聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問17-8「神の弱さは人より強い」 Ⅰコリント1章22-25節

2016-06-05 17:18:13 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2016/06/05 ハイデルベルク信仰問答17-8「神の弱さは人より強い」 Ⅰコリント1章22-25節

 

 クリスチャンジョークをひとつ。乗客を乗せた船が航海中に難破してしまいました。乗客たちは海に飛び込んで助けを待っていました。ひとりの熱心なクリスチャンがいました。「神様、あなたが助けを送って下さることを信じて、待っています。どうか私たちを助けてください」。するとそこに海難救助船がやって来て、「さあ、これに捕まりなさい」と汚い浮き輪を出しました。すると彼は「私は神が助けてくださると信じていますから結構です。他の人を助けてやってください。」そこにもう少し大きな船がやってきてボロボロのボートを下ろしました。「さあ、こっちにどうぞ。」彼はまた「いいえ、神が助けてくださいますから、他の人をどうぞ」。そこにヘリコプターがやって来ました。でもヘリコプターが怖かった彼は「神が助けて下さるから、大丈夫です」。そのうち彼は溺れて死んでしまいました。死んだ彼は神に文句を言いました。「どうして助けてくださらなかったのですか。私は信じて待っていたのに!」神は言われました。「私はボートも船もヘリコプターまで送ったではないか!」

 おかしな話ですね。彼は、どんな立派な助けが来たら、納得できたんでしょうね。自分にはどんな助けが相応しいと思っていたのでしょうね。でも、この人を笑った後、本当はどうなんだろう、と考えてみましょう。神は私たちを助けるために、キリストを送って十字架にかけてくださいました。それは神が御自身の心を私たちに与えてくださることでした。それほどの救助をも惜しまなかった。それは、海に溺れている人を、ただ最低限「いのちさえ助ければ、浮き輪でもボロボートでもいいや」とは思われなかったのですね。

 神は、人間を溺れた生き方から救い出せばよいとは思われませんでした。また、そのために、最高の乗り物を造って迎えにやることでさえ十分とは思われませんでした。神の御子キリスト御自身が、人間を救うためにおいでになったのです。そこには、そうです、私たちの罪を赦し、滅びから救うだけでなく、もっと大きく豊かな恵みにまで引き上げよう、御自身のそばにおらせようという、愛があった。そう思いませんか。

 前回は、イエス・キリストが「まことの神であると同時にまことの正しい人間でもある」こと、特に、「真の正しい人間」であることをお話ししました。今日はその次、

問17 なぜその方は、同時にまことの神でなければならないのですか。

答 その方が、御自分の神性の力によって、神の怒りの重荷をその人間性に担われ、わたしたちのために義と命とを獲得し、再びそれらを私たちに与えてくださるためです。

 私たちの救い主が、ただ人間であって、私たちの身代わりに死なれた、というだけではよかったのではないでしょうか。私たちと同じ人間として、という事だけで、罪の身代わりなら済んだような気もします。だから、十字架の死は必要だったと思うけど、復活はどうして必要だったの?と改めて考えると、うっと詰まってしまったりするのです。けれども、キリストが身代わりに死んで、それでおしまいだったらどうでしょうか? 本当に私たちの罪は赦されたんだろうか、大丈夫だろうか、心配になりますね。

 この第十七問では、こう言っています。キリストが

「神の怒りの重荷をその人間性に担われ、私たちのために義と命とを獲得し、再びそれらを私たちに与えてくださるため」

 救い主はただ人間であるだけではなく、神でもなければならなかったのだ。神だから、私たちの罪の重荷を、全人類のすべての罪を、そしてそれに対する神の無限のさばきの重荷を、耐えることがお出来になったのですね。私たちの罪の重荷を代わりに背負って、負い潰れたのが十字架の死ではないのです。重荷を担って、最後まで耐え忍ばれ、その死も救い主としてのお仕事でした。そして、罪の赦しだけでなく、神の義といのちを獲得され、それを私たちに与えて下さった。そこまでするために、私たちの償いをするのは、人間であると同時に、真の神である方がなってくださったのだ、というのです。

 学校でキリスト教のことを習うときには、きっと「キリストは神の愛を説いたが最後に十字架に殺された。その後、弟子たちがイエスの教えを伝えてキリスト教が出来た」というような説明なのでしょう。それは、学校で教えられる精一杯ですけれども、弟子たちが本当に伝えたのは、キリストは十字架で殺されて三日目によみがえった、本当の神の子だ、という知らせだったのですね。立派な人だけど最後は死んじゃった、でもないし、命をかけて神の愛を伝えた偉人、でもない。「世界の三大偉人の一人」でもありません。ただの人であったら、あんな最後はどう言った所で、失敗や悲劇です。当時の多くの人は、十字架に付けられた救い主だなんて、オカシイと笑うか、冒涜だと怒るかでした。使徒パウロも最初はそう思って、教会を迫害したのですが、後にこう言います。

Ⅰコリント一22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。

23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、

24しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

25なぜなら、神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。

 神は私たちの救いのために、

「十字架につけられたキリスト」

を与えられました。それは弱く、愚かで、躓くような救い主です。でも永遠の神が、それほど弱くなられた事にこそ神の力があります。神の知恵があります。私たち人間社会の中で、弱く、愚かで、笑われるような人の所まで、神が低く低くなってくださった。神の代わりに間に合わせの救いや、精一杯の素晴らしい代理でさえなくて、神ご自身が来てくださった。そこにこそ、私たちは、弱く、小さな私も、神は御自身の義といのちに預からせて戴けるのだ、罪が赦されるだけじゃなくて、神の栄光に預からせて戴けるのだ、と心から信じることが出来るのですね。

 十字架は、人としては全く弱く惨めで愚かな死です。そんな最期を、神なるキリストが受け入れられたことは、信じがたいけれども、本当に神が選ばれて、御自身に引き受けられた救いの犠牲でした。

 もう一度言いますよ。私たちを救うため、神は御自身が降りて来てくださいました。その神が私たちを御自身の栄光にまで引き上げて下さる。それがキリスト教の救いです。

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申命記二六章(5~15節)「天から見おろして」

2016-06-05 17:13:30 | 申命記

2016/06/05 申命記二六章(5~15節)「天から見おろして」

1.聖書のドラマの要約

 今日は礼拝の後に、お試しの映画会をします。最近、聖書を題材にした映画が盛んに公開されています。言い換えれば、それだけ聖書には沢山のドラマがあって、聖書の内容をひと言で言い表すことはとても出来ません。ですから、今日の箇所のように、聖書の所々に、それまでの話の要約があるのはとても助かります。これは申命記で、聖書の最初の方のことですから、聖書全体の要約ではありません。しかし、ここまでの歩みを簡潔に振り返ったまとめです[1]

 5…私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数を連れてエジプトに下り、そこに寄留しました。しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民になりました。

 6エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。

 7私たちが、私たちの父祖の神、主に叫びますと、主は私たちの声を聞き、私たちの窮状と労苦と圧迫をご覧になりました。

 8そこで、主は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、

 9この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちに下さいました。

10今、ここに私は、主、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。」

 自分たちの歴史を振り返り、今、自分たちがここに初めての収穫を得たことを感謝し、神にその初物の中からの供え物を捧げなさい、と言われているのです。イスラエルの民がこれから約束の地に導き入れられ、そこで農耕生活を初めて最初の収穫をしたあと、こういうのですね。12節以下はその先、三年ごとにくり返す、収穫お祭りの後の祈りです[2]。ここには展望が示されています。自分たちがどのような歩みをして今があり、これから先、どのような民として歩んで行くか。勿論、この他にも沢山のことがあったのですけれど、そこからこういうダイジェストをしている、と言う所に、申命記が強調しているメッセージが浮かび上がってきますね。

「さすらいのアラム人」

「寄留」

者であり、

「虐待…労働」

であったのが、主によって連れ出され、この所に今ある。流浪の民で、虐げられて、なすすべのなかった民が、主の力強い大いなる御業によって導き出されて、「乳と蜜の流れる地」と言われるような新しい地を与えられて、そこで収穫を戴いている。そういう歴史の物語を、もう一度語り直すのです。その時、今手にしている収穫も、当たり前ではない、主の恵みだと気づきます。そして、自分たちとともにいる在留異国人やレビ人、孤児(みなしご)、寡婦(やもめ)とも分かち合う、というあり方になるのです。

2.主の宝の民であり、主の聖なる民となる(18、19節)

 申命記では、十二章以来、細々とした規定がずらっと続いていましたが、今日の二六章で、そういう義務の規定は終わります。次の二七章から契約締結の部分です[3]。その、義務の規定の最後の部分で述べられるのが、この振り返りと収穫の感謝なのです。喜ばしく親しい礼拝と感謝ですね。初物を持ってきて主の前に来る。そして、告白と祝福の願いを捧げるのです。この言葉は祭司が言うのではありません。5節でも13節でも

「あなたは」

と言われるように、祭司ではなく民が言うように、自分の言葉として心から言うように命じられているのです[4]。こんなに親密な礼拝は、申命記でもここにしかないのです。そういう親しい礼拝こそ、神と私たちとの関係とはどんなものかを表しているのです。それが、具体的に全生活となるのです。神は、几帳面で口うるさい規定を求めたいのではないのです。神との親しい礼拝の交わりに生きることが、生活のすべての分野に及んで、すべてを新しくなさりたいのです。

18きょう、主は、こう明言された。あなたに約束したとおり、あなたの主の宝の民であり、あなたが主のすべての命令を守るなら、

19主は、賛美と名声と栄光とを与えて、あなたを主が造られたすべての国々の上に高くあげる。そして、約束したとおり、あなたは、あなたの神、主の聖なる民となる。

 ここに言われるように、イスラエルの民は既に

「主の宝の民」

です。彼らが善い業をすることによって主の民となるのではないのです。既に主の力強い御業によって、事実、主の宝の民とされているのです。しかしそれで終わりではありません。主の宝の民だからこそ、主の命令をすべて守るのです。それによって、主が賛美と名声と栄光とを下さり、彼らを高く挙げ、

「主の聖なる民となる」。

 これは将来への約束であり、民の応答を必要としています[5]。でもそれは、民がしなければダメだ、ということではなくて、そういう新しい生き方、民の使命、主の恵みへの応答をもって生きるということ。民の行動や願いや喜びが変わっていくこと自体、主の恵みなのです。そういう、民の深い所での変化や、全生活が将来どう変わっていくか、という計画も含めて、主はイスラエルの民を「主の聖なる民」とすると約束しておられるのです。私たちにも約束されています。イエス・キリストの救いとは、過去、現在、将来の物語です。

3.天から見おろして祝福してください(15節)

 この後を読むと分かるように、イスラエルの民はあっという間に主への感謝も忘れ、御心に逆らって、偶像崇拝や戦争を始め、弱肉強食の社会を造ってしまいます。神を忘れ、「乳と蜜の流れる地」を罪のない者の血を流して「呪われた地」としてしまいます[6]。決して民の将来は、盤石に守られていた訳ではありません[7]。ここで言われている事自体そう言えるでしょう。在留異国人や孤児、寡婦とあります。「約束の地では誰も死なない、親が子どもを残して死ぬなんてない」とは想定されていません。今までも見てきたように、様々な人間関係のもつれや事件はあり得るというのです。だからここではこう祈るのですね。

15あなたの聖なる住まいの天から見おろして、御民イスラエルとこの地を祝福してください。

 ただ「自分たちの今の生活を守っていてください、誰も死なず、誰も孤児や未亡人にならないように」と願うのではありません。

「この地は不完全です。苦しみ、悲しみ、死があります。痛みの多いこの地を、天から見おろし私たちを憐れんでください。私たちが感謝を忘れないように。孤独な方や見知らぬ者と面倒くさがらず分かち合えるよう、憐れんでください。不完全で破れた世界で生きる私たちですが、神の大きな回復の物語の中で生かされていることを覚えていけるように。あなたの祝福を信じて、今この旅路を歩めるように、どうぞ祝福してください」

-そう祈るのです。今が不幸でも苦しくても、主は天から恵みを注ぎ、エジプトでも十字架でも、測り知れない不思議な御業をなされたのです。その御業があって今があるのです。それでもなお最後まで、主が天から下さる祝福を、この地は必要としているのです。

 でも、その天と地をつなぐ祈りを、私たちは捧げるのです。私たちは

「主の宝の民」

として、天と地をつなぐ結び目の一つ一つです。主が天から見おろして祝福して下さいと祈り、周りの人々を迎え入れ、助け、繋がって生きるのです。私たちもこの地も完全とは程遠いのです。祈っていても禍に遭い、悲しみや死を経験します。それでも私たちは、流離(さすら)い人や奴隷ではなく、神の大きな御業によって「主の宝の民」とされて私たちはここに置かれています[8]。出エジプトよりも、バビロンからの帰還よりも大きな、イエス・キリストの十字架の御業に与った私たちが、その物語の途中にある一頁として今を受け止めるのです。天から見おろし、御自身が飛び降りてまで、私たちにいのちを下さったイエスは、私たちを御自身の民としてくださいました。その私たちが働き、家族と過ごし、人と付き合う。そこに何一つ無駄はありません。神は私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをも予め備えてくださったお方なのです。[9]

 

「主イエスの力強く不思議な十字架の御業によって、今、神の宝の民とされている私たちの幸いに感謝します。私たちはあなたのものです。私たちには帰る家が、向かっている故郷があります。今この破れた世界で、自分自身小さく、罪を抱えながら、主に親しく祈り、祝福を求め、備えられた良い行いに励む特権を感謝します。主よ、天から私たちを祝福し続けてください」

 

今日は礼拝後、このDVDをみんなで鑑賞しました~

 

 


[1] 同じような歴史回顧は、ヨシュア二四2-13、Ⅰサムエル十二8、詩篇一三六篇など。

[2] 三年ごとの施しは、十四28-29で明記。

[3] 言わば、ここまでは契約の中身の部分で、この後に契約締結の調印についてです。

[4] しかし何を祈るかは民に任されているのではなく、言葉・内容が備えられている。字面通りを準えるのではなく、「次のように」とある通り、これが土台・モデル・型となって行く。成文祈祷が注目されているのは、縛るためではなく、もっと広がるためであるのに通じます。

[5] 「高くあげる」とは、賛美と名声と栄光を与えること。賛美は主(十21)であり、主こそがイスラエルを諸国の賛美とする方である(四6-8)。

[6] そして、最後にはこの地をバビロン帝国の軍隊に踏みにじらせ、多くの民がバビロンに移されてしまうのです。その事を予見したかのように、この後の二八章以下でも、呪いや警告がこれでもかとばかりに書き連ねられるのです。けれども、ここではそういう将来の危険も見据えた上で将来のことが述べられています。「賛美と名声と栄光とを与えて…高くあげる。…主の聖なる民となる」と言い切れらます。ここには、どうしてもそういう約束を果たそう、という主の熱心が聞こえてこないでしょうか。実際、もっとあとのイザヤ書は、当時のイスラエルのあらゆる罪や傲慢へのさばきを宣告しつつ、最後の五六章から六六章までには、賛美と名声と栄光というこの三つの言葉がバラバラにですが鏤(ちりば)められて約束されています(エレミヤ十三11、三三9、Ⅰペテロ四16でも)。神の恵みに与りながら、背き続けて来た民に厳しく語りつつ、その先には賛美と名声と栄光がある。でもそれをただ指をくわえて、口を開けて待っているのではなく、あなたがた自身の心が深い所で変えられ、主の民としての新しい生き方を果たすようにあなたがたが変えられるという約束があるのです。以下は、準備段階でのメモです。「私たちは、この約束の地に住んではいないし、イスラエルの民がこの地を「乳と蜜の流れる地」ではなく、罪なき者、貧しき者たちの血を流して汚してしまったことも知っている。世界全体が環境破壊や戦争、憎しみ、難民、原爆で破壊され、自分たちさえよければよいという価値観で結局家族も病み、破綻し、ギスギスした人間関係となっている。弱者が顧みられず、核の傘の下での危うい「平和」を保っているに過ぎないことを知っている。ここで私たちが求められているのは何か。主の命令は何か、主の聖なる民として生きるとはどういうことか。精一杯、心を開いて生き、恵みに感謝し、問題を悲しみ、悪を悪として取り上げることを忘れないことでしかないのではないか。「神様が御心をなしてくださる」という盲信・無責任に逃げることなく、与えられた責任を正直に、誠実に果たそうとすることではないか。神の御心を、自分たちに引き下げることもなく、自分たちに無関係に前進することでもなく、自分たち自身の生き方、関わり方が新しくされること、そのように変えられていく物語であることとして受け入れなければならない。」

[7] 申命記八11-18、参照。

[8] シナイや場所の言及がないのは、どこであれ、主への感謝と礼拝を捧げる場所こそが、契約更新の場所となる(なり得るから)。McConvile, p.384.

[9] エペソ二10「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスによって造られたのです。神は、私たちが良い行いに歩むように、その良い行いをもあらかじめ備えてくださったのです。」

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