聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問83-4「神の国の鍵が開く」マタイ16章13-19節

2017-08-20 15:26:40 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/20 ハ信仰問答83-4「神の国の鍵が開く」マタイ16章13-19節

 マタイの16章には主イエスが、ペテロに

「天国の鍵」

を上げると言う言葉がありました。そこから教会は長い間、ペテロを描くときには鍵を持たせてきました。

 鍵を持っていれば、ペテロだと分かるというわけです。そして、ペテロの後継者であるローマの教皇もこの権威を継承してきて、天国の門を与っている。ある人を破門にしたり、天国に入れて上げたり、その権威を教会が委ねられている、という考え方をしてきました。私もいつからか誤解して、イタリアのバチカンに行けば、天国の鍵が見られるらしい、と思い込んでいた時があります。しかし、そういう鍵がある、という事ではありません。また、教会に誰かを天国に入れたり閉め出したりする権威がある、という考えも間違っていると分かりました。今日の問83はそのような誤解を背景にしています。

問83 鍵の務めとは何ですか。

答 聖なる福音の説教とキリスト教的戒規のことです。この二つによって、天国は信仰者たちには開かれ、不信仰者たちには閉ざされるのです。

 マタイの16章を読んで教会や教皇には天国の鍵の務めが与えられている、と考えて、それが一人歩きしていました。ここでハッキリと教会の

「鍵の務め」

とは福音の説教と戒規の事ですよ、それを通して教会は天国の門を開き、不信仰者には閉ざすのですよ、と教えるのです。福音を語る事、聖礼典に与らせたり陪餐を停止したりする事が「鍵の務め」です。それとは別に教会に「鍵の務め」なる権威が与えられるわけではないのです。この事を解説して、次の84では「福音の説教」、85で「戒規」を説明します。

問84 聖なる福音の説教によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。

答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、信仰者に対して誰にでも告知され明らかに証言されることは、彼らが福音の約束をまことの信仰をもって受け入れる度ごとに、そのすべての罪が、キリストの功績のゆえに神によってまことに赦されるということです。しかし、不信仰な者や偽善者たちすべてに告知され明らかに証言されることは、彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まるということです。そのような福音の証言によって神は両者をこの世と来たるべき世においてさばこうとなさるのです。

 福音の説教は、キリストの福音を受け入れる時、どんな罪もすべて、キリストの功績のゆえに本当に赦されることを約束します。それが

「天国の門を開く」

という鍵です。しかし、不信仰な者や偽善者たちには、

「回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰が彼らに留まる」

というのです。これが

「天国の門を閉じる」

鍵だということです。要するにキリストの福音そのままですね。言わばキリストの十字架こそが天国の鍵です。キリストが私たちのために十字架に死んで復活された事実こそ、天国の鍵です。それとは別に何かの鍵があるのではありません。キリストを信じたのに、教会が「あいつは生意気だから、反抗的だから、入れて上げません」と閉め出すことは出来ません。福音が天国を開いたのです。十字架が、閉まっていた神の国へのアクセスとなったのです。そして、今地上で福音を聴き、信じるなら、やがて死んだ後、神の国に本当に入れられるのです。あの世に行ってみたら違っているかも、と心配しなくてよいのです。

 そうです。「鍵の務め」は閉め出すための権威ではありません。元々、神の国は誰も入れなかったのです。誰も自分のために神の国を開く事は出来ません。人が神に背いて以来、天の御国に帰る道は塞がれたのです。ですから人間が考える神の国は、どれも門は大抵閉まっています。条件があって入りづらい門です。人間にとって、神の国への道はもう断たれていました。いいえ、それどころか、神の国に帰りたいとさえ思わず、神を侮り、神を嘲笑う人さえ多いのです。それは、神の怒りと永遠の刑罰を選ぶような生き方です。ここに

「彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰とが彼らに留まる」

とあります。

「留まる」

とは元々

「神の御怒りと永遠の刑罰」

があった、ということです。それが神から離れた人間の姿です。しかし、神はそれをよしとされずに、一方的な憐れみを注いでくださいました。人に命を与え、太陽や雨を与え、食べる物も大事な家族や、全ての善い物を下さいました。何より、神の子イエス・キリスト御自身が、私たちの所に来て下さり、神との関係の回復を与えてくださったのです。

 このホルマン・ハントの「世の光」という絵は、キリストが戸を叩いている絵です。このキリストは、さっきの絵や多くの人間の描く雲の上の豪華な門の前に立ってはいません。そういう人間が考える世界から飛び出してこられ、人の所に来られた方です。そして、人の門を叩いて、開けてくれるよう優しく語りかけて下さるイエスです。天国の門とは私たちから遠くの門の事ではありません。イエス・キリスト御自身が私たちのところに来て下さいましたので、私たちが心を開いてキリストを受け入れるなら、神の国の王であるキリストをお迎えするのです。今ここで、神の国が始まるのです。しかし、そのような約束を聞いてさえ、キリストを受け入れようとせず、回心しない限り、当然それは神の御怒りと永遠の刑罰に留まって、自滅するしかないのです。

 ここでは

「不信仰な者や偽善者たち」

に対する証言として

「彼らが回心しない限り、神の御怒りと永遠の刑罰が留まる」

とあります。福音を聞いた事がないまま死んだ人がどうなるのかは論じていません。福音を信じる機会が無かったとしても信じなかった者は皆滅びる、と断定する事は行き過ぎです。どんな人にも主は働きかけ、招いておられるはずです。あらゆる方法で、罪を悔い改めた生き方をするよう呼びかけておられるでしょう。その最もハッキリした呼びかけが、イエス・キリストの福音です。他のどんな約束よりも、人に希望を与え、恵みを確証させ、正しく真っ直ぐ生きる生き方を励ましてくれる力強い福音です。それを宣べ伝えるのが教会の

「鍵の務め」

です。もしも教会が福音ではなく、「自分たちだけが特別で罪赦され、天国に行けるのだ、信じない人はみんな永遠に滅びるのだ」と上から目線で断定するならば、それは「鍵の務め」の完全な誤解です。そんな歪んだ教えには反発を抱く方が健全です。福音ならざる説教は、天国の門とは無関係です。そうした人間の、あらゆる傲慢や偽善や恵みならざる生き方から悔い改めなさい。そんな滅びに留まる生き方から、イエスを受け入れて生きなさい。そう宣言して、キリストの恵みを証しするのが「鍵の務め」という福音の説教なのです。

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使徒の働き6章1-7節「毎日の配給のこと」

2017-08-20 15:21:56 | 使徒の働き

2017/8/20 使徒の働き6章1-7節「毎日の配給のこと」

 「共同体の理想を愛する者は共同体を破壊する。共同体のメンバーを愛する者は共同体を建て上げる」

 この、私が胸に刻んでいる、ボンヘファーの言葉を今日の聖書箇所にも想います。

1.配給の不公平という問題

 ここで起きたのは

「ギリシャ語を使うユダヤ人」

「ヘブル語を使うユダヤ人」

に対して苦情を申し立てた事件でした。教会は始まったばかりで、エルサレムにいたユダヤ人で構成されていました。しかし、エルサレムにいたユダヤ人と行っても、一枚岩ではありません。ローマの各地に散らされて住んでいたユダヤ人も多く、ヘブル語は使えず、忘れて、現地の言葉と、共通語のギリシャ語で生きて行けたのです。その人々もエルサレムに巡礼に来ましたし、老後はエルサレム神殿のそばで死にたいと帰ってくることもありました[1]。特にご主人を亡くした女性たちが、今よりももっと生活の手段がなくて、言葉の不自由を承知でエルサレムに帰ることもありました。それが

「ギリシャ語を使うユダヤ人」

です。その中には、使徒たちの教えに触れて、イエスをキリストとして信じた人々が多くいたのでしょう。彼らは彼らで、ギリシャ語でのコミュニティを作り、ヘブル語を使えるキリスト者と共存していたのです。

 教会の中に貧しい人も多くいて、その必要を満たすため、献金が捧げられていました。四章の最後にそのことが書かれていましたが、そこには

「ひとりも乏しい者がなかった」

とありますが、更に人が増えて、祝福ではありつつ、問題も起こってきたのです。言葉や文化の違いは小さくありません。意思の疎通が出来ず、配給がちゃんと行き渡らなかったのです。そこで、使徒たちがとった対応は2節以下に書かれる通りです。

「御霊と知恵とに満ちた、評判の良い人たち七人を選び、この仕事に当たらせる」

 そうして、使徒たちはその配給を彼らに委ねて、

「祈りと御言葉の奉仕に励むことにします」

 祈りと御言葉の奉仕とが配給の公平さにかかずらって疎かになってはならない。だからといって、もう毎日の配給は問題になるからしない、ではない。教会はこの箇所を「最初の執事の選出」として読む事がよくあります。それは、祈りと御言葉の奉仕とに励む面と、困っている人を助ける働きの両方が教会の要であるからです。

 しかしこの箇所から教会の組織や制度について考える前に、もっと大事なことを感じるのです。それはこの「苦情」が出るまで使徒たちが食卓のことに仕えていた、という姿勢です。

2.使徒たちの姿勢を考える

 なにしろ最後に信者の数が報告されたのは四章4節で

「男の数が五千人」

という大規模でした。それでも使徒たちは献金を管理し、貧しい人たちに配給していました。その後更に弟子たちが増えて、とうとう不公平が出ざるを得なくなったのですから、どれほどの大所帯になっていたのでしょうか。もうとっくに面倒な配給は人に任せて、使徒たちは教えたりイエスの証しをしたりすることに専念していても良かったのではないでしょうか。しかし使徒たちは毎日の配給を、自分たちのなすべき務めとしていました。もっと正確には、その必要を抱えた一人一人を大切にしていました。てんてこ舞いで、不公平になっている実感はあったでしょう。言葉は通じず、文化や習慣や常識も通じないとしても、使徒たちは配給を続け、仕えていました。貧しい信徒らの足を洗うような奉仕も続けていました。使徒たちは決して最初から

「もっぱら祈りと御言葉の奉仕に励む」

とは思いもせず、毎日の配給の雑事に喜んで携わっていたのです。

 それでいて配給の問題で苦情が出たとき、彼らの対応は現実的です。自分たちの対応がマズかった、愛がなかった、もっと頑張ろう、と無理もしませんでした。逆に「こんなにやっているのに失礼な」と憤るとか、「イエスの使徒に向かって苦情だなんて身の程知らずだ」と上から目線でもありません。勿論、七人の選出の後に祈るように、この提案の前にも祈ったでしょうが[2]、この問題そのものを「祈りが足りない」「信仰で乗り越えよう」とすり替えません。現実的に、自分たちの限界を認めて、責任を分担し、配給がなおざりにならないよう体制を整える対策を取りました。そういう柔軟な発想が出来たのも、使徒たちが主イエスの愛を継承して、仕えていたからです。自分たちの教会の理想や活動の成功ではなく、目の前の人を優先したからです。だからこそ、苦情が言える雰囲気があり、必要な世話が行き届いていないと分かったら、素直に自分の限界を認めて、柔軟に対応できたのです。後のパウロはエペソ教会に対して、

二〇34あなたがた自身が知っているとおり、この両手は、私の必要のためにも、私とともにいる人たちのためにも、働いてきました。

35このように労苦して弱い者を助けなければならないこと、また、主イエス御自身が、『受けるよりも与えるほうが幸いである』と言われたみことばを思い出すべきことを、私は、万事につけ、あなたがたに示して来たのです。」

と言います。御言葉が教えるのは、キリスト教を信じることとか、伝道や証しの仕方ではありません。主イエス御自身が仕え、私たちにも仕え合う生き方を示されました。毎日の配給を、神御自身が下さり、私たちを蔑まずに身も魂も生き返らせてくださるのです。その神の恵みに応えて、神の養いを届ける生き方に至らせるのが「御言葉」です。やがて教会が長老や執事といった組織を作るのもこの使命を果たすためです。決して組織優先でもないし、組織があれば教会なのでもありません。御言葉の働きと執事の慈善の働きの両方が教会だからなのです。[3]

3.祭司たちも

 7節の最後に

「そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った」

とあります。祭司たちと言えば、先の四章五章では、弟子たちを捕らえ、脅したり迫害したりした側です[4]。使徒たちを黙らせよう、復活など教えられては困る、と言っていた祭司が、大挙して信仰に入るという不思議が起こりました。これは、使徒たちが祈りと御言葉の奉仕も、毎日の食卓のことも、両者をバランス良く前進させて、この苦情をプラスに変えたからでしょう。御言葉を教えるだけでなく、御言葉のとおりに、弱者が大切にされ、ギリシャ語を話すやもめたちの苦情にさえ真摯に当たって、助け合っている姿が祭司たちの入信にも繋がったのです。祭司は大きな神殿で立派な祭服を着、聖書の規定に従った儀式を司っていました。しかし、門前の物乞いにも、言葉が通じない貧しい寡婦たちにも関係のない、無力で無慈悲な働きでした。彼らは初代教会の惜しみない実践に、イエスが真に生きておられると認めて、大挙してやってきたのです。[5]

 キリスト教会のこうした活動が、やがてヨーロッパ社会全体の福祉の考えのベースになり、今日の福祉国家というあり方に展開していきました。逆に言えば、この当時はそうしたものが殆どない中で教会が救済に当たったのです。現在とは事情がいろいろ違います。同じ事を今の教会もしなければというのは本末転倒です。むしろ教会は地域に仕え、福祉の仕事や家族の介護をしている人を福音によって励まします。またそういう働きを税金や寄付や出来る形で支援するよう勧める。

「エンパワーメント」

です。教会の理想や宣伝が優先して、ただでさえ地域の仕事で忙しい皆さんに、更に教会の奉仕という重荷を負わせるのではないのです。教会という組織のために奉仕を求めるのは教会ではありません。キリストは私たちに仕えてくださいました。日毎の糧も与え、言葉や文化の違い、様々な問題にも傷つきながら、それでも私たちを尊んでくださった、本当の祭司であられます。この方の教会は、単なる教勢拡大や活動の成功を追い求めません。この地域で、それぞれの生活で関わる一人一人を大事にし、祝福し、その必要に仕えます。でも無理はしません。自分一人で全部やろうともしません。時には人に委ねることも厭いません。そういう毎日の食事や雑用や苦情に、キリストの福音は関わっていて、励ましや知恵がいただけます。そのために教会があり、長老や執事という役職があるのです。

「主が私たちに毎日の食事を与えて、体も心も養いたもう恵みを感謝します。あなた様の深い憐れみによって、社会で仕え人と関わり働く一人一人を支え励まして下さい。その苦情に応え、その業を通して御栄えを証ししてください。主の恵みによって力づけ、送り出す教会としてください。そのためにどのような組織や形が出来るのか、どうぞ知恵を与え、整えてください」



[1] 旧約聖書の終わりにイスラエルはいったん国家としては解散させられました。そうして国を追われたユダヤ人は地中海やペルシャ中に散らばっていました。そして、ユダヤ人というアイデンティティや宗教を持ちつつも、生活の拠点はその地になじんで、ヘブル語よりも現地の言葉を話すようになって、ヘブル語は使えなくなっていったのです。そして、当時の「世界共通語」とも言えるギリシャ語(正確には、古典ギリシャ語でも現代のギリシャ語でもない、コイネーギリシャ語と呼ばれる簡略化した文法のギリシャ語です。)はどの国の人々も理解できた、そういう時代です。

[2] 「もっぱら祈りとみことばの奉仕に励むことにします」という発言自体、使徒も教会も、祈りと御言葉の奉仕との重要性を認識していたことを前提にしています。

[3] 今日の六章の出来事は、初代教会の弟子たち(キリスト者、信者)の数が増えるに従って起きてきた問題と、それに対する使徒たちの対応が書かれています。人数が増えるのは喜ばしいことですが、やはりそこには面倒や新たな問題も起きてくるものです。それは教会も変わりません。しかしその対応の仕方から、私たちは教えられ、励まされる。そういう箇所です。

[4] 四1にはハッキリと「彼らが民に話していると、祭司たち、宮の守衛長、またサドカイ人たちがやって来たが、2この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、3彼らに手をかけて捕らえた。そして翌日まで留置することにした。…」とありました。

[5] この拡大が殉教になり、エルサレム教会の拡散になる。「積極的に伝道しなかった」と批判する理解もある。しかし、主は伝道を命じたのではなく、聖霊が証人とする、と約束されたのだから、これで良かったのだ。この共同体が証しとなり、祭司さえ惹き付け、迫害になり、それさえ拡散になる。それが、聖霊のなさった方法。伝道は方法論ではなく、結果である。

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