聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/7/12 ユダ書3節「何を信じていますか」ニュー・シティ・カテキズム31

2020-07-11 15:05:22 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/7/12 ユダ書3節「何を信じていますか」ニュー・シティ・カテキズム31

 「クリスチャンは何を信じていますか?」と聞かれたら、皆さんは何と応えるでしょう?前回、私たちは「信仰」とは「信頼」だと学びました。聖書を通して、キリストを信頼できる方として知り、私たちに救いを下さる方として信頼し、またその方の言葉に信頼して従っていくことです。今日は、もう少し具体的に、私たちに差し出されている信仰の内容について見ていきましょう。そうすると、「クリスチャンは何を信じていますか?」と聞かれたときに、どのように応えれば良いかが分かるようになります。
第三十一問 真の信仰によって私たちは何を信じるのですか?
答 福音で私たちに教えられた全てのことです。「使徒信条」は私たちが何を信じているかを次のような言葉で表しています。
 私たちは、天地の造り主、全能の父なる神を信じます。また、そのひとり子、わたしたちの主、イエス・キリストを信じます。主は聖霊によってやどり、処女マリアから 生まれ、ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみにくだり、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、全能の父なる神の右に座しておられます。主はそこから来て、生きている者と死んでいる者とを審かれます。私たちは、聖霊を信じます。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、からだの復活、永遠のいのちを信じます。

 週報に印刷されている「使徒信条」、朝の礼拝で毎週告白している「使徒信条」は、キリスト教会の最も古い信仰告白です。使徒が作ったのではありませんが、まだ使徒たちが生きていた時代に近い、紀元2世紀に教会の中で作られました。洗礼を受けたい人はこの「使徒信条」を学び、これを告白することを求められました。それから二千年近く、今でも世界中の教会で告白されている、共通の信仰を表しているものです。
 ここには、父、子、聖霊の三つの信仰告白があります。私たちの信じるのは、父、子、聖霊の、三つであって一つである、三位一体の神です。私たちの理解を超えた大いなる神が、父、子、聖霊のチームワークで、私たちを治めておられます。
 そして、ここには、天地創造、イエス・キリストの受胎、歴史的な誕生と苦しみ、十字架の死と復活と着座、将来の裁き、聖霊の働きである教会、私たちの交わり、罪の赦し、永遠のいのち、大事なことが十分に盛り込まれています。
 そして、この使徒信条を告白している人たちが世界中に何億といます。これまでの二千年、これからの何年(何十年か、何千年か、何万年か分かりませんが)、文字通り、主イエスが「かしこより来たりて、生ける者と死ねる者とを裁きたまわん」その日まで、この信条を告白し続ける、何十億という人たちとともに、私たちもこの信仰を告白していくのです。ワクワクすることです。

 使徒信条は、私たちが何を信じているのか、福音とはどんなことか、要点をまとめています。ですから、どうぞこの言葉を使って、私たちが何を信じているかを、人に伝えるのに利用してください。
 また、自分自身に対しても、この使徒信条を教えて上げましょう。私たちは、福音を伝えるように命じられていますが、誰よりも福音を伝えるべき相手は、自分自身です。使徒信条や聖書の知識、また「神学」というキリスト教の学問は人を教えたり説得したりするためのものではありません。まず、私たちが自分自身の心の奥深くに、父、子、聖霊への信頼を深めるためのものです。こんな素晴らしく、力強い神を信頼しながら生きられるのです。私たちが、不安になったり、孤独を感じたり、自分を守れない弱さを覚えたりする時に、聖書の言葉で武装するのではありません。福音を、自分自身にゆっくり、静かに、語り、主への信頼をいただくのです。自分に対してゆっくり、力強く「私は、天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我は、そのひとり子、我らの主、イエス・キリストを信ず。…」そのように言い聞かせてください。その積み重ねは、私たちの中に神への信頼を育てます。神への信頼を持つ心を育てられます。それは、私たちの生き方、心持ちを大きく変えずにはおれない強みです。

 今日はユダ書3節を読みました。ユダの手紙は、あのイエスを裏切った「イスカリオテのユダ」とは別のユダが書いた手紙です。とても短いですが、こう言われていました。
1:3 愛する者たち。私たちがともにあずかっている救いについて、私はあなたがたに手紙を書こうと心から願っていましたが、聖徒たちにひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
 新約聖書の時代にも、「ひとたび伝えられた信仰のために戦う」必要が生じる、危機がありました。それは、教会の中に、福音を歪めて解説して、何をしてもいいんだ、自分たちの欲のままに生きてもいいんだ、という人たちが入り込んでいたようです。その状況を憂えたユダが、手紙を書いたのです。私たちの伝えられている信仰は、頭の中や口先の言葉だけのものではありません。何を信じているかをよくよく考える時、私たちの生き方、考え方、行動も変わってきます。完璧な聖人になるわけではありませんが、しかし、人を操作しよう、欲しいままに生きよう、関係を壊しても構うもんか、というような生き方は出来なくなっていくのです。このユダ書から選んだ「派遣の言葉」は、
20愛する者たち。あなたがたは自分たちの最も聖なる信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊によって祈りなさい。21神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠の命に導く、私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。
と言います。「自分たちの最も聖なる信仰」とは「あなたの最大限精一杯聖い信仰」ではなく、神が私たちに下さった信仰、使徒信条に要約された信仰は「最も聖なる信仰」だ、ということです。私たちが戴いた信仰は、最高に聖く、私たちをも聖める力を持っています。この信仰の上に、自分自身を築き上げなさい。聖霊の助けをいただきながら、祈りなさい。神の愛のうちに自分自身を保ちなさい。永遠のいのちに導く私たちの主イエス・キリストの憐れみを待ち望みなさい。そこまで言わせるほどのキリスト教信仰なのだと、それを私も信じているのだと、使徒信条は思い出させてくれるのです。

「天地の造り主よ、私達の信仰を告白する実に素晴らしい信条に命を吹き込んで下さい。どうか私たちが、時空を超えて実現しているあなたの救いの歴史を、神学的真理と切り離してしまう事がありませんように。どうか私達が不信仰のまま揺れ動くのでなく、私達を死からよみがえらせてくださる神の真理の上にしっかり立つことが出来ますように」
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2020/7/12 マタイ伝8章23~26節「大荒れの中で」

2020-07-11 14:54:51 | マタイの福音書講解
2020/7/12 マタイ伝8章23~26節「大荒れの中で」

 ウイルス禍や予想もしていなかった出来事に見舞われてきた中、先週は大雨や氾濫の豪雨を目の当たりにしました。今日の、イエスと弟子たちが乗った舟が、大嵐になって、舟が大波を被った、という箇所は、主が今の私たちに語りかけてくださっている御言葉です。
 ここに繰り返されるのは、
「弟子」
「ついていく・従う」
という言葉です。これは私たちとイエスとの関係を教えるキーワードです[1]。そして、従った矢先、早速嵐が襲った事実は、イエスに従う道の一面をよく表しているでしょう。教会はこの出来事を深く心に留め、自分たち教会を舟に譬えてきました。実際に舟の形に会堂を建てたり、中の作りを舟に準えたり、舟のシンボルを掲げてきました[2]。それは、教会が嵐も鎮めるという事ではない。いつ嵐が襲うとも分からないこの世界を、主イエスは教会という舟に私たちを乗せて導かれるのだ。嵐に襲われて、大波を被ることもある。その時にイエスが眠っておられるのにやきもきして
「助けてください、死んでしまいます」
と不安に駆られた祈りをすることもある。そんな出来事を何度も潜(くぐ)り抜けながら、教会は船旅を続ける、という告白です。何より大事なのは、嵐が来ようと、どんなに舟が揺れ、私たちが失態を晒そうと、イエスがここにともにおられるということです。
 24節の
「大荒れ」
とは
「地震」
という言葉です[3]。湖で地震とはおかしいですが、嵐の舟は、確かに足元が揺れます。立っていられません。舟の中にいた弟子たちの地が震えたのです[4]。何も頼りにならず、何も出来ず、右往左往したり酔ったり、信仰も吹き飛んでしまう。
「死んでしまいます」
と叫ぶ。それも信仰の歩みの一面です。19節で一人の律法学者が言いました。
「先生。あなたがどこに行かれても、私はついて行きます。」
 それに対するイエスの答は「どこでも」と言いながら、枕する所もないとは思っているか、と突きつけたのでしょう。そして、すぐに湖にこぎ出した舟を嵐が襲う[5]。私たちが信仰のスタートに、いや、結婚や恋愛や、出産や大切なスタートにあって、「何があっても一緒に生きていくぞ」。そう決心しても、予想外の事は起きます。波や嵐、山も谷も、喜びも悲しみもあります。足元が崩れ落ちる思いをし、「こんなはずじゃなかった」と思うかもしれません[6]。そして神に訴えたり、お互いに責めて「何をやってるんだ」「お前こそ漁師だろう」「そもそもお前がグズグズしてたから」などと、ますます傷を深めるような事を言ったりしてしまうのです。
 嵐や痛みは、避けたいことではありますが、罰とか不幸ではありません。私たちが生きる世界、神が作られた世界が、私たちが貧しい想像力で精一杯思い描き、計画するよりも遥かに大きくて、豊かで、予想外だからです。世界は海で、私たちは小さい舟。有り難いのは、そんな私たちとともにイエスがいてくださることです[7]。その世界を造り、治めておられる神が、私たちとともにいてくださることです。
26イエスは言われた。「どうして怖がるのか、信仰の薄い者たち」。それから起き上がり、風と湖を叱りつけられた。すると、すっかり凪になった。
 「信仰の薄い(小さい)者」は、イエスが弟子に何度も言われます[8]。あなたがたの信仰は小さい、わたしはあなたがたが考えるよりもっと大きい。だから、あなたがたの信仰が、芥子粒のように小さくても、山が動くと仰いました[9]。イエスは、人の小さな信仰を大きくはみ出すほどのことをしてくださるお方です。この時も大荒れの湖がすっかり凪になりました[10]。
27…「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどういう方なのだろうか。」
風や海を治めているのは神なのに、それを従わせるとは、イエスは本当に天の神の側にいる方なのか[11]。弟子たちは驚かずにおれません。弟子たちの信仰よりも遥かにイエスが大きかった。私たちの理解や予想よりも、神がなさることは遥かに大きく、豊かで、常に新しい。私たちは自分の予想を超えた嵐や大波に怖じ惑い、信仰の小ささを晒(さら)け出し、しかし、その嵐をも治めて凪に変えられる神に驚かされる。そこで弟子たちは一致するのです。一致できるのです。
 もう一つ。ここでイエスは
「眠っておられた」。
 それは先の17節まで多くの人々をケアして、疲労困憊していたからです。イエスは疲れを知らぬ超人や仙人ではなく、私たちと同じ、疲れ、眠る人、人の痛みをケアして心を痛める方でもありました。それがイエスというお方です。
 20節の
「人の子」
とは、マタイで初めて出て来て、この後も度々イエスが使う言い方です[12]。これは神が遣わす王、メシアを表す言葉です[13]。でも
「人の子には枕するところもありません」
というのです。人を救うために来た王が、枕する場所、眠れる場所もない道を選ばれました。安定や保証を求めず、居場所のない人、弱い人、信仰の小さな者、病気の人、悲しむ人とともにいる旅を、疲れては休みながら続けました[14]。それが、イエスという救い主なのです。
 そのイエスに従う私たちも、嵐もあり地震も来る世界の船旅をしています。オロオロしたり、嘆いたり、凪になっては喜び、主の御業に素直に驚く、そんな私たちと主はともにいてくださいます。
 だから私たちも、互いに罵ったり責めたりすることを止めて、互いに助け合っていけるのです。時にじれったく祈り、絶望したりしながら、主イエスがともにおられる事は変わらない、この幸いに立って進んでいけるのです。

「主よ。この世界の見えるものが大きく崩れ、立つ瀬のない思いをする時も、あなたは私たちとともにいてくださいます。あなたが私の信仰よりも遥かに大きいことを感謝します。私たちの目には損失や破綻と思えることも、私たちの思いを超えた、深く、真実で価値ある大きな世界への扉です。何より、私たちがますますあなたを信頼し、互いに愛し合い、仕え合わせてください。今、嵐に翻弄されている私たちを憐れみ、あなたの心を与え、助け合わせてください」

脚注

[1] 特に、ここで、イエスが教えを語り、癒やしをなさった後、周りに群衆がいるのを見ながらも、そこを去って、向こう岸に渡るように命じられた。イエスが離れて行こうとするときに、それでもイエスについていくか、従おうとするか、という事は、決断を迫られた節目だったろうと想像することは出来ます。ただし、群衆にも皆、ついてくることが求められたわけではないのは言うまでもありません。実際に「出家」するかどうか、ではなく、今までとは関係性が変わるけれども、それでもなお、弟子であるか、ということです。
[2] WEBを検索すると、そのような例はいくつも見られます。Old Ship ChurchやArk Churchなど、見ていて楽しくなります。
[3] セイスモス。マタイ24:7「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、あちこちで飢饉と地震が起こります。」、27:54「百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」」、28:2「すると見よ、大きな地震が起こった。主の使いが天から降りて来て石をわきに転がし、その上に座ったからである。」
[4] 7章でイエスは、御言葉に生きる人は、「岩の上に家を建てた」倒れない将来を譬えましたが、ここにあるのは足元がぐらぐらに揺れる地震です。7:24~27「ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。25雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていたからです。26また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。27雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。」
[5] これを見て、この律法学者は「ああ、一緒に行かなくて良かった」と思ったかもしれません。
[6] 「どこに行かれても、私はついて行きます」という言葉が、「枕する所もない」所(いわば、「どこ」でさえない!)にいくとは思っていなかった。いや、私たちも、信仰のスタートを振り返ると、今が「こんなはずではなかった」という強い「騙され感」や、「こうなるとは思っていなかった」という気づきもあるだろう。こうなると最初から言われていたら、あの時点で信じていたかどうか、とはいえる。それでも、イエスはともにいてくださった。決して見捨てることなく、離れることなく、ともにいてくださった。
[7] ここでも弟子が立派な信仰の言葉を言っていたら、私たちは絶望しないか。馬脚を現し、失態を晒して、それでもイエスが嵐を静めてくださったからこそ、私たちには慰めと驚きがある。
[8] 6:30「今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。14:31「イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか。」16:8「イエスはそれに気がついて言われた。「信仰の薄い人たち。パンがないからだなどと、なぜ論じ合っているのですか。」17:20「イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに言います。もし、からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります。あなたがたにできないことは何もありません。」」
[9] 問題は、私たちの信仰の小ささではありません。イエスは、弟子たちの信仰が小さいと叱るのではなく、その弟子たちのために風と湖を叱りつけました。風や湖にしたら、自然現象であって、叱られるなんてとばっちりではないかと思いますが。
[10] 私たちが、イエスにほめてもらうほどの信仰が自分にあると思ったら大間違い。私たちの信仰は小さい。しかし、その信仰より大きなイエスが私を捕らえ、私とともにいてくださる。ここに、希望がある。
[11] 今は波や嵐を「自然現象」として、信仰や宗教と切り離して考えますが、当時は自然を治めているのは神だという宗教的な世界観が染みついていました。旧約の信仰は、神が自然界を治めておられる、という確信です(詩篇148、ヨブ37、38など)。それゆえ、この弟子たちの驚きは、「イエスが自然法則さえ破った」ではなく、「イエスが、自然を治めておられる神、摂理の神ご自身ではないか」という驚きです。天地を治める神が、私たちのいのちをも配慮しておられる、というおどろきです。「山上の説教」で天にいます父を紹介して、空の鳥、野の花を見なさい、そこに天の父の配慮が見事に分かると仰ったイエスは、本当に今、神と私たちとを結び合わせてくださろうとしているのか、と驚かずにはおれなかったのです。
[12] マタイに36回。今日の箇所の他に、9:6「しかし、人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたが知るために──。」そう言って、それから中風の人に「起きて寝床を担ぎ、家に帰りなさい」と言われた。」、10:23「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。まことに、あなたがたに言います。人の子が来るときまでに、あなたがたがイスラエルの町々を巡り終えることは、決してありません。」、11:19「人の子が来て食べたり飲んだりしていると、『見ろ、大食いの大酒飲み、取税人や罪人の仲間だ』と言うのです。しかし、知恵が正しいことはその行いが証明します。」」、12:8「人の子は安息日の主です。」、12:32「また、人の子に逆らうことばを口にする者でも赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、この世でも次に来る世でも赦されません。」、12:40「ヨナが三日三晩、大魚の腹の中にいたように、人の子も三日三晩、地の中にいるからです。」、13:37「イエスは答えられた。「良い種を蒔く人は人の子です。」、13:41「人の子は御使いたちを遣わします。彼らは、すべてのつまずきと、不法を行う者たちを御国から取り集めて、」、16:13「さて、ピリポ・カイサリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。」、16:27「人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまで、決して死を味わわない人たちがいます。」、17:9「彼らが山を下るとき、イエスは彼らに命じられた。「あなたがたが見たことを、だれにも話してはいけません。人の子が死人の中からよみがえるまでは。」」、17:12「しかし、わたしはあなたがたに言います。エリヤはすでに来たのです。ところが人々はエリヤを認めず、彼に対して好き勝手なことをしました。同じように人の子も、人々から苦しみを受けることになります。」」、17:22「彼らがガリラヤに集まっていたとき、イエスは言われた。「人の子は、人々の手に渡されようとしています。23人の子は彼らに殺されるが、三日目によみがえります。」すると彼らはたいへん悲しんだ。」、19:28「そこでイエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに言います。人の子がその栄光の座に着くとき、その新しい世界で、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族を治めます。」、20:18「「ご覧なさい。わたしたちはエルサレムに上って行きます。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡されます。彼らは人の子を死刑に定め、19異邦人に引き渡します。嘲り、むちで打ち、十字架につけるためです。しかし、人の子は三日目によみがえります。」、20:28「人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人のための贖いの代価として、自分のいのちを与えるために来たのと、同じようにしなさい。」」、24:27「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです。」、24:30「そのとき、人の子のしるしが天に現れます。そのとき、地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです。31人の子は大きなラッパの響きとともに御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで四方から、人の子が選んだ者たちを集めます。」、24:33「同じように、これらのことをすべて見たら、あなたがたは人の子が戸口まで近づいていることを知りなさい。」、24:37「人の子の到来はノアの日と同じように実現するのです。」、24:39「洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです。」、24:44「ですから、あなたがたも用心していなさい。人の子は思いがけない時に来るのです。」、25:31「人の子は、その栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来るとき、その栄光の座に着きます。32そして、すべての国の人々が御前に集められます。人の子は、羊飼いが羊をやぎからより分けるように彼らをより分け、」、26:2「「あなたがたも知っているとおり、二日たつと過越の祭りになります。そして、人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」」、26:24「人の子は、自分について書かれているとおりに去って行きます。しかし、人の子を裏切るその人はわざわいです。そういう人は、生まれて来なければよかったのです。」」、26:45「それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。」、26:64「イエスは彼に言われた。「あなたが言ったとおりです。しかし、わたしはあなたがたに言います。あなたがたは今から後に、人の子が力ある方の右の座に着き、そして天の雲とともに来るのを見ることになります。」
[13] ダニエル書7:13「私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲とともに来られた。その方は『年を経た方』のもとに進み、その前に導かれた。」 この言葉から、「人の子」というメシア称号が生まれました。メシアの人間性を意味するという字義的な理解より、こちらの歴史的背景を踏まえた意味があったと考えられます。
[14] そのイエスに従うことは、ただその途中、枕もない生活とか、嵐や試練を与えられると覚悟する、という事ではなくて、そもそも自分の安定とか将来の保証を求める、という目的から、イエスが歩んだように、苦しみや病気、嵐や禍に翻弄されて怖じ惑う人と一緒に怖じ惑い、自分たちの信仰の小ささを弁えながら、それ以上に大きな主のご計画、人の思いを超えた導きを信頼して、主イエスとともに生きることです。
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