2015/11/08 ウェストミンスター小教理問答88「恵みをいただく三つの方法」
今読みました、マタイ二八章の言葉は、マタイの福音書の最後の言葉です。十字架の死からよみがえられたキリストが、弟子たちに与えられた最後の大命令です。
マタイ二八19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。
イエスは、弟子たちに、あらゆる国の人々をイエスの弟子とするために、出て行きなさいと言われました。そして、バプテスマを授け、イエスが弟子たちに命じられたすべてのことを守るように教えなさい、と言われました。勿論、弟子たちも私たちもどこの誰でも、イエスの命令を守ることによって救われるわけではありませんし、誰一人として、自分の力や努力で、イエスの命令を守ることは出来ません。それでも、イエスが弟子たちに命じられたことを教会は教え、守らせるようにと強く言われています。これは、イエスが教会に与えてくださった、新しい生き方、イエスの弟子としての歩みです。
問88 贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分かち与えられる外的手段は、何ですか。
答 贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分かち与えられる外的な、通常の手段は、キリストの諸規定、特に、みことばと聖礼典と祈りで、これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます。
キリストは、私たちが神の贖いによって、様々な益をいただきながら歩むために「外的な、通常の手段」を下さっています。それが
「キリストの諸規定」
と言われて、特に
「みことばと聖礼典と祈り」
の三つだと言われます。「みことば(聖書、また、その説教)と聖礼典(バプテスマ・洗礼と主の聖晩餐)と祈り」。この三つの大切さを、今日は覚えたいと思います。次から、ではみことばはどのように救いに有効な手段となりますか、聖礼典とは何ですか、祈りとは何で、どう祈れば良いですか、という内容になっていきます。一つ一つについての細かいお話しはまた来週以降に回します。今日は、こういう三つの「外的な、通常の手段」を神が与えてくださった、その事を覚えましょう。覚えるだけでなく、実際の私たちの生活の中で、使っていきましょう。なぜなら、私たちに与えられているみことば、聖礼典、祈りは、本当に素晴らしい方法だからです。私たちを恵みたいと願ってやまない神が定めてくださった手段だからです。
神が私たちに求めておられるのは、信仰と悔い改めです。決して、何かの儀式とか行為ではありません。そこである人たちはこう言います。「自分達には信仰がある。信仰は、神様と私たちの直接の関係だ。聖霊が働いて下されば、聖書さえなくても、人は信仰を持って救われるんだ。だから、聖礼典なんて必要じゃない」と言います。それから案外、「私はお祈りが苦手だから余りしていないけれど、それでも神様がお恵みを下さると思っています」というクリスチャンは多いです。でも、それは勿体ないことです。「信仰が成長したら聖書や祈りが苦手じゃなくなる」ではないのですね。
その逆です。聖霊は、祈りやみことばを下さり、私たちはそれを通して贖いの益を戴き成長していくのです。元気になったらご飯を食べよう、病気が治ったら医者に行こう、というなら勘違いですね。元気になるためにご飯を食べ、病気を治すために医者に行きます。祈りや聖書は、信仰の立派な人のものではありません。信仰が弱ければ、だからこそ、聖書を読む必要があります。意識して、いつも祈るようにする事が、一番の安全策なのです。
確かに、信仰は神と私たちの関係です。
聖霊が働いて、信仰や悔い改めという恵みを下さいます。そして、聖霊は自由に働かれます。聖書以外の方法-交わり、読書やテレビ、自然、芸術-色々なものを用いて、いいえ、時にはダイレクトに心に働かれ、自由に信仰や悔い改めを起こしてくださいます。ですから、洗礼を受けなくても救われる人はいるでしょうし、聖餐に与れなくても信仰を養われていることはあるでしょう。しかし、「信仰と悔い改めが心にあれば、見えるものなんかいらない」。本当にそうでしょうか。
「スポーツが好きでさえあれば、きっと上手になる、普通の練習なんか役に立たない」と怠けていたら、上手になるでしょうか。基本の素振りとか空手の型とか、当たり前のことをちゃんとやっているから、毎回の試合でも、ちゃんと戦えるようになっていくのですね。
私自身、若い頃、聖書を読むのが面倒臭く思いました。神様が直接声を聴かせて下さったり、夢にでも現れて下さったほうがいいのになぁ、と真剣に思っていました。それで、信仰のスランプのようになっていたら、先輩から「聖書読んでる?」と言われて、ハッとして、聖書をまた読み始めました。すると、不思議にすぐ心が明るくなっていきました。ホントにこれは基本なのですね。
人間は、心と身体で出来ています。心の中と、外側の手段を切り離すことは出来ないのです。心における信仰の関係が、身体の行動や感覚によって支えられる必要があるのです。神は私たちがそういうものだということを知っておられます。だから、最善の方法として、普通に出来る恵みの手がかりを下さっています。それを毎日忠実に続けること、そうして信仰と悔い改めに心を向けていく事を約束してくださっています。
勿論、形ばかりで心がないのも困ります。恵みの手段は手段であって、信仰と悔い改めに代わるわけではありません。聖書さえ読んでいれば信仰が完璧になるわけでもありません。聖礼典に与れば与るほど、祈れば祈るほど、恵みに満ちるわけでもありません。信仰と悔い改めがなければ、いくら聖書を暗記し、聖礼典や祈りに欠かさず与る生活をしても、虚しいでしょう。ですから、ここでも「外的な、通常の手段」と言っているのです。手段と目的をはき違えないようにしましょう。
神は私たちに、キリストへの信仰と悔い改めを支えるために、みことばと聖礼典と祈りを下さいました。私たちの生活や人生全体が新しくされるために、見える手がかりを三つも下さいました。これ以外の方法でも、聖霊は自由に豊かに働いておられますが、私たちが熱心に大事にすべき基本はここです。もっと手っ取り早いもの、もっとドキドキワクワクするもの、奇蹟とか幻とか、そういうものに走ると、私たちの心はどんどん渇いていきます。主が下さった三つの方法は私たちをつなぎ止めてくれるのです。