2016/12/04 ハイデルベルグ信仰問答43「はかないけれども尊い」ローマ6章5-11節
夕拝でのお話しは、私たちの先輩が16世紀に書いたハイデルベルグ信仰問答を手がかりにしています。そして、今しばらく使徒信条の
「キリストは死にて葬られ」
という件(くだり)を詳しく味わっています。キリストが死なれたのは、私たちが自分の罪の代償を払う代わりであったこと、そのキリストの死のゆえに、私たちに永遠のいのちの完全な希望が与えられたことをまず見ました。それから、私たちが今も死ななければならない事実でさえ、呪いや罰ではなく、罪からの解放だとみるように変えられたことを見ました。しかし、そこでも終わりません。今日の問43は、もう一歩を踏み込むのです。
問43 十字架上でのキリストの犠牲と死から、わたしたちは他にどのような益を受けますか。
答 この方の御力によって、わたしたちの古い自分が、この方と共に十字架につけられ、殺され、葬られる、ということです。それによって、肉の悪い欲望はもはやわたしたちを支配することなく、わたしたちは自分自身をこの方への感謝のいけにえとして献げるようになるのです。
「他にどのような益を受けますか」。これはとても大切な問いです。キリストの死は、神との関係が解決したとか、自分の死や死後の悩みが解決したとか、そういうことだけだと考える傾向が、教会の中にさえあるからです。勿論それだけでも素晴らしいことです。けれども聖書を読んでいくとそれだけではないことに気づくはずです。キリストの死、もっと言えば、聖書のメッセージそのものが、死後の宗教的な問題を扱うだけではなく、今の私たちの人生、生活、生き方を生き生きと力づけてくれるものなのです。罪の赦しや死後への希望だけではない、他にもまだ肝心な益を受けることがあるのです。
特に今日の問いは今読みましたローマ人への手紙六章の言葉から生み出された告白であることはよく分かるでしょう。
「わたしたちの古い自分」
とあったのはローマ書の
「6私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなる」
を下敷きにしています。
「肉の悪い欲望はもはやわたしたちを支配することなく」
という文章は
「あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」
を言い換えたものです。キリストが私たちのために死んでくださったことは、私たちが今すでに罪ある古い自分としては死んで、神に対して生きる者と既にされたということなのだ、と言われているのです。これを
「他の益」
というわけですが、それはおまけとか余談という意味での「他」ではありませんね。むしろ、絶対に外せない大事な益として言及しなければならないのが、この問43の「益」であります。
これは、キリスト者となったら「肉の悪い欲望」が全くなくなる、という事ではありません。洗礼を受けたら、もう嫌な自分がなくなると思っているとガッカリすることになります。自分の中に罪の欲望や、本当に醜い、身勝手な妄想があって、その思いに負けて行動してしまいますし、負けるどころか確信犯的に暴力的に生きることもあるのです。むしろ、聖書は、道徳的に悪いことではなく、正義感や真面目さ、善意、「自分は間違っていない」という思いこそが、神の前にはどれほど罪深いか、暴力的であるかを浮き彫りにしています。キリスト者になったからもう罪は犯さない、間違ったことはしない、などと考えるとしたら、それこそ聖書の折角の警告を聞けなくなってしまいます。
キリスト教の教派の中には<本当のキリスト者は「聖められ」たら完全になって、もう罪を犯さなくなる>と断言する教えを持つ流れもあります。そういう教派では「聖霊のバプテスマ」とか「聖霊の油注ぎ」「第二の恵み」などと言いますが、心が聖められたら、完全になり、罪を犯さなくなると教えます。言ってしまえば、今、天使のように清らかな人格になれるのだ、という教派ですね。しかし、そういう教派も現在は随分穏健になって、あまりそういう極端なことは言わなくなってきたような気がします。
あるいはキリスト者が罪を犯すのは、自分の中にある古い自分で本当の自分ではない、と教える教派もあります。救われて善を願う自分と、罪の古い自分とが同居している。まるで、天使のような自分と悪魔のような自分が心の中で戦って、どちらかが勝ったり負けたりしている、という二重人格のような理解です。そうやって、自分の中にある罪の現実と折り合いをつけようというのです。
ローマ人への手紙でパウロが話しているのは、キリスト者はみんな完全に聖くなるはずだ、ということではありません。あるいは、キリストに結ばれた人の中にも古い人は残っている、ということでもありません。キリストが私たちのために死んでくださった以上、私たちを支配するのは罪ではなくキリストの恵みなのだ、と言っているのです。まだ罪はありますし、罪を犯さずにはおれない私たちですが、それはキリストの救いが弱かったり不完全だったりするからではないのです。キリストの死は、私たちが古い人に死んで、罪の支配から解放されていることの保証です。
私の中にも醜い欲望はあります。恥ずかしい妄想や、とてもお話し出来ないような本当に身勝手な計算をしょっちゅうしています。ですが、それはイエスの救いが無力だからではありません。イエスは私に、罪に負けないよう頑張れと叱咤激励なさり下駄を預けるのではありません。もっとイエスに委ねたら完全に罪を犯さなくなるはずなのだ、と結局は私の信仰の問題になさるのでもありません。
むしろ、私たちが罪を通してキリストを仰ぎ、悔い改める時、キリストはその失敗を糧として私たちを成長させてくださいます。主が私たちを支配しておられるので、罪を通してさえ、私たちがますます主に依り頼み、神の子どもとして感謝に溢れて生きるように計らってくださっています。ですから、私たちを支配しているのは罪のように見えても、実はキリストが私たちを支配して、罪や問題や失敗さえも用いて、私たちを成長させ、神の子どもとして歩ませてくださるのです。罪はあっても、私たちを支配しているのは、罪でも自分でもなく、私たちのためにご自分をさえ与えてくださった主なのです。だから、私たちの歩みは
「自分自身をこの方への感謝のいけにえとして献げるようになる」
と言われるのです。私たちが自分の欲望のためではなく、神への感謝で生きるように変えられて行くこと。それこそが、キリストが私たちのために死んでくださった御業の益なのです。