32「この世において様々な益に」
エペソ一章3~6節
神様が私たちを、救いに召してくださることを、私たちはどのように考えているでしょうか。今日の、ウェストミンスター小教理問答32は、私たちの「救い」のイメージを豊かに膨らませてくれる言葉ではないかと思います。
問 有効に召命される人々は、この世において、どのような益にあずかるのですか。
答 有効召命に召命される人々は、この世において、義認、子とすること、聖化、またこの世においてそれらに伴い、あるいはそれらから生じるさまざまな益、にあずかります。
「益」を言います。神様が私たちを、イエス・キリストの福音を受け入れるように力強く働いてくださる、「有効」に「召命」してくださることに続いて、「益」を語るのです。この事自体、素晴らしい事ではないでしょうか。いいえ、そもそも聖書が語る言葉が、信じて従う者に約束されている「祝福」や「益」なのです。神様が、イスラエルの民の父祖であるアブラハムに、最初に語った言葉からしてそうでした。
創世記十二1「あなたはあなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
わたしが示す地へ行きなさい。
2そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。
あなたの名は祝福となる。
3あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
モーセが民に語る言葉も、預言者たちが語る悔い改めのメッセージも、神様の豊かな祝福を語っています。本来、神様がお造りになったこの世界そのものが、あらゆる動物や様々な植物でバラエティに富んだ、色とりどりの豊かな世界でした。そこには、神様の喜びや想像力を凝らした世界がありました。その世界に置かれた人間に対しても、神様は祝福を溢れさせようと願っていらっしゃいました。ですから、私たちがこの神様との関係に入れられるならば、当然のように、豊かな益を期待してよいのです。
よく「御利益宗教」という言い方がされますね。家内安全、商売繁盛、無病息災、そんな願いを叶えるには、どこの神社が良い、どこの宗教の方がよい、などと考えることを「御利益主義」と言って見下すのです。けれども、キリスト教は、御利益を軽蔑したり、御利益はないと否定したりするのではありません。むしろ、最大の豊かな御利益を約束されています。本当にこの世界をお造りになった、全知全能の神様のお約束ですから、これ以上確かな約束はありません。そして、神様ご自身が私たちを祝福しようと願っておられるお方です。有効召命とは、その祝福(御利益)にも直結しているのです。
エペソ一3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにあって、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。
「天にあるすべての霊的祝福」! すごい表現です。神様は、私たちが想像もつかないほどの祝福を考えておられるのです。けれども、その後に続いているのは、
4すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。
5神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
6それは、神がその愛する方にあって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。
私たちが、御前で聖く、傷のない者とされること、言い換えれば、イエス・キリストによって神様の子どもとなることを、愛をもって定めておられました。今日のウェストミンスター小教理問答32で、
…この世において、義認、子とすること、聖化、またこの世においてそれらに伴い、あるいはそれらから生じるさまざまな益、にあずかります。
とありますが、義認と子とすることは、神様の側の「決定」ですから、救われた時、その瞬間に、罪を赦されて義とされ、神の子とされるのです。そういう立場はもう持ちます。そして、「聖化」は「決定」ではなく「みわざ」と言われていて、ずっと続いていくことです。それは「聖」と「化して」いくことですが、神様の子どもとして、中身も神様に似た者とされていく、ということですね。私たちはイエス・キリストを信じた時点で、既に、罪を赦されて神の子どもという立場を与えられています。そして、生涯掛けて、その神の子としての成長をいただくのです。そして、そこに伴って、様々な益も約束されているのです。
よく「御利益主義」と言われるのは、その肝心な神様との関係が回復して、親しい交わりが与えられることをそっちのけに、それに伴って与えられる筈の喜びや繁栄ばかりを求めていることではないでしょうか。それは、余りに勿体ないことですし、神様に対しても失礼でしょう。神様との関係にこそ、最大の祝福と喜びである「愛」があるのです。神様が全てのことを益として下さる、というローマ書八章28節の約束も、この神の子どもとして成長していく上での「益」であって、私たちが願い、嬉しがるような「益」ではないのです。でも、神様は、私たちが願う以上、想像するより遥かに優れた「益」をご計画なさっておられます。目の前のことは辛くても、長い目で見て、最大の益を用意されているのです。有効召命とはそういう祝福を含んでいるのです。
一年が始まって、この夕拝で、多くの人が初詣で願うように、良いことばかりを神頼みするようなことはしません。でも、私たちは、神様から希望を頂いています。諦めや悲観的な思いは捨てましょう。神様は、すべてを働かせて、益として下さいます。最善の、最高のご計画の中で、私たちを愛する子どもとして導き、祝福してくださいます。