聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問31「イエス・キリストを受け入れるように」 エゼキエル書十一章19-20節

2015-01-01 21:43:22 | ウェストミンスター小教理問答講解

2014/12/28 ウェストミンスター小教理問答31「イエス・キリストを受け入れるように」

                                                        エゼキエル書十一章19-20節

 

 聖霊が、私たちに、イエス・キリストの贖いを届けてくださる。そのことを確認しながら、今日は「有効召命」という言葉を手がかりに、神様の救いの恵みを覚えましょう。

問 有効召命とは何ですか。

答 有効召命とは、それによって神の霊が、[第一に]私たちに自分の罪と悲惨を悟らせ、[第二に]私たちの思いをキリストを知る知識で照らし、[第三に]私たちの意志を新たにすることによって、福音において無償で私たちに提供されているイエス・キリストを受け入れるように、私たちを説得し、また、実際受け入れることができるようにしてくださる、そのようなみわざです。

 「召命」というのは、「召す」ということです。こちらに来なさい、あなたはどこに行きなさい、このような仕事をしなさい、裁判所へ行きなさい…そのような時に「召集」「召喚」「召還」と言います。礼拝の最初でも「召詞」と言って、神様が私たちを礼拝に召しておられる言葉を一緒に聞いて、礼拝が始まるのですね。そして、「有効召命」という場合の召しは、「イエス・キリストを受け入れるように」という召しです。教会では、いろいろな機会に、まだイエス様を信じていない人は、イエス様を受け入れましょう、福音を信じてください、と呼びかけます。これも、「召し」です。

 けれども、そういう招きをしても、分かりましたと応じる人ばかりではありません。むしろ、殆どの人は、なかなかその招きに答えませんね。では、神様が人間を救おうとなさっても、人間がそれを断ることは出来るのでしょうか。神様の呼びかけを人間がスルーしてしまうこともあると考えて良いのでしょうか。

 今日の「有効召命」という言葉は、それを言っています。聖霊が救いを届けてくださる時には、それは「有効」だ、「効き目・効力が有る」と言うのですね。無効ではなくて、有効なのです。人間が福音を話しても、相手が聞くかどうかは分かりません。けれども、聖霊が救いへと招いてくださるのは「有効」ですよ。人間が無効にしたり、スルーしたり出来ない、確かな「召し」ですよ、と言っているのです。教会の説教や集会での招きは拒むことも出来ます。でも、神様が見えない所で深く心に働いておられて、

 …福音において無償で私たちに提供されているイエス・キリストを受け入れるように、私たちを説得し、また、実際受け入れることができるようにしてくださる…

聖霊の御業が有効に働いているから、人がイエス・キリストを受け入れることが出来るのです。そういう御業を信じて、教会は、伝道を続けていけるのです。

 もし神様が招かれても、人間が拒むことが出来るとしたらどうでしょう。召命の内容は、ここにある通りです。

…[第一に]私たちに自分の罪と悲惨を悟らせ、[第二に]私たちの思いをキリストを知る知識で照らし、[第三に]私たちの意志を新たにする…

 人間は、自分の罪と悲惨を認めたくありません。キリストを知る知識の光からは何とかして逃れて、隠れようとするのが生まれつきの人の本心です。意志を新たにされないまま、古い自分では、意志を新たにすることなど願いもしません。もし、人間に、1パーセントでも、神様の招きを拒む余地があったとしたら、救いはたちまち脆く崩れ去ってしまいますし、私たちも絶望するしかありません。でも、神様の召命は有効です。

ヨハネ六44わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。

 この「引き寄せる」という言葉は、他に漁師が海に投げ入れて魚でいっぱいになった網を引っ張る時に使われる言葉です。グイーグイッと手繰り寄せる、そういう動作です。神様が、私たちのこともこのように力強く引っ張ってくださるのです。そうして私たちが、福音において提供されているイエス様を、受け入れるように説得してくださって、受け入れさせてくださって、イエス様のもとに行く事が出来る、のですね。決して、自分では行くつもりもないのに、嫌がる私たちを、神様が無理矢理引き摺っていく、ということではないのです。私たちの心に働いてくださって、自分の罪と悲惨を悟ることが出来るようにしてくださり、イエス様を知る知識で心を照らされ、私たちの意志を新たにしてくださる。だから、本人としては、色々な迷いや心配はあるとしても、それでも自分で納得して、「イエス様を信じよう。自分の罪や悲惨は本当だ。イエス様によって新しくしていただきたい」と、心から願って来るのですね。それは、実は、聖霊による御業であって、「有効召命」と呼ぶに相応しい、力強い招きなのです。先に読んだ通り、

エゼキエル十一19「わたしは彼らに一つの心を与える。すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

20それは、彼らがわたしのおきてに従って歩み、わたしの定めを守り行うためである。こうして、彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの民となる。」

 私たちに新しい心を下さることは、神様のご計画でした。この世界を作られた神様の大きなご計画の中で、私たちの心が罪を悔い改め、イエス様の光で照らされ、新しくされることが着々と進んでいくのです。だから、私たちもまた、神様の恵みに与って、救いをシッカリと戴き、新しい心を戴くことを期待していいのですね。神様が、私を救いに招いておられるだけではなくて、私たちのうちに力強く働いてくださいます。罪を認めさせるだけではなくて、イエス様を知る知識の光を照らしてくださいます。そして、心を新しくしてくださいます。ホントかな?と思ってしまっても、神様の方がそれを望んでおられるのですから、私たちは、神様に、素直に祈っていきましょう。

 神様は、どんなひどい人の心にも働いて、罪に気づかせ、イエス様の贖いを受け取らせることが出来るお方です。「この人は駄目だろう」と諦めることはありません。逆に、どんないい人も、聖霊によらなければ、罪を認めることは出来ません。「いい人だから信じるだろう」という期待も的外れです。神様にお任せして、ただ、自分については謙遜に、正直に、そして神様の福音への信頼と喜びに溢れて歩む。それが、神様の私たちに対する御心ですし、そういう私たちの姿を通しても、有効召命の御業は広がるのです。

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元旦礼拝 エペソ四1~7「その召しにふさわしく」

2015-01-01 21:40:57 | 説教

2015/1/1 鳴門キリスト教会元旦礼拝 エペソ四1~7「その召しにふさわしく」[1]

 

 初めて新年をご一緒に迎えることが出来て、本当に感謝をしています。そして、私にとっては2年目に入っていく今年、そしてこれからの歩みに、主がどんなことをご計画なさっているのか、と思いを馳せます[2]。私自身、牧師としてまだまだ成長したい、教会に仕え導くために、もっと整えられたいと願いながら、昨年読んでいた本に、牧師のリーダーシップであるべきビジョンとして、こんな言葉を印象深く読みました。

「わたしたちが人種や文化を乗り越えて、枝葉の神学上の違いに執着せず、キリスト教の核となる教理に集中して、自分たちが神の民として許容される仕方で、キリスト者の自由という原則を実践する…。そのような会衆についての実際的な試金石は、教会員全員が確信をもって(回心した人も、そうでない人も、経済的に豊かな人も貧しい人も、高学歴の人もそうでない人も、肌の色が黒くとも白くとも)、友として受け入れ、礼拝に共に集うことができるかどうか、です。」[3]

 教会員全員が確信をもって、様々な人を友として受け入れ、礼拝に一緒に集うことが出来るかどうか。同じような事を、今月の後半に参加してきます教会からも、祈りの課題として投げかけられました。

「主が、自分のいる教会を「すべての民の祈りの家」としてくださるよう祈りましょう」

 この教会に、色々な国の人が来る。肌の色や言葉、文化の違う人が来る。それは、面倒くさいことでもあるかもしれません。また、これはアメリカの教会での表現であって、日本ではまた違った言い方が必要かもしれません。多国籍になることは勿論ですが、そうでなくても、判で押したような教会になるのではなくて、本当に色々な方が集まっている。そこで、簡単に「クリスチャンとはこういう人」などと言えないくらい、個性溢れる人が集まってくることも喜べるというのは大事なチャレンジだなぁと思わされます。

 今日開きましたエペソ書の四章最初は、エペソ書の丁度真ん中に当たりますのが、この四章の冒頭です。ここまで一章から三章まで語ってきた、神様の奥義、救いのご計画を踏まえて、パウロは、「その召しにふさわしく歩む」ことを、ひと言で言えば、

 2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

と要約しています。パウロはエペソ一9で「みこころの奥義」を、

一9…この方[イエス]にあって神があらかじめお立てになったみむねによることであり、

10時がついに満ちて、実現します。いっさいのものがキリストにあって、天にあるもの地にあるものがこの方にあって、一つに集められるのです。

と述べています。すべてのものがキリストにあって一つとされること。それが、御国であり、神様のご計画であり、救いの完成です。キリスト教の「救い」やゴールは、ただ私たち一人一人が天国に入るとか永遠のいのちを持つというだけの、個人的な、バラバラのことではありません。神様が世界をお造りになった最初に、人間を共同体としてお造りになり、ひとつの家族としてお造りになったのです。罪のために人間は自己中心的になり、自分さえよければいいと考えるようになってしまいました。そこからイエス様の十字架と復活の御業に与って、救われるというのは、ただ私たちが罪の罰や地獄を免れさせていただく、というだけではありません。神様がもともと私たちやこの世界をお造りになった時にご計画なさっていた、万物が一つになる、という「奥義」を全うしてくださる、ということです。そういう、創造から終末までの御心を視野に入れた、ご計画の中で、私たちが召されて、信仰を与えられているということです。その神様のご計画と御業を知り、信頼することが土台にあるのです。

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

と言われています。「御霊の一致を熱心に保ちなさい」であって、「一致しなさい」ではないのですね。キリストの御業に基づいて、御霊は私たちを既に一つとしてくださっています。その一致を「保つ」のです。「一体感を持ちなさい」とか「一致しなさい」ではありません。私たちはもう既に、主イエス・キリストの御業によって「ひとつ」です。そしてそれは、本当に豊かな「一つ」です。一世紀のローマ社会では、ユダヤ人と異邦人、奴隷と自由人が主にあって一つである、という告白にこの福音の奥義が現れていました。全ての国の民が集まって、ともに主に祈りと礼拝を捧げる、という教会の姿が、見える形になっていった。それが、教会でした。今でも、教会がそのような場所であることは大切です。個性や趣味や感じ方、性格、文化はガッカリするほどバラバラであったとしても、それでも、そのような異なる同志の私たちを、主が愛し、御国に召して、ひとつの教会に連ならせてくださった、という事実が、「御霊の一致」です[4]。もし、ここに、「一体感」とか人為的な「一致」を持ち込もうとするなら、それこそは「御霊の一致を保つ」のではなくて、むしろ壊すことになります。大事なのは、私たちにとっての好ましい一致があることではなくて、本当に違う者たち同志が、キリストへの信仰にあって既に「一つ」である、ということです[5]

 この御霊の一致を熱心に保ちなさい、と強く勧められています。「御霊の一致」に召された者として相応しく歩むようにと勧められています。それには、まず、主が私たちを召してくださった「御霊の一致」、望みや信仰告白における一致をシッカリと学び、知る事です[6]。何でもありの一致ではなく、主にあっての一致です。もう一つが、私たち自身の人格的な成長です。

 2謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、

 3平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。

 私たちが、お互いの違いをただ我慢したり目を瞑ったりするのではなくて、謙遜になり、柔和になること-自分の価値観を手放すこと-、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合うこと、そういう私たち自身の変化、成熟が、御霊の一致を内実のあるものにするのですね[7]。「私は罪人です。神様の恵みによって救われました」と心から言っているつもりでも、教会に来た人を見て「あの人は受け入れたくないなぁ」と思っているとしたら、自分がまだまだ傲慢で、救いの恵みを受ける資格があったかのように思い上がっていた事に気づかされます。そして、人間的な事で裁いたり「クリスチャンらしさ」という枠を作ったりするのではなく、本当に御言葉に聞き、主の福音にあって、一つである教会を目指して行く。そのためにも、教会に、様々な人が来ることは本当に主の恵みなのだと思います。

 私たちが来て欲しい人を選ぶのではなくて、福音を必要とする人、主が愛しておられるのはすべての人であって、そういうご計画へと私たちは召され、教会はその現れである事を問われ、求めていくのです。この一年も、主はそのような告白へと私たちを育てようとしておられます。

 

「教会のかしらなる主よ。あなた様の十字架と復活の御業によって、万物を一つとする御業は既に与えられています。どうか、この土台を別のものにすり替えることなく、私たちを心からの、愛の一致へと召された事実を弁えさせてください。この一年、礼拝と交わり、祝福と苦難、学びと体験を通して、一人一人が「謙遜と柔和と寛容と愛」に成長させていただけますように」



[1] 昨年から、週報の表紙に書いていた「年間聖句」が、このエペソ書四章冒頭の言葉ですが、ここから直接お話しすることは一度もしないまま、一年が過ぎてしまいましたので、2015年も同じ箇所を掲げることにして、元旦にここからお話ししておきたいと思いました。ただ、夏期学校でも、月報の巻頭言(2014年11月15日の「徳島キリスト者平和の集い」での説教)でも、お話しして来たことではありますので、初めて聞く話ではない、という方もいらっしゃると思います。

[2] 勿論、主のご計画されている出来事は、起きてから分かるものですから、先に今予想することは出来ません。また、明らかにされている御言葉においても、地上での幸いや繁栄に心を向けず、私たちの生涯は天の御国への旅路であり、禍や試練を通して、私たちが訓練されることが御心であると教えられています。決して、良いことばかりが起きると期待するのではありませんが、すべてを働かせて益としたもう主の御真実があって、この年にも、厳しいかも知れないけれども、深く、力強い、素晴らしいご計画が備えられているのです。そして、御言葉を通して、主が私たちにどんな事を語っておられるのかは、十分に教えられています。その主の導きを信じて、主の御声に心を開いて、共に聞いていきたいと願います。

[3] ドナルド・マクラウド『長老教会の大切なつとめ』(原田浩司訳、一麦出版社、2010年)25-26頁。前後から引用すると次の通りです。「わたしたちはそれぞれに置かれている状況に応じて、聖書が意味するところを受け持たなければなりません。それは、わたしたちにとっては、自ずとより広い共同体へと及び、そして、ただ自分たちがキリスト者であるという点において、すべてのキリスト者を喜んで迎え入れるように備える、この会衆、この教会を意味します。このことは、わたしたちが人種や文化を乗り越えて、枝葉の神学上の違いに執着せず、キリスト教の核となる教理に集中して、自分たちが神の民として許容される仕方で、キリスト者の自由という原則を実践するよう要求します。そのような会衆についての実際的な試金石は、教会員全員が確信をもって(回心した人も、そうでない人も、経済的に豊かな人も貧しい人も、高学歴の人もそうでない人も、肌の色が黒くとも白くとも)、友として受け入れ、礼拝に共に集うことができるかどうか、です。」

[4] 「召し」一18、四1、4、(動詞も、四1、4で)

[5] これは、いわば「使徒信条」の「我は…公同の教会を信ず」につながります。「使徒信条」そのものが、「ひとつの信仰」である。

[6] 「ひとつの望み」とも言われますが、「望み」はエペソ書では、一18「また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、」、二12「そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。」と出て来ます。また、一12の「それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえるためです。」は「プロエルピゾー」で「望み(エルピス)」の派生語です。直接「望み」という言葉の意味説明はありませんが、その前後で語られている約束(特に一10のご計画)に対する態度として生み出される「望み」だと言えるでしょう。奥義の実現、御国をともに受け継ぐ、という望みです。

[7] キリスト教の倫理は、互いに愛し合うこと、隣人を自分のように愛すること、キリストが愛してくださったように愛し合うことに尽きるのですが、それも、一人一人が、立派な愛のある人になれと言われているのではなくて、神様の御心が共同体的なもの、一つとされることだからです。また、私たち一人一人が謙遜と柔和と寛容と愛を完備することによって、御霊の一致が生み出されるのではありませんし、私たちの愛や謙遜が足りないことで、御霊の一致が壊れてしまうのでもありません。神様の御心の奥義は、そんな脆く儚いものでは断じてありません。主の下さった豊かな召しが、私たちの傲慢や独り善がりを砕いて、私たちのうちに愛を育てるのです。

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ルカ20章19~26節「神のものは神に」

2015-01-01 21:37:52 | ルカ

2014/12/28 ルカ20章19~26節「神のものは神に」

 

 先週はクリスマス礼拝で、ルカの二章の冒頭から、皇帝アウグストゥスの勅令の中で、イエス・キリストが、お生まれになった出来事が起きたことからお話ししました。ローマ帝国を支配している皇帝(カイザル)と、飼葉桶にお生まれになったイエス様とは、喩えようもないような違いがありますが、しかしその飼葉桶こそ世界の主なる神の御業であり、この世の権力に対する挑戦があるのです。今日の「デナリ銀貨」にカイザルの肖像と銘が刻まれていたとあります。当時の日当として出回っていたデナリ銀貨には、「神なるアウグストゥスの子、ティベリウス、カイザル・アウグスト」と刻印され、裏には女神の姿に描かれた王母リビア像と「大祭司」の銘がありました[1]。皇帝は神の子を自称し、その母は大祭司と呼ばれている、そういう時代でした。

 ユダヤ人たちは、そのような状況の中で生きていました。ただ税金を納めるのが嫌だ、というだけの子どもじみた不満ではありません。異教徒のローマ帝国に税金を払わなければならないという屈辱がありました。彼らにとっては、像を彫ることは偶像崇拝でしたし、大祭司や神を名乗ることも、とんでもない冒涜でしかありません。そういう罪を平気で堂々とやってのけるローマの皇帝に、税金を納めなければならない現実は、大変な問題であったのです。

 しかし、この質問は、真剣に答を求めたからではありません。イエス様の言葉尻を捉えようとしたからに過ぎません。税金を納める必要はない、と言わせる事が出来れば、ローマ総督に「このナザレのイエスは、納税の拒否を唆している」と突き出すことが出来ます。逆に、「税金を納めることは良い」と答が返ってきたら、ローマを憎み、重税に喘いでいる民衆はイエス様に失望しきることでしょう。どちらに答えても窮地に陥ることになります。そういう難問を仕掛けて、律法学者、祭司長たちは、イエス様を追い詰めようとしたのです[2]

 これに対するイエス様の答が、カイザルの銘が刻まれたデナリ銀貨を示しての25節でした。

25すると彼らに言われた。「では、カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

26彼らは、民衆の前でイエスのことばじりをつかむことができず、お答えに驚嘆して黙ってしまった。

 難問で追い詰めたつもりの彼らは返す言葉が見つかりませんでした。イエス様のお言葉は、いくらローマが憎いと言っても、使っている貨幣がカイザルのものである以上、自分たちがローマ帝国の恩恵に肖(あやか)って生活している事実を浮き上がらせました。税金を納めることを拒否する権利があるかどうかを論ずる以前に、返すべきもの、相手のものであるという原則が示されました。しかし、何でもカイザルに従う、というのでもありません。カイザルのものはカイザルに、ですが、カイザルのものではないものは返さなくてよいのです。それ以上に、「神のものは神に」という、もっと大きな原理があります。神のものはカイザルに渡す必要はありませんから、偶像崇拝まで容認されたのではありません。いいえ、もっと言えば、カイザルもまた、神の大きな御支配の中に含まれているものだと位置づけられています。カイザルのものと神のもの、その二つを綺麗に色分けすることなど出来ません。全ては神様のものです。この答によって、イエス様は、非の打ち所のない答を示されました。

 勿論、彼らが返答に窮したのは、彼らの目的がイエス様の揚げ足を取ることにあったからです。結果としては、彼らはこの答を聞いてもまだ心を開くことをせず、ますます頑固になってしまうのです[3]。だからといって、そうやって相手を黙らせること、律法学者たちとの論争に勝つことがイエス様の目的ではなかったのですね。言い負かしてしまうために、上手い答をなさった、ということではありませんし、私たちもまた、イエス様のお答えに感心して終わってはなりません。この言葉に従って歩むことこそ、イエス様の願いであります。

 最初に申しましたように、イエス様はカイザルの勅令が世界を動かす時代にお生まれになりました。この時も、人々はカイザルに税金を納め、カイザルの像が刻まれたコインを使って生活していました。そういう中で、カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返す、という言葉は、本当に彼らの生活そのものに与えられた言葉でした。ルカが、この福音書に続けて記す「使徒の働き」では、パウロがユダヤからローマ帝国に出て宣教をしていく中で、「カイザル」という言葉がもっと頻繁に出て来ます[4]。教会の歩みにおいて、国家との関わりをどうしていくか、緊張も出て来るのです。そこでの原則は、イエス様が示されている通りです。

 …カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。

 キリスト者は無政府主義者ではありませんし、信者ではない政治家に対しても相当な敬意を払い、為政者のために祈り祝福するように言われています。税金を納め、国民としての義務を果たすことにやぶさかであってはなりません。為政者は、神が立てられた権威だ、という視点があるからです[5]。しかし、では権力や上司を何でも神の代弁者として崇めて従うかというとそうではありません。権力が、神のように道を外して、服従や礼拝を求めたり、正義に反して命を踏みにじったりする時、言い換えれば、「神のもの」まで要求してくる時には、従うのではなく抵抗するのです。そして、そのように、国家の権力が間違いうることを見抜いている故に、キリスト者が「非国民」と非難されることもある。実際、ここでイエス様は、納税を禁じたわけではないのに、この数日後に捕まって、ローマ総督ピラトの下に連れて行かれた時、

二三2…「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることが分かりました。」[6]

という罪状で訴えられます。いいえ、イエス様の宣教の最初、荒野の誘惑においても、国々の権力を見させられながら、サタンは自分に平伏すことを要求しました。イエス様は、神である主だけを拝み、主にだけ仕える、と答えられて、この誘惑の厳しさ、大きさを示されていました[7]。実際、初代教会の多くの人々が、皇帝礼拝を拒否したことで殉教するのです。礼拝は、人や国家に返すべきものでは決してなく、ただ神にのみ返すものなのです。

 この国や世界が、これからどう変わっていくのかは分かりません。権力はいつも、正しい振りをした巧妙な手段を使って、民衆を支配しよう、従わせようとするでしょう。他にも色々な場面で、私たちは恐れ、膝をかがめそうになります。しかし、イエス様の言葉は教えています。国家のものは国家に、神のものは神に返すべきだというだけではない。主は私たちに、神のものは、国家や何かが求めようとも、ただ神に返す歩みを下さる。私たちの生活において、神ならぬものを神とすることから解放してくださることも、神の、私たちに対する御心なのです。

 世界を治めたもう神は、私たちにとってただひとり信頼すべきお方です。この方への恐れを忘れて、嘘や企みを抱えて、権力の座に着いている世界に、イエス様はおいでになりました。この主が私たちに、ご自身への深い信頼と、神ならぬものを恐れない勇気とを下さるのです。

 

「主よ。この一年の歩みも、あなた様は一切を支配し、私たちを慰め、あらゆる苦難や罪さえも、益となるよう導いておられます。そう心から信じる幸いを、感謝いたします。私たちの見える所や思いを遥かに超えて大きな主の御手を仰ぐゆえに、あなた様以外のものを恐れ崇める誘惑から救い出してください。そのようにして、本当の王なるあなた様を証しさせてください」



[1] 山中雄一郎『ルカ福音書瞑想 下』聖恵授産所出版部、168ページ。

[2] そういう彼らの本心は、前回の喩えで言われていたように、主人からあずかったものを返そうとせず、横取りしようという態度でした。ですから、今日の箇所の「神のもの」とは、直接的には、前回の「ぶどう園の収穫の分け前」に当たります。一般的に「すべてのものは神のもの」ですが、ここでは特に、指導者たちが神の民を自分たちのものとしてしまおうとしていることを非難されているのです。

[3] 20節の「引き渡そう」は、九44、十八32など、今まで繰り返されてきた「人の子は異邦人に渡され」への第一歩です。予告されてきたことが、いよいよここで、祭司長たちの実行に移されだしました。そして、次は二二4、6です。

[4] マタイでは2回、マルコでは3回、ヨハネは2回なのに対して、ルカは福音書で6回、「使徒の働き」では9回、この言葉を使用しています。「使徒の働き」も、十七7、二五8、10、11、12、21、二六32、二七24、二八19、と後半に集中しています。

[5] ローマ十三1「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。2したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。…」など。

[6] このほか、ルカでは、二1、三1でカイザルが登場します。

[7] ルカ四5-8、参照。

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