聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問88「恵みをいただく三つの方法」

2015-11-12 19:11:30 | ウェストミンスター小教理問答講解

2015/11/08 ウェストミンスター小教理問答88「恵みをいただく三つの方法」

 

 今読みました、マタイ二八章の言葉は、マタイの福音書の最後の言葉です。十字架の死からよみがえられたキリストが、弟子たちに与えられた最後の大命令です。

マタイ二八19それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、

20また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

 イエスは、弟子たちに、あらゆる国の人々をイエスの弟子とするために、出て行きなさいと言われました。そして、バプテスマを授け、イエスが弟子たちに命じられたすべてのことを守るように教えなさい、と言われました。勿論、弟子たちも私たちもどこの誰でも、イエスの命令を守ることによって救われるわけではありませんし、誰一人として、自分の力や努力で、イエスの命令を守ることは出来ません。それでも、イエスが弟子たちに命じられたことを教会は教え、守らせるようにと強く言われています。これは、イエスが教会に与えてくださった、新しい生き方、イエスの弟子としての歩みです。

問88 贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分かち与えられる外的手段は、何ですか。

答 贖いに伴うさまざまな益をキリストが私たちに分かち与えられる外的な、通常の手段は、キリストの諸規定、特に、みことばと聖礼典と祈りで、これらすべてが、選びの民にとって救いのために有効とされます。

 キリストは、私たちが神の贖いによって、様々な益をいただきながら歩むために「外的な、通常の手段」を下さっています。それが

「キリストの諸規定」

と言われて、特に

「みことばと聖礼典と祈り」

の三つだと言われます。「みことば(聖書、また、その説教)と聖礼典(バプテスマ・洗礼と主の聖晩餐)と祈り」。この三つの大切さを、今日は覚えたいと思います。次から、ではみことばはどのように救いに有効な手段となりますか、聖礼典とは何ですか、祈りとは何で、どう祈れば良いですか、という内容になっていきます。一つ一つについての細かいお話しはまた来週以降に回します。今日は、こういう三つの「外的な、通常の手段」を神が与えてくださった、その事を覚えましょう。覚えるだけでなく、実際の私たちの生活の中で、使っていきましょう。なぜなら、私たちに与えられているみことば、聖礼典、祈りは、本当に素晴らしい方法だからです。私たちを恵みたいと願ってやまない神が定めてくださった手段だからです。

 神が私たちに求めておられるのは、信仰と悔い改めです。決して、何かの儀式とか行為ではありません。そこである人たちはこう言います。「自分達には信仰がある。信仰は、神様と私たちの直接の関係だ。聖霊が働いて下されば、聖書さえなくても、人は信仰を持って救われるんだ。だから、聖礼典なんて必要じゃない」と言います。それから案外、「私はお祈りが苦手だから余りしていないけれど、それでも神様がお恵みを下さると思っています」というクリスチャンは多いです。でも、それは勿体ないことです。「信仰が成長したら聖書や祈りが苦手じゃなくなる」ではないのですね。

 

 その逆です。聖霊は、祈りやみことばを下さり、私たちはそれを通して贖いの益を戴き成長していくのです。元気になったらご飯を食べよう、病気が治ったら医者に行こう、というなら勘違いですね。元気になるためにご飯を食べ、病気を治すために医者に行きます。祈りや聖書は、信仰の立派な人のものではありません。信仰が弱ければ、だからこそ、聖書を読む必要があります。意識して、いつも祈るようにする事が、一番の安全策なのです。

 確かに、信仰は神と私たちの関係です。

 

聖霊が働いて、信仰や悔い改めという恵みを下さいます。そして、聖霊は自由に働かれます。聖書以外の方法-交わり、読書やテレビ、自然、芸術-色々なものを用いて、いいえ、時にはダイレクトに心に働かれ、自由に信仰や悔い改めを起こしてくださいます。ですから、洗礼を受けなくても救われる人はいるでしょうし、聖餐に与れなくても信仰を養われていることはあるでしょう。しかし、「信仰と悔い改めが心にあれば、見えるものなんかいらない」。本当にそうでしょうか。

 「スポーツが好きでさえあれば、きっと上手になる、普通の練習なんか役に立たない」と怠けていたら、上手になるでしょうか。基本の素振りとか空手の型とか、当たり前のことをちゃんとやっているから、毎回の試合でも、ちゃんと戦えるようになっていくのですね。

 私自身、若い頃、聖書を読むのが面倒臭く思いました。神様が直接声を聴かせて下さったり、夢にでも現れて下さったほうがいいのになぁ、と真剣に思っていました。それで、信仰のスランプのようになっていたら、先輩から「聖書読んでる?」と言われて、ハッとして、聖書をまた読み始めました。すると、不思議にすぐ心が明るくなっていきました。ホントにこれは基本なのですね。

 人間は、心と身体で出来ています。心の中と、外側の手段を切り離すことは出来ないのです。心における信仰の関係が、身体の行動や感覚によって支えられる必要があるのです。神は私たちがそういうものだということを知っておられます。だから、最善の方法として、普通に出来る恵みの手がかりを下さっています。それを毎日忠実に続けること、そうして信仰と悔い改めに心を向けていく事を約束してくださっています。

 勿論、形ばかりで心がないのも困ります。恵みの手段は手段であって、信仰と悔い改めに代わるわけではありません。聖書さえ読んでいれば信仰が完璧になるわけでもありません。聖礼典に与れば与るほど、祈れば祈るほど、恵みに満ちるわけでもありません。信仰と悔い改めがなければ、いくら聖書を暗記し、聖礼典や祈りに欠かさず与る生活をしても、虚しいでしょう。ですから、ここでも「外的な、通常の手段」と言っているのです。手段と目的をはき違えないようにしましょう。

 神は私たちに、キリストへの信仰と悔い改めを支えるために、みことばと聖礼典と祈りを下さいました。私たちの生活や人生全体が新しくされるために、見える手がかりを三つも下さいました。これ以外の方法でも、聖霊は自由に豊かに働いておられますが、私たちが熱心に大事にすべき基本はここです。もっと手っ取り早いもの、もっとドキドキワクワクするもの、奇蹟とか幻とか、そういうものに走ると、私たちの心はどんどん渇いていきます。主が下さった三つの方法は私たちをつなぎ止めてくれるのです。

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ルカ二三章32~38節「無力な神」

2015-11-12 19:09:48 | ルカ

2015/11/08 ルカ二三章32~38節「無力な神」

 

 教会のシンボルは十字架です。キリストが磔にされた十字架を、教会は屋根の天辺(てっぺん)や礼拝堂の真正面に高く掲げます。シンボルにするとどうしても、それを輝かせたり、大きくしたり、高々と、美しく、豪華なものにするようになります。実際の、イエスの十字架を描く絵画でも、長く厳粛な十字架が、丘の上に目立って三つ並んでいるものが多く描かれてきました。一世紀当時、十字架の高さもそんなに高くはなかったようです。見上げるような十字架ではなく、つま先は地上からせいぜい30cmぐらいしか離れていなかった。私が講壇の上から見おろしているよりも、もっと低い所で、主イエスは十字架の苦しみと恥とを味わわれたのです。それは一層屈辱的で、囚人にとっては居たたまれなかったのではないでしょうか。ルカの福音書をご一緒に読んできて、今日の箇所で、ついにイエスはそういう十字架につけられました。

33「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。

 十字架という処刑が、どれほど苦しく残酷で、身震いするようなものか、想像してみてください。イエスは手足をこの木に釘付けにされ、恐らくロープで腕を支えられただけで、地面に看板のように立てられ、放っておかれたのです。痛みの極限でも、ゆっくり衰弱するだけで、多くの囚人が発狂したのだそうです。本当に残酷な十字架の苦しみでした。その事もまた、私たちは決して忘れてはなりません。苦しみや惨たらしさと、私たちキリスト者の人生が無縁であるかのように考えてしまうなら、キリストの十字架をただの飾りにしてしまうのです。

 けれども同時に、ここでのルカの書き方を見ても分かりますように、どれだけイエスが痛くて苦しい思いをされたか、ということよりも、そのイエスを嘲り侮辱する、人間の態度に目を向けましょう。人々は犯罪人たちの真ん中に首謀者のように並べました。彼らは、苦しむイエスよりもイエスの着物に興味を持っています[1]。民衆は、イエスの味方であったはずなのに今は「ながめていた」だけです[2]。民の指導者たちが「自分を救え」と嘲笑いました。兵士たちも、酸いぶどう酒を差し出してからかいながら、

「ユダヤ人の王なら、自分を救え」

と言っていました。そして、次の39節でも、イエスの横で十字架につけられていた犯罪人でさえ、同じようにイエスに悪態をついています。十字架の激痛や苦悶よりも、この人々の憎悪むき出しの態度に、目眩(めまい)がしないでしょうか。指導者たちは、自分達の特権を脅かすイエスの人気に嫉妬して、遂にイエスを抹殺することに成功したのですから、嘲り放題です。兵士はよくイエスを余り知らないでしょうに、弱い者イジメを楽しんでいるのでしょうか。民衆にしたら、「イエスへの期待が裏切られた、ガッカリだ」という思いだったのでしょう。失望や嫉妬、弱い者に対する軽蔑、様々な理由が混じり合っています。理由はともかく、彼らは一様にイエスを白い目で見つめ、笑い、蔑んでいます。十字架の苦しみだけでも想像を絶するのに、そのイエスに同情したり励ましたりしようとしない。かえって、そんな無力なイエスに愛想を尽かし、見限り、唾を吐いています。惨めな思いをしながら死んでしまえと、心までズタズタにしています。私たちに染みついている、残酷で身勝手な思いです。弱者や気にくわない者、邪魔な者を排除しようとする、人間の醜さが露わになっています。他人事ではありません。私たちは、いじめや虐待、民族の虐殺、戦争に通じる狂気を抱えているのです。

 そのような中で、イエスは何も仰いません。神の子であったイエスは、もし自分を救おうと思えば降りて来ることは出来ました。こんな苦しみを止めて、それも嘲る人々のために苦しむことなんぞ馬鹿馬鹿しいと止めることも出来たのです。イエスは、本当に神の子だったのですから。人々は、イエスが無力に十字架の上で、虫けらのように苦しみ藻(も)掻(が)いているのを見て、嘲笑いました。お前が神の子であるはずがないではないか、神の愛だ、神を信じろと言っても、今お前は苦しんでいるだけで何も出来ないではないか、と冒涜しました。

 しかし、その無力に見えるイエスこそは、実は、神の子でした。人間には理解も真似も出来ない神の全能の力は、ひとり子イエスがこの世に来られ、人間として私たちと同じようになるということに現されたのでした。そして、十字架の耐えがたい苦しみをも、神の力で逃げることをせず、最後まで味わい尽くされました。人々の罵りや挑発に心までズタズタになりながらも、なおその十字架に留まられました。つまり、キリストが一人の人間として無力になりきることによって、私たちと本当に一つになってくださったのです。罪という障害物を取り除いて、私たちと神とを結びつける架け橋となってくださったのです。十字架は、敗北や神の無力さの証拠ではなくて、その時にこそキリストの救いの御業は着実に全うされていたのです。私たちを取り戻すために、ご自分を捧げきっておられました。神が何もしておられないように見えても、神はもっと大切な神のご計画を-人の目には見えない大切な御業を-必ず推し進めておられます。それを簡潔に語っているのが、この最初に語られたイエスの言葉です。

34そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」…[3]

  赦してください、と祈られました。ご自分を十字架に釘打ち、見捨てて、苦しみを見て笑う彼らを、何をしているか分からないでいるのだから、赦してくださいと祈られました。身勝手な憎しみで心を焼き焦がしている彼らのために、赦しを祈られました。狂気に駆られて「自分を救え」と叫ぶ声に、「何をしているか自分で分からないのだ」と赦しを願われました。主イエスの力は、その力を振りかざし、人を捕らえ、正義を振りかざす力としてではなく、憎しみや暴力や狂気に対してさえ、徹底して赦し、自分を与え抜くという力でした。

 この主イエスの十字架をしるしとするのが教会です。それは、高々と格好良く掲げるのではなく、本当に私たちと同じ目線に降りて、そこに留まられ、赦しへと私たちを招いてくださるお方の十字架です。イエスには、私たちの苦しみや恥や惨めさを一気に解決することもお茶の子さいさいです。でも、十字架から降りずに、人の罪を負われ、赦しを示し、自分のいのちを与えられたのです。私たちの状況を変える以上に、神は私たちの心を変えるお方です。憎しみや狂気や不満や妬みから、赦しに生きるよう変えてくださいます[4]。神の力で、苦しみや問題が解決して、すごい奇蹟で幸せになれると期待するのでしょうか。

 十字架が示すのは、神の力は、苦しみや無力さの中で働いているという希望です。主イエスは私たちを赦しと和解へと導かれています。痛みのない自分の幸いではなく、ともに歩むことです。それは、私たちの力では出来ません。ただ主イエスの力が、私たちをそう導くのです。その十字架の御業を押し頂きましょう。今も、何をしているか分からないまま自分達の正しさを振りかざし、暴力によって取り返しのつかない出来事が私たちの周りで起きています。神を信じて何になるのかと言われるこの世界で、なお私たちが力強く生きる道が、主の十字架に豊かに示されています。

 

「主よ。目には見えないあなたが今も生きて働き、すべてのものを一つとする完成に向けて働いておられることを感謝します。それが見えない事もあり信じられない時もあります。しかし、主の十字架こそ、真っ暗闇で無力にしか思えなかった長い時間でした。どうぞ、今も私たちを導き、恥や反対にもめげない愛と赦しを与えてください。あなたこそ私たちの真実な王です」



[1] 「着物」 八44では、長血の女が触れて癒されたのと同じイエスの着物です。しかし、今彼らはそれを手にしても、何も癒されません。御力にあずかることを願ってさえいません。まさに、何をしているのか分からない、でいるのです。

[2] この箇所の描写が、詩篇二二篇を意識したものであるなら、「6しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。7私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。8「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」は、「見る」ことも嘲る側の行為とされています。「17私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。18彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。」にも「ながめる」行為が出て来ます。

[3] 写本によってはこの34節を欠いているものもあります。それも、初期の有力な写本で、欠いているのです。そこで、この節は後代の追加だろうとする人もいます。しかし、概ねの意見としては、初代教会でもこれがイエスの言葉として伝えられていることからしても、もともとルカのここにあったのだろうと考えられています。だとするとなぜ削除したのでしょうか。それは、やはり赦しがたい人々が赦されることが、教会の写字生にとっても受け入れがたいからだったからでしょう。また、ここで赦されていたなら、七〇年のエルサレム陥落は起きなかったはずだ、と考えたことも想像できます。教会にとっても、主の赦しの限りなさは、受け入れがたく思えるほどなのです。

[4] ルカは、この「赦し」を強調しています。五20(寝たきりで運ばれてきた男に)、21、23、24、七47(不品行な女に)、48、49、十一4(主の祈り)、十二10(赦されない罪について)、十七3、4(七度の七十倍赦せ)。原語のアフィエーミは三十三回使われるが、「放っておく」などの他の意味もありますので、「罪の赦し」の意味では十一回です。

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