2016/09/25 マタイ9章18-26節「それぞれの信仰を」講壇交換交野キリスト教会
今日の箇所には、二人の女性の癒やしと復活の奇蹟が記されています[1]。
「会堂管理者」
が瀕死の娘を助けるため、イエスに手を置いて癒やしに来て欲しいと願い出て、イエスが彼の家に行かれました。その途中で、一二年の間、出血が続いていた女性が、イエスの後ろから来て、そのお着物のふさにそっと触ったのです。彼女は、主イエスの力や奇跡の噂を聞きつけていたのでしょう。十二年、その病気で苦しんで来た、と短くあります。マタイはこの女性の背景を短くこう記すだけです。黙って後ろからイエスに触るとは、この
「長血」
という病気が当時の社会では「汚れ」として忌み嫌われて、人に触れることが憚られたこともあるでしょう。それでも後ろから黙って触ってでも直りたい、という必死さも伝わります。すると触った後、
22イエスは、振り向いて彼女を見て言われた。「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。」すると、女はその時から全く直った。
とても簡潔にマタイは書いていますけれど、ここで言われているのは、着物のすそに触ったから、あるいは触った時に直ったのではなく、イエスが振り向いて彼女にこう言われたから直ったのだ、という事でしょう。着物に癒やしの力があったのではありません。また、彼女が願ったように後ろからそっと着物に触って、直してもらえたら、そのまま立ち去ろう、という筋書きとも全く違ったことになってしまいました。しかし、イエスは、彼女がお着物に触ったから直ったのではないと知らせて下さったのです。「あなたはわたしにとって娘だ。わたしはあなたがわたしに触れたことも、どうして触れたかったかも知っている。そして、わたしはあなたに触れられて汚れてしまうこともない。わたしはあなたを忌み嫌ってはいない。あなたの信仰をわたしは受け入れ、あなたは直った。[2]」そう仰ったのです。振り向いて、彼女を見られたイエスと目が合って、彼女の出来事は全く予期しないものになったのです。
イエスが振り向いた時、彼女は何と言われると思ったでしょう。もしイエスが、「違う違う、わたしの着物に力などないよ。わたしに力があるんだ。前の百人隊長は分かっていたんだけどなぁ[3]。手で触るとか、わたしが行くとかだって必要はないんだ。ただ一言で、遠くの病気だってわたしには癒やせるんだ。あの百人隊長みたいな信仰こそ立派な信仰だ。この会堂管理者だって、それが分かっていない。あなたもだよ。黙ってわたしの着物の房に触るなんて、刺抜き地蔵じゃないんだから。そういうおかしな信仰は止めなさい」と言ったらどうでしょう[4]。
確かに、イエスにお言葉一つで癒やしてくださいと願った百人隊長の信仰は立派でした[5]。彼は軍隊に所属しているものとして、権威とか命令系統といった自分の経験を元に、イエスの権威も告白したのでした。自分にはイエスを自分の家にお入れする資格も直接お願いする資格さえもないが、お言葉を下さい、と謙虚に願いました。それに比べると、今日の二人は言わば、手を置いて欲しいとか、着物に触れば、という立派ではないレベルですね。会堂管理者が、かなりの名士であったにも関わらず、ひれ伏してイエスに願った事自体、謙虚な姿ですが、しかし百人隊長が遠慮したのに対して、彼はイエスにおいでくださいと願ったのです。そして、この長血の女性は、直接お願いする事すら出来ず、黙って着物に触れば癒やされる、という理解でした。本当に、三者三様です。それは一人一人の、生い立ち、性別、育ってきた環境、親子関係、人間関係、いろいろな要素が絡み合って出来るものです。
ひょっとすると、と思うのです。この女性が
「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」
という言葉には、触れないかもしれない、触ることが許されずに、滅びるかもしれない、という思いがあったのかもしれません。彼女はわざわざ、着物の房に触りました。それは民数記十五章に規定されているもので、それを見て、主の命令を思い起こし、それに従って、聖なるものとなるためのリマインダでした[6]。いわばそれは「聖なる」房です。この女性は「汚れ」ているとされていましたから、その聖なる房に触ろうとするなら、彼女は打たれて死ぬかもしれません。そうなることも彼女は覚悟していたのではないか。「お着物に触ることさえ許されないで打たれるかもしれないけれど、もし触ることでも出来れば、きっと直る」。そんな含みを想像してしまいます。彼女だけではない。私も含めたすべての人間の根底にあるのは、神からも拒絶されるかもしれない、という不安です。自分の汚れ、失敗、願いが神に受け入れられず、背を向けられるかもしれない、というネガティブな思い込みです。
イエスはそうではありませんでした。触った女に振り向いて、
「娘よ。しっかりしなさい。あなたの信仰があなたを直したのです。[7]」
あなたの信仰は、と眉をひそめて窘(たしな)めたりせず、彼女に力強く語りかけられるのです。女の信仰や理解が正しかったとは言えません[8]。主は彼女の精一杯の信仰を受け止めてくださいました。彼女の苦しみ、「救われたい」悲願は切実な、本当に切実な思いでした。人は深い呻きや傷や涙があるからこそ、何とかして救われたいと色々なものに手を伸ばします。その手をしっかりと握り返して、私たちが願った問題解決以上の恵みを与えて下さるのは、主イエスです。すがる思いでせめて房に手で触った彼女は、逆に主イエスご自身の手に優しくもシッカリと握り返されていました。
「しっかりしなさい」[9]。
・・・勇気を出しなさい。人目を憚り、後ろに隠れ、神に願う資格さえないと自分を卑しめる生き方ではなく、自信を持ち背筋を伸ばし、しっかり生きて生きなさい。一二年の病気の過去を変えることは出来ません。でも、その過去を恥じたり、惜しんだり、隠したりせず、しっかりやりなさい。」
と新しい生き方までくださいました。立派な信仰と比べる事なく、彼女の精一杯を受け止めつつ、イエスご自身の大きな憐れみで、彼女に向き合ってくださいました。その時、彼女の傷はすっかり直りました。傷を通して主が彼女に触れられたのです。
キリスト者で、他人のための執り成しは熱心だけれども、自分のことは感謝や月並みな祈りはするだけで、心の奥の素朴な願いや渇き、深い呻きは祈らない人が多いです。そんな祈りは、神に対して烏滸がましいと思っています。自分のために祈る、自分のために祈ってもらうことが出来ない。主イエスはもっと近いお方です。人を理解されている憐れみ深い方です。
ヨブ記三六5「見よ。神は強い。だが、だれをもさげすまない。その理解の力は強い。」
私たちの限界や勘違いを論うよりも、私たちの苦しみや孤独も主は理解しておられます[10]。こういうお方だから、私たちはお慕いするのです。こういうお方だから、この方を賛美し、喜んで自分の罪を悔い改めて、重荷を下ろすことが出来るのです。私たちが「立派な信仰」「聖書的信仰」を基準に先回りし、不必要に救いの敷居を高くして、主を見せなくする邪魔な存在であってはなりません[11]。むしろ、聖書の信仰そのものが、こんなはみ出し方をしているのです。聖書の神こそは人の予想よりも大きい、いや、より近く、より低いお方として描かれています。主の憐れみをともにいただくため、まず私たち自身が、自分の弱さや痛みを通して、そこにおられる主であると、心から告白させられたいと思います。振り向いて、私たちを見て、こんな言葉をかけてくださる主であることが、ここに約束されているのですから[12]。
「振り向いて見つめられた主の眼差しが私たちにも向けられていると、今日一人一人に受け止めさせてください。あなた様の計り知れない権威と憐れみの、その裾にでも肖りたいという切なる願いを受け止めてくださる主だと、それぞれの歩みの中で知らせてください。その憐れみに、私たちの狭い心を破っていただいて、神の子どもとして生き生きと歩ませてください」
[1] 今日の箇所は「ヤイロの娘の復活と長血の女の癒やし」として親しまれている箇所です。マルコの福音書に、この会堂管理者の名前がヤイロと記されているからです。またマルコはこの長年の出血で苦しんできた女性の事も詳しく記して、十節もかけて説明しています。しかしこのマタイは20節から22節とたった三節。実にあっさりと伝えています。ここだけでない、マタイ全体が淡々と書き進めるのが特徴です。その簡潔さによって、主イエスの王たる権威、力強さ、イニシアティブが際立って伝わるのが、このマタイの福音書なのです。今日の箇所は「ヤイロの娘の復活と長血の女の癒やし」として親しまれている箇所です。マルコの福音書に、この会堂管理者の名前がヤイロと記されているからです。またマルコはこの長年の出血で苦しんできた女性の事も詳しく記して、十節もかけて説明しています。しかしこのマタイは20節から22節とたった三節。実にあっさりと伝えています。ここだけでない、マタイ全体が淡々と書き進めるのが特徴です。その簡潔さによって、主イエスの王たる権威、力強さ、イニシアティブが際立って伝わるのが、このマタイの福音書なのです。
[2] 「あなたの信仰」は、彼女の信仰力への評価ではなく、お着物のふさにでも触ればきっと直るほど、主イエスには力があるという、主イエスに対する信仰への評価。
[3] マタイ八5-13。
[4] いいえ、私自身、「そんな迷信的な信仰は間違っている。房じゃない。イエスを信じ、直接祈る信仰じゃないと聖書的な信仰とは言えない」と言いそうなものです。
[5] この箇所はもう少し大きく、八章九章という段落の一部です。その最初には、お心一つで病気を清められる。お言葉一つで、遠くにいる病人をも癒やせる。風や波をも叱りつければ静めてしまえる。そういう圧倒的なイエスの権威が展開されてきました。しかし、その信仰を最初に打ち出しつつ、この会堂管理者や長血の女、二人の盲人たちの、立派ではないけれども必死の信仰を受け止めるイエスの憐れみもまた、浮き上がってくるのです。
[6] 民数記十五37「主はモーセに告げて仰せられた。「イスラエル人に告げて、彼らが代々にわたり、着物のすその四隅にふさを作り、その隅のふさに青いひもをつけるように言え。そのふさはあなたがたのためであって、あなたがたがそれを見て、主のすべての命令を思い起こし、それを行なうため、みだらなことをしてきた自分の心と目に従って歩まないようにするため、こうしてあなたがたが、わたしのすべての命令を思い起こして、これを行ない、あなたがたの神の聖なるものとなるためである。わたしはあなたがたの神、主であって、わたしがあなたがたの神となるために、あなたがたをエジプトの地から連れ出したのである。わたしは、あなたがたの神、主である。」
[7] マタイでは、似たような言い回しに、九29(二人の盲人に「あなたがたの信仰のとおりになれ」)、十五28(ツロの母親に「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように」)などがあります。マルコでは二回、ルカでは四回繰り返される「あなたの信仰があなたを直したのです」のフレーズが、マタイではゆるやかです。それだけにそのフレーズが、一回だけ、しかもここでこの女性に与えられた重みは無視できません。
[8] 勿論、だからといってイエスの着物の房に触れば癒やされる、という教えを広めるのは間違いでしょう。実際、イエスの亡骸を包(くる)んだ「聖骸布」や「聖遺物」を教会に飾り、その力に肖ろうとする巡礼信仰になっていったのは残念です。
[9] この言葉はマタイでは九2、十四27とこの3カ所で用いられています。「勇気を出しなさい、安心しなさい、心配しないでよい、勇敢でありなさい、勇気を出しなさい」などと訳される語です。
[10] ヘンリ・ナウエンは「あわれみの権威」という言い方をします。本当の権威とは、あわれみに他ならない。つきない憐れみこそ、イエスの「共感(コンパッション)」を可能ならしめた、真の権威です。
[11] 私たちがそうした視点ではなく、人を自分の基準で裁きやすいことも批判されているのが、福音書。主の寛容にならって、私たちも寛容でありたい。
[12] 「問 まことの信仰とは何ですか。答 それは、神が御言葉において、わたしたちに啓示されたことすべてをわたしが真実であると確信するその確かな認識のことだけでなく、福音を通して聖霊がわたしの内に起こして下さる、心からの信頼のことでもあります。」(ハイデルベルク信仰問答21)「我々に対する神の愛についての確固とした認識であります。」(ジュネーブ教会信仰問答111)