聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

はじめての教理問答81~83ルカの福音書10章25~37節「隣人を愛する」

2019-02-24 16:05:31 | はじめての教理問答

2019/2/24 ルカの福音書10章25~37節「隣人を愛する」はじめての教理問答81~83 

 神が私たちに求めておられるのがどんなことか。それは聖書の

「十戒」

に要約されています。十戒に教えられているのは、私たちが神を愛し、隣人を愛すること。それが、前回のお話しでした。そして、今日のルカの福音書の最初でもその事が確認されました。ところが、イエスに質問した人は

「では、私の隣人とはだれですか?」

と言われました。隣人を愛しなさいと言われる、その「隣人」とは誰の事でしょうか。

 夕拝で学んでいる「はじめての教理問答」。今回の問81はその「誰か」を問います。

問81 あなたの隣びととはだれのことですか?

答 すべてのひとが、わたしの隣びとです。

 私たちの隣人とは「すべての人」。これは今日のイエスの譬え

「良きサマリヤ人」

のエッセンスを言い換えたものでしょう。

 強盗に襲われて、持ち物を奪われて、着物もはぎ取られ、半殺しにされて道に放り出されている人。道ばたに倒れているその人を、見かけて、私たちはどうするでしょうか。イエスが話されたのは、神殿に仕える祭司と、祭司とともに神殿で役割を果たすレビ人という家柄の人、そして、一人のサマリヤ人の三人でした。祭司とレビ人は、神殿で仕える大切な役割を果たしていました。社会的にも尊敬を得ていた人たちです。けれども、その二人は半殺しで倒れている人を見て、助けに近寄ったでしょうか。いいえ、それどころかわざわざ

「反対側を通り過ぎて行った」

のです。その後に通りかかった「サマリヤ人」は、ユダヤ人とは犬猿の仲でした。ユダヤ人にとっては、違う神を拝む人、聖書の教えを都合良くねじ曲げる冒涜者、一緒に食事をすることも汚らわしい存在でした。しかし、そのサマリヤ人が通りかかって、強盗に襲われた人を見たとき、彼は見て可哀想に思って、近寄って介抱するのです。自分の家畜に乗せて、宿屋に連れて行くのです。翌日も、宿屋の主人に自腹で費用を払い、半殺しになった人のお世話をお願いするのです。ユダヤ人にとっては、屈辱極まりない展開です。イエスはあえてこういうお話しをなさいました。そして、問われます。

36この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」

 最初にイエスに質問した人は

「私の隣人とは誰ですか」

と問うたのです。それに対してイエスが語られた譬えは

「だれがこの強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか」

と括られるのです。ユダヤ人にとっては「サマリヤ人は私の隣人ではない」と思っていました。そして、祭司やレビ人は「この人を助けるのは自分じゃなくてもいい」と考えることにしたのかもしれません。でもイエスの問いかけは

「この人は私の隣人か」

ではなく

「あなたはこの人の隣人になりますか」

なのです。「私はこの人の隣人にならなくてもいい」というそんな関係はなくて、その人の隣人になるか、が問われる。これが、今日の「初めての教理問答」で言っていた「全ての人が私の隣人です」という意味ではないでしょうか。世界中の人が皆、という意味もありますが、もっと身近にいる、どんな人も、ユダヤ人であろうとサマリヤ人であろうと、黒人であろうと白人であろうと、ケガをして倒れている人、助けたら厄介なことになるだろう人だろうと、あなたにとって憎らしい敵であろうと、私たちはその人の隣人になることが出来ます。世界の人口は今70億~80億だそうですが、その全員が「隣人」でもありますが、もっと身近な意味で「全ての人」はあなたが隣人になるよう出会った人なのです。世界の全ての困っている人を助けることは出来ませんが、まず身近にいる人、あなたが出会う人であなたの隣人でない人は一人もいません。「全ての人が私の隣人」なのです。

 「初めての教理問答」は、続けてこう言います。

問82 神さまはご自身を愛し、ご自身に従うものを喜びますか? 

答 はい。神さまは「わたしを愛する者を、わたしは愛する」といっています(箴言8:17)。

問83 神さまはご自身を愛さず、ご自身に従わないものを憎まれますか? 

答 はい。「神は正しい審判者、日々、怒る神。悔い改めない者には剣をとぎ」ます( 詩篇7:11-12)。

 「私たちが神を愛して従おうが、従うまいが、大差ないのではないか」。そういう人間の甘い見込みに対して、この二つの問はハッキリと答えます。神は、ご自身を愛し、ご自身に従う者を喜ばれます。神を愛さず、ご自身に従わない者を憎まれます、と明言します。ただし、忘れないで欲しいのは、この

「神を愛し、神に従う」

ことの前に、隣人を愛するという戒めがあることです。隣人を愛することこそ、神を愛し、神に従う生き方です。ユダヤ人の考えでは、神を愛する方が隣人を愛するより大事でした。祭司やレビ人は神殿で、神に仕えるために選ばれているので、誰よりも神を喜ばせていると、自他共に認められていたのでしょう。だから、道ばたで倒れている人に煩わされなくてもいいと考えたのかもしれません。でも、イエスの譬えはその考えを引っ繰り返します。神に仕える祭司やレビ人よりも、自分とは違う宗教を信奉しているサマリヤ人の方が神の御心を行っていることがある。私たちが神を愛する模範は、他の宗教を持ったり、違う価値観で生きている人の中にも大いにある。私が嫌い、蔑んでいる人の方が、私よりも神の基準に近い生き方をしていることがある。そういう譬え話を語られたのがイエスであり、そのイエスの言葉に聴き続けるのが、キリスト者なのです。

 こう仰ったイエスは、本当にすべての人を愛されました。イエスご自身が、すべての人の隣人になりました。サマリヤ人や病人、売春婦や死刑囚、どんな人とも分け隔てなく友となりました。そして、私たち自身に、近づいてくださいました。私たちを見て、私たちの痛みや傷を見て、可哀想に思い、手当をしてくださいます。このサマリヤ人がお金を払ったように、イエスはご自身のいのちを払って、私たちのために犠牲を払い、最後まで面倒を見てくださいます。そして、やがて私たちを迎えに来てくれます。そういう愛を戴いています。そして、私だけではなく、すべての人がそのようなイエスの愛の中に入れられています。だから私たちは、毎日の生活の中で、イエスに従って、人を愛していくのです。隣人になる生き方をしていくのです。その生き方を神は必ず見て、喜んでくださいます。誰も見ていないからと反対を通りたくなる時は、神が見ておられることに勇気をもらいましょう。良きサマリヤ人のような生き方をしている沢山の方がいます。主が私たちの人生を、だれかの隣人になる人生にしてくださいますように。

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ガラテヤ書3章26-29節「キリストにあって一つ ガラテヤ書」

2019-02-24 15:58:18 | 一書説教

2019/2/24 ガラテヤ書3章26-29節「キリストにあって一つ ガラテヤ書」

 今月の一書説教は、ガラテヤ書です。使徒パウロがガラテヤの諸教会に宛てた、六章にわたる手紙です。強い語調の論争的な手紙であり、美しい聖句も多く出て来ます[1]。パウロがこの教会を開拓して離れた後、律法主義的な教師がやってきました。パウロを否定して「イエスを信じるだけでは不十分だ」と教えて、ガラテヤ諸教会はそちらに流れていくところでした。キリスト教会が「キリストを信じるだけでは不十分だ」と教えられて簡単にグラグラ揺れてしまった。そういう知らせを聞いて、パウロが熱い言葉で語っているのが、このガラテヤ書です。教会が間違った教えに流されることを憂慮し、キリストの福音に気づかせようとしています。

 ガラテヤがどこを指すかは難問です。古く「ガラテヤ王国」のは北の地方ですし、ローマの行政上の「ガラテヤ州」だともっと南部も含みます。今でも「アジア」とか「中国」、「関西」もややこしい名称ですね。パウロは第二回旅行で北部の「フリュギア・ガラテヤの地方」を訪れていますが[2]、第一回伝道旅行で訪れた南部の「リステラ、イコニオン」[3]はガラテヤ州なのです。この二つの伝道旅行の間に、使徒の働き一五章で「エルサレム会議」が開かれました。その時「異邦人がイエス・キリストを信じるなら、ユダヤ人に一旦ならなくてもいい」という大きな決定をしました[4]。ユダヤ人が大事にして来た旧約聖書の習慣を、異邦人に強制しないと決定しました。ガラテヤ書が書かれたのがその会議の前なのか、それとも「エルサレム会議」の決定の後で、またガラテヤで問題が再燃したのか、意味合いが大きく違ってしまいます[5]

※ ガラテヤと呼ばれる地名は二通りあります。

 これは未だに両者の意見がある難しい問題です。どちらにせよ、エルサレム会議以降も、ユダヤ人にはこの決断は大きな抵抗がありました。「割礼や旧約儀式を守る必要があるのか」という声は新約の随所で再燃しています。その度に、確認された大事な福音は変わりません。それはイエス・キリストを信じるだけで、他に何も付け加える条件はない。キリストへの信仰の他に、何かの儀式や習慣や行為を付け加えなければ足りないということは一切ないのです。人は自分の行いや努力によっては救われません。ただ、神が私たちを神の子どもとするために、ひとり子イエス・キリストを遣わしてくださいました。その恵みを私たちは受け取るだけです。

 パウロはガラテヤ書の最初で、自分がキリストと出会う前のことから語っています。かつて、イエスと出会うまでのパウロはガチガチのユダヤ主義者でした。十字架で犯罪者として殺されたイエスをキリストとして崇めるなんてけしからんと、

「激しく神の教会を迫害し、それを滅ぼそうとしました」

 それがかつてのパウロでした。そのパウロに神が御子を知らせてくださって、キリスト者となり、伝道者になった。

「以前私たちを迫害した者が、そのとき滅ぼそうとした信仰を今は宣べ伝えている」

と噂になって、人々が御名を崇めるようになったのです。

 ガラテヤの諸教会に宛ててパウロはこの熱い手紙を書いています。キリストの福音の確かさ、律法の位置づけ、ガラテヤに自分が行ったときの最初の様子、など、色々な角度から「福音だけでは不十分だ」という考えを論駁します。4章11~18節では、自分の途方に暮れた思いまで打ち明けています。しかしこうしたパウロの情熱そのものが、かつてのパウロには考えられなかった情熱です。異邦人や割礼を受けない連中との交わりなんてあり得ませんでしたし、間違った教えに対しては迫害や暴力さえ厭わなかったのです。そのパウロがキリストに出会って、主はユダヤ人のためにも異邦人のためにもいのちを捨てて下さったと知りました。自分のためにも主が命を捨てて、神との和解を下さったことを知りました。ガチガチの民族主義者、教会の迫害者から、異邦人に福音を伝える伝道者に、一八〇度変わったのです。そのパウロが、ガラテヤの信徒達が違う福音に走った時、強い語調でではありますが、心を砕いて手紙を書き送ります。かつてとは大違いで、異邦人のために真剣に語り、自分の弱さも見せて手紙を書き送ります。それはパウロがガラテヤの異邦人キリスト者を本当に想っているからですね。この変えられたパウロの姿自体が、ガラテヤ書のメッセージであることを見落としたくないのです[6]

 パウロは再三、キリストだけでは不十分で、割礼も受ける、という考えに警告します。キリストが私たちを自由にしてくださったと言います。その末に5章6節で言うのは、

五6キリスト・イエスにあって大事なのは、割礼を受ける受けないではなく、愛によって働く信仰なのです。

 「割礼がなくても救われるからヨカッタ」でなく、キリストの愛が私たちのうちに働いて信仰を持たせる。それが大事、それが救いなのです。愛によって働く信仰は、キリストへの信仰だけでなく、周囲の人も新しい目で見させてくれます[7]。パウロはキリストに出会って、神との関係が変わりました。その時、彼の生き方が律法主義から恵みによる生き方に変わりました。異邦人を見る目も、敵を見る目も変わりました。自分が救われるため律法を守り善いことをする生き方が根本から覆されて、自分も他者も、キリストのうちに見るよう変えられたのです[8]

 2章の後半でパウロは一つのエピソードを取り上げます。アンティオキアの異邦人の教会にエルサレム教会の牧師ペテロが来た時、彼は異邦人キリスト者とも一緒に食事をしていました。ところが、あるユダヤ人キリスト者がやって来たら、ペテロは彼らに遠慮して、異邦人と一緒に食事をしなくなった。そこでパウロは皆の面前であのペテロを叱りました。ペテロの行為は事実上、割礼を受けていない異邦人に、イエスを信じる信仰だけでは不十分で、割礼や律法の遵守を要求することでした。しかしもっと言えば、キリストの福音を受け取っているかは、他の人と一緒に食事をするか、人間関係で差別がないか、で試されます。「信じるだけで救われる」と言いながら、人を選り好みしたり何かと要求を押しつけたり、奉仕や立派な生き方や伝道を強いてしまうならどうでしょう。「割礼は要らない」と考えても、自分の教派の背景や信仰の経験や文化を人に押しつけたり、人目に遠慮して差別に荷担したり、世間の雰囲気を教会に持ち込んでしまう。それは自分にとっては大切だったり当たり前かも知れません。でも他の人にはプレッシャーや壁になるかも知れません。キリストの恵みで救われる、とは教理の問題以上に、私たちの実際の人間関係、教会の中での在り方が試金石となる、現実的な問題です[9]

 キリストの福音は、私たちの普段の考え、人の見方、自分の尺度に合わない人との関わり方を新しくします。キリストを信じるだけで神の子どもとされる。だから私たちは、違う者同士でも教会に集まり、一緒に主の聖晩餐に与る。「キリストが神の家族に入れてくださるという救い」に私たちは与りました。他の人を見ていた自分の尺度が引っ繰り返され続けます。まだまだ途中で、ガラテヤの教会も流されかけペテロも揺れました。教会も二千年かけて、まだ差別や競争を止められず、敷居を高く造っては壊し、造っては壊しです。それでもパウロは、

 あなたがたはみな、信仰により、キリスト・イエスにあって神の子どもです。…ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由人もなく、男と女もありません。あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって一つだからです。あなたがたがキリストのものであれば、アブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。 (ガラテヤ書3:26~29)

と言っています。最終的には

「大事なのは割礼ではなく新しい創造です」(6:11)

とまで言います。神のゴールは「新しい創造」、人種や性別や文化の違いを超えた新しい世界の創造。途方もないスケールで捉えられています。そしてそれが今、教会で一緒に食事をし助け合い、御霊の実が結ばれるという、本当に小さな日常的なことから始まります。私たちの普段の生き方、見方を、キリストの恵みは一新します。ギスギスした社会で疲れた心を慰める教会、本当に無条件に受け入れ、愛し、互いに喜び合う交わりでありたい。信徒総会に先立って、キリストを信じ、告白し現す教会として、一人一人が養われ、ともに歩む願いを、ガラテヤ書から教えられます[10]

「私たちの父よ。あなたを親しくそう呼ぶ幸いを下さったキリストの、大きな幻を感謝します。圧倒的な恵みを注がれながら、そこに余計なものを持ち込んだり、人を排除したりしかねない私たちを、どうぞ助けてください。ただキリストの福音に立ち、神の家として歩ませてください。主イエスの十字架をますます知ることによって、恵みならぬものから救い出してください」



[1] たとえば、「二20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。」「五13兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」「五22-23御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。」

[2] 使徒の働き16章6節。

[3] 使徒の働き14章。

[4] それまでの教会の中心はユダヤ人でした。旧約聖書を受け継いできたユダヤ人は「契約のしるし」として男子が「割礼」という男性性器の皮を切る手術をしていたのです。それは大事な意味がありましたが、これから旧約聖書を知らない異邦人をも教会に受け入れるに割礼を施さなくていいのか、食べてはならないものとか、お祭りとか儀式とか、聖書に書いてあって慣れ親しんできた事を強制しなくていいのか、という決断は私たちの想像を絶する決断だったのです。

[5] 緒論の「宛先」「執筆年代」については、以下の「徳丸町キリスト教会 聖書の概説 ガラテヤ書」を引用して紹介します。「本書の宛先は「ガラテヤの諸教会へ」(1:2)とあるように、ガラテヤ地方にある複数の教会で、そこで回覧状のように読まれることを期待して書かれたものです。本書の執筆年代は、この「ガラテヤ地方」が具体的にどの地を指すかによって変わってくるため、古くから「ガラテヤ地方」を巡っては「北ガラテヤ説」と「南ガラテヤ説」が唱えられてきました。「北ガラテヤ説」は、ガラテヤを小アジアの中心部に位置する地域に限定します。パウロは第二次伝道旅行の際に「フルギヤ・ガラテヤ地方」を通り(使徒16:6)、第三次伝道旅行の際にも再訪しています(同18:23)。「北ガラテヤ説」の場合は本書が執筆されたのは第三次伝道旅行の後、エペソにて紀元54年から57年と考えられます。これに対し「南ガラテヤ説」は、上記の限定されたガラテヤ地方だけでなく、フルギヤ、ピシデア、ルカオニア地方からさらに南は地中海に面したパンフリア地方に至る広大な地域で、紀元25年にローマの属州となった広い地域を指すとします。この場合、パウロは第一次伝道旅行でこれらの町々に教会を建設しています(同13~14)。このローマ属州としてのガラテヤ、政治的区域としてのガラテヤを宛先とする場合、本書が執筆されたのは第一次伝道旅行の後アンテオケにて紀元49年頃と考えられ、パウロ書簡の中でも最初期に書かれたものの一つとされます。 いずれに説にもそれぞれの妥当性がありますが、ポイントは本書と使徒の働きの記述との対応、特に2章と使徒15章との対応をどう理解するかと言う点にあります。『新聖書辞典』(いのちのことば社)によれば、「パウロが南ガラテヤを離れて間もなく、パレスチナから来たユダヤ人教師たちの影響を受け、パウロの教えた信仰義認の教理を否定し、またパウロの使徒職をも否定した。パウロはその事態を知って、ただちにこの手紙を書き送って、彼らの信仰を指導したと思われる。そしてこの事態はエルサレム会議(使15章)以前に生じた問題と見る」とされており、南ガラテヤ説が有力とされます。

[6] ガラテヤ書のテーマは「信仰義認」だと言います。イエスを信じるだけで義とされる。他の割礼や善行や努力や資格は不要で、ただキリストの恵みによって罪を赦される。しかし「私と神」の関係だけを考えていくと、後半の行いはどうしても辻褄合わせとしか聞こえません。「五1キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。」、五14「律法全体は、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」という一つのことばで全うされるのです。」

[7] 「恵みとは」恵みは、私たちに耳を傾け、私たちを導き、動かし、変わらせる。人の中にすべてを働かせ、感じさせ、経験させるものである。」吉田隆『五つのソラ』(いのちのことば社、2017年)より、マルチン・ルターの引用、82頁

[8]五13兄弟たち。あなたがたは自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕え合いなさい。」の「愛をもって」は6節の「愛によって」と同じ言葉です。大事なのはキリストの愛によって働く信仰で、その愛は私たちを互いに仕え合う関係へと私たちを押し出す。救われるために、神に怒られないため・ガッカリさせないため、割礼を受けたり礼拝に出席し聖書を読み、善行を行ったりするのではなく、愛されている喜びから信じて、人をも新しい目で見ずにはおれなくなる。それこそが大事な事です。

[9] パウロは「四19あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。」と語ったり、「御霊の実」を描き出したりしてくれます。特に後半は、互いに競争したり妬み合ったりせずに、仕え合いなさい、過ちがあれば柔和な心で正してあげなさい、失望せずに善を行いなさい と語ります(五15、26、六1、9など)。パウロが語る「信仰義認」や「福音」はそうしたゴールを視野に入れている世界です。ただ自分が信仰だけで救われる、以上に、私たちがお互いにキリストが愛してくださった愛の中で見るようになる。その事をパウロはガラテヤ書の最初から語っています。

[10] 実際には、教会は何度もこの福音を間違えてきました。宗教改革の時、ルターが好んでガラテヤ書を語りましたが、それは中世の教会が、福音に免罪符や苦行や出家といった違う混ぜ物をするようになっていたからです。その後のプロテスタント教会でも、神学の違いで争ってきた歴史があります。今の私たちの中にも、いつも「恵みだけでいい。キリストを信じるだけでいい」と言いながら、つい教会に来にくい、入りづらい躓きを持ち込んでしまうことは絶えずあります。だからこそ、いつもガラテヤ書に戻りながら、主の恵みだけで十分、ということを教えられたいと思います。主が私たちを愛して、神の家族に受け入れて下さったのだ。

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