聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

問127「抵抗できるように祈る」エペソ6章10-18節

2018-06-17 21:27:49 | ハイデルベルグ信仰問答講解

2018/6/17 ハ信仰問答127「抵抗できるように祈る」エペソ6章10-18節

 

 「主の祈り」を一つずつ取り上げていますが、今日は最後の願い「私たちを試みに遭わせないで悪からお救い下さい」です。最後の願いだけに、ここだけは心を込めて祈る祈りかもしれません。また、言葉もとても分かりやすい、入りやすい願いです。

問127 第六の願いは何ですか。

答 「私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください」です。すなわち、私たちは自分自身あまりに弱くて、一時も立っていることさえできないのに、そこへ私たちの恐ろしい敵である、悪魔やこの世、また自分自身の肉が絶え間なく攻撃をしかけてきますので、どうかあなたの聖霊の力によって私たちを保ち強めてくださり、わたしたちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全なる勝利を収められるようにしてください、ということです。

 「試み」は「誘惑」とも訳されますが、どうでしょうか、私たちは「誘惑と悪」というこの祈りから、こんな絵が浮かぶのではないでしょうか。

 お金とかケーキとか異性からの誘惑とか…。そういう誘惑は勿論生活のあちこちに潜んでいます。「バレなければちょっとぐらい羽目を外して楽しんでもいいじゃないか」という誘いも勿論、墓穴を掘ることになりますから、注意した方がいいのは当然です。けれども、そういう事ばかりを考えると、どうもキリスト教信仰というのはやっぱり固いなぁ、「誘惑」とか「悪」とかを警戒する真面目で清らかなものだなぁ、と思うかもしれませんね。しかし今日のハイデルベルグ信仰問答では、そういうことは全く言っていません。むしろ、もっと大きく豊かな言葉を言っています。「誘惑を避けるとか悪に怯えて」必死に祈るよりも、もっと明るく、大きく息をつけるようなことを言っているのだなぁと教えられるのです。

 第一に、私たちは

「試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈るようにイエスから教えられています。これはキリスト者の祈りです。「救われたければ信じなさい。信じたらもう救われて、戦いや苦しみはないよ」ということではないのです。キリスト者として生きることには、いつも戦いがあるのです。イエスは戦いのない生活を保証なさいません。また、戦いがあるのは信仰が足りないからだ、とは仰いません。誘惑に負けるのはあなたがダメだからだ、とも言われません。私たちが弱いことをイエスはご存じです。自分の力で誘惑に勝ち、悪に勝利できるはずだ、と高望みして、私たちにプレッシャーをかけることもなさいません。私たちは弱い。そして、私たちへの誘惑や戦いは強いのです。

「悪魔やこの世、また自分自身の肉」

と並べられるような、強力な力があるのです。それは私たちの信仰が弱いせいではありません。私たちは

「お救いください」

と恥じることなく祈ります。天の父に守られ、救って頂く必要がある現実をそのまま認めて、祈れば良いのです。神様の恵みがなければ、一時も立っていられないことを十分にご存じでいてくださるのです。これが第一の慰めです。

 しかしそれだけではありません。

「試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈るよう教えてくださった方は、私たちを試みに遭わせず、悪から必ずお救いくださる。私たちは自分の力では到底勝てませんが、私たちは弱いから神様に助けてもらっても勝てるわけがない、でもないのですね。

「聖霊の力によって私たちを保ち強めてくださり、私たちがそれらに激しく抵抗し、この霊の戦いに敗れることなく、ついには完全なる勝利を収められるように」

と祈るのです。なんという力強い言葉でしょうね。確かに祈ったからと言って、すぐに助けられる場合ばかりではありません。完全なる勝利は「遂に」とあるように、まだまだ先でしょう。でも、その「遂に」に向けて進むのです。

 また、聖霊の力は私たちに割って入って守るばかりではありません。

「私たちを保ち強めてくださり…激しく抵抗し」

と言われています。私たちが強くされ、抵抗するよう成長することを願うのです。これを誤解してしまうと、神が守って助けて下さる事に甘えて、戦おうとしない。自分の問題を見つめなくなり、信仰を言い訳にしてかえって誘惑に抵抗しようとしなくなる。そういう事もよく起きるのです。これは本当に悲しく、問題になる誤解です。それは神様の守りに対する大きな誤解です。神は天の父で有るからこそ、私たち自身を助け、成長させ、抵抗すべき事には抵抗させて下さるのです。人間の父親でもそうでしょう。いつも子どもを守って、スーパーマンのように助けるのが父親ではありません。父親は子どもを育て、自分の力を伸ばして、能力を発揮できるように助けるのが役割です。呼ばれたから出しゃばって、助けていたら、結局子どもはいつまで経っても抵抗することができません。それは子どもには勇気が必要で、泣いて甘えるかもしれませんが、賢い親はバランス良く受け止めつつ、成長を励ましていくのです。私たちは神に助けを求めるよう祈ります。そして、神が助けてくださることを信じて、精一杯抵抗し、勝利を確信して、何度しくじってもまた立ち上がるようになる。そういう希望を持つ。それがこの祈りのもう一つの素晴らしい面です。

 先にはエペソ書の六章「神の武具」の箇所を読みました。ここにも、聖書の道が楽で祝福に満ちた歩みではなく戦いであることが現されています。

 一つ、この装備の「盾」についてお話ししましょう。当時のローマの盾は細長い長方形でした。そしてそれは自分一人で使うためではなく、他の兵士たちと一緒に並べて使うためだったのだそうです。

 これはとても大切なメッセージです。私たちの生活には戦いがあります。それに自分で勝とうとしては失敗することが多くあります。エペソ書でパウロが言った「神の武具」はそのようなあり方自体を正してくれます。神は私たちに、自分一人で戦って勝って欲しいのではない。ともに力を合わせて、助け合って、力を発揮してほしいのです。一人では勝てないのがダメなのではなく、一緒に

「私たちを試みに遭わせないで悪からお救いください」

と祈って、助け合っていく。そういう成長を神は私たちにさせたいのです。

 私たちを試みに遭わせず悪からお救い下さい。試みも悪もいつもあります。まるで人生は大きな冒険です。信仰があっても色々なことが起きます。予想が裏切られる展開も冒険にはつきものです。でも独りではありません。助けを求めてご覧と言って下さる神が一緒におられます。また、こう一緒に祈り続ける私たちは旅仲間です。弱さを受け止め合い、一緒に戦ってくれ、勝利を喜び合い、失敗も分かち合います。そして、最後には遂に完全なる勝利を収める日に向けて、一緒にいられることを嬉しく思っています。

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使徒の働き二六章1-18節「神にお帰りなさい」

2018-06-17 21:24:25 | 使徒の働き

2018/6/17 使徒の働き二六章1-18節「神にお帰りなさい」

 新約聖書の三割の著者で、最大の伝道者で神学者である使徒パウロが、以前は教会の最大の迫害者だった事実はそれ自体、最大級のメッセージです。だからでしょう、使徒の働きではパウロが迫害者だった真っ最中にキリストに出会った出来事が三度記されています。今日の箇所はその三回目、パウロが

忍耐をもってお聞きくださるよう」

と話し始める証しです。

1.若い頃からの望み

 パウロの話は三回とも微妙な所で結構違います。話す相手や状況に応じて、伝え方を変えています。いつも紋切り型の同じ話も悪くないでしょうが、パウロは相手に合わせてアレンジした人です。特に今日の所では、目が見えなくなった事や、アナニヤが来て祈ってくれて視力が回復した事は端折っています。では強調点はどこでしょう。それはパウロが今キリスト者として持っている

「希望」

だと思います。神が約束して下さった望み。23節の最後では

「光」

とも言い換えられます。「希望の光」です。そしてパウロはそれを、自分が若い時、パリサイ人として厳格に生きてきたときから待ち望んでいた約束だと言っています。更には、この弁明を取り仕切っているアグリッパ王も、ユダヤ人の慣習や問題に精通しておられるのだから、あなたにも分かるはずだ、と言っているのです[1]。いや、むしろアグリッパ王が、ユダヤ人の文化や聖書の知識にもかなり通じているからこそ、その聖書の希望を接点として、自分の証しをアレンジして、希望という切り口の話に仕上げて語りたい気持ちが伝わってくるのです。

 パウロ自身、今キリストから希望を頂いていますが、最初はそれが分からず、ナザレのイエスの名に対して、徹底して反対すべきだと考えていました。教会を猛烈に弾圧して、激しい怒りに燃えていた。そうしてダマスコへ向かう道、真昼に太陽よりも明るく輝く光に打たれて、「サウロ、サウロ」と自分に語りかける声を聞いたのです。

14「…サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い。」

15私が「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、主はこう言われました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。

16起き上がって自分の足で立ちなさい。わたしがあなたに現れたのは、あなたがわたしを見たことや、わたしがあなたに示そうとしていることについて、あなたを奉仕者、また証人に任命するためである。

17わたしは、あなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのところに遣わす。

18それは彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、こうしてわたしを信じる信仰によって、彼らが罪の赦しを得て、聖なるものとされた人々とともに相続にあずかるためである。」

2.神に立ち返る歩みの始まり

 パウロは神を信じて聖書の希望を待ち望みつつも、その希望を成就してくださったのがナザレのイエスだとは信じられませんでした。だから一生懸命迫害していました。それをイエスは

「棘の付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」

と仰います。これは「天に向かって唾を吐く」、つまり自分に帰ってくる、というような諺でしょう。キリストに反対するのは、結局、自分が痛い思いをすることでしかないのです。しかし主が現れたのは、パウロを責めたり怒ったりするためではありません。パウロがキリストを知り、キリストを信じる信仰によって罪の赦しを戴いて、その事を他の人にも伝えるよう、主はパウロを遣わすためだったのです。

 神は人間を

「闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ」

てくださいます。イエスを信じれば、罪の赦しだけでなく、多くの人と一緒に聖とされ、一緒に神の相続人にさえして頂くのです[2]。神は私たちに「お帰りなさい」と言って迎え入れてくださる方です。私たちが神に逆らい、神に唾を吐いたり蹴りつけたり不届きな生き方をしていても、神はキリストをこの世界に送ってくださいました[3]。22節23節では、預言者やモーセ、つまり聖書に書かれてあるのは

「キリストが苦しみを受けること、また、死者の中から最初に復活し、この民にも異邦人にも光を宣べ伝えることになる」

という知らせだと言っています。パウロは若い頃から聖書を学んで、聖書に厳格に生きようとしていました。しかし聖書でもっと大事なことは、神御自身が人間の所に来られて、苦しみを受けて、死にまで謙ってくださって、そこから復活されて、光となってくださる、というメッセージです。それこそ預言者やモーセの予告していた事です。

 そうして神の側から来られたキリストを信じて、神に立ち帰るのが「悔い改め」です。罪を反省する以上に、神に立ち帰ることです。そして、そうして神の元に帰る時、それに相応しい生き方が始まります。神がお帰りと言ってくださっている。自分には永遠の居場所がある。自分の闇も苦しみも、間違いも全部知った上で受け入れてくださる神がおられ、また、同じように神にお帰りと言ってくださる大勢の人たちの中に自分がいる。そう知った者としての相応しい生き方、新しい歩み方、人との関わり方を励ますのが、パウロの宣教でした。

3.私のようになってほしい

 二六章後半で、パウロの弁明を聞いていたフェストゥスもアグリッパ王も、パウロの言葉に激しく抵抗を見せますね。それに対してのパウロの最終的な答が29節にあります。

29…私が神に願っているのは、あなたばかりでなく今日私の話を聞いておられる方々が、この鎖は別として、みな私のようになってくださることです。」

 今パウロの前にいるのは王や総督たち、有力者たちです。彼らに対してパウロは

「私のようになってくださること」

を神に願っているというのです。パウロは鎖に繫がれた惨めな未決囚です。過去を振り返れば、教会を激しく迫害して、暴力的に御名を汚させたり徹底して多くの聖徒を苦しめた、消えない負い目を持っています。今でも自分は罪人の頭だと自認しています。それでも「私のようになって」ほしいと言います。そういう私にキリストが出会ってくださり、誰もが望んでいる希望を下さった。努力とか王や総督の地位や財力でも決して手に入らない希望を頂いた。それゆえパウロは「自分のようになってほしい」と思えました。

 断じて自分のように伝道して説教して、立派に生きて、という自慢ではないです。彼は自分の問題や悲しみにもとても率直です[4]。そういうのです。希望よりも怒り狂って生きていた自分にキリストが出会ってくださいました。自分の帰りを大喜びして迎えてくださる神と出会った、その一点です。立派な偉人とか道徳的に完璧とかではなくて、欠けも限界も、変えられない過去もあって、将来も失敗や間違いをせずには生きられない自分だけれど、そういう自分にも帰る家がある。お帰りと受け入れて下さる神がおられる。そうして神に立ち帰らせてもらった時、生き方も変わりました。かつては人を断罪して怒って責めなきゃという生き方でした。自分は異邦人でなくて善かった、という生き方でした。それがここで異邦人にも落ち着いて語り、心を込めてキリストとの出会いを願うように変わっています。「あなたのようでなくて善かった」という上から目線でなく、自分の失敗も後悔も鎖も差し出しながら「キリストの光をいただいた私のようになってほしいなぁ」と願うのです。

 誤解を恐れず言えば、キリスト者になると「私のようになってほしい」と思える人になるのです。神は私たちにそう思って欲しいのです。「『私のようになって』と言える立派なキリスト者になる」とは違います。立派ではなく、正直言えば、問題や傲慢も悩みもあります。鎖や病気や大変な目にも遭います。キリストに従い切れない自分に悩まずにおれません。でもそのままの自分を迎えてくださるキリストとの出会いが有り難い。その希望に立ってどんな問題にも絶望せずに向き合える。その鎖は別、あれやこれの「別にして」は沢山あっても、それでも本当にキリストと出会って善かった。それをどの人にも分かち合いたいと願って行きたいのです。

「主よ。あなたが私たちの人生をも照らして、最高の希望を下さいました。闇から光に立ち帰り、罪から神に立ち帰らせてくださいました。本当に有難うございます。キリストの苦しみと私たちへの光を深く味わわせて、この世界にあってこの世界のものではなく、光を心に戴いたものとして生かしてください。そうすることによって私たちをあなたの光としてください」



[1] パウロの弁明は、キリストが下さる望みが、キリスト者だけの特権や独占的なものではなく、ユダヤ人やアグリッパ王もよく知っているはずの希望だ、というアプローチを取っています。人の罪を責め、そこから神に立ち帰る、という「糾弾型」のアプローチではありません。「共通善」から説き起こし、その「善(希望)」こそ福音によって与えられるものである、という論法です。

[2] ユダヤ人だから救われるとか、善い行いをすれば罪が赦されるとかではない。神に立ち戻る人、教会に来る人なら良くして上げよう、というのではない。神の方から人間の所に来られて、あるいはパウロを遣わされて、神に立ち返らせてくださる。主を信じる信仰をもらって、もう罪を赦された者として、神が将来のご計画を相続させて下さる希望を持って生きるようにしてくださる。そういう神なのです。

[3] 神の光に背を向けて、世間の成功や幸せや楽しさを求めて生きています。サタンと言われるように、悪い力、間違った考えにどっぷり浸かっています。皆に希望を与えることも出来ないし、希望を下さる神がおられると伝える事もない、闇の中に生きているのです。

[4] 自分だけでなく、どの人にもそういう約束が届けられる。誰でもそういう希望に憧れているなら、キリストから頂けます。苦しい思いをしなくても、キリストが代わりに苦しんでくださってプレゼントしてくださるのです。

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