聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答78~80 マルコ12章28~34節「神を愛し人を愛する」

2019-02-10 18:30:00 | はじめての教理問答

2019/2/10 マルコ12章28~34節「神を愛し人を愛する」はじめての教理問答78~80 

 教会には、伝統的にとても大事にしてきた、三つの文章があります。それは「主の祈り」と「十戒」と「使徒信条」です。この三つを「三要文」と呼びます。礼拝では「主の祈り」と「使徒信条」を毎回唱和します。「十戒」も大事に教えられたいと思います。

問78 最初の四つの戒めは、なにを教えていますか?

答 神さまを愛し神さまに仕えることが、どういうことかを教えています。

問79 そのあとの六つの戒めは、なにを教えていますか?

答 隣びとを愛し、隣びとに仕えることが、どういうことかを教えています。

問80 十戒はなにを教えていますか?

答 神さまを心から愛し、隣びとを自分自身のように愛することを教えています。

 今日のマルコの福音書でも、イエスが「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と質問されたのに対して、お答えになったのがそれでした。(マルコ12:29~31)

「第一の戒めはこれです。『聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』第二の戒めはこれです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。』これらよりも重要な命令は、ほかにありません。」

 私たちの神が、私たちに対して求めておられる第一の戒めは、私たちが私たちの神、主を愛すること、そして私たちの隣人を自分自身のように愛すること、です。神を愛すること、そして隣人を愛すること。これらよりも重要な命令は他にないと、ハッキリ仰ったのです。勿論、私たちにとって、神を愛することも隣人を愛することも、簡単ではありません。私たちは自分に優しさや温かさが欠けていて、心の冷たさや頑固さを認めざるを得ません。神が私たちに、愛しなさい、と言われると分かっても、自分には愛がないし、そんな私には愛される資格もない、と思ったりするかもしれません。

 けれども考えてみてください。愛される資格のある人を愛せよと言われているのでしょうか。愛のない人は愛さなくていい、と仰ったのでしょうか。隣人が「いい人」なら愛しなさいと仰ったのでしょうか。違いますね。私たちはみんなお互いにそれぞれに、欠けだらけです。心も冷たいし、怒りっぽかったりします。そういう私たちに、神は「愛しなさい」と言われます。あれをしなさい、これはしてはならない、という戒めかと思ったら、神が私たちに語られるのは、神を愛し、私たちが隣人を愛する生き方です。神が私たちに願っているのは、私たちに何か立派なことをさせるとか、一番になるとか、心が清い人になれ、とかではありません。私たちが愛すること、神を愛すること、そして隣人を愛すること。ただそれが、神の私たちに対する願いなのです。

 教会で、主の祈りや使徒信条は唱和されるのに、十戒が唱和されることは余りないのはどうしてでしょうか。その理由の一つは、十戒が難しく堅苦しい戒めで、人を束縛するものだから、という誤解があると思います。そして、そんな戒めは人間には守れないのだからイエスが来て、信じるだけで救われる福音が与えられている-だから、今は十戒はもう要らないのだ、という誤解があるでしょう。十戒は、聖く正しく難しい規則だとしたら、確かにそうかもしれません。面倒くさい、遠慮したい規則なら要りません。しかし十戒が教えているのは

「神を愛し人を愛する」

ことです。神はどんなことより、私たちが神を愛し、互いに愛し合うことを願っています。それは、何よりも、神ご自身が私たちを愛しておられるからです。神は、ご自分が聖く正しく何でも出来る方だから、簡単に愛しなさいと言われて、私たち人間が愛せないのを「何やってるんだ。愛がないなんて酷い奴だ」と思うようなお方でしょうか。それこそ、愛のない見方ですよね。神は私たちを愛しておられます。私たちの冷たさや貧しさも十分ご存じです。人を愛せない時、私たちの心に何が起きているのか、どうして愛したくても愛せないのか、全部ご存じです。それでも、私たちを愛しておられて、そういう私たちが愛するように、神様のことも、周りの人のことも、大事に、心から大切に思えるようになってほしい。そう願っておられるのです。逆説的ですが、私たちが神を愛せないとしても、神は私たちを愛して止まない。そう気づく時に、私たちが神と人を愛することも始まるのでしょう。

 もう一つ、イエスは

「どれが第一の戒めですか」

と問われて、神を愛することと応えるだけではなく、第二として

「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」

を言われました。一番を聞かれて、二つの答を語りました。神か人か、人より神を愛する方が大事じゃないか、とは言われませんでした。この時質問した律法学者たちの世界では、神を愛するが一番、と決まっていました。人よりも神を愛する方が大事。ところがイエスは、神を愛することと隣人を愛することが切り離せない、一番重要な戒めとして言われたのです。これは、律法学者や多くの宗教者の世界を引っ繰り返す発言です。

Ⅰヨハネ四19私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。20神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。21神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。

 イエスは仰います。十戒で神が教えておられるのは、私たちが人を自分のように愛することだ。決して、人の言いなりになるとか、愛する気持ちがないのに優しくしてあげなさい、ということではないです。大事なのは、神が私たちを愛しているように、私たちも神の愛を受け取って、お互いを神の愛の中で見ていくようになることです。自分のことも、人の事も、神の大きな愛の中で見るようになることです。イエスは私たちを愛して、私たちにも互いに愛し合う生き方を教えられました。それは驚くべきことです。でもそれが神であり、それが聖書のエッセンスなのです。

 イエス・キリストは私たちを神と和解させてくださいました。私たちを、神の民、神の子ども、神の家族にしてくださいました。その時、私たちもこの世界の中で、互いを神の愛の中で見るような関係を教えて、始めてくださるのです。それまで、愛する事などなかった関係、戦ったり知らんぷりをしたり馬鹿にしたりしていた相手を、どんな人をも、悪者扱いせず、大切な人だと喜ぶような、驚くべき関係を始めてくださった。それが、この十戒を通して教えられる神の願いです。キリスト教の驚くべき夢なのです。

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創世記6章9~22節「箱舟で再出発 聖書の全体像09」

2019-02-10 18:18:30 | 聖書の物語の全体像

2019/2/10 創世記6章9~22節「箱舟で再出発 聖書の全体像09」

 聖書の大きな流れをお話ししています。今日と次回は、ノアの箱舟の出来事に目を留めます。これは、人が神に背を向けて、エデンの園から出て始まった出来事の大きな区切りになります。神に背いて、罪が入り込んだ結果、人は悪を重ねるようになりました。その末に、大洪水で地が滅ぼされるのです。しかし、その中で神はノアとその家族を選んで、箱舟を造らせて、あらゆる動物たちとともに、再出発をさせられます。そのことが、ノアへの

 「契約」

という形でここに語られています。初めて「契約」という言葉が出て来て、神の人間に対する確かな絆がハッキリ約束されるのです。引いては今私たちがここに生かされて、天地が滅びることなく、太陽や季節が巡り、雨が降っては虹を見て、災害が起きたり、収穫をしたりしながら、今ここにあること自体が、神が世界を決して諦めておられない証拠なのだと教えられるのです。

 そうは言っても、むしろノアの記事から、神が人間を滅ぼす恐ろしい方だと思ってしまっている方も多いかもしれません。この創世記六章には、エデンの園から追放された世界が徹底的に悪や暴虐の世界だったことが書かれています。5節6節、10節11節と重ねて強調されます。

創世記六11地は神の前に堕落し、地は暴虐で満ちていた。12神が地をご覧になると、見よ、それは堕落していた。すべての肉なるものが、地上で自分の道を乱していたからである。

 本当に酷(ひど)い状態だったのですね。四章の最後には、当時の世界の権力が暴力や復讐を豪語する社会だったと書かれています[1]。また、洪水の後の九章では殺人の罪の重さが言及されています。ということは、それまでは人の命が実に軽く扱われていたのでしょう。地は暴虐で満ちていました。11、12節の

「堕落し」

は13節の

「滅ぼし」

と同じ言葉です。神が滅ぼす前に、人間が自ら社会を滅ぼし、殺し合って、滅びて行く在り方だったのです[2]。四章で、最初の殺人事件が起きて以来、数えきれないほど多くの人が殺されて、数えきれない程の血が大地から神に向かって叫んでいる[3]。その叫びを、神は聴いて、深く嘆かれています[4]。世界を造ったことを悔やむと言われるほどの強い言い方で、悲しまれます[5]。それでも何年も何十年も神は忍耐して待っておられました[6]。それでも人は滅ぼし続けるので、神は遂に洪水を決心されます。でも、もう全部滅ぼし尽くしても良いのに、まだ神は、一つの家族を選んで、語りかけて、神が造られた世界の再出発を託されるのです。

「悔やむ」

と言われて全部なかったことにも出来るのに、まだ悔やみきれず、諦めずに、ノアの家族を選んで、そこから再出発させようとなさるのです。ノアの大洪水は、神が世界を滅ぼす恐ろしい方などではなく、人間が世界を滅ぼそうとしても、なお人間に働きかけて、滅びかけた世界の中から立ち上がらせる神の業でした。

 主は「ノアを滅ぼさずに救われた」のでしょうか。主はノアに、大きな箱舟を造り、その中に全ての地上の動物たちを入れて、一緒に大洪水を生き延びて、全地に増え広がりなさい、と命じました。自分が助かるための「救命ボート」でなく、全ての動物も入る大きな「箱舟」を造って、食糧も準備せよ。大洪水の後はそこから出て、神が造られたこの世界に生きる。地を暴虐で満たすのではなく、いのちで満たせと命じます。一章の創造の時の言葉を繰り返して、その目的へと人を招かれたのです。箱舟は、神が人を救われるイメージに重ねられることが多いですが、箱舟は人を乗せるための豪華客船ではないのです。ノアが動物たちを入れて、洪水を生き延びさせて、最後には地上にまた出て行って、増え広がるための場所です。そういう箱舟を造るよう主はノアに命じました。それは神が世界を諦めておられないこと、この世界の中で生きる人間の在り方を何があっても大事に思われるということです[7]。この世界が暴力で溢れていることを深く悔やまれ、悲しまれて、これで良いとは思っておられない。神は世界にもう一度いのちを満たそうと働いて、人にそんな人生を与えられる。それがノアとの契約でした。

 箱舟のサイズは、長さ一三七m、幅二二m、高一三m。これは現在の造船技術でも妥当なサイズなのだそうです。他の神話も「洪水伝説」がありますが、その「箱舟」はなんと巨大な立方体とか大きさが1kmを超えるとか、到底実用に耐えないような代物だそうです。大きな舟なんて造ったり乗ったり見たこともない。裏を返せば、ノアの箱舟を見ても安全だとは思えなかった、ということでしょう。洪水が起きた時も、当時の人々は、箱舟に入れば救われるとは思わなかったのではないでしょうか。もし箱舟に入ったとしても「こんな真っ暗な木の箱で、動物たちと閉じ込められるなんて真っ平だ」と叫んで、箱舟をぶち壊そうとしたのではないでしょうか。神が用意された箱舟は、神を信頼して、神が用意されている生き方を受け入れる人には「救い」です。しかし、神を信頼せず、自分が神になろうとして人や世界を滅ぼして構わないと思っている人にとっては、到底受け入れがたい生き方だった。神の言葉を信頼して、そして、そこに示されている新しい生き方を受け入れる事。それは救いのための手段ではなくて、それ自体が救いなのです。主イエスの十字架もそうです。

Ⅰコリント1:22~24「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」[8]

 箱舟も十字架も、見る人にとっては愚かで近寄る気にもならないものですが、神は私たちに、神を信頼して、神が造られた世界で活き活きと生きるよう招かれます。神との関係だけでなく、家族やあらゆる人間関係、労働や自然との関わり、要するに、皆さんの生活のすべて、どんな小さな事も、神の御手からの預かりものとして、心を込めて取り組む。暴力や不正からも目を背けずに悲しんで、怒って、嘆いて祈って、出来ることをしていく。もしそうでなく、この世界をいい加減に考えて良いなら、神はどうして箱舟を造らせて、全世界を託したのでしょうか。

 ノアは正しい人だったから私たちと違う、と思う人もいるかもしれません。実は、8節の

「ノアは主の心にかなっていた」

は欄外に直訳が

「主の目に恵みを見出した」

とあります[9]。ノアが正しいから選ばれたのでなく、先に主がノアを恵みの目で見て下さったのです。その上、ノアの家族まで神の契約の中に入れられました。ノアの子孫は洪水の後、早速、父親を笑い物にして、神から離れていきます。やがて「バベルの塔」を築いてしまう。いいえ、箱舟から出た時点で主は

「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。」

と仰います[10]。「洪水で懲りた人は今度こそ正しく生きるだろう」「正しいノアの子孫だから真っ当に歩んでくれるだろう」という甘い見込みはありません。幼い心に悪を抱えていることを承知の上で、神はノアの家族を契約の中に入れて、世界に散らされました。人の悪を熟知した上で、神には現実的なご計画がありました。世界を愛して、それを保たれて、人を世界に置かれた役割を何としてでも果たそうと諦めない御心があります。その大きなご計画の枠組として、神はノアと家族を選ばれたのです。

 そして私たちは今、ノアの家族のようにして神の民とされています。私たちが正しいからではなく、真に正しい一人の方、イエス・キリストによって神の家族とされました。恐る恐るでも十字架の福音の門を潜(くぐ)って、教会という箱舟に入りました。そしてここに留まらず、それぞれの生活へと遣わされていく。世界には今も沢山の問題や悲惨があります。自分の中にも悪を見ます。諦めそうになります。でも神はこの世界を見捨てず、人の役割を諦めない方です。イエス・キリストによって私たちを新しい契約に入れてくださいました。私たちが目にする世界、毎日の生活、小さな営み、他人や自分という存在は何一つ無駄ではなく、かけがえのないものです。神が私に託してくださった生活を大切に受け取って、主に捧げさせて戴きましょう[11]

「天地の主。世界が、今日も太陽が上り雨が降り、季節が巡ることは、あなたの深い慈しみによります。生かされていること、主によってあなたの子とされ、地の塩、世の光と呼ばれて、遣わされることを感謝します。日々の務めを、世界の悲惨への悲しみを、私たちの手の業も、後悔も、言葉も祈りも聖別して下さって、どうぞあなたの貴く深い栄光を現してください」



[1] 創世記4章23~24節「レメクは妻たちに言った。「アダとツィラよ、私の声を聞け。レメクの妻たちよ、私の言うことに耳を傾けよ。私は一人の男を、私が受ける傷のために殺す。一人の子どもを、私が受ける打ち傷のために。カインに七倍の復讐があるなら、レメクには七十七倍。」」

[2] 13節の「神はノアに仰せられた。「すべての肉なるものの終わりが、わたしの前に来ようとしている。地は、彼らのゆえに、暴虐で満ちているからだ。見よ、わたしは彼らを地とともに滅ぼし去る。」も、神が滅ぼし去るので、肉なるものの終わりが来る、というよりも、神の前には既に肉なるものの終わりが来るばかりになっているため、神は自らの手によって滅ぼすが、その中にノアとの契約を建てられる、という読み方が出来るでしょう。

[3] 神は、この暴力の世界を裁かれた。それは、人に対する怒りではなく、弱者に伴う神の怒りである。まだ人は、バベルの塔を造る発想はない。弱者は殺されていたのだ。殺された人々の叫びを、神は涙して聞かれたのだ。その後の社会をも神は維持して、弱者を丸ごと滅ぼすことはしない。しかし、暴力の方が強くなりすぎるなら、強制的に介入もなさろう。それ以上に、弱者を慰め、私たちが福祉に生きることを神は支え、促し、介入し続けておられる。

[4] 6節「心を痛められた」3:16「産みの苦しみ」、5:29「労苦」と同じ。五7「心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった」。それで主が心を痛める!

[5] 神の後悔も、怒りも、喜びも、本来の大いなる神にとっては、「不名誉」な表現・感情であるはず。人間でさえ、小さな事で感情を露わにすることは恥じる。しかし、神は、人の行為により激しく心を動かされると吐露して憚らない。それほど神は人に心を動かされ、また、人にご自分の感情、愛を伝えたいのだ。

[6] 3節で言えば「一二〇年」。これは人間の年齢の上限というよりも、この時に宣言された猶予期間と考えた方が筋が通ります。これ以降も、人は百年以上生きるのですから。

[7] 六20、八17は、一24、25、30の反復。九1、2と一28も。

[8] Ⅰコリント一章18~24節「十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。19「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。20知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシア人は知恵を追求します。23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、24ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。」、また、Ⅱコリント二14~16「しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちをキリストによる凱旋の行列に加え、私たちを通してキリストを知る知識の香りを、いたるところで放ってくださいます。15私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神に献げられた芳しいキリストの香りなのです。16滅びる人々にとっては、死から出て死に至らせる香りであり、救われる人々にとっては、いのちから出ていのちに至らせる香りです。このような務めにふさわしい人は、いったいだれでしょうか。」

[9] この表現は、創世記十八3、十九19、三十27などで多数用いられています。

[10] 創世記九21「主は、その芳ばしい香りをかがれた。そして、心の中で主はこう言われた。「わたしは、決して再び人のゆえに、大地にのろいをもたらしはしない。人の心が思い図ることは、幼いときから悪であるからだ。わたしは、再び、わたしがしたように、生き物すべてを打ち滅ぼすことは決してしない。22この地が続くかぎり、種蒔きと刈り入れ、寒さと暑さ、夏と冬、昼と夜がやむことはない。」」

[11] ローマ人への手紙12章1-2節「ですから、兄弟たち、私は神のあわれみによって、あなたがたに勧めます。あなたがたのからだを、神に喜ばれる、聖なる生きたささげ物として献げなさい。それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」

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