2015/05/17 ウェストミンスター小教理問答49-50「喜びにあふれた礼拝」 使徒の働き二章42~47節
夕拝を続けてきて、一年が経ちました。朝の礼拝とこの夕拝とはやり方を変えています。なるべく、分かりやすい言葉、親しみやすい音楽を使っています。でも、朝の礼拝も夕拝も、どちらもキリスト教の礼拝であることは変わりません。一番大切なところが違っているわけではありません。違和感のない言葉や音楽で、神を礼拝する。聖書のメッセージがより分かりやすく伝わって、福音に与り、神様と出会う。そういう礼拝でありたいと願っています。間違って、私たちの好みやアイデアだけで礼拝を変えたら、それは礼拝ではなくなってしまいます。神ご自身が、それを第二戒で禁じられたのです。
問49 第二戒は、どれですか。
答 第二戒は、「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」です。
問 第二戒では、何が求められていますか。
答 第二戒は、神が彼のことばにおいて定めておられるすべての宗教的礼拝と規定を受け入れ、実施し、純粋かつ完全に保つことを求めています。
前回まで見てきたように、第一戒では、本当の神である主以外の神を礼拝したり、自分の神としたりしてはならないことを教えられました。今日の第二戒では、本当の神を礼拝するにしても、その礼拝の仕方が、偶像を作ったり、自分の好ましい形を持ち込んだりした礼拝になってはいけませんよ。かえって、神が聖書において「定めておられる礼拝と規定を受け入れ、実施し、純粋かつ完全に保つことを求めています」よ、と教えています。聖書において、どのように神を礼拝すべきか、または、どのように神を礼拝してはならないか。その筋道が教えられています。それ以外の方法で神様を礼拝しようとするなら、それは「偶像」を持ち込むことになるのです。いくら「イエス様を礼拝していますよ」と言っても、自分なりの方法であったなら、それは自分が考え出した偶像を「イエス様」と呼んで礼拝しているに過ぎなくなるのです。
聖書が示している礼拝にはどんな要素があるでしょうか。それは、まず第一に、聖書そのものを読むことです。そして、その聖書の言葉を説き明かす説教。そして、イエス様が制定してくださった聖礼典(洗礼と主の聖晩餐)を執り行う礼拝です。そこに更に、讃美や罪の告白、祝福なども含めた祈りが加わります。これが聖書の礼拝の骨格です。
でも、これだけだと詰まらないからと、あれこれ加えたらどうでしょうか。みんなが楽しめるように、コンサート、映画をしてみたらどうでしょうか。お楽しみタイムを設けて、ゲーム、コンテスト、占い、買い物コーナーをしてみたらどうでしょうか。雰囲気を出すために、スモークを炊いたり、レーザー光線で視覚効果を出したりしたらもっと礼拝が盛り上がるのではないでしょうか??
いいえ、そういう雰囲気や「盛り上がり」は、聖書が定めている礼拝とは違います。ですから、人間の好みで礼拝にあれこれ持ち込んで、人間が「いやぁ~、今日の礼拝は楽しかった。盛り上がった」といくら思ったとしても、その時点で、神様を礼拝することを忘れた礼拝になってしまうのです。
とはいえ、私たちの礼拝には、聖書や説教、祈りだけではありません。他にもいろいろなものを持ち込んでいるのに気づきませんか。例えば、立ったり座ったりしますね。これはどうでしょうか。音楽・楽器もどうでしょう。讃美を歌いながら、手を叩いたり両手を上げたりダンスしたりする教会もあります。それから、礼拝には、報告や献金、生け花などもありますね。また、教会によっては、礼拝の中であいさつをする所もあります。欧米の教会では、握手やキスもします。食事をする、祝福式や任職式をする、それから、女性がかぶりものをする教会もあります。どうなのでしょう。
実は、こうしたものも、聖書に出て来る礼拝の姿なのです。聖書の中に、立ち上がりなさい、ひれ伏しなさい、弦楽器や打楽器や管楽器で主を讃えなさい、躍りなさい、互いにキスをしなさい、と言われています。また、イエスさまが説教の中で、花を見なさい、鳥を見なさい、喩えを聞きなさい、と様々な視覚教材を使っておられるのですね。ですから、こうしたものは、礼拝になくてはならないものではないけれど、礼拝の中で使ってよいもの、ということになります。
聖書の示している礼拝の仕方でなければいけない、偶像を持ち込んではならない、からといって、礼拝が堅苦しいものになるわけではありません。むしろ、聖書から知る礼拝は人間のお粗末な想像力よりも遥かに豊かでバラエティに富んでいます。順番もこうでなければならないというものではないし、自由です。立ち上がったり躍ったり、涙したり、一緒に歌いながら歩いたりする。それが、今日の聖書箇所にも描かれているような、生き生きとした礼拝の民の姿です。
使徒2:42そして、彼らは使徒たちの教えを堅く守り、交わりをし、パンを裂き、祈りをしていた。
43そして、一同の心に恐れが生じ、使徒たちによって多くの不思議としるしが行なわれた。
44信者となった者たちはみないっしょにいて、いっさいの物を共有にしていた。
45そして、資産や持ち物を売っては、それぞれの必要に応じて、みなに分配していた。
46そして毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにし、
47神を賛美し、すべての民に好意を持たれた。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださった。
でも勿論、私たちにただ、躍ったり、泣いたり、花を見たり、聖書を聞いていさえすればいい、と強制しているのではありませんね。そうした様々な形と切り離せないのが、私たちの心の奥深い喜びだったり、感動だったりするわけです。天地万物を作られた、唯一の本当の神を礼拝することは、私たちの心に大いなる恐れを生じさせるはずです。イエス・キリストが私たちのために十字架にかかり、よみがえってくださったという福音は、私たちの心に深い喜びと感謝を与えるはずです。聖霊が、私たちに悔い改めと信仰を与えてくださり、神の子どもとしてくださったのなら、私たちは罪と悩みの重荷をすべて下ろす、言いようのない感動へと導かれるはずです。それが礼拝の喜びです。
神を礼拝し、キリストの福音に与るために、聖書には大切なことがたくさん教えられています。人間のアイデアで盛り上げよう、というのではなく、様々な形を凝らしながら、神の恵みの福音に与る礼拝を守り、育てましょう。そういう礼拝によって、私たちは、ここから遣わされていくどこにあっても、雰囲気ではなくキリストとの交わりに生きることになります。信仰をもって、神を礼拝しながら歩むように私たちが変えられて行くのです。本当に純粋に神を礼拝することは、私たちを変える力と喜びがあります。