聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

創世記2章4~14節「エデンの約束」

2018-11-11 20:40:37 | 聖書の物語の全体像

2018/11/11 創世記2章4~14節「エデンの約束」

 聖書は私たちを「神の人」として整える有益さがあります。ではどのような形で私たちを整えてくれるのでしょうか。聖書には規則や「良い言葉」や道徳もありますが、それらを包み込んでいる大きな流れがあります。その大きな流れの中にいる、という自覚も大きな益なのです。

1.エデンの契約

 聖書は創世記の天地創造から書き出します。創世記2章4節以下は、天と地が創造された時の経緯として、人間の創造に焦点を当てます。この部分を読んで印象に残るのはどんなことでしょう。それは、5節では地に灌木も草も生えておらず、雨もなく、人もいなかった淋しい状態だったのが、園が設けられ、木々が生い茂り、四つの大きな川が流れ出ている状態に変わった、という大きな変化でしょう。その中心にあるのが、人間です。7節の人間の創造です。

二7神である主は、その大地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。それで人は生きるものとなった。神である主は東の方のエデンに園を設け、そこにご自分が形造った人を置かれた。

 ここに、神がお造りになった世界の中で、人間が与えられた特別な位置づけが強調されています。人間は、特別な役割が与えられています。神は、ご自分が創造された世界を、ご自分だけ完成してしまうことはなさらず、大地の塵から人間をお造りになりました。そして、わざわざその鼻にいのちの息を吹き込まれて、人を生きるものとされた。そういう丁寧な描写をすることによって、私たち人間が、神によって特別に作られた存在であると分かります。

 もちろん「特別」と言っても、自惚れたら勘違いです。世界の支配者のように思い上がり、動物を見下したりしたら、本末転倒です。むしろ人間は世界の管理者ですね。5節の最後

「また、大地を耕す人もまだいなかった」。

 裏を返せば人間は大地を耕すために造られたのです。15節にも

「神である主は人を連れて来て、エデンの園に置き、そこを耕させ、また守らせた」

とあります。人間は神がお造りになった地を耕し、守り、世界を育て、発展させる役割を与えられています。最も基本的なのは農業ですし、聖書はこの後、工業や建築、芸術や音楽、教育、様々な分野で文明が発達していく様子に触れていきます。人はこの世界に秘められた可能性を引き出す管理者です。仕事は呪いではありません。働くことは本来、創造の時点からあった、神からの祝福です。神はご自身の造られた世界を人に託し、喜んで管理して、発展させようとなさいます。人間は思い上がることなく謙虚に、心を込めて、喜び楽しみ、働く存在なのです。聖書は創造の出来事を生き生きと豊かに書き出しています。神は、この世界を豊かな世界として造られています。そして、その中に人間を置かれて、地を耕す役割を与えられました。

2.地に置かれた人として

 神は人間のお手伝いを必要とされたのではありません。

「見るからに好ましく、食べるのに良いすべての木を」

生えさせたのは神である主ご自身であって、人ではありません。いのちの木と善悪の知識の木とを生えさせたのも、人ではなく神です。10節以降の川も、エデンから湧き出て園を潤し、そこを源流として豊かな四つの大河という、いのち溢れるイメージになっています[1]。決して人間がこの川を流したのではなく、ただその流れの豊かさに、アダムは息をのんでいたのでしょう。そうして、地を耕し、守る生活も、神が木々を生えさせるいのちのわざに驚きながら、汗を流して、管理をしていたのではないでしょうか。アダムとエバは、エデンの園で、何もしなくて良かったわけではなく、その反対に、彼らは園を耕し守る仕事をしていました[2]。それも四つの大河の源流がある広大な園の管理する、大きな責任を果たしていたのです。労働は堕落後の呪いだという誤解もありますが、聖書では最初から人間は働いています。人は大地から作られ、大地に関わりながら、神様の御業を味わい、神の創造の豊かさを知って、そのお働きの一端を担いながら、この世界の素晴らしさを知っていく存在です。

 7節に

「大地のちりで人を形造り」

とあります。しかし「人間は金や宝石でなく、塵から造られたに過ぎない」という教訓ではありません。金や宝石が高価で、塵なんて価値がない、という発想自体、神が世界のすべてを創造されたことが分かるなら変わりますね。神は世界をすべて金や宝石で造らずに、草や花も塵も空気もすべてをかけがえなくお造りになったのです。人が地の塵から造られたのは、人がこの世界と深いつながりを持っているということです。塵から造られた「詰まらないもの」とは逆に、塵をも詰まらないものと見なさず、この世界のすべてのものを神の贈り物、意味のあるものとして、大切に管理し、耕し、育てるのです。

 神は人の鼻から

「いのちの息」

を吹き込みました。そうして初めて人は生きたものとなりました。神からいのちを吹き込まれて、神との交わりに生きる時に、初めて人は命を持つ。そうして、世界に置かれた自分の仕事を果たしていくことが出来る、ということです。神の息を吹き込まれて、神との交わりを楽しみながら、神が造られた豊かな世界の中で耕し、働く。ただ耕すだけでなく、神とともに世界を楽しみ、味わい、喜ぶようにと、神は願われたのです。

3.新しい天と地を待ち望む

 主イエスは神の国を例えて仰いました。

マルコ四26…「神の国はこのようなものです。人が地に種を蒔くと、27夜昼、寝たり起きたりしているうちに種は芽を出して育ちますが、どのようにしてそうなるのか、その人は知りません。28地はひとりでに実をならせ、初めに苗、次に穂、次に多くの実が穂にできます。29実が熟すと、すぐに鎌を入れます。収穫の時が来たからです。」[3] 

 イエスはこれを譬えとして仰いましたが、創世記で最初の人が体験していたのは、この譬えそのものでした。大地を耕し、園を守りながらも、自分の働きを越えた神のいのちの業を見て、驚いて、神を賛美して働く、そういう関係だったのです。

 現在、種を蒔いても作物はそう簡単には育ちません。労働はそんなに喜ばしいものではなく、汗水流しても報われないことが多くあります。それは、この後三章に書かれている変化があるからです。人は神から離れてしまい、最初の罪のない関係は大きく壊れました。地と人間の関係も損なわれて、地は茨やアザミを生えさせるようになります。人は神との壊れた関係の回復を必要とします。そのために神のご計画が始まっていきます。それが聖書の物語の中心テーマです。そのクライマックスは、神であるイエス・キリストが世界に来られて人となり、十字架にかかり、復活されて、聖霊を注いで下さること、新しく

「いのちの息」

を吹き込んで下さることです。主は私たちを生かしてくださる。神との関係が壊れた人間を癒やして、回復して下さるのです。その時、地の関係も回復されずにはいません。地から作られた私たちは、この地で日々神の業がなされている一端を担っています。神の子とされた私たちにとって、礼拝や伝道と同じぐらい、仕事、家事、育児、介護、精一杯生きることそのものが神からの贈り物です。

 繰り返します。出発点は創造です。この世界は神が創造された善い世界です。私たちはこの地から作られ、この地を耕したり生活を営んでいく大切な使命を与えられています。でも、その後に人が神に背いた堕落がありました。いつもその影響が世界にはありますし、自分自身も罪や問題を抱えています。でも、神は恵みによってこの世界に働いておられます。神の創造された世界は決して失敗で終わりません。神の尊い恵みがあります。私たちはそこで希望を持つことが出来ます。罪も見つめ、問題に取り組みながら、主に祈りつつ、助け合いつつ、心を込めて自分の仕事を果たします。最後には、神が世界を完成させてくださる、と希望を持ちながら、働くのです。人の手を越えた神の御業を信じつつ、罪の現実もシッカリ見ながら、それ以上の神の恵み、最善のご計画を信じて、生活をしていく。そういう姿を整えられるのです。

「主よ、あなたは人を塵から作り、息を吹き込み、地に置かれました。沢山の恵みと大切な使命とを与えてここに生かされていることを感謝します。仕事も家庭も社会の活動も、簡単ではありませんが、私たちの手の業をも用いて主がこの地に御業をなさってください。祈り、賛美し、待ち望みつつなすすべての業を通して、御名が崇められ、地が喜びで満たされますように」



[1] 11節の「ピション」と13節の「ギホン」は詳しいですが、場所は不明です。14節の「ティグリス…ユーフラテス」は言わずと知れた、文明の源流となる大河の名称です。しかし、これが現代のティグリス川とユーフラテス川そのものとは、地理的に考えられません。(二つは近いですが別々の源流から流れる河です)。読者には、第三、第四に「ティグリス」「ユーフラテス」と来る事で、「ピション」と「ギホン」がそれを上回る大河としてイメージできたでしょう。そのような四つの大河の源流が流れる園という描写に、エデンの園の豊かさ、広大さが伝わったはずです。

[2] 私は以前、エデンの園にいるアダムとエバは、何も働かずにのんびりリゾート暮らしをしていたイメージがありました。聖書を読めば違いますよね。

[3] また、この後には、「からし種」の譬えを語られます。「30またイエスは言われた。「神の国はどのようにたとえたらよいでしょうか。どんなたとえで説明できるでしょうか。31それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときは、地の上のどんな種よりも小さいのですが、32蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張って、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」 この二つの譬えの連続は、神の国のいのち溢れる力を豊かにイメージさせます。当然、その前の「四つの種」の譬えも、道徳的に読むよりも、最後の「三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たち」に力点があると気づきます。

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はじめての教理問答54イザヤ書44章21~28節「あがないとは??」

2018-11-11 20:35:23 | はじめての教理問答

2018/11/11 イザヤ書44章21~28節「あがないとは??」はじめての教理問答54

 「贖い」という言葉は、キリスト教会でよく聴かれる、耳慣れない言葉の一つです。私もこの言葉を、よく分からないけれども、教会では「贖い」とか「贖い主」と言った方がそれっぽい(格好良さそう)なので口にしていた時がありました。「救い」というよりも「贖い」って言った方がいいのかな、と思ったり。今日は、その何となくを、もう少しハッキリさせて、「贖い」という言葉から、キリストの愛の素晴らしさと、私たちに与えられている恵みの確かさを覚えましょう。

問54 あがないとは、どういうことですか?

答 キリストが苦しみと死を、罪人の身代わりとなって経験し、神の義を満たしたということです。

 ここでは、贖いとは何かを、こう説明しています。その前に「贖い」という漢字を観てみましょう。「贖」という字は「かいへん」で出来ています。貝は昔、お金の代わりに貝殻を使っていたことからお金に関係する意味の漢字で使われることが多いです。「贖い」もお金に関係しています。お金を出して、何をするかと言えば、右の「つくり」は「過ち・禍」を意味しています。つまり、「贖い」とは物の売り買いではなく、過ちを犯したり禍を招いてしまったりした人を、お金の支払いで救い出してあげることが元々の意味なのです。お金ではなく、良い行いをするとか、何かしら、その過ちを償うようなことで解決をするのですね。それが「贖い」という漢字です。キリストがなさったことを説明するのに、漢字を使うキリスト者はこの「贖い」の漢字を使いました。

 それはキリストが、私たちのために、ご自身の苦しみと死を、罪人の身代わりとなって経験して、神の義を満たしてくださった。それによって、私たちが贖われて、神の子どもとされたからです。言わば、キリストは、ご自身の命という代価を支払って、私たちを買い取ってくださって、私たちの過ちや禍をキレイに解決してくださったのです。

 「贖い」という言葉は、聖書の福音を、ただ「救い」というだけでは分からない、もっと深い意味に気づかせてくれる、大事な言葉です。

 第一に、キリストは、私たちのために代価を支払ってくださいました。ただ救うだけなら、神の側に犠牲はないかも知れません。私たちは、自分の問題や神に対する背信という罪の重さを十分に分かっていませんし、ただ願いが叶ったり、陥っている窮地から救われたりすることだけを求めやすいものです。ですから、「救って下さい」「助けてください」と安易に求めます。そこにある痛み、解決が必要なゆゆしさにはなかなか思い至りません。だからこそ、「贖い」という言葉を通して、キリストが犠牲を払って下さったことを思い出すことが大事なのです。キリストの犠牲がなければ、私たちが神に自分の罪のために償いをしなければならなかったのです。私たちには到底償えない、大きな負債があったのです。そのために、キリストはご自身の命をなげうって、人間となってくださいました。人として神に従う歩みを全うして、最後には十字架に死んでくださいました。それぐらい、測り知れない代償を払って下さったからこそ、私たちが抱えていた負債は解消されて、神の子どもとされたのです。「救い」は有り難いですが、「贖い」はその有り難さの深みが違います。私たちは、自分では絶対に支払えない神に対する負債を、神の子イエス・キリストのいのちによって支払って頂いて「贖われた」のです。そして、だから私たちは、もう神に対する自分の罪が、既に支払われたとも約束されています。

イザヤ書四四22わたしは、あなたの背きを雲のように、あなたの罪をかすみのように消し去った。わたしに帰れ。わたしがあなたを贖ったからだ。」

 神は「わたしがあなたを贖った」と高らかに仰います。神はご自身が、私たちのために贖うことを恥とはなさいません。「贖い」は神の栄光を現します。

23天よ、喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。地の底よ、喜び叫べ。山々よ、喜びの歌声をあげよ。林と、そのすべての木々も。主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに栄光を現されたからだ。

 「キリストが苦しみと死を、罪人の身代わりとなって経験し、神の義を満たした」とは、神の義はキリストの命による犠牲をもって初めて満たされた、ということです。神の義は、人間を滅ぼしたり、罪人を葬り去ることを求めませんでした。中には「本当は神は私たちの罪を怒っていたのに、キリストが私たちを救うために、しかたなく犠牲になった」とわたしがあなたを贖った」と考えるキリスト者や牧師もいるようです。いわば、贖いは代替案、救済策、プランBという考え方です。そうではありません。義なる神は妥協や代替案では満足なさいません。義なる神ご自身が、人間を滅ぼすのではなく、ご自分が測り知れない犠牲を払ってでも、人間のために支払うことを選ばれたのです。

 聖書の言語に

「シャローム」

というヘブル語があります。「平和」と訳されますが、ただの平和だけではなく、完全、繁栄、健康、率直・正直など豊かな意味があります。この元々の意味は「支払い」なのだそうです。シャロームとは、支払いがなされた、ということ。それは「贖い」と通じますよね。神は私たちのために、必要な全てを支払って下さいます。だから、私たちは平和を持てますし、もう未解決のことにビクビクせずに、安心して神の前に出ることが出来ます。神は「支払って」下さるお方です。本当に有り難い事に、神の義は、怒りや滅びや裁きではなく、支払って、贖って、私たちを安心させて下さるような義なのです。そして最後に、私たちは「救われ」ただけでなく、「贖われた」のですから、自由の身というよりも、神のもの、代価を払って下さったキリストのものなのです。私たちは自分自身のものではなく、主のものです。

イザヤ四四21ヤコブよ、これらのことを心に留めよ。イスラエルよ、あなたはわたしのしもべ。わたしがあなたを形造った。あなたは、わたし自身のしもべだ。イスラエルよ、あなたはわたしに忘れられることがない。

 神は、私たちを愛して、私たちとの永遠の関係を結んでくださいました。「贖われた」私たちは、もう神のものです。私たちの罪も、限界も、感情も、すべてを知っておられる方が、私たちのためにご自身を与えてくださり、将来の希望も、今ここでの生き方にも最善の計画を持って下さっています。「贖い」は「福音」が「救い」以上の素晴らしいものだと教えてくれます。主は贖い主であり、私たちは「贖われた」主の民なのです。

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