聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問87「罪から神への悔い改め」Ⅱコリント七章10節

2015-11-03 14:00:34 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/01 ウェストミンスター小教理問答87「罪から神への悔い改め」Ⅱコリント七章10節

 

 今日は「悔い改め」について、素晴らしいお話しをします。と言ったら、オカシイでしょうか?「悔い改め」というと、とても重くて、堅いイメージがあるからでしょうか。自分の罪を認めて、ゴメンナサイと言わなければならない、思い出したくもない恥ずかしい罪をもう一度思い出さなければならない。神さまが、私たちの罪を責め、怒っておられると言われる気がするからでしょうか。

 そう考えると、先の聖書の言葉も面白いことを言っていましたね。

Ⅱコリント七10神のみこころに添った悲しみは、悔いのない、救いに至る悔い改めを生じさせますが、世の悲しみは死をもたらします。

 「悔いのない、救いに至る悔い改め」って、何でしょうか。悔い改めには「悔い」はない。それが、聖書が言い、私たちが求められている「悔い改め」なのです。「後悔」「罪悪感」と、「命に至る悔い改め」とは同じではありません。全く別のことです。

問87 命に至る悔い改めとは、何ですか。

答 命に至る悔い改めとは、それによって罪人が、自分の罪を真に自覚し、キリストにおける神のあわれみを悟り、自分の罪を悲しみ、憎みつつ、新しい従順への十分な決意と努力をもって、罪から神に立ち返る、そのような、救いに導く恵みの賜物です。

 

 ■「自分の罪を真に自覚し」の後に、「キリストにおける神のあわれみを悟り」とありますね。「神の怒り」ではありません。神が罪に怒るから、私たちが「悔い改める」のでは、「後悔」のような暗く、嫌なことになります。けれども、「キリストにおける神のあわれみを悟り」とは暗く嫌なことでしょうか。いいえ、罪を自覚しただけでなく、それを怒る以上に、キリストにおいて神があわれみを示してくださったことを覚えるなら、私たちは喜びがもたらされます。罪の自覚だけだったら、私たちはその重さに耐えきれずに、潰れてしまうでしょう。先のⅡコリント七10でも、■

Ⅱコリント七10…世の悲しみは死をもたらします。

と言われていました。自分がしてしまったことを元に戻すことは出来ません。多くの人を傷つけて、取り返しがつかない、と絶望して、重いうつ病になったり、自分のいのちを断ったりしてしまう人はたくさんいます。それは、「いのちに至る悔い改め」とは違う「世の悲しみ」です。キリストにある神の憐れみを知らない「後悔」です。私たちに求められているのはそんな「後悔」ではありません。キリストにある神の憐れみ、私たちの罪を赦し、どんな罪を犯しても私たちを愛し、わたしに帰って来なさい、と招いてくださる神の憐れみに動かされての「悔い改め」なのです。そうです、悔い改めとはただ「罪を悔いる」以上に、罪から神へと向き直ることです。■

 新約聖書の書かれたギリシャ語では、「悔い改める」とは「メタノエオー」と言いますが、これは「方向転換をする、向きを変える」という事です。回れ右をする、生き方を罪から一八〇度変えて、神に向かって生きる、ということです。ある牧師さんは間違って、「生き方を三六〇度変えるのです」と言ったそうですが、一八〇度の間違いですね。三六〇度なら、また元に戻ってしまいます。でも、私たちが神に背を向けて、罪を犯す生き方から、神に向かって生きるようになるとき、確かに、私たちの周りの世界は、三六〇度全て、新しく変わって見えるようになるのです。「新しい従順」という生き方が始まります。

 私たちの心には、自分の罪を認めたくない思いがあります。自分は正しいと思っていたいのです。なかなかゴメンナサイを言うのは難しいし、ゴメンナサイと言いながらも言い訳や理由を並べたりしてしまいます。罪を認める事は恥ずかしくて、何とかして、罪を認めないで、神にも大目に見てもらおうと考えます。でも、もし私たちが罪を認めないなら、私のためにキリストが来て十字架にかかって死んでくださったという神の憐れみも見えなくなります。赦しを受け取ることも出来ません。ですから、ここではこの「悔い改め」も、神の恵みの賜物だと言われていますね。

聖書でそれは、

使徒十一28…神は、いのちに至る悔い改めを異邦人にもお与えになったのだ。

などとハッキリ教えられています。自分の罪を認めることも、神の恵みのプレゼントです。そうでなければ、私たちは罪を認めたくないまま、いつまでも意地を張り続けるでしょう。自分は善人な方だ、と思いたがるでしょう。けれども、過ちを通して私たちは素直になり、自分の非を心から謙遜に認めて、神さまに帰って行けば良いのです。

 勿論、本当に悪くもなかったことでもとにかく謝らなければならない訳ではありません。時々、真面目すぎるクリスチャンが神さまの憐れみよりも怒りを強調します。「あなたがたは悔い改めが足りない」と決めつけて、罪悪感を植え付けて「悔い改めなさい」と言い過ぎることがあります。そして、それを聞いた人も真面目だと、よく分からないまま、赦されない罪がないように洗いざらい自分の思い出せること全てをゴメンナサイと懺悔する、ということがあります。でもそれは、「恵み」ではありません。悔い改めは、神の憐れみを悟ることによるのです。嘘やごまかし、意地悪や汚れた行いを捨てることも必要です。でも、そういう具体的な罪の悔い改めの根っこには、嘘や盗みや不倫など間違った罪深い方法で、幸せを手に入れられると信じている間違いから、本当に私たちを愛し、永遠の幸いを下さる神を信じる生き方への方向転換があるのです。

 自分は罪を犯していないから悔い改めはいらない。そういうクリスチャンになったら立派でしょうか。いいえ、そうではありません。「悔い改めも要りません、自分は立派になりました、そんな風に言えるようになりたい」というのはとても勘違いした傲慢です。そんな風な思いを喜ぶのはサタンだけでしょう。むしろ私たちが、いつでも神さまに背を向けてしまいやすいこと、本当に自分が恵みの神を必要としていることを心に深く覚えて、絶えず神に立ち返るようになることが、キリスト者の成熟の証しなのです。

イザヤ五七15わたしは、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。

 こう言って下さる神さまだから、私たちはいつも、悔い改めた明るい心で歩むのです。

 

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