聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問76-78「偽りからの解放」エペソ四14-15

2015-09-20 21:16:16 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/09/20 ウェストミンスター小教理問答76-78「偽りからの解放」エペソ四14-15

 

 嘘つき大会で優勝したのは、「私は今までで一度も嘘を吐いたことがありません」という「大嘘」だったそうですが、確かに今まで一度も嘘を言ったことがないという人はいないでしょう。そして、嘘を吐かれて悲しかった、という思いも、みんなが持っているはずです。嘘は人との関係を傷つけますし、神との関係も歪めてしまいます。

問76 第九戒は、どれですか。

答 第九戒は、「あなたの隣人に対し、偽りの証言をしてはならない」です。

問77 第九戒では、何が求められていますか。

答 第九戒は、人と人との間の真実と、私たち自身および隣人の名声を維持し、促進すること、―特に証言を行うに際して―を求めています。

問78 第九戒では、何が禁じられていますか。

答 第九戒は、真実をゆがめたり、あるいは、私たち自身や隣人の名声を傷つける一切のことを禁じています。

 ここで「特に証言を行うに際して」とありますが、ただ「嘘をついてはいけない」ではなくて、「あなたの隣人に対して、偽りの証言をしてはならない」という言い方は、裁判など正式な場所でのことを考えた言い方をしています。裁判の時に「嘘を言いません」と誓ったり、もし嘘を吐けば「偽証罪」という罪を犯したことになったりします。それだけ裁判での証言は、重いのですね。なぜなら、その嘘に基づいて、罪のない人が有罪になって一生が狂わされたり、罪のある人が無罪になってまた悪いことをしてしまったりして、正義がない滅茶滅茶なことになってしまってはならないからです。

 とはいえ、裁判でなければ嘘を言ってもいい、ということではありません。私たちが普段から話すことは、どれも何かしらの結果を生み出します。ちょっと意地悪で、遠回しに言った言葉が、人から人に伝わって、私たちについてのイメージを造り上げてしまったりするのです。ですから、私たちは、普段の会話から、嘘を吐かないこと、噂話をしないこと、無責任なことを言わないようにしなければなりません。

 けれども、正直なほうがいい、とはみんな分かっているでしょう。それでも、毎日の生活では、本当のことが言えない、言わない方がいいんじゃないかと思う事があるのです。「正直者が馬鹿を見る」という言い方のほうが賢いような気がするのです。何でもかんでも馬鹿正直に言っても損をするだけだ、誰も傷つけるわけじゃないからと言ったりするのです。そして、私たちが本当の事を言うのには、とても勇気が必要なのです。

 確かに、ケースバイケース、ということもありますが、今日のここでは、ただ正直であれ、と解説されていないことを心に留めましょう。嘘をつかない、ではなくて、「名声を守る」ということだ、というのですね。もちろん、嘘で守るような「名声」ではないです。神は真実なお方ですから、少しの偽りも憎まれます。また、神の光はすべてを真実の下に引き出します。隠れて行った盗みも、内緒で囁いた悪口も、すべてを神は見ておられます。私たちの心の中にある醜い妬みや嫌らしい考えも、残酷な妄想もすべてを、神はご存じです。もしそれを、全部私たちが見られたらどうでしょう。人の心の声や考えや、影でしていることを全部見たり聴けたりしたら、私たちは耐えられないでしょう。自分の考えやしていることが、全部みんなに見られるとしたら、とても恥ずかしくて生きていけませんね。そんなことは隠してごまかして、ないことにしましょうか。

 神は、その全てを見ておられます。全部ご存じです。嘘も、意地悪な考えも、腹立ち紛れにやったことも、うまく隠したと思っていることも、全部見ておられて、なお私たちを愛されています。嘘や悪い思いを捨てることを望まれるのも、私たちを愛しておられるからです。私たちが言ったりしたりしたことがどんなに酷いことで、穴があったら入りたい、恥ずかしすぎて死んでしまいたい、と思ったとしても、神は私たちに、もう穴に入っていなさい、死んでしまった方がいいね、とは言われません。私たちをなお愛されて、私たちが心も言葉も生き方も変えられて行くことをお考えなのです。心が愛で満たされ、語る言葉は真実になるように。それが神さまの願いなのであり、そのために、イエスは私たちのために十字架にかかって、私たちの贖いの業を果たしてくださいました。私たちに「嘘つき」とか「本当はダメな人」というような名前ではなく、神の子という良い名前、名声を下さるのです。この名声を、私たちも維持していくのです。

 ですから、正直になることを迷うときがあったら、こう考えてみましょう。これは、本当の意味で、神さまに喜ばれるでしょうか。神さまの下さった「神の子」としてどうすることが正しいでしょうか。もっと具体的には、自分のした間違いは、隠したりかばったりせず、認めて誤ったほうが絶対に良いです。けれども、言う必要のない相手に何でも話す必要はありません。また、もう解決している問題のこともほじくり返さないほうがいいこともあるでしょう。それでもやはり、大切な人との間には、隠し事はしないことです。なぜなら、私たちも、隠し事をされていると、本当に安心した信頼関係は決して持てませんね。正直に言ったら、確かに怒らせたり、気まずくなったり、問題になるかもしれません。でも、隠しておいて後からバレるほうが、お互いの関係に与えるダメージは大きいのです。そして、いつか必ずすべての事はバレます!

 今日の聖書の箇所で、パウロは言いました。

15むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。

 愛のない冷たい心で本当のことをズケズケいうのでもなくて、優しくしようと思う余り本当のことを胡麻化すのでもなく、愛をもって真理を語るようになっていく。それは、私たちの成長の大切な一面です。そして、それは私たちが聖書の御言葉を学び、知っていくことを通してなされます。なぜなら、神さまの言葉は何一つ嘘でも大袈裟でもなく、すべてが真実だからです。御言葉の約束は、天地が滅びても、永遠に果たされるほどのものです。私たちのすべての罪を赦し、私たちを神の子どもとして、素晴らしい名を与え、その名にふさわしくいつまでも扱ってくださいます。そして、嘘を嫌われ、ごまかしを望まれず、勇気をもって正直な告白をするときに、必ず祝福してくださるのです。そのお約束を疑わないためにも、私たちの中で嘘を育てず、真実を愛して行きましょう。

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ルカの福音書二三章8~12節「奇蹟を見たいと考えても」

2015-09-20 21:14:41 | ルカ

2015/09/20 ルカの福音書二三章8~12節「奇蹟を見たいと考えても」

 

 ヘロデ、という名前だけで、何となく「いかにも極悪人」のような気がするのは私だけではないでしょう。これは、クリスマスに登場する、二歳以下の男の子を皆殺しにしたあのヘロデ大王の息子、国主ヘロデ・アグリッパです。その名に反して立派ではない人で、今日の記事でも、ひどく傲慢で意地が悪く、性根まで腐ったというイメージを持ってしまいます。なにしろ、この人にイエスは何も仰いませんでした。ルカでは、イエスが誰かに話しかけられても何一つ応えなかった、というのは、このヘロデ以外にいません。他はみんな何かしらお答えをなさるのに、ヘロデにだけは何もお答えにならないのです。ヘロデの頑なさが偲ばれます。

 8ヘロデはイエスを見ると非常に喜んだ。ずっと前からイエスのことを聞いていたので、イエスに会いたいと思っていたし、イエスの行う何かの奇蹟を見たいと考えていたからである。

 ヘロデはイエスに会いたいと考えており、この時は「非常に喜んだ」のです。これはイエスが十字架にかけられようとしているその日の朝のことです。ユダヤ議会は、イエスの処刑を総督ピラトに訴えましたが、ピラトは責任を回避するため、祭りのために上京していたガリラヤ領主ヘロデに、ガリラヤ人イエスの処遇を盥回しにしようとしたのです。そうして、今イエスはヘロデの前に立っています。そして、ヘロデはイエスを見て、大変喜んだのです。歓迎ムードだったのです。どうでしょうか。この時、主イエスは、ヘロデの前で奇蹟を一つか二つやって見せてあげてもよかったのではないでしょうか。そうして、ご自分の無罪を訴え、説教をする手もあったのでしょう。十字架を免れることは論外としても、ご自分が、神の贖いの生贄として死ぬ事や、ヘロデにも悔い改めや信じて救われることを説き聞かせることも出来たでしょう。そのために、ちょっとヘロデの喜ぶ奇蹟をしてみせてもよかったのではないでしょうか。

 しかし、それは、主イエスの方法ではないのです。この時だけではありません。十一章16節や29節以下で、イエスに自分の出所を証明するような「天からのしるし」を見せるよう求める人々がいたことが記されています[1]。主イエスはそのような態度を「悪い時代」の証しとして非難されました。そして、イエスがなさる何か特別な奇蹟というよりも、イエスが来られ、教えておられるそのこと自体が与えられているしるしなのだと仰いました[2]

 イエスの奇蹟は、神の国のしるしでした。決して、ご自分が楽をするためや、周りの人たちの気を惹くために、パフォーマンスとして奇蹟をしたことはありません。それは、神の栄光の力であり、憐れみ深い神が訪れて、世界を癒やし、命を与えて豊かに養ってくださるしるしでした。人々を驚かせただけでなく、その人の信仰を根底から問い直し、価値観を新しくするものでした。全能の力と深い憐れみの神が、私たちに関わられ、信じて従う事を求めている、というメッセージでした。自分が王や神になって生きることをもう止めて、人生を神に明け渡すことを迫るものでした。イエスの奇蹟とは決して、ただの見世物や演出ではなかったのです。

 ヘロデがイエスにあって喜んで、奇蹟を見たいと考えたのは、それとは正反対の理由でした。自分は大きな椅子にふんぞり返ったまま、ショーでも楽しむようなつもりからでした。そして、

11ヘロデは、自分の兵士たちといっしょにイエスを侮辱したり嘲弄したりしたあげく、はでな衣を着せて、ピラトに送り返した。[3]

 ヘロデのやることはここでも力関係ですね。侮辱や嘲り、嫌がらせに派手な衣を着せる。そういう腹いせの仕方自体、ヘロデの考えが、人間を力や上下関係でしか見ていないからです。影響力とか称賛とか偉そうにすることが大好きで、侮辱や嫌みや惨めな思いをさせることで、イエスに「身の程を思い知らせてやった」つもりなのです。

 しかし、主イエスは派手な衣を着せられて傷つかれたのでしょうか。本当はスゴい奇蹟で鼻をへし折りたいのに、それをグッと堪(こら)えて、我慢されたのでしょうか。いいえ、私たちの主イエスは、ご自分から、神の御子としての栄光を脱ぎ捨てて、この世に来られ、貧しくお生まれになったお方です。有名になるとか、顔に泥を塗られたくないとか、誤解されたり馬鹿にされたりせず人に感銘を与えたいとか、そんな虚栄を一切求めず、ただご自分を差し出してくださったのです。ヘロデの挑発にも最後まで黙ったまま、何もお答えにならなかった事自体が、ヘロデの生き方に対する挑戦であり、力や上下関係がすべてとする考えへの大胆な否定でした。

 私たちはどうでしょう。「奇蹟を見たい、祈りに応えて欲しい、どんな事でも出来る神さまなんだから、少しぐらい自分の願いを叶えてくれたらいいのに…」。願うような神さまのパフォーマンスがないと、御言葉が何を教えているかに聞く気も失せてしまうことがあります。奇蹟の証ししている、神の国の現実を受け入れるよりも、目の前の出来事が変わってくれなければ、イエス様への評価もなんとなく低くしているのです。しかし、私たちが信じるのは、神の全能の御力です。主イエスが私たちを愛して、今も私たちに力強く働いておられることです。ヘロデや世間が喝采を送るような、アッと目を見張る奇蹟とは違います。無理が通ったり、私たちが楽をしたり、世間が注目したりするような神業でもありません。祈りや信仰の力で、派手な驚くべき出来事が起き、すべてがトントン拍子に丸く収まる、なんてチープな物語であってもなりません。主イエスは、私たちがそのような生き方に囚われることをよしとはなさいません。だから、そのような上面(うわつら)の考えや身勝手な人間の心を変えて、イエスのように、神に信頼し、侮辱されたり挑発されても、父の愛の中で生きる者に造り変える。そういう奇蹟です[4]

 12節に、ヘロデとピラトは敵対していたのが仲良くなったとあります。神に敵対したまま、損得で人と着いたり離れたりする上辺の関係でなく、神は私たちに決してなくならない絆を下さいます。神に敵対している人間のために、キリストはご自身を捧げてくださいました[5]。その御愛によって、私たちの心や考えを変える御業こそ、すばらしい奇蹟ではありませんか。自分でイエス様のように黙っているとか馬鹿にされても気にしなくなるのは、無理です。そうではなく、主の愛が私たちのうちに注がれて、私たちは心を打たれて、私たち自身徐々に変えられて行くのです。「神の力を示して見よ、奇蹟や癒やしやインパクトのあることをして神を証明して見せろ」という挑発は、私たちの外からも、私たちの内からも、絶えず聞こえます。今この世界に蔓延(はびこ)っているのは、神の力を試したり、無力な者を馬鹿にする考えです。しかし、本当の王であるキリストは、ご自分がまず惜しみない犠牲を払って私たちのためにすべてを捧げてくださいました。そうして主は、私たちを、すべての罪から清め、既に神の子としてくださいました。それを否定したり証拠を見せろと言われたりしても、動じる必要はありません。やがてすべてが新しくされる日が訪れます。今はその日に向けて、私たち自身の考えが大胆に変えられ、主イエスに倣って下へ下へと謙る生き方を愛するようにされている途中です。まだまだ不完全です。でも、その途上にある私たちの存在そのものが、神を証ししているのです。

 

「主よ。ヘロデの前から十字架の上に息絶えるまで多くの挑発を受けて、最後まで黙々と耐え忍ばれた主のお姿もまた、私たちのためでした。あなたには不可能はありません。困難を解決するだけでなく、困難を通して栄光を現されることも、その困難を尊く愛されることさえもです。どうぞ私たちの心をあなた様への信頼で満たして、語る勇気も黙る平安も与えてください」



[1] ルカ十一16「また、イエスをためそうとして、彼に天からのしるしを求める者もいた。」、29節以下「さて、群衆の数がふえてくると、イエスは話し始められた。「この時代は悪い時代です。しるしを求めているが、ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられません。30というのは、ヨナがニネベの人々のために、しるしとなったように、人の子がこの時代のために、しるしとなるからです。…32ニネベの人々が、さばきのときに、この時代の人々とともに立って、この人々を罪に定めます。なぜなら、ニネベの人々はヨナの説教で悔い改めたからです。しかし、見なさい。ここにヨナよりもまさった者がいるのです。」

[2] 「奇蹟」セーメイオンは、ルカでは九回使われています。二12(布に包まって飼葉桶に寝かされているキリスト)、二34(イスラエルの人々が反対を受けるしるし)、十一16(イエスをためそうとして、天からのしるしを求める者もいた)、29-30(悪い時代は、しるしを求める。しかし、ヨナのしるしだけが与えられる)、二一7(世の終わりの前兆はどんなことが起きるのでしょうか。11、25節)

[3] ヘロデはなぜイエスを直接侮辱罪で殺さなかったのでしょうか。洗礼者ヨハネのように、首をはねてもよかったではないでしょうか。それをしなかったのは、彼の心に殺したヨハネや、イエスの力に対する恐れが残っていたからか、ピラトに面倒なことは押しつけてやろうというイタズラ心なのでしょうか。いずれにせよ、ヘロデでさえも、イエスに処刑するだけの理由があるとは思わなかったのは確かでしょう。

[4] ヘロデとピラトの友情(フィロス、仲間)は敵対関係からの変化でした。しかし、またいつ敵対に戻るか分からない、政治的な和合にすぎません。いずれにせよ、彼らにとって、イエスのいのちはさほど関心ではなかった、ということです。ピラトはヘロデにイエスのことを決めて欲しかったが、ヘロデはそれについては何もしません。ヘロデに言わせると、この問題はピラトの職掌であることは明らかでした。それでもピラトはヘロデを恨まず和合しました。両者に共通しているのは、祭司長や律法学者たちに煩わされた、というだけですが、それでも彼らはここで和解を得た、というのです。イエスのことなど彼らには些細なことでした。そのような、いのちを軽視した和合の罪を、ルカは使徒の働きで問いただします。四27「事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油をそそがれた、あなたの聖なるしもべイエスに逆らってこの都に集まり、28あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行いました。」

[5] ローマ五8「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」、五10「もし敵であった私たちが、ミ子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。」

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