聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問103「休ませてくださる神」マタイ11章

2017-12-10 20:28:37 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2017/12/10 ハ信仰問答103「休ませてくださる神」マタイ11章

 今日は十誡の第四戒

「安息日を覚えてこれを聖とせよ」

です。十誡の中で、一番長い戒めです。読んで分かりますように、十誡が与えられたユダヤ社会では、週の六日を働き、七日目を一日、安息の日として、何の労働もせず、聖なる日として過ごす、ということです。七日目ですから、土曜日でした。今でもイスラエルでは正統派のユダヤ教徒が土曜日を一日一切の労働をしないそうです。お店も開かないし、家庭でも極力作業をしないように生きています。しかし、新訳聖書を見ますと、イエスは、当時のそのような安息日の理解に対して、大きく異なる態度を取られて、宗教家たちの強い反感を買いました。ここにはとても大切な、沢山の事が込められています。その全てをお話しすることは出来ません。今日もハイデルベルグ信仰問答に沿って、短くお話しします。

問103 第四戒で神は何を望んでおられますか。

答 神が望んでおられることは、第一に、説教の務めと教育活動が維持されて、わたしが、とりわけ休みの日には神の集会に勤勉に集い、神の言葉を学び、聖礼典にあずかり、公に主に呼びかけ、キリスト教的な献げ物をする、ということ。第二に、わたしが、生涯のすべての日において、自分の邪悪な業を休み、御霊を通して主にわたしの内で働いていただき、こうして永遠の安息をこの生涯において始めるようになる、ということです。

 この答で分かるように、ハイデルベルグ信仰問答も余り深く長い説明はしていません。ただ、一つには

「休みの日」

日曜日には神の集会に集い、御言葉を学び、聖礼典に預かり、一緒に祈りや賛美を献げよう、そして献金をしよう。もう一つは、安息日だけでなく、生涯の全ての日において、永遠の安息をもうこの生涯において始めるようになる。それが安息日において神が望んでおられることなのだ。その二つに絞っています。日曜日を、教会において過ごす、というとても具体的な実際的なことと、永遠の安息がいまここでの毎日において始まる、というとても大きな、想像しづらいこと。その二つが、この第四戒を通して教えられているのだ、ということです。

 イエスは仰いました。

マタイ十一28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。

 これは教会の看板や集会案内、HPに大きく書かれていることの多い有名な言葉です。ここに

「休ませて…安らぎ」

という言葉が出て来ます。それは、今日の

「安息日」

と通じます。それは「教会にいらっしゃい、日曜日の礼拝に是非ご一緒ください」という具体的なお誘いでもありますし、同時に、イエスが下さるのは永遠の安息であり、イエスを通して、今ここで安らぎのある毎日を送ることが始まる、という意味でもあります。日曜日だけ、慌ただしい世間を離れて、教会の礼拝に来て、現実逃避や休息をする、という意味ではありません。イエスとともに歩み、イエスから学び、イエスから託された軛や荷を担う生き方をする時、いつでもどこでも、魂に安らぎを得ながら歩む、ということです。そしてそれを味わう始まりが、毎週、仕事の手を休めて、礼拝に来て、こうして一緒に過ごすような時間の使い方にあるのだ、ということです。

 イエスは

「全て疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい」

と言われました。「全て立派な人、良いことをした人、頑張った人」とは言われませんでした。イエスが下さる「休み」は「ご褒美」ではないのです。全て疲れた人、重荷を負っている人を休ませて、休息を下さると仰いました。イエスは、休ませてくださるお方です。無条件に休ませてあげようと言って下さる神です。イエスはご自身を

「安息日の主」

と名乗られました。そして、それはイエスを通してハッキリと知らされる、聖書の神のとてもユニークな本質です。

 第四戒の安息日律法の根拠は、神が六日間で世界を造られ、七日目に休まれたことにある、とありました。神が休まれた。勿論、神は世界を造って疲れたから休みたかったのではないはずです。世界を治め、今も原子やクォークから銀河に至るまで神はすべて支配しておられる全能で無限のお方ですから。また、何か神が淋しくて、何か物足りなくて世界を造られたとも考えられません。聖書に出て来るのは、神がこの世界を造られ、それを美しいものとして愛でられ、眺めて祝福されたことです。そしてその祝福を楽しみ、一緒に喜ぶようにと、神は人間をお造りになり、一緒に休んで喜ぼう、楽しもう、と言われるのです。神が人間に求められるのは、神が造られた世界の中で一緒に喜び、楽しみ、祝うことです。そして、やがて永遠に安息をする世界へと入れたい、そのために、全ての人に

「わたしのもとに来なさい」

と言われる神です。

 左は、それを図にしてみた神の創造の世界です。神の創造が土台になり、その土台の上で人間が作られて、存在し、労働も休みも与えられています。とても安定しています。しかし、そのような神を知らない人間中心の考えが右です。神という土台がないので、信頼できるものがなく、いつも自分の努力をしていなければ安心できません。自分が頑張れば神も祝福してくださるかもしれないし、頑張らない人には休みももらえない。土台は自分たちの努力次第、ということになります。神が安息の主だとは思いもしません。

 安息日は、そのような人間の考えを脇に置いて、神の前に静まり、世界を楽しみ、神を心から賛美する日です。言わば自分が働かなくても、世界はちゃんと回っている、ということを謙虚に覚えるのです。神を礼拝し、イエス・キリストの恵みを覚えて、自分の頑張りや企みやプライドや不安も、全て主にお委ねするのです。やがて、神の安息がこの世界を覆う時が来る。主が私たちの功績や努力によってではなく、恵みによってその安息に迎え入れられる日が始まる。その日を待ち望んで、今ここでも安息日を休みつつ、六日間は精一杯働きつつ、ともに休める社会、恵みに立った生き方、疲れている人が憩いを得て生きていける社会を造るのです。日曜に行事の多い、また日曜しか休めない日本で、私たちが本当に安息の礼拝の日とすることには知恵や柔軟性が必要です。でもその根底にあるのは、教会で忙しくする日曜日ではなく、働き過ぎる空回りを止めて、安息の主を礼拝して、私たちが安息へとともに招かれていることなのです。

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マタイの福音書1章18-25節「友なる神」

2017-12-10 20:25:11 | クリスマス

2017/12/10 マタイの福音書1章18-25節「友なる神」

1.王の誕生

 アドベントの第二週として、マタイの一章を開きました。お馴染みの箇所ですが、もう一度、この箇所から主イエスのお生まれを覚えましょう。聖書を読み始めようと新約聖書を開くと最初に書かれているのが、聞き慣れないユダヤ人の名前尽くしで読む気を削がれてしまうような系図です。これは旧約聖書の歴史の振り返りです。アブラハムから始まり、ダビデ王を頂点として、やがてバビロン捕囚に至った、旧約聖書の歴史が、ここに凝縮されているのです。神が世界の祝福のために選んでくださったのがアブラハムとその子孫でした。そこから王になるダビデがやがて生まれましたが、その後のイスラエル王国は神に背き続けて、遂にバビロンが責めてきて、イスラエルの王家や主立った人たちは捕囚となってバビロンに連れて行かれました。そうしてバビロンから帰ってきた人々が、イスラエルを細々と再建したけれど、その末裔のヨセフは王位継承者とは名ばかりの、一庶民として生きている、そういう始まりなのです。でもそのヨセフが婚約していたマリアが、聖霊によって身ごもって、王位を継ぐ方が生まれる。それがイエス・キリストの始まりなのだ、というとても深い繋がりになっているのです。

 マタイの福音書はイエス・キリストを王として紹介します。アブラハムの直系で、ダビデ王の王位を継承した方がイエス・キリストです。ただ優しく素晴らしい方ではなく、聖書の歴史を貫いてきた系図を引き継いで完成させなさる王なのです。そしてその誕生は、この系図や旧約聖書が示すとおり、沢山の失敗や罪や問題だらけの歩みをしてきた末にやって来た誕生でした。ヨセフ自身、王位とは無縁の生活をしていた人で、マリアの身ごもったことを聞いて、喜んだり受け入れたりするどころか、ひそかに離縁しようとしたのです。そういうヨセフの所に、イエスの誕生が与えられた。私たちはつい、マリアを中心にクリスマスを考えて、このエピソードも「裏話」のように思います。マリアとイエスがメインでヨセフはサポーターのように聞きがちです。そういう先入観を脇に置いて、旧約からこのマタイ一章へと読み進めていくなら、この出来事が、ヨセフにとってどれほど深い意味や励ましだったかに気づくのです。

2.「正しい人」ヨセフ

19夫のヨセフは正しい人で、マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った。

 この「正しい」の理解には幾つかの可能性があります。聖書の律法では姦淫は死刑でした。婚約とは結婚と同じ重みがあり、婚約者の子ならぬ子を宿すことは処刑に当たりました。ヨセフはそういう律法の基準を知って、重んじる正しい人でしたが、マリアをさらし者にはしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った、とも読めます。

 或いはそういう杓子定規な冷たい人ではなく、ヨセフは本当に正しい人だったからこそ、マリアをさらし者にせずに秘かに離縁して去らせることにした、とも説明できます。自分が「婚約者に逃げられた」とか「何故か破談になった」とか噂されようと、汚名をかぶってでもマリアを守ろうとした。ヨセフが本当の意味で正しい人だった、という理解です。

 もう一つは、マリアが聖霊によって身ごもったと分かったからこそ、「正しい」ヨセフは身を引こうとし、ただマリアをさらし者にしないよう、秘かに離縁を図ったのではとも思うのです。

 しかし、ヨセフが思い悩んでいた夜、

20…見よ、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。

 御使いはヨセフの心の

「恐れ」

を指摘します。ヨセフの

「正しさ」

が何であれ、その奥には恐れがありました。それは「律法を守らなければ」という恐れだったかも知れません。マリアと離縁するにしても「さらし者にする」ことへの恐れだったかも知れません。あるいは自分なんかが聖霊によって身ごもって特別な子を産む特別なマリアと結婚することへの恐れだったかも知れません。自分と血の繋がっていない子を愛せるだろうか、自分の子でない子を宿したマリアを愛せるだろうか、という不安だったかも知れません。いずれにせよヨセフは、マリアを秘かに離縁しようと決心しながら逡巡しました。正しい彼の願いは、どうすることが本当に正しいのかという迷い、恐れがつきまとっていました。婚約者が自分の子でない子を身ごもる、という展開は想定外だったでしょう。

 想定外のこと、自分の物差しや基準や経験では対処できない事態に直面した時、私たちは恐れます。自分の経験や基準だけでバッサリ切り捨てることも出来るけれど、それでいいのか。或いはその状況を庇(かば)い、黙認して、なかったことにする、そういう処理の仕方も出来るけれど、それもそれでいいのか、迷うのかも知れません。人間が自分でもっと正しくなり、間違いを糺し、厳格に罪を処罰しようともします。あるいは罪を庇い、問題に蓋をし、遠ざければ解決しようとします。正しい方である神に対して、どうすることが正しいのか、人間は迷い、恐れながら、ますます戦いや断絶を造ってしまうのです。

 主の使いが告げたのはそうした方法よりも、もっと深い

「恐れ」

を取り扱います。恐れることはない、マリアを迎えよ。その子は聖霊によって宿った子だ、この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方だ。その方は恐れや人の正しさよりも大きなお方だ、というようです。

3.神は「とも」に

 生まれる子どもに名付けよと命じられる

「イエス」

とは「主は救い」という意味です。この方こそご自分の民をその罪から救ってくださる方だ、と言います。人間の罪というのは抽象的な問題ではありません。それは旧約聖書においてとてもリアルに描かれます。アブラハム、ダビデ、ヨセフに至る系図で明らかですし、人間が神を裏切ったり、戦争をしたり家族で傷つけ合ったり、関係を壊したり、恐れや疑いで行動してしまうことにも現れています。そういう歴史の末ともいえるここで、神が示してくださったのは、神が罪からの救い主を送って下さるという道です。神ご自身が、マリアの胎に宿って、罪から民を救って下さるという希望です。正しくない人間、正しくあろうと願いながらも、どうすればいいのか分からずにいる人間のために、神ご自身が来て下さった。この方が私たちの王になり、恐れや心配を取り除いてくださる。

 23節は、旧約聖書のイザヤ書七章に出て来る言葉です。これもまた、イスラエルの歴史でも最悪の王の一人アハズ王が神に背いた生き方を晒している時の出来事です。神を信じない、恐れや問題に向き合えない、そういう人間に対して、神が強くこの言葉を仰ったのです。しかしそれはアハズから何百年も先のイエスの誕生を預言しただけではありません。この時、主はイザヤに自分の幼い子どもを連れて行け、と言われています。その子どもを脇に立たせながら、イザヤはアハズ王に

「男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」

と告げるのです。イザヤの脇に子どもがいるように、神は私たちとともにおられる。いや、その「ともにいる神」をそのまま現すような赤ちゃんが生まれる、と仰いました[1]。そして、そのイエスこそ全世界の王であり、今も私たちとともにおられ、私たちにどんな罪や問題や恐れがあろうとも、それでもともにいてくださる、というのです。神は、私たちとともにおられる王です。私たちの恐れや罪や過去や限界も全部承知の上で、私たちから決して離れず、ともにいてくださる。文字通りの「友」、心の理解者です。私たちが正しく生きれば罪を赦してやろう、というお方であれば、私たちの心の底の恐れや不安は決して拭えません。イエスは、私たちのちっぽけな正義や経験よりももっと大きくて、私たちがどんなに不安や恐れに囚われているかもちゃんと見抜いておられます。そういう友の存在こそが、私たちを恐れから自由にして、愛や友情に裏付けられた正しい生き方へと進ませてくれます。それは本当に素晴らしい「救い」です。

「主が私たちを罪から救い、私たちとともにおられます。それゆえ、私たちもお互いに、恐れたり小さな物差しで裁いたりせず、大きな主の御手の中に、あなたの民としてともに歩んで行くことが出来ます。罪や限界さえもあなたが取り扱って、恵みにしてくださいます。そのあなたの良き御支配を心から告白し、あなたが王として完全においでになる日を待ち望みます」



[1] 赤ん坊の形で。七14、3、八8、10も。九章、一一章と、小さな子どものイメージ。実際のイザヤの子ども同伴も。

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