聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問85「刈り取りの法則」マタイ18章15-20節

2017-08-27 21:02:55 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/8/27 ハ信仰問答85「刈り取りの法則」マタイ18章15-20節

 先週「鍵の務め」という事をお話ししました。今読んだマタイ18章18節にも

「つなぐ・解く」

という言葉が出て来ましたが、神は教会に天国の鍵を繋いだり解いたりする働きを与えられました。これを「鍵の務め」と言います。しかし前回お話ししたように、それは教会に特別な権威があるかのように誤解されやすいことです。ハイデルベルグ信仰問答ではそうは教えません。教会が、聖書からイエス・キリストの福音を伝える事、それが言わば鍵の務めなのだ、というのです。そしてもう一つ「キリスト教的戒規」というものが神の国の鍵の役目を果たす、ということが、今日の問85です。

問85 キリスト教的戒規によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。

答 次のようにです。すなわち、キリストの御命令によって、キリスト者と言われながら、非キリスト教的教えまたは行いをなし、幾度かの兄弟としての忠告の後にもその過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によってはキリストの御国から、彼らは閉め出されます。しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一員として受け入れられるのです。

 「戒規」とは耳慣れない語です。戒める規則と書きます。ここに書かれているように、

「非キリスト教的教えまたは行いをなし」

という人を戒める規則です。キリスト者と言われながら、イエス・キリストの教えや聖書の大切な教理を否定する。あるいは、その生活での行いで犯罪に手を染めるとか不道徳な生き方をする。そういうハッキリした罪をする人を戒めるための手続きが「戒規」です。そこには三段階あることも分かります。分かりやすくしてみましょう。

 まず、兄弟として、つまり二人だけで話をします。それでダメなら、もう一人と一緒に注意します。その前に噂話を広めたり、見て見ぬふりをしたりはしません。ちゃんと忠告しましょう、と言う事です。しかし、それでもその人が

「その過ちまたは不道徳を離れない」

なら教会に(役員・小会に)通告します。自分では解決できなかったのですから、教会にお任せして手離すのです。そして、小会が何とかしてその人と話して説得しても従わないかもしれません。その場合は

「聖礼典の停止」

をもってキリストの会衆から閉め出されます。それでもまだ悔い改めようとしないなら、最後には

「除籍」

という措置を取ります。そういう手続きがあるのです。

 けれども、戒規というより私たちの日本長老教会は「矯正的訓練」という言い方をするようにしています。確かに、教理や生活での間違いは戒める必要があります。けれども大事なのは戒めて、最後には除籍する、ということではないのです。間違いを正しつつ、それを通して人が回復することですね。元々の言葉は「訓練discipline」なのです。弟子にすることであって、排除ではないのです。今日読んだマタイの18章も、15節から20節の「矯正的訓練」の手続きの前後に、回復や大切な言葉が沢山ちりばめられています。この後にも赦しについての例え話が語られています。一つだけ紹介しましょう。

14このように、この小さい者たちのひとりが滅びることは、天にいますあなたがたの父のみこころではありません。

 どんな小さな人も滅びないことが天の父の御心です。過ちや不道徳の中で滅びてはならないから真剣に注意をするのです。そして、その注意の仕方でも頭ごなしに責めたり脅したり対決の姿勢は取らないのです。その人を、滅んではならない大切な人と思うからこそ注意するのであって、もしも帰ってくるなら受け入れられるのですね。

 …しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一員として受け入れられるのです。

 どの段階でも「真実な悔い改め」を約束し、示すなら、再びキリストに結ばれ、教会の一員として受け入れられる。その赦しと回復があるのです。勿論、それは口先だけの反省かもしれません。深い問題がある場合、本当の回復のためにはケアや時間が必要でしょう。何でもすぐに赦して、なかったようなふりをする、ということではありません。その人が本当に間違いを間違いとして理解して、変わっていくようサポートするのです。でもその根っこには、赦しの恵みがあります。その事を現す事として、再び聖晩餐に受け入れて、一緒にパンと杯を頂く食卓を囲むのです。

 同じパンを食べ、杯を一緒に飲む事で、交わりの回復を示すのです。この食卓を囲む私たちは、だれも間違いなく生きる事が出来る人などいません。ひょっとすると、堂々と間違った教えを持ち込んだり、責められなければならないような生活を始めたりするかもしれない、弱い者です。だからこそ、友人同士、信徒同士で注意したりされたりすることも必要です。教会の役員によって譴責を受ける事も必要です。それでものらりくらりと逃げ、頑なに心を閉ざすかもしれません。その時に、主の聖晩餐に与れない、という罰でやっと目が覚めてほしい。そうしてやっと恥じ入って、非を認める時、交わりに受け入れられるのです。

「本当に赦されたのだろうか、責められるんじゃないだろうか。」

 そう思う私たちが、一緒に主の聖晩餐を頂く時、深い実感と感動をもって、私たちは赦しと交わりの回復を信じさせていただけるのです。この回復にこそ、「戒規」「矯正的訓練」の目的があります。

 私たち日本長老教会は「訓練規定」を持っています。教会の訓練について具体的に教えています。この中で、悔い改めた場合の陪餐停止は想定していません。しかし、教会の中には、悔い改めても何ヶ月か陪餐停止にする所もあります。他にもこの鍵の務めを誤解したり乱用したりしてきた事実は教会の歴史を見ると沢山見受けられます。だからこそ、正しい鍵の理解をしたいと思います。

 私たちは、間違いやすいものですから、教会の交わりを通して、教え合う事を必要としています。教会の交わりを必要としています。そして、その交わりを壊すような間違いも犯すものです。実際、教会に集まっている一人一人がそうした弱さを抱えているものです。でも、キリストの十字架の恵みによって、その私たちにも天国の鍵が開かれたのです。その恵みを受け止めて、私たちが受け入れ合う時、教会の交わりそのものが、キリストの赦しを味わわせ、見える形で天の鍵が開かれたことを示すような役割を果たすのです。責めて、追い出すための鍵ではありません。ますます主の恵みと赦しを味わい、分かち合うための戒規なのです。

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「エゼキエル書 建て直す神」エゼキエル書36章22-38節

2017-08-27 20:55:54 | 一書説教

2017/8/27 「エゼキエル書 建て直す神」エゼキエル書36章22-38節

 「みことばの光」の通読カレンダーでは今週からエゼキエル書を3ヶ月かけて読む事になっています。今日はエゼキエル書をお話しします。週報のコラムに載せたイラストはエゼキエル書に多く出て来る幻から、一章の獣と車輪の描写、三七章の一面の骨が生き返る幻、そして、最後の四〇章以降は新しい神殿が詳細に描かれる。その代表的な三つの幻を載せたものです。

1.エゼキエルの時代

 エゼキエルは紀元前六世紀の人です。ちょうど、イスラエルの歴史が「バビロン捕囚」という大きな曲がり角を曲がった時代です。神に背いて、南北に分裂したイスラエル民族が、四百年、背き続け、悪い道に走って行きました。北王国がまず滅ぼされ、その後もなお神から離れて悪い道も改めようとしない南王国も、バビロン帝国軍に包囲されて、三度にわたって主な住民がバビロンに連れて行かれました。この「捕囚」とエルサレムの陥落によって、イスラエルの民は国家としては一端終わらせられる[1]。その七十年後に、捕囚の地から帰還した民によって再建が始まりますが、エゼキエル書はそれより前、今将に国家が滅びようとしている、そういう時代です。もっと正確には、このエゼキエル自身が二回目の捕囚でバビロンに連れて行かれた中にいました。ですから、エゼキエルはエルサレムやイスラエルの地ではなく、エルサレムから八百km離れたバビロンで預言活動をしたのです。

 エゼキエル書は、一-三章でエゼキエルの召命と語られるメッセージの基本線が示されます。四章からは厳しい言葉が続きます。人々の問題、罪、道徳的な悪を指摘し、悔い改めを迫り、裁きが明言されます。四-十一章では罪と裁きの幻が託されます。特に八章以下では、エルサレム神殿で儀式的な礼拝が行われている裏で、みんなが異教の儀式も行っているというショッキングな描写がされます。そして、そのような神殿から神の栄光は離れ去っていきます。その後、十二-二四章では裁きの確実さが強くこれでもかとばかりに語られます。二五-三二章では、イスラエルの裁きに関わる周辺の諸外国に対する裁きが詳しく語られます。ここまでの内容は絶望的な状況をハッキリ浮き出します。しかし、続く三三章以降は一転して希望のメッセージです。神が民を回復してくださること、将来には新しい神殿が建てられ、国家が再建されることがとても具体的に、リアルに描写されます。絶望と希望という分かりやすい構造です。

 エゼキエルは祭司の家系に生まれた人でした。本来ならばエルサレム神殿で生贄を捧げたり儀式に携わったりして生涯仕えていたはずです。しかし、エルサレムからバビロンに移され、その神殿も形ばかりで、神が禁じた異教の宗教を持ち込んでいる事実を直視させられました。そして神から託された言葉や幻を語り、彼自身の行動や人生を通して、人に対するメッセージとなった。人に神を示し、心から神に向かわせる、ある意味では祭司の神髄を果たしたのです。

2.建て直す神

 エゼキエルが指摘した当時の風潮があります。バビロン捕囚の後、エルサレムに残った人々が「自分たちは大丈夫だ。バビロンはまもなく引き上げて自分たちは助かるに違いない。なんと言っても神殿がここにあるのだから」という、変な自信でした。エルサレムにいるのだから大丈夫、ここまで助かったのも神は私たちを大目に見て下さる証拠だ、と自惚れたのです。またバビロンにいる人々も、エルサレムが陥落する事はないだろう、早く帰りたいと考えていました。エゼキエルはそういう思い込みにハッキリ「ノー」と預言します。神は私たちの全てを見ておられて、罪を怒り、悔い改めることを望まれる。バビロン侵略は避けられない。場所や過去にしがみついて変な自信を持つのは止め、神の正しい裁きを受け入れよ。危機を免れるための悔い改めではなく、現実の危機を受け入れて、主の前に心から謙る悔い改めを迫るのです。

 そしてそのような裁きを踏まえた上で、後半は希望が語られます。主は民の罪を怒り、裁かれるだけではありません。その先にある希望、再建を語られるのです。エルサレム神殿の影の腐敗を糾弾されるだけでなく、新しい神殿のビジョンを通して、確かなご計画がある事を約束されました。神は、建て直す神、再建なさる神です。その「希望」の部分にたくさんあるメッセージから、三六章の「新しい心」を与えるという部分を今日は読みました。主はここで、民をすべての国々から集め、清い水を振りかけ、すべての汚れから清める。偶像の汚れから清めて新しい心を与える、と仰るのです。そうする事によって、神はご自身の名の聖なることを示すと仰います。

「わたしが主であることを知ろう」

と23節で言われています。

 その新しい心は、特別に高尚で聖人君子みたいな心ではありません。もっと素直で、恵みに潤された心です。25節には

「すべての汚れ…偶像の汚れから」

清めるとあるように、神ならぬものを神として虚しく追い求める生き方を止める心です[2]。26節には

「石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える」。

 石の心、頑固で強情張りな生き方から、柔らかい肉の心、素直で温かく、無理のない心になるのです。もう一つ、31節32節には自分たちの悪を認め、恥じる心ともあります。これも新しい心の特徴です。

「はずかしめを受けよ」

とはひどい気もします。しかしむしろ新しい心は、自分の非をちゃんと見つめ認めて、恥じる事が出来る心です。自分の行いそのものの恥を引き受けます。石の心は過ちを認めず、責任を逃れ、恥を隠そうとします。新しい心はもっと素直です。逃げる事なく恥を弁え、ちゃんと罪を悲しめる心です。

3.「主であることを知る」

 ただしそういう新しい心になれと命じるのではないのです。新しい心は主の約束です。人の信仰が条件ではない宣言です。主の一方的な恵みによる新しい幸いが来る。そういう将来像が語られるのです。エゼキエル書は、主の厳しい裁きとともに、驚くような再建の約束を宣言しています。人の心も新しくされ、骨を蘇らせ、神殿も再建される。そして、それこそ主の主たるゆえんなのです。主は

「悪者の死を喜ばない。彼が悔い改めて生きる事を喜ぶ」

方です。[3]

 エゼキエル書には

「彼らは、わたしが主であることを知ろう」

という言い方が繰り返し出て来ます。この三六章でも三回[4]、全体では60回以上です[5]。これは、主が大いなるお方ですべてを見ておられ、どんな悪をも裁かれ、人間のように限界や不公平がないことを味わい知る、という場合にも使われます。でもそれだけではありません。人間には絶望しかない、もうどうしようもないと諦めるような所に、善い事を始められる。人が想像もしない善い事をなさることを通して、人は

「わたしが主であることを知ろう」

と主は仰るのです。私たちに新しい心を下さる。故郷から遠いバビロンで、新しい歩みが始まる。神殿が再建される。そういう新しいことを力強くなさることで、神はご自身が人間とは違う主だと知らせて下さる、というのです。

 「恵みとは、神にしか出来ないことを神がしてくださるということ」

という一文を読んで、いい定義だなぁと胸が熱くなりました[6]。私たちは神の恵みや全能や正義を信じているはずです。しかしどこかでそれを人間的に小さく考えます。真面目すぎて「神の恵みは大きいとしても私たちの信仰や努力が足りないから十分に恵みに与れない」と思い込みます。自分たちの常識の中で、神の御業も限界があるように思いがちです。しかしそんな小さな神ではなく、神は建て直し、生かし、神でなければ出来ないことをなさるのです。罪を罪として見据えさせつつ、その先には想像を絶する祝福をお語りになります。そういう神だと私たちも知らされるのだと宣言されています。神は全知全能になった人間のような方ではありません。人とは全く違う主です。だからこそ信じるに値し、その新しい心を今欲しいと願わされるのです。石の心や神ならぬものなんか捨てて、神を仰ぐのです。現実から目を逸らさず、腹を括った生き方が出来るのです。神に信頼し、祈り、御言葉に励まされよう、エゼキエル書はそう思わせてくれます[7]

「エゼキエル書の慰めに感謝します。御子イエス・キリストの御生涯により更に豊かに驚くべき御業をなしてくださいました。どうぞその約束によって私たちを導き、柔らかな新しい心を求めさせてください。恵みと希望を分かち合って歩ませてください。その旅路である今ここでも、どうぞ私たちの思いを超えた御業を現し、あなたが主であると心から告白させてください」



[1] 伝統的な理解では、王国の南北分裂が紀元前九三〇年、北イスラエル王国の滅亡が前七二二年、北王国のバビロン捕囚が三度にわたり、前六〇五年、五九七年、五八六年です。第一回でダニエルたちが、第二回でエゼキエルたちがバビロンに移され、最後の第三回でエルサレムが陥落します。
前597年 エゼキエルのバビロン捕囚
前593年 エゼキエル、預言者に
前586年 ユダ陥落、エルサレム破壊 エゼキエルの妻、死ぬ(二四16、18)
前571年 エゼキエルの働き終了(二二年間)二九17
前538年 帰還

[2] 神ではないものに自分を救い、幸せにしてくれと求めるのは無理な話です。そういう空回りから、現実の神、生ける大いなる本当の神を神として生きるようになるのです。

[3] エゼキエル書十八23、三三11

[4] 11節、23節、38節。

[5] 六7、13、14、七4、9、27、十一10、12、15、16、十二20、十三9、14、21、23、十四8、十五7、十六62、(十七21)、二〇38、42、44、二二16、二三49、二四24、27、二五5、7、11、17、二六6、二八22、23、24、26、二九6、9、16、21、三〇8、19、25、26、三二15、三三29、三四27、(30)、三五4、三五9、三五15、三六11、23、38、三七6、13、(14)、28、三八23、三九6、(7)、22、28。63回。

[6] 豊田信行。(「恵みによって救われ、恵みによって生きる 大阪府三島郡島本町 ニューライフキリスト教会」『舟の右側』、2017年7月号11頁より) 「恵みの一般的な理解は、「受けるに値しない者に与えられるもの」だが、教会でよく言われる定義は限定的、受動的だとして、「神にしかできないことを神にしていただく」という理解に立つ。神にしかできない業=恵みであり、恵みに対して能動的な態度だ。「今日の教会では、救いの教義の中に神の恵みが押し込められていて、本来の、神にしかできない業としての恵みという視点が大きく欠落しているように思います。聖書が本当に言っている恵みと、これまで教会の中で聞いてきた恵みが違うというか、そのスケールが違う。神にしかできないことに信頼したとき、人は怠惰になるどころか、燃やされますよね。」」

[7] エゼキエル書一章に描かれる幻はそれだけでは不思議で理解不能なのですけれど、その力、全てを見抜く目、御心を行う一致などはエゼキエル書全体の希望や、主が主であるということに通じていくのです。

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