聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問70-72「結婚の尊さに気づくと」

2015-09-06 21:25:16 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/09/06 ウェストミンスター小教理問答70-72「結婚の尊さに気づくと」

 

 今日は、十戒の第七戒についてご一緒に主の御言葉に聞きましょう。

問70 第七戒は、どれですか。

答 第七戒は、「あなたは姦淫してはならない」です。

問71 第七戒で求められていることは、何ですか。

答 第七戒は、心と話と行動において、私たち自身と隣人の純潔を守ることを求めています。

問72 第七戒では、何が禁じられていますか。

答 第七戒は、あらゆる不純な思いとことばと行為を禁じています。

 「姦淫してはならない」。これについても、一度や二度では話しきれない、十回でも百回でもお話ししたいぐらい、豊かな事があります。そして、とてもとても大切なことがあります。でも、それ以外にもたくさん大事な事があるので、一度にまとめますが、つまり覚えておいてください。何度も何十回も話しても終わらないぐらい、聖書は、結婚や私たちの性について、大切な、深い、素晴らしい祝福として、強調して教えているということです。そして、それだけ大きな恵みを、人間が踏みつけてしまって、「姦淫」の罪を楽しんでいる事を、強く非難している、ということです。

ヘブル十三4結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい。寝床を汚してはいけません。なぜなら、神は不品行な者と姦淫を行う者とをさばかれるからです。

 まず覚えておいて欲しいのは、ここでは第一に「結婚がすべての人に尊ばれるようにしなさい」と言っているのだ、ということです。結婚を尊ばないで、結婚していない人と性的な関係を持ったり、結婚しているのに他の人と夫婦のような関係を持つことを、神が裁かれる汚れた行為だ、と言っているのです。この言葉を聞いて、「なんだ、堅いことをいうなぁ。古くさいことを言うなぁ。キリスト教では、セックスなんか考えちゃダメだっていうのか」などと言う人は多いでしょう。でもそれは全くの誤解です。

聖書は、結婚がすべての人に尊ばれるべき、大切な関係だと教えています。そして、その関係の中に、特別な祝福として、セックスがあり、それは恥ずかしがったり嫌がったりしてはならない、夫婦の義務だとさえ言っています。ですから、男性も女性も、性的に身体が成熟をしたり、反応をしたり、願ったりするのは、それ自体はちっとも罪ではないし、感謝すべきことなのです。それは、結婚して、夫婦で心も体も愛し合って生きていくための、大切な準備であり、そのように作られている、ということです。

 けれども、それは、結婚の中で与えられているものであって、結婚の外で、勝手に誰かと関係を持つことは許されていません。

 レストランで、注文した料理が出て来る前に、他の人の料理が運ばれてきたら、美味しそうに見えますね。自分のご飯じゃなくても、涎が出そうになり、お腹がググーっと鳴るのは、自然なことです。でも、だからといって他人のものを食べたらダメです。自分の料理が出て来るのを待っている必要があります。そして、運ばれてきたら、喜んで美味しくいただけばいいのです。結婚を尊んで、寝床を汚してはいけません、とはそれに似ています。性を否定的に考えるのではなく、それが本当に尊いと考えるからこそ、神様のルールから外れて、先にお楽しみだけしてしまおうという生き方で、台無しにしてしまうことが禁じられているのです。

 でも、こんなふうには考えない人が私たちの周りには圧倒的に多くいます。TVのドラマも漫画や映画も、みんな簡単に裸になったり抱き合ったりしています。それは聖書の時代、今から四千年も前からずっとそうでした。結婚なんかに縛られないで、自由に誰と何をしようと関係ないじゃないか、という考えが、神様から離れた人間の心なのです。そして、聖書には、不倫や売春、同性愛や強姦、たくさんの誘惑や失敗を赤裸々に書き上げながら、そうした生き方の暴力や悲惨を伝えています。そして、みんなが好き勝手に寝床を汚している中で、「姦淫してはならない」という命令を、神の御心として受け止めてきたのです。決して、今更、とか時代遅れ、ということではないのです。

 ただ、おかしな事に、今の時代は結婚が軽んじられているようで、逆に理想化されて偶像視されてもいます。

高い年収や学歴やルックスがあって、しかも優しくて自分を受け入れてくれる、ドラマにしか出て来ないような相手を求めて、なかなか結婚しない人が多い、とも言います。実は、これは、結婚を尊ぶの反対でしょう。結婚して、相手が失業したり、頭が禿げてお腹が出て来たり、思い描いたような結婚じゃなかったら「こんな結婚、しなければよかった」と思うならば、尊んでいないことになりませんか。

 ですから、結婚を尊ぶというのは、「結婚したら幸せになれる」と理想化することとは全く違うことです。むしろ、現実には、思いがけないこともある。自分の嫌なことだって見られる。二人で生きていくのはなかなか大変だし、他の人との方が上手くやっていけるように考えたくなることもあるけれども、それでも、神様が備えられた結婚の制度を大事にしよう、この関係を大切にして、心も体も重ね合っていこう。そうやって尊びながら生きていきなさい。そうしたときに、結婚の外で、好き勝手に関係を持ったり楽しんだりして、そのうち終わってしまうような関係では絶対に味わえない祝福を戴くことも出来る、ということですね。一つの言葉を紹介します。「愛が結婚を支えるのではない。結婚という制度が愛を支えるのである」(ディートリヒ・ボンヘファー)

 結婚は天国ではありません。私たちが本当に永遠に満たされるのは、格好いい人や口のうまい恋人とのラブラブな恋愛ではなく、十字架にかかるほどに私たちを愛されたイエス様だけです。

そのイエス様が、私たちにも「互いに愛し合いなさい」と愛や幸せを求める生き方ではなく、愛を与え合う生き方へと招いてくださいました。私たちの周りにはその反対の考え方が溢れています。幸福感や満足、スリルや興奮を得ることが幸せになる生き方だと言っています。そういう生き方で、身体も心もボロボロになっている人が本当に沢山いますね。そういう人でさえも、イエス様のもとに帰って来るなら、受け入れてもらえます。傷ついて、姦淫の前科があっても、イエス様は、立ち帰って、本当のイエス様の愛に戻って来るようにと、呼びかけてくださるのです。私たちもみんながやっている誘惑に流されないで、知恵や忍耐、勇気を戴きましょう。そういう悩みを通しても、私たちに与えられた体を大切にさせてくれる福音を深く味わいましょう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

申命記十二章1~12節「主の前で祝宴を張り」

2015-09-06 15:19:23 | 申命記

2015/09/06 申命記十二章1~12節「主の前で祝宴を張り」

 

 キリスト教の素晴らしさの特徴をひと言で言うなら、どんな言い方があるでしょうか。特に今日、覚えたいのは、キリスト教が「現実である」ということです。ただの思想とか道徳ではありませんし、知識や規則でもなくて、誰も否定しようのない事実だ、ということです。

 今日の所でモーセは、荒野を四十年旅してきたイスラエルの民が、いよいよカナンの地に入って行くに当たり、その地の異教の礼拝や偶像、宗教儀式に流されず、神である主だけを礼拝するように命じています。荒野を旅していた遊牧生活で、主は毎日彼らにご自身の栄光を現しておられました。雲や火の柱が立ち上り、幕屋では生贄の儀式が行われていました。朝、彼らの周りには「マナ」という食べ物が夜露が降りるように積み重なって、養ってくれていました。奇蹟や、頑なさへの天罰も体験してきたました[1]。そのような「荒削りの神体験」とでも言うような遊牧生活から、カナンの地に入り、定住生活に入ろうとしています。テントではなく家に住み、遊牧から畑を耕すことを生業(なりわい)とし、今までとは一変した生活に入ります。そこで、モーセは言うのです。先住民の宗教に身を寄せてはならない、これまでと変わらず、主を礼拝しなさい、と強く言っているのです。

 現代に言い換えると、私たちも、いつどこにあってもイエス・キリストだけを礼拝する、という事です。あらゆる意味で私たちは、神ならぬものを拝んではならず、みんながもてはやす御利益に心を寄せてはなりません。でも、それは道徳や命令ではないのです。神ならぬものを拝んだら神様が怒るとか、現実の世界ではそんな生き方は難しいと思っているとしたら、誤解があるのではないでしょうか。私たちが神だけを礼拝しなければならない、という私たちの側の行動に焦点が置かれてしまってはいないでしょうか。私たちが何かをする前にある現実をまず覚えましょう。聖書において語られているこの神が、この神だけが、本当の神として、世界を支配し、私たちの全生活を治め、私たちを愛し、養い、生きて働いておられるのです。そして、この神は本当に恵み深く、聖なる、力強い私たちの父です。そのシンプルな礼拝は7節に言い表されます。

 7その所であなたがたは家族の者とともに、あなたがたの神、主の前で祝宴を張り、あなたの神、主が祝福してくださったあなたがたのすべての手のわざを喜び楽しみなさい。

 主が祝福してくださった手の業、と言われますね。農作物の収穫や家畜、また与えられた家族、与えられた美味しい食べ物、そして、自分自身の健康やここに祝宴に来られたことを喜ぶのが礼拝なのです。それは、人間がささげ物や礼拝をしたから、人間の信仰心が及第点に与ったから与えられた報いではありません。また、2節でカナンの宗教の特徴が第一に、その祭壇や神殿の数の多さで現されているのとは対照的です。主は、主のために沢山のお宮を建てたり、立派な教会堂を建てて熱心な祈りや礼拝を捧げたりしたら、心を動かされて祝福してくださる、のでもありません[2]。神の恵みは、私たちの礼拝に先立って、そこに現実にあるのです。

 この神ではない宗教では、そうはいきません。その神々は、多くのささげ物や人よりも高く立派な祭壇で気を惹くことを喜ぶ神々であり、気まぐれな神です。人間はその神を礼拝するために、一生懸命犠牲を捧げます。神との駆け引きや取引を常にしています。そうしないと、神が愛想を尽かしたり、怒らせたりするという不安や恐れがあるのです。そして、様々なものを犠牲にして、神の気に入るようにしようとします。その犠牲の最たるものは何でしょうか。この十二章の最後にもう一度、カナンの地のやり方に真似てはならないと言われて、

31あなたの神、主に対して、このようにしてはならない。彼らは、主が憎むあらゆる忌みきらうべきことを、その神々に行い、自分たちの息子、娘を自分たちの神々のために、火で焼くことさえしたのである。

 わが子を生贄(いけにえ)にして、焼き殺した、というのです。恐ろしく残酷な儀式です。そうまでして、御利益を引き出せるというのは、どんな信仰なのだろうか、人間としてそこまで狂わせるのが宗教なのか、とゾッとします。主イエスは、そんな犠牲を求められはしません。人間の犠牲によって満足するような恐ろしい神ではなく、主イエスご自身が私たちのための犠牲となって十字架にいのちを捧げてくださった、本当に恵み深い神であられます。

 この神に背を向けている世界は、根本的な所で、恐れや不安に取り憑かれざるを得ません[3]。現代も狂信的な宗教団体はなくなっていません。そうした宗教を毛嫌いしていても、しかし、自分の幸せや充実感、存在感、価値をつかもうと、必死になって、様々な教えや流行に振り回されています。荒野の遊牧生活とカナンの地の農耕生活が違ったように、現代は現代でまた別の形を取っています。仕事の成功がすべてとする仕事崇拝、理想的な恋人や結婚で幸せになれると吹聴する恋愛教、楽をして自由に生きるのが一番という教理のレジャーの神、健康や美貌を崇め立て、お金が幸せの神だとする拝金主義も信仰されています。そして、そこで沢山の子どもたちが犠牲になっています。家庭が仕事の犠牲になるのは仕方がない、と考えられています。恋愛が自由になれば妊娠も中絶も増えます。また、大人の価値観の影響を受けて、友人と一緒に遊ぶよりも、どう遊んでよいか分からなかったり、競争相手でしかなかったりしてしまっています。もっと悪いのは、子どもを自分の神としてしまう「子ども教」で、親が子どもに自分の夢を押しつけたり、溺愛したりしてしまうことです。それもやはり自分の不安や拠り所を求めて、子どもを手段としているわけで、子どもを犠牲にし、潰してしまうことですね[4]

 そうした偽りの席巻する現代でも、私たちに告げられているのは、主イエス・キリストが、今この現代をも王として支配しておられるという福音です。私たちが何かをするより先に、主イエスは私たちを愛し、私たちを価値あるわが子として力強く導いておられます。不安や恐れを抱え、家族や周囲の人を犠牲にしてでも自分を守ろうとする、そんな偽りから救い出されて、永遠なる神のご計画の中に平安を経て、家族や周囲の人、貧しい人々とも共に主の前で、祝宴を張るような生き方へと、私たちが造り変えられていく。そういう約束を与えられています[5]

 主イエスがいのちを捧げてくださった愛は、私たちが、いつどこにあっても、私たちにとっての光であり現実です。こういう神を私たちは信じています。だから、主を礼拝するのです。偶像崇拝を何とかしないで生きる、という細々としたことではありません。私たちを深く愛しておられる神は、どんな時代やどんな状況にあっても変わりません。そして、この主が私たちを「一つの場所」に導かれます[6]。その主の導きを信じる私たちが、神を堂々と喜び、家族や周りの方々をも神の恵みの中に見て、批判や否定ではなく感謝や肯定をもって見るように、子どもたちを犠牲にも偶像にもせずにともに喜ぶように戸、主は励ましておられます。

 何よりも主が私たちよりも先に、この世界の回復をなさるのです。私たちの将来に、主が尊い場所、本当に幸いな祝宴の場所を用意しておられます。その現実へと、出て行きましょう。

 

「私たちに、感謝の祝宴を命じたもうあなたの御心を感謝します。あなたはこの世界を喜びと平和で満たしたいのに、人間は虚しくなり、争い、残酷になっています。でもあなたは、私たちが置かれた場で小さなことを喜ぶことから、いのちの現実を推し進めてくださいます。主イエスの十字架と復活の力が、この一週間にも私たちを通してその本領を発揮しますように」



[1] これらについては、申命記が一章から十一章までに語ってきたことです。

[2] つまり、神である主は、あちこちに人の数だけ神殿や祠を造ったら喜ぶようなお方ではないのです。人間は、誰かを崇めるときに、大きな銅像や記念碑を建ててご機嫌を伺おうとするものです。しかし神である主は、そうした大きなもの、沢山のお宮には関心がありません。

[3] 「宗教はどれでも同じ」「心から礼拝すれば信じる対象は何でも同じ」という立場をキリスト教は断じて取りません。生ける本当の神と、人間が考え出した架空の神との間には雲泥の差があります。その違いは、人間の側の努力次第では埋まりません。決して人間は、「恵みの神の福音」を作り出す事は出来ません。却って、間違った犠牲をもたらし、人間そのものを犠牲とするだけです。

[4] 荒野からカナンの地へ、という大変化で新たな展開が求められたように、現代もまた、現代における戦い、信仰のあり方を見抜き、流されることなく、唯一の真の神を礼拝する戦いを考え抜くことが課題です。しかし、それは難しい事であるだけではなく、福音に他なりません。時代そのものは流れて、変わっていくものです。少子高齢化、貧困、多様化…。私たち自身も、老い、病んでいきます。年を重ねれば自動的に成熟し落ち着くのではなく、新たな課題に脅かされ続けるのです。信仰とは、そうした中で「神様が何とかして下さる」という口上に逃げ込み、変化しないで済むことを当て込むことではありません。今ここでの新たな課題に、変化を恐れず柔軟に、最善を尽くして取り組むことで、神の栄光を現すことが、私たちの置かれている意味なのです。神を信じるのは「守られる」ためではなく、イエスがそうされたように、「与える」者、恐れぬ者、捧げる者とされていくためなのです。

[5] 私たちの家庭や職場、生活のすべての現場においても、イエス・キリストの神が神であられる、とはなかなか実感しがたいことかもしれません。ここでは、それぞれの場所で、十分の一や誓願のささげものを携えるよう命じられています。生活において、それぞれの場での感謝、当たり前のような収穫、営み、また、願い事を、主イエスの御手の中に受け止め、祈っていくことによって、私たちが、神の手を意識することが命じられているのです。私たちが気づき、認め、意識して覚えるために、祈り、感謝を捧げることによって、神がすべてを作り治めておられる神であることが、私たちの中に自然なものとして回復されていきます。

[6] 本章でたびたび言及される「主が選ばれる一つの場所」とは、後代の歴史から逆算するなら、エルサレム神殿のことに違いない、と思われやすいでしょうが、ここではそうは言われていません。McConvilleは、「この無名性こそが、エルサレムに限らない、申命記の持っている終末論的な視点」だとして最重要視しています(pp.231-232)。素晴らしい視点だと思います。更に言えば、8-9節の繋がりを言い換えると、神の与えて下さる「安住の地」は、私たちがおのおの自分の正しいことを何でもする(出来る)地ではなく、神が正しいと見られることをし、神への感謝と献身、喜び、互いへの分かち合いを祝う地である、ということにもなります。今は、カナンの地も、私たちの地も、そのような場ではありません。しかし、神が世界の創造主である以上、本来はここも(どこも)神の地であり、やがて終末においては完全に回復されると約束されている地なのです。その「創造から終末へ」という視点の中で、今私たちがここに生かされているのは、この本当の神を(主権者であり、礼拝に相応しい大いなる神であり、恵み豊かに私たちを満たし、私たちを変え、ご自身が犠牲を惜しまない神を)私たちも礼拝し、その神の栄光を現して、終末的な回復の先駆けとなるためです。この礼拝は、すべての人が平等です。神の前にあって、上下関係はないのです。世の宗教が、多くの寺社を建設し、そこに高額献金者の名を称賛するのとは違い、献金の額や社会的な身分、生まれ、職業によって差別されないのが主の契約の民のあり方です。しかし、この神から離れると、人の差別、上下関係、分断・敵対をももたらされていきます。しかし本章が示すのは、主の前に、家族も使用人も貧者もともに祝宴を張る、この喜びの礼拝の祝いにおいて、主が約束されていた祝福は成就し始めるのだ、という視点です。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする