聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/7/5 ガラテヤ書2章10~20節「受け入れ信頼できる方」ニュー・シティ・カテキズム30

2020-07-04 13:07:11 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/5 ガラテヤ書2章10~20節「受け入れ信頼できる方」ニュー・シティ・カテキズム30

 「受け入れ、信頼できる」。これは、今日のニュー・シティ・カテキズム30に出て来る言葉です。イエス・キリストへの信仰を言い表しています。イエス・キリストを信じるってどういうことでしょう? 遭ったこともない人をどうしたら信じられるのでしょうか? イエスを信じますって、分からなくても言えばいいのでしょうか? そういう質問に対する答の中に、「受け入れ、信頼し、依り頼む」という言葉があるのです。

問20 イエス・キリストへの信仰とは何ですか?
答 イエス・キリストへの信仰とは、神がみことばによって示されたすべての真理を受け入れること、キリストを信頼すること、そして、救いのために、福音によって私たちに差し出されたキリストのみを受け入れ、主に依り頼むことです。

 まず、神はみことば、聖書を私たちに下さっています。それは、私たちが神を信じるために必要なすべての真理を十分に示すためです。私たちは聖書を通して、神が私たちに何を呼びかけているかを知ることが出来ます。イエスご自身が、こう仰いました。
ヨハネ5章39節あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
 この他にも、聖書にはわたしのことが書いてあると言いました。他にも、聖書はイエスについて証ししています。

ヨハネ5:46モーセが書いたのはわたしのことなのですから。
ルカ24:27それからイエスは、モーセやすべての預言者たちから始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた。
使徒3:18-19しかし神は、すべての預言者たちの口を通してあらかじめ告げておられたこと、すなわち、キリストの受難をこのように実現されました。19ですから、悔い改めて神に立ち返りなさい。そうすれば、あなたがたの罪はぬぐい去られます。

 聖書が書かれたのは、私たちがイエスを信じるためだと、あちこちに書かれています。聖書のことばを通して、イエスを信じることが出来ます。聖書を読んだことはなくても、イエスについて聞いたり読んだりすることもあるでしょう。それならば尚更、聖書にはイエス・キリストがどんなお方か、どんなお話しをして、どんなことをなさったのか、私たちにとってどんなお方なのかが、詳しく書かれています。イエスに出会った人たちが変えられて行った事も書かれています。それを読まないなんて勿体ないです。聖書を通して知るイエスは、思い描いていたイメージとは違います。もっと自由で、もっと優しかったり、意外にそっけなかったりします。私が考えるイエスではなく、聖書でを通して語られている、遥かに豊かなイエス様との出会いが聖書にはあります。聖書を読むことは、私たちの信仰を育てるのです。
 今日のガラテヤ書を書いたパウロも、イエスに会ったことはありませんでした。もうイエスは十字架と復活の後、天に上っていなくなってから、パウロはキリスト教に触れたのです。それでも主はパウロに、出会ってくださいました。それはとても奇蹟的な出会いでしたが、そのパウロは聖書をよく読み、人々にも聖書にイエスの事が書いてあると繰り返して語っています。聖書を通してイエスは出会ってくださるのです。聖書を通して真理を受け入れたら、イエスに信頼することも始まります。だから、パウロはここで、ただ信じるだけでなく、もっとすごいことを言っています。
ガラテヤ2:19、20…私はキリストとともに十字架につけられました。20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです。
 聖書に書かれている「信じる」という言葉は、ただイエスの言葉に同意します、本当だと賛成します、というだけではありません。その中に飛び込んでいく、という言葉です。それは信頼する人の手の中に飛び込むのと同じです。飛び込んでも大丈夫と信じるといっても、水が怖いと思うなら、本当に信じているとは言えないですね。イエスを信じる、とは、本当にイエスが私を救ってくださる。イエスを私の救い主、私の神、私が信頼していいお方なんだ、ということです。イエスは、信頼できるお方です。

 「信仰」の反対は何でしょうか。それは「疑い」とか「不信仰」よりも「恐れ」です。信頼の反対は、信頼できるものがない、恐れや不安ですね。イエスは何度も「恐れるな」と仰いました。こわがらなくてもよい、大丈夫だ、安心しなさい、わたしがともにいる、と仰いました。イエスを信頼することは、イエスがいるのだから、恐れなくて良い、安心してイエスに従っていけば良い、ということです。
 時々、この事を勘違いして、イエスを信じて欲しい余りに、「信じなければならない」「恐れるなんて不信仰だからダメだ」と言ってしまうことがあります。でも、そんな風に強く言われたら、かえって怖くなってしまいますね。「信じなければならない」って言われるより、「信頼していい」と言われた方がホッと出来ます。イエスは、信じなければならないと命じる以上に、恐れなくて良い、わたしがともにいる、わたしを信頼しなさい、と仰るのです。

 最後の「救いのために、福音によって私たちに差し出されたキリストのみを受け入れ、主に依り頼むことです」は、長くて分かりにくいですね。ここで大事なのは、キリストが私たちを救ってくださる、ということです。「福音」とは「良い知らせ」という意味ですね。いい知らせです。それは、イエスが私たちを救ってくださる王だ。どんな人よりも、また私自身よりも、世界の王様や権力者や悪魔なんかよりも、遥かに強く、イエスが私たちを必ず救ってくださる、という知らせです。
 だから、私たちはイエスを信頼して良いのです。ただ、その教えが立派だとか、すばらしい愛のお方だという以上に、私自身が救いを必要としていて、その救いの良い知らせ(福音)が差し出しているのが、イエス・キリストという唯一の救い主なのです。私たちは自分を救えません。努力とか、宗教とか、お金とか仕事とか、色んなもので救ってもらえるような錯覚を持ちますが、どれも不完全で、到底不十分です。ただ、イエスだけが、私たちが受け入れるに値する救い主なのです。私たちは、聖書を通して、イエスに信頼し、イエスに飛び込むようにして、自分の人生をお任せするのです。どうぞ一人一人祈ってください。

「イエス様。御言葉を通してあなたが分かってきました。まだまだ分からない事だらけで、これからも迷うとしても、あなたが神の子で、私たちの救い主で、世界の王であることを信頼したいのです。どうぞ、私たちの心と人生の中心に来てください。あなたを信頼して、私をお任せします。御言葉の通り、私の罪を赦し、神の子どもとして、歩ませてください」

 このような祈りを今日、そして毎日捧げてよい。こんな信頼をしてよいお方なのです。



信仰の創始者である主よ、あなたは、あなたがご自分を現される通りのお方であると信じます。あなたのみことばは真実で、あなたが私たちを救う唯一の希望であることを信じます。私たちは見えるものに頼らず、あなたの約束を信じて信仰に歩みます。アーメン
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2020/7/5 ルカ伝1章1~4節「小さな大事件 一書説教 ルカの福音書」

2020-07-04 08:39:42 | 一書説教
2020/7/5 ルカ伝1章1~4節「小さな大事件 一書説教 ルカの福音書」

 一書説教として「ルカの福音書」を取り上げます[1]。新約聖書の最初には四つの「福音書」、主イエスの生涯と教えと御業を辿る書があります。その三番目、最も長いのがルカです。聖書通読表では、既に4月から何回かに分けて読むことになっていて、9月まで続きます。それぐらい長いのです。その最初の前置きが今日の言葉で、このルカの福音書が、どんな状況で、誰のために、何の目的で書かれたのかがとてもよく分かるようになっています。
1:1 2 私たちの間で成し遂げられた事柄については、初めからの目撃者で、みことばに仕える者となった人たちが私たちに伝えたとおりのことを、多くの人がまとめて書き上げようとすでに試みています。
 ルカの福音書が書かれたのは紀元60年頃、イエスの昇天から30年が経って、第一目撃者も減ってきた。歴史を纏める必要も生じてきた時代と思われます。まとめてようとはしても、なかなか大事業で、試みだけで終わっている。それをルカが果たしたのです。お気づきでしょう、ここで1節と2節をまとめて訳しています。原文では1節から4節までが一続きの文章で、いっきにこんな長い文章を書けるのはルカの文章力を表しています。言葉も表現力も美しく、長いけれども読みやすい語り口で、ルカの福音書は書かれています[2]。
 また、
「尊敬するテオフィロ」
とあり、献呈という形でルカは福音書を書きました。言い方からして、テオフィロは身分の高い人で、キリスト教に好意を持つか入信したばかりか、でもまだよく分からない。ルカはそのテオフィロを念頭に、この書を書き始めているのです。
 ですから、ルカの福音書には、分かりやすく忘れがたい出来事や譬え話がてんこ盛りです。
 クリスマスのマリアや羊飼いのお話しも、「良きサマリヤ人の譬え」も「放蕩息子の譬え」も「取税人ザアカイの話」もルカの福音書です。キリスト教の入口としてよく使われる有名なお話しはこの三つでしょうが、三つともルカ福音書の記事です。また、イエスの十字架で
父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです[3]。
と言われた言葉も、隣で十字架にかけられていた強盗がイエスを告白して、パラダイスを約束されるエピソードも、「エマオ途上」の出来事も、ルカがなければ知られていたかどうか分かりません。ルカは、こうした物語を通して、テオフィロに、また読む私たちに、読んだことのない人にさえ、語りかけます。
 どの話も、始まりは小さな出来事です。世界の片隅にイエスが来られ、闇に光を照らされる。強盗に襲われた人、放蕩息子、孤独な金持ち、自業自得の死刑囚がイエスに出会います。人は、神からさ迷い、道を失っている[4]。小さな失敗から人生を棒に振ってしまう。世界そのものが恵みを失って暴力的になっている[5]。そんな世界の小さな一人に、イエスは近づいて、一緒に食事をしてくださる。この、食事を一緒にする「祝宴」のテーマもルカの福音書で繰り返されているイメージです。それを見て、周りは「あんな人と一緒に食事をするなんて」と批判しますが、実はそれこそが、失われた人を探して、救い、ともに食事をする、神の物語なのです。
 ルカには素晴らしい物語が沢山あるばかりではありません。2節「まとめて書き上げようと」を聖書協会共同訳[6]は「物語にまとめようと」と訳します[7]。ルカ福音書そのものが「物語」として語られた福音です[8]。更にルカは続いて、新約五巻目の「使徒の働き」を書きました[9]。主イエスが去った後、教会が広がる様子を伝えます。この二つの「ルカ文書」は新約聖書でパウロ書簡全部より多く、上巻の「福音書」より下巻の「使徒の働き」が28章と多いのです。福音は導入であり、序論、伏線で、今ここに働いている主の御業こそ本論なのです。
 ルカが語るのは、かつてのイエスの物語ではなく、今も世界に働いている神のみわざです。「良いサマリヤ人」「放蕩息子」やザアカイの話は、キリスト教の教えや理想の「譬え話」以上に、本当にこの世界に神が何をなさっているか、私たちの人生を神がどのように導かれて行くかを「譬え」た本物の話なのです。神の約束をイエスは成就してくださって、それが世界に拡がっていきました。迫害者パウロが伝道者になり、伝道の眼中にもなかった異邦人が信仰を持ち、神の民としてともに旅をしていく。今もそれが続いている。その土台としての福音書なのです。
 「使徒の働き」もテオフィロに呼びかけて始まります。そこでは「尊敬する」という敬称抜きで
「テオフィロ」
と呼ぶのです[10]。
 「あなたによく分かっていただきたい」
と始まったルカ福音書を読む内に、本当によく分かったのでしょう。ルカとの関係はより親しく変わったのです。ルカの福音書は、私たちの目も開いて、今ここに神が生きて働いていることを教えています。主イエスが私たちを探して救うために来て下さったことを物語ります。そして、私たちの人生そのものが、イエスとともに神の元に帰っていく旅になったのです。ルカの福音書、そして「使徒の働き」は、私たちの歩みも神の小さな、しかし大きな物語の一つなのだと語ってくれるのです。ぜひ、ルカの二つの文書を読んで、その醍醐味を味わっていただきたいと思います。

「主よ。あなたはルカの福音書を与え、多くの人と主の出会いを生き生きと語り、忘れがたい物語を聞かせてくださいます。そして、私たちを神の家に子どもとして迎え入れるため、御子イエスをこの世界の最も低い所にまで遣わし、今や私たちの道は家への旅路となりました。やがて主の前で、ともに食卓を囲み、喜び祝う時を今日も想います。今この道も主がともに歩み、導いてくださいます。どうぞ、私たちもすべての人も、この恵みの道に与らせてください」

脚注:

[1] 今回も多くの記事を参考にしましたが、手軽なものとしては、山崎ランサム和彦氏のブログがオススメです。https://1co1312.wordpress.com/2016/12/11/%e3%83%ab%e3%82%ab%e6%96%87%e6%9b%b8%e3%81%b8%e3%81%ae%e6%8b%9b%e5%be%85%ef%bc%887%ef%bc%89/
また、聖書プロジェクトも、シリーズでルカを詳しく解説してくれます。
https://www.youtube.com/watch?v=MpefMBKEvMo
[2] 聖書記者の中で、ルカは唯一の異邦人(非イスラエル人)です。また、四福音書でただ一人、イエスの地上の生涯を見ていない人でありながら、9:51-18:35のほとんどは、ルカだけの記録。コロサイ4:14によればルカは「医者」で、知的レベルの高さを思わせます。
[3] ルカの福音書23章34節「そのとき、イエスはこう言われた。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。」
[4] ルカには、「失われた(アポッリュミ)」という動詞が、24回出て来ます。マタイ17回、マルコ9回、ヨハネ10回と比べると断トツの多さです。ルカの罪理解には、道徳的な悪という以上に、「失われた」という面があります。神との関係で失われ、帰る家、目的を知らず、迷子になっている。その私たちを見つけて家に帰らせてくださるのがキリストです。
[5] 現代の心理学用語で有名になった「トラウマ(心的外傷)」というギリシャ語は、聖書で唯一ルカ10:34に「傷」と訳される言葉で出て来ます。(動詞では20:12)
[6] 聖書協会共同訳ルカによる福音書1章1-4節「1,2私たちの間で実現した事柄について、最初から目撃し、御言葉に仕える者となった人々が、私たちに伝えたとおりに物語にまとめようと、多くの人がすでに手を着けてまいりました。3敬愛するテオフィロ様、私もすべてのことを初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。4お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのです。
[7] ギリシャ語「ディエーゲーシス」は、新約聖書ではルカの福音書のここにしか使われない名詞。語源の動詞ディエーゲオマイは、新約で九回使われるうち、五回がルカと使徒の働きです。
[8] もちろん、それはルカの福音書が「創作物語」だ、という意味ではありません。その福音は、歴史的な事実です。しかし、他の福音書と読み比べても分かるように、その構成や順序や細かな表現は、それぞれの福音書記者が大胆に編集しています。それは、「事実」をそのままに伝えるという形はありえず、必ず取捨選択はしなければなりません。起きた事実でも伝えない事が何かしら(極端な例としては、語られたセリフや、歩いたのが右足か左足か、ということなど)あるとしたら、その時点で「事実」は「物語(ナラティブ)」となっているのです。ルカの旅は、ガリラヤからエルサレムへ、という旅を大枠としていますが、これ自体、他の福音書に明らかな、あと二回のエルサレム上京を編集しています。それが、ルカのいう「順序立てて」という手法です。
[9] 口語訳では「使徒行伝」、新共同訳と聖書協会共同訳は「使徒言行録」と題した文書です。
[10] 使徒の働き1:1-2「テオフィロ様。私は前の書で、イエスが行い始め、また教え始められたすべてのことについて書き記しました。2それは、お選びになった使徒たちに聖霊によって命じた後、天に上げられた日までのことでした。」 新改訳2017は「テオフィロ様」としていますが、原文には、ルカで使われた敬称(クラティステ)がありません。
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