2015/03/15 ウェストミンスター小教理問答39「神の御心に従う幸い」ミカ書六章8節
今日のタイトルは「神の御心に従う幸い」としました。ちょっと考えて欲しいと思ったのです。現代のほとんどの人は、「神様に従わなくても幸いだ。神様に従わなければいけないなんて、窮屈だ」と考えているのではないでしょうか。アメリカの統計では、教会に来ている人々でさえ、「誰でもその人が自分なりに正しく、誠実に生きていれば、どんな宗教を信じていても、幸せだ」と考えていることが多くなっているそうです。ですから、改めて、今日の言葉から、聖書の教えを確認しましょう。
問39 神が人間に求めておられる義務は、何ですか。
答 神が人間に求めておられる義務は、啓示された神の御心への従順です。
神様は、私たちが、神様が聖書においてハッキリと教えてくださっている神様の御心に従うことを求めておられます。自分なりに正しく、一生懸命生きていて、満足していれば、それで神様もニコニコしている、ということはありません。神様は、聖書において今も私たちに語っておられます。私たちに、本当になすべきこと、私たちが大切にしなければならないことを教えておられます。
ミカ六8主はあなたに告げられた。人よ。何が良いことなのか。主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか。
ここには、公義(正しいこと)を行うこと、それも誠実に(心から)愛をもって生きること、とともに、あなたの神様とともに歩むことを語っているのですね。今日のウェストミンスター小教理問答でも、神様が私たちに、従って欲しい御心があって、それをわざわざ私たちに啓示してくださっている、とあるでしょう? 神様は、私たちを愛しておられます。だから、私たちにも、神様の方を向いて、神様の愛に気づいて、神様の言葉に耳を傾けて、神様に喜んで従うことを望んでいらっしゃるのです。そういう関係こそが、私たちにとって一番大事なことなのですね。
私は、高校を卒業してから、親元を離れて、東京や北海道で生活をしていました。鳴門に来る前、一年、一緒に過ごしました。久しぶりに、毎日一緒に生活したのです。私の父も母も、すごく喜んでくれていました。鳴門に来てからも、二度、来てくれましたし、私も何度も横浜に帰るので、両親はとても喜んでくれます。これが、家に帰らず、顔を見せようともせず、手紙もメールも電話もしなかったらどうでしょうか。私がどんなに幸せで、立派な人になって、有名になっていたとしても、寂しいでしょう。話をしたり、顔を合わせたりしようともせずに、ただ、自分のやりたいように生きているだけなら、親不孝と言われます。
それでも、父も母も、私を嫌ったり怒ったりはしませんでした。久しぶりに帰った時には喜んで受け入れてくれました。神様もそうです。私たちが、神様から離れて、「親不孝」ならぬ「神不孝」で非難されるしかなかったのに、私たちが神様との関係を取り戻し、神の子として歩めるように、完全な救いを備えてくださいました。私たちがよい行いをしたら、ではなくて、ただただ神様が私たちを愛してくださり、イエス様がこの地上に来て、十字架にかかってくださり、よみがえってくださって、必要な犠牲を全部払ってくださいました。そして、聖霊なる神様がその救いを私たちに届けてくださって、必ず天の御国の家に迎え入れてくださるのです。それは、先週までお話しして来たことです。神様のすばらしい救いに、私たちは完全にお任せしていいのです。
でもそれは、今私たちがもう何もしなくていい、ということではないのですね。神様は、もともと人間を、神様の栄光を現し、神様を永遠に喜ぶ存在としてお造りになりました。ですから、私たちは、神様の恵みによって救われたからこそ、神様にますます心から信頼して、神様が語ってくださっている言葉に聞き、従って行くことが始まるのです。そして、そのように助け、励ましてくださるのも、神様の恵みなのです。
神様は私たちを本当に愛し、数え切れないほどの恵みを注いで、私たちを救って、導いていてくださるお方です。それが神様の御心ですから、それに従うこともまた、すばらしく、よいことであるに違いありません。世界にはたくさんの宗教がありますが、今、話題になっているテロリストたちは、自分たちが正しく他の人間は殺しても構わない、また、仲間の信者も命を犠牲にして何とも思わない、残酷な信仰を持っています。でも、たくさんの人たちが、本当に恵み深い神様の言葉に背を向けているために、残酷な考え、自分勝手な考え、狭くて、おかしな考えに取り憑かれているんじゃないでしょうか。徳島の福島橋のそばには「人柱」の記念碑があります。川に橋をかけるとき、自分たちが考えて、神様に人間を生け贄にささげたら、その橋を守ってくださるに違いない、と考えたのでしょう。大変な犠牲ですが、大変だからこそ、神様も聞き届けてくださるに違いない、と思ったのです。そんなお話しは世界にたくさんあります。
神様が聖書を啓示してくださったのは、そうした間違った思い込みから私たちを救ってくださるためでもあります。迷信とか、自分勝手な予想、TVやマンガみたいなお話しを信じている人が多いのです。そこでの神様はちっぽけだったり、怒りっぽかったり、ただ優しいだけだったり、ボンヤリしたお方です。けれども、神様は、聖書において語られている通り、本当に力強く、恵み深く、私たちを愛し、汚れを嫌い、私たちが愛と自由と責任をもってともに生きるようにと導かれるお方です。とんでもなく偉大であり、とんでもなく近くにおられ、想像できない程に私たちに関わっておられるお方です。
ですから、私たちの歩みは、神様とともに歩み、神様の声に聞きながら、その声に従う旅路なのです。ただ、正しい事をしなければならない、悪い事をしてはならない、というような味気ない歩みよりも、もっと温かく味わい深い道なのです。もちろん、神様の御心がすべて簡単ではないし、苦しいときや難しいときもあります。でも、それもまた、大切だからこそ言われているのです。野球のルールだって、厳しいからって、そのたびに変えていたらゲームにならないでしょう。また、アウトや反則は意地悪で決まっているのではなく、大事だからそういう決まりなのです。何よりも、イエス様こそは私たちに対する神様の御心そのものです。私たちのために十字架に掛かって、よみがえってくださったイエス様に、私たちも感謝して、信頼をもって従って行きましょう。