2018/11/11 創世記2章4~14節「エデンの約束」
聖書は私たちを「神の人」として整える有益さがあります。ではどのような形で私たちを整えてくれるのでしょうか。聖書には規則や「良い言葉」や道徳もありますが、それらを包み込んでいる大きな流れがあります。その大きな流れの中にいる、という自覚も大きな益なのです。
1.エデンの契約
聖書は創世記の天地創造から書き出します。創世記2章4節以下は、天と地が創造された時の経緯として、人間の創造に焦点を当てます。この部分を読んで印象に残るのはどんなことでしょう。それは、5節では地に灌木も草も生えておらず、雨もなく、人もいなかった淋しい状態だったのが、園が設けられ、木々が生い茂り、四つの大きな川が流れ出ている状態に変わった、という大きな変化でしょう。その中心にあるのが、人間です。7節の人間の創造です。
二7神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。8神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。
ここに、神がお造りになった世界の中で、人間が与えられた特別な位置づけが強調されています。人間は、特別な役割が与えられています。神は、ご自分が創造された世界を、ご自分だけ完成してしまうことはなさらず、大地の塵から人間をお造りになりました。そして、わざわざその鼻にいのちの息を吹き込まれて、人を生きるものとされた。そういう丁寧な描写をすることによって、私たち人間が、神によって特別に作られた存在であると分かります。
もちろん「特別」と言っても、自惚れたら勘違いです。世界の支配者のように思い上がり、動物を見下したりしたら、本末転倒です。むしろ人間は世界の管理者ですね。5節の最後
「また、大地を耕す人もまだいなかった」。
裏を返せば人間は大地を耕すために造られたのです。15節にも
「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた」
とあります。人間は神がお造りになった地を耕し、守り、世界を育て、発展させる役割を与えられています。最も基本的なのは農業ですし、聖書はこの後、工業や建築、芸術や音楽、教育、様々な分野で文明が発達していく様子に触れていきます。人はこの世界に秘められた可能性を引き出す管理者です。仕事は呪いではありません。働くことは本来、創造の時点からあった、神からの祝福です。神はご自身の造られた世界を人に託し、喜んで管理して、発展させようとなさいます。人間は思い上がることなく謙虚に、心を込めて、喜び楽しみ、働く存在なのです。聖書は創造の出来事を生き生きと豊かに書き出しています。神は、この世界を豊かな世界として造られています。そして、その中に人間を置かれて、地を耕す役割を与えられました。
2.地に置かれた人として
神は人間のお手伝いを必要とされたのではありません。
「見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を」
生えさせたのは神である主ご自身であって、人ではありません。いのちの木と善悪の知識の木とを生えさせたのも、人ではなく神です。10節以降の川も、エデンから湧き出て園を潤し、そこを源流として豊かな四つの大河という、いのち溢れるイメージになっています[1]。決して人間がこの川を流したのではなく、ただその流れの豊かさに、アダムは息をのんでいたのでしょう。そうして、地を耕し、守る生活も、神が木々を生えさせるいのちのわざに驚きながら、汗を流して、管理をしていたのではないでしょうか。アダムとエバは、エデンの園で、何もしなくて良かったわけではなく、その反対に、彼らは園を耕し守る仕事をしていました[2]。それも四つの大河の源流がある広大な園の管理する、大きな責任を果たしていたのです。労働は堕落後の呪いだという誤解もありますが、聖書では最初から人間は働いています。人は大地から作られ、大地に関わりながら、神様の御業を味わい、神の創造の豊かさを知って、そのお働きの一端を担いながら、この世界の素晴らしさを知っていく存在です。
7節に
「大地のちりで人を形造り」
とあります。しかし「人間は金や宝石でなく、塵から造られたに過ぎない」という教訓ではありません。金や宝石が高価で、塵なんて価値がない、という発想自体、神が世界のすべてを創造されたことが分かるなら変わりますね。神は世界をすべて金や宝石で造らずに、草や花も塵も空気もすべてをかけがえなくお造りになったのです。人が地の塵から造られたのは、人がこの世界と深いつながりを持っているということです。塵から造られた「詰まらないもの」とは逆に、塵をも詰まらないものと見なさず、この世界のすべてのものを神の贈り物、意味のあるものとして、大切に管理し、耕し、育てるのです。
神は人の鼻から
「いのちの息」
を吹き込みました。そうして初めて人は生きたものとなりました。神からいのちを吹き込まれて、神との交わりに生きる時に、初めて人は命を持つ。そうして、世界に置かれた自分の仕事を果たしていくことが出来る、ということです。神の息を吹き込まれて、神との交わりを楽しみながら、神が造られた豊かな世界の中で耕し、働く。ただ耕すだけでなく、神とともに世界を楽しみ、味わい、喜ぶようにと、神は願われたのです。
3.新しい天と地を待ち望む
主イエスは神の国を例えて仰いました。
マルコ四26…「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、27夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。28地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。29実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」[3]
イエスはこれを譬えとして仰いましたが、創世記で最初の人が体験していたのは、この譬えそのものでした。大地を耕し、園を守りながらも、自分の働きを越えた神のいのちの業を見て、驚いて、神を賛美して働く、そういう関係だったのです。
現在、種を蒔いても作物はそう簡単には育ちません。労働はそんなに喜ばしいものではなく、汗水流しても報われないことが多くあります。それは、この後三章に書かれている変化があるからです。人は神から離れてしまい、最初の罪のない関係は大きく壊れました。地と人間の関係も損なわれて、地は茨やアザミを生えさせるようになります。人は神との壊れた関係の回復を必要とします。そのために神のご計画が始まっていきます。それが聖書の物語の中心テーマです。そのクライマックスは、神であるイエス・キリストが世界に来られて人となり、十字架にかかり、復活されて、聖霊を注いで下さること、新しく
「いのちの息」
を吹き込んで下さることです。主は私たちを生かしてくださる。神との関係が壊れた人間を癒やして、回復して下さるのです。その時、地の関係も回復されずにはいません。地から作られた私たちは、この地で日々神の業がなされている一端を担っています。神の子とされた私たちにとって、礼拝や伝道と同じぐらい、仕事、家事、育児、介護、精一杯生きることそのものが神からの贈り物です。
繰り返します。出発点は創造です。この世界は神が創造された善い世界です。私たちはこの地から作られ、この地を耕したり生活を営んでいく大切な使命を与えられています。でも、その後に人が神に背いた堕落がありました。いつもその影響が世界にはありますし、自分自身も罪や問題を抱えています。でも、神は恵みによってこの世界に働いておられます。神の創造された世界は決して失敗で終わりません。神の尊い恵みがあります。私たちはそこで希望を持つことが出来ます。罪も見つめ、問題に取り組みながら、主に祈りつつ、助け合いつつ、心を込めて自分の仕事を果たします。最後には、神が世界を完成させてくださる、と希望を持ちながら、働くのです。人の手を越えた神の御業を信じつつ、罪の現実もシッカリ見ながら、それ以上の神の恵み、最善のご計画を信じて、生活をしていく。そういう姿を整えられるのです。
「主よ、あなたは人を塵から作り、息を吹き込み、地に置かれました。沢山の恵みと大切な使命とを与えてここに生かされていることを感謝します。仕事も家庭も社会の活動も、簡単ではありませんが、私たちの手の業をも用いて主がこの地に御業をなさってください。祈り、賛美し、待ち望みつつなすすべての業を通して、御名が崇められ、地が喜びで満たされますように」
[1] 11節の「ピション」と13節の「ギホン」は詳しいですが、場所は不明です。14節の「ティグリス…ユーフラテス」は言わずと知れた、文明の源流となる大河の名称です。しかし、これが現代のティグリス川とユーフラテス川そのものとは、地理的に考えられません。(二つは近いですが別々の源流から流れる河です)。読者には、第三、第四に「ティグリス」「ユーフラテス」と来る事で、「ピション」と「ギホン」がそれを上回る大河としてイメージできたでしょう。そのような四つの大河の源流が流れる園という描写に、エデンの園の豊かさ、広大さが伝わったはずです。
[2] 私は以前、エデンの園にいるアダムとエバは、何も働かずにのんびりリゾート暮らしをしていたイメージがありました。聖書を読めば違いますよね。
[3] また、この後には、「からし種」の譬えを語られます。「30またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。31それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、32蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」 この二つの譬えの連続は、神の国のいのち溢れる力を豊かにイメージさせます。当然、その前の「四つの種」の譬えも、道徳的に読むよりも、最後の「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たち」に力点があると気づきます。