聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問101「とにかく御名があがめられ」詩67篇

2016-01-03 15:20:43 | ウェストミンスター小教理問答講解

2016/01/03 ウェストミンスター小教理問答101「とにかく御名があがめられ」詩67篇

 

 主の祈りにはいくつの願いがあるか、分かりますか。6つです。では、あなたが6つの願いを願うとしたら、どんなことを願うでしょうか。3つでもよいですが、どんな願いを考えるでしょうか。イエスは私たちに、6つの願いを祈るように教えてくださいましたが、それは、私たちが考える願い事とは、どれほど違うかを考えてみてください。でも、イエスはそれこそが、私たちの願いとして挙げられることなのだよ、と教えてくださったのですね。今日は、最初の願いについてお話しします。

問101 第一の祈願で私たちは何を祈り求めるのですか。

答 第一の祈願、すなわち「御名があがめられますように」で私たちは、神が、ご自身を知らせるのにお用いになるすべてのことにおいて、私たちと他の人々が、神に栄光を帰すことができるようにしてくださるように、また、神が万事をご自身の栄光のために整えてくださるように、と祈ります。

 「御名があがめられますように」。

 御名とは「天にいます私たちの父・あなたのお名前」です。あなたのお名前が「あがめられますように」。これは

「聖とするHallowed」

という意味です。聖holinessとは、神の本質的な属性です。完全であること、一切の汚れや私利私欲がない、正しさと恵みに純粋に満ちておられるご性質です。それは、何によっても傷つけられず、強く、タフな真実さです。それは、神の本質を言い表しているもので、神は「聖なる神」と呼ばれ、神の御使いたちは「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな」と神を永遠に誉め称えていると描かれている通りです。

 そして、神の「御名」とは、神ご自身を現すものです。ただのニックネームとか呼び名ではなくて、神そのものを現しますし、「神」と言うのが恐れ多いために、代わりに「神の御名」と言うこともあるような尊いものなのです。確かに、「神よ、あなたが崇められますように」というよりも「御名があがめられますように」の方が、気持ち的に言いやすいかもしれません。いずれにしても、神の御名もまた、聖なる御名です。

 ではなぜ「御名があがめられますように(聖とされますように)」などと言うのでしょうか。最初から御名はもう聖なのではないのでしょうか。そうです。問題は、それなのに、その御名が聖とされていないことにあります。大いなる素晴らしい神、恵みと誠に満ちておられる、無限に聖なる神がおられ、この世界はその神によって、神の栄光を現すために造られたのに、どうでしょうか? 人間は、神なんか知らないと思っています。神を小さく、弱くしたり、勝手で人間と同じようにいい加減だったりケチであるかのように考えています。何よりも、人間が、六つの願いを挙げてご覧と言われても、健康だ美味しいものだお金だ今度一番になれますように、色々な願いはあるかも知れませんが、「神の御名があがめられますように」だなんて願いは思い浮かばないでしょうし、そう言われても、ピンと来ないぐらい、神の御名に、ふさわしい賛美や尊敬を持っていないではありませんか。

 だから私たちは、第一に

「御名があがめられますように」

と祈るのです。宇宙を造られた神が貶められているのに、私たちが自分のちっぽけな願望に取り憑かれているとしたら、乗っている船が沈みかねない事故に遭いそうなのに、クイズの答で悩んでいるようなものです。まずは、事故の回避に努めるべきでしょう。まずは、神の御名があがめられることを祈り、願う時、そこから、世界の歯車が噛み合いだして、やがては、自分の立ち位置もちゃんと収まってくる、というものです。

 私たちは神のことよりも、自分の事が気になるものです。自分の名誉とか、有名になるとか、名誉毀損だとか、汚名返上したいとか。私も数年前、そんな事で頭がいっぱいになっていました。誤解されたくない、言い訳したい、抗議したい、自分のことが一番でした。でも、この「主の祈り」を繰り返すうちに、自分の思いが、スーッと落ち着きました。

 「主よ、私の名前ではなく、あなたのお名前が崇められますように。あなたのお名前さえあがめられれば、私の名前が今どんなに誤解されたり卑しめられたりしても、何でもありません。あなたは大いなるお方です。私にとって、あなたは、本当に恵み深く真実で、正しく、真実でいてくださいます。私も、あなたの御名をあがめます。そして、みんなもあなたの御名をあがめるようにしてください。あなたの偉大さに気づき、あなたの聖なる御名を賛美しますように。」

 そのように祈るようになります。でも、いつのまにかまた、自分のことや、目に見えること、周りのことに、心が奪われてしまうのですけれども、その度に、「主の祈り」を通して、軌道修正をしてもらっています。

 他の祈りを祈るにしてもそうです。誰かが病気や事故に遭って、入院したら、その回復を祈ります。不登校や引きこもりになった、事業が難しくなった、そう聴けば、その問題が回復するようにと祈ります。けれども、もう少し長い時間をかけると、病気になったことがその人の進路を決めることもありますね。心が苦しかった時を通して、本当に大切なものに気づくことは沢山あります。事業が潰れて、新しい、もっと大切な仕事を始めるようになることもあります。そういうことを考えると、ただ病気になりませんように、奇蹟が起きて、問題が解決しますように、という願いが叶えばいいとも思えません。長いスパンで、本当に何が最善なのかは、私たちには分からないのです。病気の癒やしを真剣に祈りつつも、でも、最後の死は誰も避けることは出来ません。どう祈れば良いのか、分からなくなってしまいます。でもそういうときも、この祈りは祈れます。

「天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように」。

 今の苦しい状況が、どうなることが最善なのかは私たちには分かりませんが、しかし、いずれにしても、とにかく、この状況を通して、あなたの御名が崇められますように。ここに、あなたが聖なる方であることを現してくださいますように。みんなが、「本当にイエスは真実なお方だ」と、何らかの意味で、心から称えるようになりますように。この事を通して、このことの中に、とにかく御名があがめられるように、お願いします。こういう祈りに最終的には落ち着くのです。そんな祈りをよくします。そして、神は本当に聖なる、あがめられるべきお方です。私たちの生きる現実のただ中に働いて、御名の聖さを必ず現してくださる。イエスの御霊が私たちの心に働いて、私たちに御名を崇める心をも下さると信じて、祈りでも生活でも、これを第一の願いとして行きましょう。

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申命記十五章1~11節「手を開いて生きる」

2016-01-03 15:18:37 | 申命記

2016/01/03 申命記十五章1~11節「手を開いて生きる」

 

 申命記は、イスラエルの民が、エジプトの奴隷生活から救い出されて、今ようやく約束の地に入ろうとするにあたって、モーセがイスラエルの民に対して、これから始まる新しい生活について説教をした、遺言の書です。新年に当たって相応しい、とも言いたいのですが、申命記を話し続けて、毎月取り上げてやっと十五章ですから、そんなこじつけはしないことにします。ですが、この十五章を今朝ご一緒に聴くことが出来ることを心から幸いだと思います。

 読まれましたように、申命記十五章の1節から6節には、七年ごとの

「負債の免除」

のことが書かれていました。7節から11節には、貧しい同胞に対して、必要なものを貸し与えることが命じられています。免除の年が近づいたから、「貸しても返してもらえないかもしれない」と思って惜しんではならない、必要なものは物惜しみせずに貸し与えなさい、と言われるのです。これが、モーセを通して、イスラエルの民に命じられた新しい生活の青写真でした[1]

 では何でも気前よく求められるままに何でもジャンジャカ与えて、返って来なくても気にしないのが聖書の考えなのか、というとそれは誤解です。ここで言われているのも、貧しい者に必要なものを貸すことです。誰にでも求められたら惜しみなく与えることではありません。親や人の脛(すね)齧(かじ)りが奨励されるわけでも、集(たか)りや詐欺も七年目には赦されるわけではありません。嘘で騙(だま)すことは、厳罰に処せられたのです。一人一人が、誠実に働き、自分の出来る仕事をすることが大前提です。「返します」と言って借りた物は、七年目の免除の年が来る前に努力して返すことが当然求められたのです。
 去年、研修で訪ねた教会では、酷い貧困地域に入り込んで活動をしていました。それはただ施して、気前よくするのではない活動でした。働いても大した収入はないので、生活保護をもらって何にもせずに暮らすのが当たり前になっている地域に入り、働くことの意味、自分自身の価値、人と共に働き助け合う人生の素晴らしさをじっくり教えていく、実際的な働きでした。その反対に、ただ施し、甘やかし、気前よくすることは、決して人を助けることにはならないし、聖書が言っている意味での愛でもありません。

 しかし、そうやってシッカリ生きていこうとしていても、それでも、色々な事情で貧しくなったり、借金が返せなくなったりすることは現実にあるのです。11節の言葉はリアルですね。

11貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」

 貧しい者が国のうちから絶えることはない。神が約束された新しい地に入るのです。祝福を信じて入るのです。けれども、人間が為す営みである以上、貧しくなる場合もある。必要に事欠く生活になる場合もある。人から借りなければならない。貸さなければならない。そしてそれを返せると思って、騙すつもりはなくて借りたのに、返せないまま七年目を迎えることだってあり得るのだ。その場合には、免除してやりなさい、と言われているのです。

 これは今から三千五百年ほど昔に、イスラエルの民に語られた言葉です。時代も文化も違います。杓子定規には今に当てはまりません。しかし、根本的な呼びかけは変わりません。私たちは今日も「主の祈り」を祈りました。「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦したまえ」と祈りました。今日の申命記十五章と同じ言葉です[2]。「私たちに負い目(負債、借金)のある人たちを赦し(免除し)ました」というのです。神からの罪の赦し(免除)を戴き、私たちも人の借金を免除して生きる。それが聖書の民に与えられている心なのです[3]

 重ねて言いますが、それは何でも大目に見るとか、悪事を不問に伏す、人の甘えを赦し、好きなようにさせて気にしない、ということでは全くありません。しかし、正しく生きようとしても生きられない、人に返せないほどの負債を抱えてしまうことがあるのが人間社会です。神を信じて、自分の人生をお任せして、キリスト者として生きていても、様々な不運や失業、病気などを避けることは出来ません。そういう私たちに対して、今日の所で言われています。

 2…主が免除を布告しておられる。

15あなたは、エジプトの地で奴隷であったあなたを、あなたの神、主が贖い出されたことを覚えていなさい。それゆえ、私は、きょう、この戒めをあなたに命じる。

 主が私たちの負債を免除してくださいました。神の側で、犠牲を払って、私たちを奴隷生活から救い出し、ご自身のものとしてくださいました。そういう赦しを戴いた私たちだから、私たちもまた、人を免除し、困窮している人の身になって、惜しみない生き方をするようにと求められているのです。ただ神が過去に私たちを赦して下さっただけではありません。今も、私たちは神に対して、日々赦してもらいながら受け入れて戴いています。これからもずっと、神が私たちに免除を布告してくださって、永遠に神の愛を戴いて歩ませて戴けると約束を戴いています。だから私たちもそれに応えて、今ここで、人を赦し、返せない負債を免除し、健全な意味で気前のよい生き方を求められています。これは道徳ではなく、恵みによる解放です[4]

 「キリスト教は再出発の宗教です」

と言った人がいます。イエス・キリストの福音は、すべての人に、罪赦されて、神の子として歩み出す、再出発を与えてくれます。どんな過去を背負っていても再出発できない人はいないというのが、キリストの福音です。過去の責任は負わなければなりませんし、過去の問題を改め、手放さなければ再出発とはなりません。無責任な生き方をやめて、神から自分に与えられた人生をシッカリ生きる「再出発」なのです。しかしそこでも、どんな失敗や挫折があっても、神が再び立ち上がらせてくださるのです。ゴールに向けて歩めるよう、希望と力を下さるのです。私たち自身が立ち上がれなくなっても、キリストが私たちの所に来て、負(お)ぶってでもゴールさせてくださるのです。だから私たちもお互いにそのような歩みを励まし、具体的に少しでも実践するのです。

 そのような生き方を示す表現が、

「あなたの手を開く」(8節、11節)

です。心の未練が手を閉ざさせる、と言われていますが[5]、人は心を閉ざすと、手も人に見せなくなります[6]。掌(てのひら)を隠し、拳(こぶし)を握りしめている力んだ心を、神はその恵みによって開いてくださいます[7]。神はエジプトからイスラエルの民を救ったように、イエス・キリストをこの世に送り、十字架にかけてくださいました。キリストは、その手を私たちに差し出して、その手を十字架に釘付けにされるために差し出すほどに私たちを愛して、完全で永遠の赦しを与えてくださいました。その手が、痛みを知る手が、立ち上がれない私たちを立ち上がらせてくれます。人を赦し、過去に囚われないなんて難しいことです。しかしその痛みも知るキリストが私たちに、完全な赦しを既に宣言されたのです。私たちはこれからも必ず何度も躓きますが、その度に主が立ち上がらせてくださいます。だから、私たちはこの具体的な愛に励まされて立ち上がり、互いに赦し合い、助け合う、そういう歩みを、この年も大切に戴いていきましょう。

 

「新年最初の礼拝に、もう一度あなたの免除と再出発の宣言を聞かせてくださり、ありがとうございます。そして、私たちもその赦しに導かれて、今ここで憐れみに満ちた生き方へと心も手も向けさせて下さい。貧困や憎しみ、自分自身の後悔、様々な柵(しがらみ)がある人生だからこそ、あなたが何度でも新しく踏み出させて下さる憐れみに励まされ、手を開いて歩ませてください」



[1] 古代中近東では、社会的権力者(貴族、祭司、土地所有者、軍幹部)らに特権・優位が与えられていました。これを考えると、貧者・社会的弱者を重視し、その必要を優先する聖書の法典は、特殊であると言えます。

[2] シェミッターは、申命記で4回(十五1、2、9、三一10)出て来るだけのヘブル語です。ギリシャ語訳旧約聖書(LXX)ではアフェシスが訳語に当てられます。これは、罪の赦し、負い目の赦しを指し、新約で多用される用語です。新改訳の「私たちの負い目をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました」でも、同じ言葉が使われています。

[3] 他にも、新約においてはⅠヨハネ三17、Ⅱコリント九7(6~8)、マタイ五43-48、ルカ十四12-14。旧約では、イザヤ五八6、アモス二6、ミカ二8-9、三1-4、イザヤ五8、箴言二二22。

[4] なんと恵みに満ちた言葉か。これを「律法」と見るよりも、「恵み」「あわれみ」と読まなければ、おかしいではないか。旧約の律法は、激しい恵みに貫かれているのだ。

[5] 10節。また、7節「心を閉じてはならない」の「閉じる」はエメツ(頑なにする)で「手を閉じてはならない」の「閉じる」はカファツ(閉じる)で、原語では別の動詞です。

[6] 心理学でも、手を閉じる、間に物を置く行為は、嘘や心的距離感の無意識の防衛行動です。

[7] 主が「御手を開かれる」という表現は、旧約に2回出て来ます。詩篇一〇四28「あなたがお与えになると、彼らは集め、あなたが御手を開かれると、彼らは良いもので満ち足ります。」、一四五16「あなたは御手を開き、すべての生けるものの願いを満たされます」。

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