聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2017クリスマス礼拝 ルカの福音書2章8-20節「歩み寄る神」

2017-12-24 22:39:35 | クリスマス

2017/12/24 ルカの福音書2章8-20節「歩み寄る神」

1.羊飼いへの知らせ

 今日、世界中で祝われるようになったクリスマスは、イエス・キリストのお生まれを祝うお祭りです。イエスを忘れたドンチャン騒ぎやただのロマンチックな季節になっているとしても、こんなに世界に広まったほど、キリストの誕生の喜びは大きな喜びだったのです。その最初は決して華やかではありませんでした。また、その喜びや素晴らしさを賑やかに盛り上げることもありませんでした。それが野原の羊飼いたちに知らされ、羊飼いたちを通して、多くの人がキリストの誕生を知らされたということは、人間の常識や予想を超えた、驚きだったのです。

さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。

すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

 ベツレヘム周辺のどこかで羊の群れを守っていた羊飼いに主の使いが現れ、主の栄光で照らしたのです。その時、彼らは「ウットリ」や「ビックリ」を超えて「非常に恐れた」のです[1]

10御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。11今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 救い主がお生まれになった。この神の民全体への大きな喜びを真っ先に告げ知らされるのが、羊飼いだとは誰も、本人たちさえ思いもしませんでした。神はそんな意外な人選をなさいます。

 こういうと、私たちは「きっとそれには訳があるに違いない。羊飼いたちが人一倍熱心だったから、実は信仰深かったから」などと原因を求めたがります。聖書はそういうことはひと言も言っていません。でもそれこそ、私たちにとっての慰めですね。神は、信仰深いか、よいクリスチャンか、資格や価値があるかどうかで人を選ぶのではなく、そういう眼中にない人の所に来て下さるのです。神御自身が、私たちの所に歩み寄ってくださって、予想もしなかった「大きな喜び」を知らせてくださるのです。それも勿体ないほどの大きな喜びです。

 神の知らせが羊飼いたちに選ばれた、というギャップだけではありません。

12あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」

 救い主がお生まれになったこと、その方が貧しい庶民と同じように「布にくるまって飼葉桶に寝ている」こと、それこそあなたがた(貧しい羊飼いたち)のためだというしるしだ、ということ。どれもが不思議で意外です。それともう一つ、しみじみと思うのが13節です。

13すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。

14「いと高き所で、栄光が神にあるように。
地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」

2.天の軍勢が現れて

 羊飼いはたった何人かだったでしょう[2]。せいぜい多目に見ても

「おびただしい天の軍勢」

の前には大差ないでしょう。天使の軍勢の大合唱というまたとない光景の観客としては甚だ物足りなくはありませんか。せっかくの大演奏なら、もっと場所や規模や人数を選んで相応しく、と私たちは考えます。でも、ここでは、数人の貧しい夜勤の労働者、雇われ作業者の前に、御使いの大軍勢が現れて、神を賛美するのです。「フラッシュモブ」というのがあります。公共の場でいきなりダンスや歌や演奏が始まるようなパフォーマンスです。あまり押しつけがましくて迷惑な場合もありますが、よく考えられて準備されたパフォーマンスは素晴らしい。皆が笑顔になり、幸せになります。予想もしなかった、楽しい美しいものに触れるのは、将に恵みの味わいです。私も四国に来て、特にこの一年、三好の祖谷や高知や愛媛を訪ねて、美しい景色を見て心が洗われるような思いに何度もなりました。イエスは

「自分の敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子どもになるためです。父はご自分の太陽を悪人にも善人にも昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからです。」

と仰いました[3]。「太陽や雨が誰にも同じように注ぐのは当たり前の自然現象ではないか」と思うところですが、イエスは太陽が昇り、雨が降るのは、その一人一人への神の赦し、和解、愛のしるしなのだとサラッと仰るのです。私たちが凹んだり後悔したり孤独な時、美しい音楽や雄大な景色や思いがけない出会いがあって泣けてくるのは、赦しや愛を体験しているから、心の奥の何とも言えない渇いた所に水がしみ通るからではないでしょうか。

 羊飼いたちに天の大軍勢が現れて、神への賛美を聞かせたこと。天の芸術を一握りの羊飼いたちに惜しげなく聞かせたこと。それは羊飼いたちにとって、神の限りない恵みの体験でした。

3.栄光が神に、平和がみこころにかなう人々に

 この賛美は短いながら、クリスマスの讃美歌やミサ曲の「グローリア」、数え切れないバリエーションに歌われて、素晴らしい合唱に再現されてきました。実際これがどれほど美しく力強い歌声だったかは想像の域を出ません[4]。ただその賛美の中身はハッキリしています。

「いと高きところで神に栄光、地の上で平和がみこころにかなう人々に」

 ここで平和は

「御心にかなう人々に」

であって、「すべての人」とは言われません。けれどもこれを聞かされた羊飼いたちにとって他人事であるはずがありません。彼らは自分が御心にかなう人とは思ってもいなかったでしょう。その羊飼いたちをも神が顧みて、神の方から歩み寄ってくださり、平和を下さるのです。私たちも、自分が神に叶うように、神を喜ばせるような生き方に励む以前に、まず神が私たちに歩み寄り、勿体ないという言葉では到底足りないほどの恵みを下さり、私たちを治め、素晴らしい喜びを戴くのです。神の民として救われて、神の御心にかなう者としていただくのです。その御心を拒んだまま、自分勝手な平和や幸せを望むことは出来ません。怖ろしいほどに尊い神の御心を軽んじたまま、安全や自分の願いだけを求めることは何を願っているか分からないだけです。太陽も雨も、自分の命も喜びも、素晴らしいもの、美しいもの全てを下さっている神の御心に触れられて、私たちが神の民とされて、平和が来るのです。

 その平和をもたらすため世界の主であるキリストがこの世に来られました。野原の羊飼いたちに知らせ、天使の大合唱を聞かせてまで、神に栄光、地に平和、と力強く約束なさいました。飼葉桶に寝ているみどりごは本当に小さな存在です。それをロマンチックに考え、教会でも毎年忙しく祝いながら、どこかで自分の生活や、毎日の仕事、世界の争い、そして自分自身にため息をついてしまうものです。そうしてため息をついている私たちの所に、キリストが来てくださったのです。地の上に争いや差別でなく、平和をもたらし、私たちを御心にかなう人と呼ばれます。そのために、神御自身が限りなく身を低くし、貧しい子のような形で寄り添い、喜びの歌を望外の形で届けてくださいました。天の軍勢が歌い上げる大きな神の恵みを、私たちも聴いています。惜しげもなく、神は私たちにこの平和の知らせを伝えておられます。

 キリストの低い御生涯は、羊飼いを始め全ての人に平和をもたらす始まりです。今も主は人の心の奥深くに、この世界の隅々に働いて、地の上に本当の平和を造っておられます。やがて狼と小羊が、羊飼いと王、人種も敵味方も一緒に主の民とされて、神を心からあがめる平和へと、私たちは進んでいます。その道は平坦ではありません。だからこそ、キリストが約束してくださった平和へと歩んでいる、という信仰は、どんな武器や脅しよりも強いのです。この希望が、どんな悪政や差別や搾取をも覆すのです。平和が今もすべての人に届きますよう、悲しみや争いの中にある人にこそキリストの喜びの歌が届くために、遣わされたいと思います。

「主がこの世界に来られ、羊飼いに平和の歌声を聞かせてくださいました。その喜びが世界に溢れています。あなた御自身が、私たちの所に来られて、平和となってくださいました。どうぞあなたの恵みによって私たちがこの恵みを十分に味わい、感謝し喜び歩めますように。今その平和を目指し、分け隔てなくこの平和を届け生きることで、クリスマスを祝えますように」



[1] 現代の多くのクリスマスの絵では、ぷっくらした可愛らしい天使がニコニコした羊飼いたちと可愛い羊たちの周りで歌っている、というのどかな光景が描かれます。聖書のオリジナル版や数々の名画では天使は可愛いよりも威厳があって圧倒するような輝きがあって、羊飼いたちは驚いて顔をかばって描かれ、そして羊はたいてい無関心です。

[2] やとわれ羊飼いで、当時の群れの規模を考えても、そう大人数ではなかったと想像します。また、後でマリアとヨセフと飼葉桶のみどりごを捜して、羊たちとともに行けるのも、あまりの大人数では難しいでしょう。どんなに多いとしても、御使いの軍勢ほどとは思えません。

[3] マタイ五44、45。

[4] そもそも人が思うような美しさとは全く違うものだったのかもしれません。神の国の文化は、西洋の音楽のイメージだけではなく、世界中の言語や文化の多様性を含めた、バラエティ豊かなものなのですから。

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2017燭火礼拝 マタイの福音書2章1-12節「あなたの王は」

2017-12-24 22:36:58 | クリスマス

2017/12/24 マタイの福音書2章1-12節「あなたの王は」燭火礼拝

 クリスマスはイエス・キリストの誕生をお祝いする祭りから始まりました。イエス・キリストが私たちのためにこの世界にお生まれ下さった、その喜びが本当に喜びや感謝になって、ご馳走や沢山の綺麗な歌や美しい景色を産み出してきました。それぐらい、キリストが来て下さったのは、すべての人にとって喜びに満ちた、大きなプレゼントなのです。

 マタイ二章にはイエスがお生まれになった時の事が書かれています。当時ユダヤの国を治めていたヘロデ王と、東の方からやって来た博士たちの礼拝が並べて書かれています。ヘロデ王はキリストのお生まれの知らせを聞いて動揺しました。「俺の王座が奪われる」と恐れたのでしょうか。民衆の気持ちが自分から離れることを恐れたのでしょうか。この後、ヘロデ王は博士たちを呼び、情報提供をコッソリ求めます。しかし、後で博士たちが秘かに帰ったと知った王は、ベツレヘム近郊の二歳以下の子どもたちを皆殺しにします。大変な残虐な行動をするのです。ヘロデは他にも沢山残虐な事をした人です。政治的手腕のある賢い人でしたが、とても疑い深く、不安で、腹を立てやすい人でした。こういう王の下で生きるのは怖ろしいことです。

 イエスは、そのヘロデ王の時代に、お膝元で

「ユダヤ人の王」

としてお生まれになりました。私たちを治めておられる本当の王は、ヘロデではなく、お生まれになったキリストだ、というのです。そして、博士たちはその王イエスの所に行って、喜んで、宝の贈り物を献げたのです。古い讃美歌ではこの博士たちを「王」と呼んで歌っているものが多くあります。賢者、学者、高貴な身分の人でした。ヘロデとは対照的に、彼らはキリストのお生まれを聞いて、遠くからの度も厭わずにやって来て、まだ幼子の王の前にひれ伏し礼拝し、贈り物を献げて、それだけで帰って行きました。何とヘロデと対照的な姿でしょうか。

 自分の地位や名誉に固執して、嘘や暴力で自分を守るヘロデの姿はとても醜く、悲しく、怖ろしいものです。しかし、こうした姿は今でも世界に見ることが出来ます。ミサイルや兵器や権力で脅したり、人の命を奪ったり、という一国の支配者の狂ったような行動は、今年、私たちを不安にしました。もっと身近な所でも、暴力や強攻策で人を押しのける人がいます。そういう人は強いのではなく、反対に怖いから、弱くて必死だから、力で守ろうとするのです。自分自身もそういう所があるでしょう。自分の負けや弱さや間違いや無知を認めるのが怖くて、強い言い方をしてしまいます。悲しかった、と言うよりも、相手を非難します。恥ずかしかった、と認めるよりも、相手も同じ思いをすれば良いと意地悪を考えるのです。

 イエスはそういう私たちとは全く違いました。神は、ヘロデを罰したり圧倒したりエルサレム毎吹き飛ばすことも出来たでしょう。こんな不甲斐ない人間なんて地球毎捻り潰そうと思えば出来たでしょう。しかし神が取られた方法は、滅ぼさないどころか、神の子キリスト御自身が赤ん坊の姿で人間のところに来られる、という方法でした。全く無防備で、小さく、危険にも身を守る術のない子どもとして、この世においでになったのです。
 この前の一章で、キリストは

「神が私たちとともにおられる」

ということそのもののだと言われていました。神が私たちとともにおられる。いつもともにおられます。健康の時も病気の時も、豊かな時、貧しい時、喜びの時、悲しみの時も、神は私たちとともにおられます。地位や権力があろうとあるまいと、人がみんなそばから離れてしまっても、心に恐れや不安があり、弱さや失敗を恥じていても、こんな自分ではダメに違いないと思い、自分で自分に愛想を尽かしたとしても、神は私たちのそのままをご存じの上で、愛想を尽かすことなく、私たちとともにいてくださるのです。この世界の本当の王である神は、幼子として民の真ん中においでになりました。

 マーシャル・ローゼンバーグという方が

「あなたがそこにいることは、あなたが他の人に与えることの出来る、最も尊い贈り物です」

という言葉です。誰かのそばにいってそこに一緒にいる。それは何よりも美しい贈り物だ、というのです。まさに神の子イエスは私たちとともにいることを、人となることで示してくださいました。それは最も尊い贈り物です。それは、私たちをその最も美しい贈り物を受ける相手として選んで下さった、ということでもあります。私たちの貧しさや問題や暴力や闇をすべて承知の上で、なお私たちに御自身を贈ってくださったのです。私たちをともにいる相手として選んで下さったのです。

 博士たちはそのイエスを喜んでお祝いしに来ました。その遠い旅行や高価な宝物もすばらしいですが、それが惜しくないぐらい、博士たちはイエスの誕生を喜んだのです。それぐらい彼らもまた、怯えていたのでしょう。悩んで、求めていたのでしょう。だからこそ、イエスの前にやって来て、礼拝して、帰って行ったのです。
 ヘロデもこうしたら良かったのです。キリストという王がおいでになったと怯えて、必死で守ろうとするのではなく、彼もイエスのもとに行けば良かったのです。自分の恐れや孤独や不安をそのまま認めて、そういう自分の所に来られた真の王の前にひれ伏せばよかったのです。

 私たちの王は、このイエスです。軍事力や経済力を振りかざす怯えた人間ではありませんし、ヘロデのように力や嘘や怒りでは本当の平和は来ません。今ある関係の中にキリストが来て下さいました。私たちを受け入れて、ともにいてくださる王としてキリストが来られました。そこで、私たちも互いを受け入れ合い、ともにいて、また相手の差し出してくれるものを喜んで受け取り合う、本当の平和が始まったのです。

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