聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問51「へんな礼拝」 Ⅱテモテ四章1~4節

2015-05-24 20:17:31 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/05/24 ウェストミンスター小教理問答51「へんな礼拝」 Ⅱテモテ四章1~4節

 

 パウロは今こう言っていましたね。

Ⅱテモテ四3というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、

 4真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。

 ここで肝心な言葉は、「自分に都合の良いことを言ってもらうために」という言葉ではないでしょうか。これは、教会の中の話です。イエス様を信じて、世界の造り主である、主なる神を礼拝している人々の話です。他の宗教の話ではないのです。それなのに、その教会の中で、自分が聞きたい事だけを話してくれるような教師(牧師や説教者)を集めるようなことが起こる、というのです。ちゃんとした教えは、詰まらないからか、都合が悪いからか、そんな話よりも、もっと自分たちの好みにあった話をしてくれるような人たちがいい。そうして、真理から、人間が考えついた話に逸れていく。そういう時代が来るとパウロは言いました。

 前回から、十戒の第二戒を見ています。第二戒は、こうでした。

「あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」

 偶像を造ってはならない、というのです。真の神だけを拝みます、イエス様だけが私の礼拝する神です、と言いながら、そこに「偶像」を持ち込むことがあってはいけないのです。ウェストミンスター小教理問答では、こう言っています。

問51 第二戒では、何が禁じられていますか。

答 第二戒は、画像により、あるいは神のことばにおいて定められていない何か他の方法で、神を礼拝することを禁じています。

問52 第二戒に付け加えられている理由は、何ですか。

答 第二戒に付け加えられている理由は、私たちに対する神の主権、私たちに対する神の所有権、そしてご自身への礼拝に対して神が持っておられる熱情、です。

 「画像により」とあるのは、十戒で言っていた「偶像」が、特にウェストミンスター小教理問答の書かれた十七世紀の教会では、「画像(聖画・聖像)」が教会の中に持ち込まれていたことを背景にしています。イエス様の絵や、聖書の人物の銅像などが教会の中に立てられていました。そのためにお金をかけて、大きな絵や銅像が教会の中に置かれて、それがさも有り難いものであるかのようになっていました。

結局、その絵が崇められたり、その像にお金を投げたり、触ったら病気が治ったとか迷信が生まれたりしていったのですね。神様を礼拝するのに、そうした絵や見える形を持ち込むと、何もないよりも分かりやすいようだけど、それは神様やイエス様を礼拝するのではなくなってしまう。そういうことが意識されています。プロテスタントの教会が、会堂に聖画を飾り立てたり、十字架にイエス様をつけたりしないのは、そういう理由です。

 問52の

「第二戒に付け加えられている理由」

というのは、

「あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである」

の部分ですね。そして、ここには、

「私たちに対する神の主権、私たちに対する神の所有権、そしてご自身への礼拝に対して神が持っておられる熱情」

が込められています。私たちに命じたり禁じたりする主権、私たちは、自分も自分の子孫も幸いも禍も、すべて神様の手の中にある、神の所有権を認めます。そして、その私たちの礼拝に対しての強烈な「熱情」も見て取れますね。恵みを千代にまで施す、と仰いますが、千代って親子一世代が25年だとすると、何年でしょうか? そうです、二万五千年です! それだけの祝福を約束されているのです!

 それほど私たちを祝福したいと、熱情を持っていてくださるのに、私たちが、「こんな礼拝は詰まらないから、もっと聖画や像を持ち込んだら、分かりやすい礼拝になるんじゃないか」と思うのは、勿体ないことです。また、神様の仰ることの、都合の悪い部分ばかりを嫌がって、聞きたい話だけをしてくれる説教者を呼んで、真理に背いていくのも、本当に勿体ないことです。神様の大きさ、偉大さ、厳しいほどの恵みの深さを、勝手に曲げたり、いいとこ取りしたりしようとすることは間違っています。私たちは、神を自分サイズに合わせようとする間違いを犯してはいけません。都合の悪いことも含めて、神の仰ることを受け入れて従う時、私たちは、神が、私たちが願うよりももっと大きな神であることを認め、神を礼拝するのです。そして、その神が私たちを愛され、熱情をもって祝福しようとしてくださっていることも知るのです。

 大塚国際美術館に行けば、たくさんの聖画を見ることも出来ますね。思いもかけないような表現をする絵もたくさん見て、目が開かれる想いをします。そういう絵は、拝んだりしてはいけませんけれど、悪いことばかりではないでしょう。たくさんの絵から、神様に対するイメージが広がることはあるのです。けれども、大塚美術館だけでなく、世界中の名画を全部合わせたとしても、神様はそれよりも大きな方です。礼拝堂に飾りきれない、もっと豊かで大きな神です。

 そして、その神が、私たちを愛されています。私たちを限りなく恵まれます。私たちが、神を信じ切れず、色々なものに目移りしたり、恐れや不安を抱いたり、自分の都合で生きたりする貧しい生き方から、神を信じ、光の子どもとして歩んでほしいと願ってやまない神です。そのために、ひとり子イエス・キリストが、この世に来られて、十字架にかかりよみがえって、その救いを聖霊が私たちに届けて下さいました。その素晴らしい愛は、どんな絵でも描ききることは出来ません。むしろ、私たちの心に、神が生涯かけて、この恵みを描き出してくださるのです。目には見えませんが、見える形には収まらないほど大きく深い主を、礼拝していきましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ルカの福音書二二章14~20節「待ちわびていた晩餐」

2015-05-24 20:14:43 | ルカ

2015/05/24 ルカの福音書二二章14~20節「待ちわびていた晩餐」

 

 最後の晩餐を描いた名画は沢山あって、描き方はかなり違って特徴があります。テーブルの向こう側に一列に座っていたり、こちら側にも座ってテーブルを囲んでいたり、イエス様だけがこちら側に座っていたり。実際どうだったかよりも、それぞれに作者の意図、絵に込めたメッセージがあるのです。実際には、当時の過越の食事はテーブルも椅子も使わなかったようです。14節に「席に着いた」とあるのは、床に左肘をつき「寝椅子」というものに寄りかかって足を外に投げ出して、ご馳走を丸く囲んだ状態でした。その過越の食事で、イエス様がとても強い言葉で喜び、篤く語っておられることが目につきますね。

15イエスは言われた。「わたしは、苦しみを受ける前に、あなたがたといっしょに、この過越の食事をすることをどんなに望んでいたことか。

16あなたがたに言いますが、過越が神の国において成就するまでは、わたしはもはや二度と過越の食事をすることはありません。」

17そしてイエスは、杯を取り、感謝をささげて後、言われた。「これを取って、互いに分けて飲みなさい。

18あなたがたに言いますが、今から、神の国が来る時までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

 このように仰ってから、19節以下で「主の聖晩餐(聖餐式)の制定」と言われる言葉を教えられるわけです。17節と18節の「杯」は、15節16節と対をなす言葉です。イエス様はその杯を通してイエス様は、「今から神の国が来るまでは、もはやぶどうの実で造った物を飲むことはない」という特別な食事であることを教えられたのです。この時の杯は、「わたしの血」とは言われませんから、聖餐の杯が二回あるのではありません。19節のパンと20節の杯が、主の聖晩餐の制定なのです。けれども、その聖晩餐の前置きである部分の方が、長く諄(くど)い事にも気づかされますね。それも、同じようなことを二度も繰り返して、今晩の過越の食事がイエス様にとっては最後の過越の食事、杯となるのだ、と仰っているほどです。過越の祭りは、ユダヤ人が毎年必ず守っていた、大変重要な祭りです。それを、イエス様はもう二度と食べないと仰るのですから、実に驚くべき大胆な宣言でした。過越の祭りの終止明言をされたのです。そんなことをなぜ言えるのか。それが、次の「制定」の言葉で明らかにされるのですね。

19それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行いなさい。」

20食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

 過越の食事を指して、イエス様は「ご自分の体」と仰いました。過越の食事では、昔エジプトを出て来た時に、小羊を屠って、その血を家の玄関の鴨居と門柱に塗り、小羊を食べたのですが、その出来事を思い出すために、小羊と苦菜と種なしパンを食べることになっていたのですね。イエス様は、その食事を配りながら、「わたしが、あなたがたのために、このようにわたしを与え、体を裂かれる。そのことを覚えて、このパンを食べなさい」と仰いました。また、食事の後の杯でも、その杯に託して、「わたしはあなたがたのために血を流す。それは新しい契約である。それをこの杯が現している」と仰いました。過越の意味が新しくなったのです。

 この事には、旧約聖書の歴史で起きた、いくつもの大切な背景があります[1]。今すべてを説明すると時間が足りません。端折って言いますと、出エジプトの時に、動物の生け贄の血をもって結ばれた契約に代わる「新しい契約」を、イエス様は、ご自分のいのちをもって結ばれると言われたのです。だから、もう今までの古い契約の過越の食事が終わって、これからは、イエス様を記念する新しい契約の食事、主の聖晩餐を行って、イエス様を覚え続けるのです[2]

 イエス様は私たちにもご自分を与えてくださいました。そして今も私たちに、ご自分を与え続けて、主の聖晩餐の度(たび)に、このイエス様を覚えるようにと仰っています[3]。今日は聖霊降臨日ですが、まさに聖霊は、この「覚える・思い出させる」お方と言われ、私たちを愛するキリストを思い出させてくださる神です。新しい契約に入れられた喜びを与えてくださるのです[4]

 「契約」という言葉は堅苦しくて冷たい気がするかもしれませんが、神様は「古い契約から新しい契約」という大きな歴史を語ることで、私たちに、神のご計画が壮大で確実なものであること、神の愛がただの感傷ではないことを示しておられます[5]。そして、イエス様はその、恵みの現れである契約を主の晩餐の席で覚えさせながら、私たちが神の国でイエス様とともにお祝いを食べ、喜び楽しむ日を約束しておられます。その日まで、イエス様は食事をしない、ぶどうも食べないと言われます。なぜでしょうか。それは、私たちがいなくても先に食べてもいいや、とは思われないからですね。あなたがいなければ、食事は始めない。それほどに主イエスは私たちを、愛され、迎え入れて、ともに喜んでくださるのです。その主の愛を、いつでも覚えて歩みなさいと仰っています。この主のパンに養われることが、あなたがたが生きていく上で必要なのです。イエス様がこれまで語ってこられた喩えは、私たちをこの食事に与らせるために、イエス様は私たちを捜しに行かれる、という話でした[6]。ボロボロになって帰って来ても、走り寄って喜んで迎え入れて、大切な家畜を屠っても惜しまないという話でした[7]

 こんなに愛してくださっている方は他にはいません。私たちの普段の生活や社会、親子関係でさえ、無条件で愛し、喜ばれる、という関係はそうそうないものです。また私たち自身、人を気にせず、待てなくて、置いてけぼりにしてしまいます。だけど、神様はそうではありません。主イエスは、いのちをも惜しまずに、私たちを神の御国の食卓に着かせてくださいます[8]

 私たちは愛されている者として生きるのです。普段ぞんざいな扱いを受けて、どんなに邪険に扱われて怒ったり傷ついたりしても、神が私を愛されていることを知る故に、惨めにならない。そういう生き方になるのです。人からの扱いで一喜一憂し、自分の価値が下がったように思う、そんな振り回される生き方から自由になるのです。あなたの価値を決めるのは自分でも、親でも、誰でもありません。私たちを造られた主、私たちを愛される神です。また、私に何が出来るか、何をしてきたかが私たちの全てではありません。過去や現在や将来がどうあれ、私たちが最後には主の食卓に着き、永遠に神の子として生き生きと生きる。それが、私たちだと、イエス様は気づかせてくださるのです。自分を良く見せようとしなくてよいのです。自信が持てずに、罪や間違った方法で自分を幸せにしようなどと、もう欺く必要もありません。私たちの間違いも恐れも全部知った上で、主は私たちを愛し、主の聖晩餐や食事や様々な形で、淡々と、でも情熱をこめて、

「わたしを覚えなさい」

とご自身を差し出してくださっています。

 

「主よ。あなたが求めておられるのは、大きなことをすることでも立派な人生でもなく、あなたの限りない愛をいただいて生きることです。主の深い愛が、本当に壮大で、確実で、測り知れない御業と犠牲と忍耐を経て、私たちを捕らえている、恵みの契約であることを、何をも差し置いてでも受け止めていけますように。そうして、神の子、光の子として歩ませてください」



[1] たとえば「新しい契約」はエレミヤ書三一31を背景に、「血」による「契約」は出エジプト記一九章1~8節を背景にしています。

[2] これは聖書における大転換です。その新しい契約やキリストが来られること自体、旧約の中でずっと予告されていたことですが、イエス様は、その待ち望まれていた新しい時代を宣言されました。今日この過越の食事を区切りとして、ご自分の死によってそれをもたらすと仰ったのです。

[3] ただし、「あなたがたのために与える、わたしのからだです。」は、「あなたがたに代わって与える」なので、私たちに与える、ではなく、私たちの代わりに、神に与える、です。

[4] 「覚える」とは、ただの回想ではありません。その記憶の中に自分を見出すことです。主イエスの、惜しみない愛の中にあることを思い出せと言われます。神の長く壮大で、確かなご計画の中に、今ここに私たちがあることを噛みしめながら、歩みなさいと仰るのです。主の聖晩餐をとおして、イエスは、私たちのために血を流して、新しい契約となってくださったことを思い出させなさいます。勿論いつでも主の聖晩餐を感動して受けるばかりではないでしょう。むしろ、ほとんど形式的になることが多いかもしれません。けれども、主は私たちに、主の聖晩餐を通して、本当に私たちに、ご自分が肉を裂かれ血を流したことによって、新しい契約を成し遂げてくださったことを覚えさせたいのです。弟子たちがいくら鈍感で、分かっていなかろうと、イエスはご自分の十字架による、新しい契約を覚えさせたいのです。

[5] 私たちに対する神の愛、主イエスの深い慈しみは、私たちに、ただ感情論や知識として与えられるのではなく、もっと確かで現実的なものです。主の聖晩餐という儀式もそうです。

[6] ルカ十五4-10、十九9。

[7] ルカ十五11-32。またこの後も、二四章で復活後のお姿に見るように、イエス様は、疑い恐れて、とぼとぼと生きている者に近づいて、一緒に食事をしてくださいます。恐れて、閉じこもっていた弟子たちの所に入って来て、食べ物を食べてみせたお方です。

[8] この所には、神の国の成就として、共同体的な視点があります。その一つが、17節「互いに分けて」です。過越では、カップはそれぞれが一つずつ持っていました。しかし、イエスはあえて、一つから回し飲みさせられました。それは、この「新しい契約」が、一つ主のからだにあずかる共同体であることを強調するためです。ともに行うのが聖餐式であって、個人的ではありません。ここに神の国の共同体が、始まったのです。イエスの喜びを中心にして、すべてのものが招かれ、ともに祝い合う交わりです。それは、これまで、ルカの福音書に描かれてきたように、罪人や取税人も招かれる共同体であり、資格や条件を必要としない、ただ、キリストの尊い契約によって結ばれたことを信じる、新しい家族です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする