2018/11/18 ローマ書6章9~14節「恵みの下にあるのです」はじめての教理問答55~57
聖書の「旧約・新約」という「約」は、神様の契約を指しています。聖書は、神様からの契約書です。それはイエス・キリストが私たちを贖うために、ご自身の命をささげてくださったことによる契約です。この、イエスが来られるまでの契約を「旧約」、イエスが来られて契約が完成された後を「新約」と読んでいます。イエスが完成される前の旧約と、完成された後の新約とで呼び分けていますが、しかし、どちらもイエスによる契約を指しているのであって、別々のことではありません。どちらも、ひとつの「恵みの契約」を指しています。旧約の時代も新約の時代の今も、私たちは自分の行いによって救われるのではなく、ただキリストの恵みによって救われるのです。さて、今日は、その「恵みの契約」には何が約束されていますか?ということを覚えましょう。
問55 めぐみの契約において、父なる神さまはなにを約束していますか?
答 キリストが死をもってあがなったすべてのひとを、義とみとめ、きよくされることを約束しています。
問56 神さまは、どのようにしてあなたを義とみとめますか?
答 キリストを通じて、わたしのすべての罪を赦し、わたしを義なるものとして受けいれてくれます。
問57 神さまは、どのようにしてあなたをきよめますか?
答 こころもおこないも、ますます聖なるものにしてくれます。
ここには、神が私たちを「義と認め」ることと「きよくされる」ことの二つの約束が上げられています。
キリストが私たちの罪をすべて赦して下さり、私を義なる者として受け入れて下さる。私たちは、自分の罪を神が怒り、罰するのではないか、と恐れる必要はなくなりました。これは本当に有り難い約束です。神は私たちの罪を全てご存じです。隠している罪も、気づかない罪も、神ならぬものを神のように慕っている不快問題もご存じです。神に対して私たちの罪は、重い、永遠の罰に相応しい重さを持っています。しかし、神はその私たちの罪を罰するよりも、ご自身のひとり子イエス・キリストの贖いによって、私たちを赦し、キリストの正しさを私たちに着せてくださいます。私たちは、キリストの贖いによって罪を赦されます。有罪判決は決してないのです。
もう私たちは、神が自分の罪のために、将来私を切り捨てるのではないかと思う必要はありません。罪を永遠に責められるのではないかとビクビクする必要もありません。そして、罪が赦されただけでなく、キリストの義を着せられたものとして見てくださいます。主は私たちを「罪人」ではなく「キリストの証人」や「神の子ども」や「聖徒」として見て下さっています。罪赦された前科者として見られることはないのです。ですから、私たちは自分の罪や過ちが自分のアイデンティティであるかのように、恐れや恥から生きる必要はありません。たとえ、そんな心境に私たちが何度も何度も陥るとしても、神の贖いの約束は変わることがなく、私たちを励ましてくれます。支えてくれます。私たちは、すべての罪を赦され、義なる者として見られている。これを「義認」と言います。
同時に、もう一つ
「恵みの契約」
には
「きよくされること」
も約束されていました。それは
「心も行いもますます聖なるものにしてくれます」
でした。罪が赦された、というだけでなく、私たちの実際の心や行いが聖なるものにされる。罪を赦されるのだから、罪をどれだけ楽しんでもいいや、ではなく、心も行いも聖なるものになるから、罪から遠ざかるようになるのです。この事を「聖化」と言います。
義認と聖化。この二つは「恵みの契約」の約束している二つの事です。これに加えて
「神の子どもとされる」
という面もありますが、言わば「義認」と「聖化」は「神の子どもとされる」ことの二つの面だとも言えるでしょう。
「義認」は子どもという立場です。私たちは罪人として神に背いた立場から、赦されて神の子どもとされた立場を与えられています。神が私たちを、ご自身の子にしてくださいました。孤児を子どもにする時、親となる人は法律上の手続きをします。その書類や手続きが終われば、法律上はもうその子は家族の一員になります。本人がピンとこなくても、赤ちゃんで何も分からなくても、また何かある度に「どうせ自分はこの家の子なんかじゃないんだ」とやけっぱちになったとしても、「今度こそ捨てられるんじゃないか」と思い込んだりしても、その家の子どもであるという立場(アイデンティティ)は決して変わりません。
しかし子どもというのは法的な子どもであるだけでは不十分です。何をしても子どもなんだから、というだけで大目に見ているなら、却ってその家の子になった意味はないでしょう。今日のローマ書でも6章は
1恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません!」
と始まっています。
10なぜなら、キリストが死なれたのは、ただ一度罪に対して死なれたのであり、キリストが生きておられるのは、神に対して生きておられるのだからです。
11同じように、あなたがたもキリスト・イエスにあって、自分は罪に対して死んだ者であり、神に対して生きている者だと、認めなさい。
と勧めて、そのように生きることを教えています。私たちも、罪の赦しだけでなく、心も行いも聖くされることを求めて、生きるよう勧められています。
ただし、もう一つ肝心なのは、この「聖くされる」ことも神様の恵みなのです。罪の赦しは神の恵みで、聖くなるのは私たちの努力次第だ、と考える人は多くいます。しかしここでも言われます。
14罪があなたがたを支配することはないからです。あなたがたは律法の下にではなく、恵みの下にあるのです。
私たちを支配しているのは、罪ではなくキリストです。まだ私は罪を犯し、キリストを忘れ、疑いもするでしょう。でも私たちはキリストのうちにあって生かされています。私たちは律法の下にではなく、恵みの下にあります。キリストが私たちを形造り、成長させてくださるのです。聖とされるとはキリスト抜きに聖くなるのではありません。聖なるキリストに結びつけられていくことです。主は私たちを心も行いも、神の子どもらしく、もっと喜び、自由、正直なものにしてくださいます。神の子どもとして、成長させてくださいます。義認と聖化の二つは、「恵みの契約」を通して私たちに約束されている二つのことです。義認も聖化も恵みです。この二つを手がかりにしていきましょう。