聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問125「必要を満たす神」申命記8章1-11節

2018-06-03 17:26:59 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/3 ハ信仰問答125「必要を満たす神」申命記8章1-11節

 「主の祈り」は六つの願いを持っています。四つ目から「私たち」の祈りです。その第一は

「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」。

 朝の礼拝でも使っている古い文語文の祈りでは

「我らの日用の糧を今日も与えたまえ」

です。当たり前ですが「日用」とは日曜日の事ではなく、毎日のとか今日のという意味ですよ。考えてみると、日曜日、礼拝に来た時に、みことばの糧を戴くのが信仰で、イエスが教えて下さった祈りも、教会で魂を養われるよう「日曜日の糧を与えたまえ」でも可笑しくはないかもしれません。そう思うと、イエスが教えてくださったのが「日曜日の糧」ではなく「日毎の糧」、月曜日から土曜日までも含めた、毎日の食事の事だったのは、とても不思議だとも言えます。英語では「Give us today our daily bread」、私たちの毎日のパンを与えてください、です。本当にパンという言葉です。日曜日の魂の糧、という高尚な祈りではなくて、毎日のパン、ご飯、食事を求めなさい。そうイエスは教えてくださったのです。

問125 第四の願いは何ですか。

答 「私たちの日毎の糧を今日もお与えください」です。すなわち、わたしたちに肉体的な必要のすべてを備えてください、それによって、わたしたちが、あなたこそよきものすべての唯一の源であられること、また、わたしたちの心配りや動きもあなたの賜物でさえも、あなたの祝福なしにはわたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください、ということです。

 ここではハッキリと教えられています。私たちが神に、自分に必要なすべてを備えてくださるよう祈る。そうする事によって、私たちは、天の父こそ良きものすべての唯一の源であられることを思い起こすのです。こう祈るのは、私たちが毎日の食事に困っているからではありませんね。今日食べるパンがあっても、明日や明後日の食事にさえ困らなくても、それでもこの祈りを祈るのです。衣食住の心配が全くない時こそ、神様抜きに自分の力で食べ物を手に入れているとか、食べるものや今の生活があるのが当たり前かのように思う事なく、祈るのです。私たちが祈るより先に、私たちに必要な全てのことを天の父が下さったのです。私たちが祈らずに食べていた今日のパンも、神が与えてくださっていたパンだったのです。着る物も、住む家も、健康も、私たちの肉体的に必要な全てを備えてくださったのは天の父です。決して当たり前ではありません。そのようにして、私たちが、神の養いの中に日々、一歩一歩あることを認めるのです。

 今日読んだ申命記の言葉では、モーセがイスラエルの民にその事を思い出させていました。イスラエルの民がエジプトを出てから四十年、荒野をさ迷った末に、いよいよ約束の地に入るに当たって語られたのが申命記です。そこでモーセは四十年を振り返って神が下さった、

「マナ」

という食べ物の事を思い出させます。毎朝、イスラエルの民の周りにはマナが降りて来て、その日その日の食糧になりました。それは、主がイスラエルの民に、人が生きるのはパンではなく、主によってなのだと、身をもって教えるためだったのだ、と言われています。そしてその証左に、着る物や履き物が丈夫に守られてきたことを挙げています。更には、これから入って行く土地が、豊かな穀物や果物、オリーブなどを生えさせている地であることも視野に入れていました。主が毎日、必要なものを下さった。それを覚えていなさい。その事はイスラエルの民だけでなく、私たちにも言われていますね。私たちの毎日の食事も、神が下さったものなのです。「私たちの日毎の糧を今日もお与え下さい」の祈りは、その事を思い出させてくれる祈りです。

 それは神に向かい

「あなたこそ良きもの全ての唯一の源であられる」

という告白でもあります。神は私たちを、食べ物がなくても生きられる強い存在として作られることをせず、人間が食べたり眠ったり、愛されたり認められたり、安心したり成長したりすることを必要とするようにお造りになりました。

 以前もお話ししたように、人間には九つのニーズがあるとも言われています。パンだけで良いのではなくて、色々な必要を持っています。もしこうした関係を抜きにパンだけ与えられても、赤ちゃんは生きていけないのだそうです。神は私たちをそうした様々なニーズに支えられて生きる存在としてお造りになりました。そして、それを私たちに下さるお方です。主こそ、私たちに必要を下さる

「良きもの全ての唯一の源」

であられます。そして、私たちがこのような必要を戴く事を通して、ますます神に信頼し、神の子どもとして成長し、助け合い、生かし合い、良いものを分け合っていくようになる。パンを通して、ニーズが満たされることを通して、ますます天の父を信頼し、天の父をほめ称えるようになるのです。

 もし、この主への信頼無くしてパンだけを求めるなら、それは私たちを益しません。

 …わたしたちの心配りや動きもあなたの賜物でさえも、あなたの祝福なしにはわたしたちの益にならないことを知り、そうしてわたしたちが、自分の信頼をあらゆる被造物から取り去り、ただあなたの上にのみ置くようにさせてください…

 主が祝福して下さるとは、私たちがパンや食べる物、欲しい物を全て戴く事ではありません。食事や健康やお金、私たちの心配や労働や、神様からの贈り物でさえ、それだけを私たちがもらうだけで抱え込んでしまうならば、それは神様の豊かな祝福を拒み、結局は自分を益することがありません。

 もしあなたが欲しい物があったら全て祈って下さい。「こんな事を祈るのは恥ずかしい」と思うような事であれば、そう思う事で手放すことが出来るでしょう。無くてはならないわけではない物は無くても良いのだと思えることはとても大事なことです。

 主の祈りで私たちはいつも

「私たちの日毎の糧」

「私たちの天の父」

と祈ります。「私の」ではないのです。自分のためにだけ祈って、必要が満たされれば良いとするような祈りを主は教えられませんでした。「私たちの」ために祈る祈りを、自分だけでなく、他の人、天の神を「天にいます私たちの父」と呼ぶ全ての人とともに祈る祈りを授けてくださいました。そうした祈りを私たちが祈る時に、私たちは天の父を見上げるだけでなく、周りの人も見えてきます。とりわけ、食べ物がない人のことが見えてきます。食べ物があっても、心が飢え渇いている人もいます。イエスは自分のためだけでなく、人とも手を繫いで、必要を満たす生き方へと私たちを招かれます。その変化こそは、私たちにとって必要な、本当に益となる祝福なのです。

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使徒の働き二四章10-27節「希望の力」

2018-06-03 17:21:50 | 使徒の働き

2018/6/3 使徒の働き二四章10-27節「希望の力」

 久し振りの「使徒の働き」ですが、使徒パウロがエルサレムの神殿で暴徒たちに掴まって殺される所をローマ兵に助け出されて、カイサリアに移送されるまでが二三章までの記事でした。今日の二四章は、ローマ総督フェリクスの裁判で、パウロが自分の弁明をした箇所です。

1.自己主張よりも

 大祭司側から出された弁護士テルティロの言葉は2~9節にあります。パウロを騒動罪や宮を汚そうとしたと訴えています。その訴えに対してパウロは冷静に反論します。10節で短く総督への口上を述べた後、自分がエルサレムに上ってからまだ日が浅いこと、自分が論争や扇動をしていることは誰も観ていないこと、エルサレムに来たのは同胞に施しをするためで、宮に上ったのも儀式に参加するためだった、と一つ一つ丁寧に答えています。事実は事実で、変えようがないのですから、焦ったり向きになったりせずに、冷静に語っています。かつてのパウロは頭に血が上ってステパノを石打ちにした人です。そのパウロが、ここでこんなに冷静に、落ち着いて語るように変わっている。神は人を変えてくださる方です。パウロがスゴいのではなくて、パウロを取り扱い、助け、落ち着かせてくださる主は、今も私たちに働いて、裁判所や議会や為政者の前でも弁明させてくださる、と思うと嬉しくなります。同時に、ここでパウロは決して、自分の身の潔白を晴らそうとするだけではありません。

14ただ、私は閣下の前で、次のことは認めます。私は、彼らが分派と呼んでいるこの道にしたがって、私たちの先祖の神に仕えています。私は、律法にかなうことと、預言者たちの書に書かれていることを、すべて信じています。

 これはパウロが裁判で要求されている以上の発言でしょう。根拠のない中傷を反論するだけでも良かったでしょうに、パウロは自分の立場を総督に伝えようとします。大祭司たちは「分派」と呼んで異端視していますが、パウロの生き方はナザレ人イエスの道に従って、先祖の神、聖書において御自身を啓示されて、イスラエルの民が証ししてきた主なる神を礼拝し、「律法…預言者」即ち旧約聖書に書かれていることをすべて信じています。更には

15また私は、正しい者も正しくない者も復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神に対して抱いています。

と自分の希望を語るのです。自己主張や弁明、汚名返上より、希望を証ししたいのです。かなりの自由があったとはいえ(23)未決囚としてカイサリアに留められ、そのまま二年もズルズルと自由を奪われていたのですが(27)、それでも釈放よりも信仰を語ったのです。ピリピ書ではハッキリと自分が投獄されたことが福音の前身に役立ったと知って欲しい、と言っています[1]。誰にとっても名誉や世間体は第一の関心事ではなく、もっと大事なものがあるのです。

2.希望と良心

 ここでパウロはひと言も「イエス・キリスト」の名前を言いません。「イエスを信じるなら救われる」と迫る伝道メッセージの枠から大きくはみ出した証しです。彼は二度復活に触れています。死者の復活を自分は信じている、という確信をフェリクスにぶつけます。でもその復活は「その審判の時にも裁かれないようイエスを信じなさい」という方向ではなく、

16そのために、私はいつも、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つように、最善を尽くしています。

という今の生き方に芯を与えているというのです。今ここで、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つ。神の前にも人の前にも恥ずかしくない生き方をしようと最善を尽くす。キリストが下さった希望が、今の生き方にとても健全な筋を通してくれる、というのです。

 この後裁判を一旦閉じてからもフェリクスはパウロを呼び出して、イエスに対する信仰について話を聴きます(24-25)[2]。パウロは

「正義と節制と来たるべきさばきについて論じた」

とあります。先の

「復活という希望のゆえに、良心を保とう」

とは順序は逆ですが、同じ一貫した生き方です。

「フェリクスは恐ろしく」

なったのですが、パウロは脅したかったのではないでしょう。抑もキリスト教の「福音」は「希望」であって、最後の審判で脅して、その裁きや地獄が怖ければイエスを信じるだけで救われる、と脅迫するものではありません。最近のアメフトの危険プレーや映画界のセクハラ問題、そして政治の世界でも、実力や権力を持っていることが「自分は特別だ」とか「暴力や隠蔽、賄賂や不正も自分には許される」と裁きを免除できるような発想が見え隠れします。だから裁きを免れる特権を語る宗教は、人気があります。そして、醜いのです。神への大義を盾に、現在の責任を不問に伏す醜いことが起きるのです。現在の暴力をさばかなくなります。そしてあらゆる暴力を助長さえしてしまいます[3]

 ここで登場したフェリクスは、ユダヤに赴任した時、人妻の美しさに一目惚れして魔術師を雇って当時の夫と離婚させました。それがこの妻ドルシラです。だから彼らには「正義と節制と来たるべきさばき」は耳が痛く、恐ろしかったのです。でも彼は、パウロから金をせびろうという下心を隠さず二年も過ごし、更迭される時もユダヤ人の機嫌を取るために無罪が明らかなパウロを釈放しない。良心より「下心」で動いた彼は勿体ない人生を送ってしまったのです。

3.良心と下心

 ここでの言葉で福音を言い直してみましょう。

 死は終わりではなく、やがて正しい人も正しくない人もみんな復活して、人の生き方は神によって全て明らかになるのです。総督や大祭司は見逃してもらえるとか、犠牲になってもいい小さい人とか、クリスチャンだから恥はかかないとか、そういう事はない。最後は一切が明らかになる。私たちの全ての罪や過ち、全てが神の前にさらけ出される。悪かった事はもう誤魔化したり言い訳したり隠そうとしたりせずに、本当に悪かったと心から認めて謝ることが出来る。自分のしたこととして引き受けて、恥じて、非難に甘んじる。しかしその時こそ、その自分のために、キリストが十字架にかかって罪の罰も痛みも全部引き受けてくださったとハッキリ分かるのでしょう。罰せられ切り捨てられるのでなく、主の赦しをいただいく。全てが明るみに出された上で、本当の和解と、本当の赦しと回復が起きる。見せかけなく愛されて永遠に過ごせる。これこそ、恵みの世界ですね。

 そういうゴールだからこそ、今ここでの生き方を、神の前にも人の前にも責められない良心を保つよう最善を尽くすのです[4]。人生の決断も、誰も見ていない時、やけくそになりそうでもどんな時も永遠に残るのです。また周りにいるどんな人も永遠の重みがあると気づく。パウロもフェリクスに最大の敬意を払いました。挨拶も語り方も決して上から目線ではありません。また普段からも論争や扇動はしませんでした。神の正義という名目で、非常識な生き方はしませんでした。福音がもたらしたのは、将来への希望だけでなく、今ここで、神の前にも人の前にも恥じない生き方の発見でした。ゴールに向かって今、コソコソせずベストを尽くして生きるよう変えられて行く。失敗もし、迷って悩みます。最善と完全とは違います。でも希望があるからこそ、失敗や迷いや悩みを恐れず、間違えた時には素直に「ごめんなさい」、分からない時には「分かりません」と、出来る事を喜んでしていくのです[5]。そのベストは決して小さくないのです。

 そういう飾らない生き方をするのは、将来の希望があるからです。それが私たちの証しなのだ、いつでも語れるようにとペテロが言っています[6]。逆に福音から語る場合は、その福音がまず今の自分の生き方に現れて、生き生きとした力になっているかが問われます。福音は人間の良心にとっても最も望ましい、憧れて止まない美しい力です。そして希望に溢れて、喜びから、肩肘張らずに生きて、失敗にさえ謙虚になれる、素晴らしい力なのです。

「主よ、あなたは私たちを愛され、世界を美しいものと見られ、真実を現されます。そのあなたの前に生き、あなたを信頼する人生を移してくださったことを感謝します。裁きから逃げる生き方から、希望に生きる道へ招かれた幸いを感謝します。あなたへの信頼ゆえに、肩肘を張らず、自分に正直になり、人生を愛おしみ、人を裁かず希望を分かち合う器としてください。」



[1] ピリピ2章12節~18節「さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったことを知ってほしいのです。13私がキリストのゆえに投獄されていることが、親衛隊の全員と、ほかのすべての人たちに明らかになり、14兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことで、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆にみことばを語るようになりました。15人々の中には、ねたみや争いからキリストを宣べ伝える者もいますが、善意からする者もいます。16ある人たちは、私が福音を弁証するために立てられていることを知り、愛をもってキリストを伝えていますが、17ほかの人たちは党派心からキリストを宣べ伝えており、純粋な動機からではありません。鎖につながれている私をさらに苦しめるつもりなのです。18しかし、それが何だというのでしょう。見せかけであれ、真実であれ、あらゆる仕方でキリストが宣べ伝えられているのですから、私はそのことを喜んでいます。そうです。これからも喜ぶでしょう。」

[2] どれほど深い興味からだったからかは分かりません。写本によっては、話を聴きたがったのは、フェリクスよりもドルシラだったという読みがあります。

[3] 戦争や犯罪、いじめやDV。裁判に訴えることが出来ない暴力や、裁判に訴えたのに結局、罪に問われず終わる場合もあります。そして、背景が複雑で、簡単に白黒などつけられない事件も沢山あります。だからこそ、最後には神が正しく、本当に全てを汲み取って、全てを明らかにして、裁いてくださることが希望なのです。人を罰するためではなく、自分の責任から逃げることなく、それを不問にするのなら福音は、神の前にも人の前にも責められることのない良心を保つ事には繋がらなくなってしまいます。

[4] 「使徒信条」の「我は…信ず」は「信頼する」「信頼を置く」という意味です。「私は天地の造り主、全能の父なる神に信頼を置きます」「私はイエス・キリストに信頼を置きます」「私は聖霊に信頼します」という温かく、心強い告白です。信頼できる存在がいる。本当に信頼できる方がいる。その方を裏切りたくない、いや何度でも赦して励ましてくださる方だからこそ、今ここでの生き方を大切にしたいというエネルギーになる。そういう生き方が証しになるのです。

[5] それで罪を犯さなくなるわけではありません。パウロも良心に恥じない人生だとは言っていません。沢山の過ちや心の貪り、惨めさを告白しています。ローマ書7章、Ⅱコリント書12章など。

[6] Ⅰペテロ三15「むしろ、心の中でキリストを主とし、聖なる方としなさい。あなたがたのうちにある希望について説明を求める人には、だれにでも、いつでも弁明できる用意をしていなさい。」

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