聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2020/9/6 詩篇62篇8節「祈りとは神に心を注ぐこと」ニューシティカテキズム38

2020-09-05 12:25:42 | ニュー・シティ・カテキズム
2020/9/6 詩篇62篇8節「祈りとは神に心を注ぐこと」ニューシティカテキズム38

 神は私たちを救うため、御子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。主イエスは、十字架に命を捧げて、三日目に復活されて、天に帰られました。そして、私たちに聖霊なる神を遣わしてくださって、私たちは神からの救いをいただきます。その救いとは、何より神との関係の回復です。ですから、聖霊が私たちに下さる恵みの最大の二つは、私たちが祈ることが出来るようになること、そして、聖書の御言葉を理解できるようになること。この二つです。今日から、祈りについてお話しします。しかし、祈りについて私が話し、皆さんが聴く、という事だけで終わらず、皆さんの毎日の生活の中で、祈ってください。神に祈ることが出来る、祈ってよい! 私たちの祈りを聴いて下さり、待っていて下さる神がおられる。それは、皆さん一人一人が、祈ることで覚える恵みです。そのために、今日から「祈り」についてお話をします。

第三十八問 祈りとは何ですか? 
答 祈りとは私たちの心を、賛美、嘆願、罪の告白、そして感謝によって神に注ぎ出す事です。

 祈りって何だろう? 何を祈ればいいか分からないから祈れない。そう思う人は多いでしょう。ですからここに祈りの四つの要素が書かれています。賛美、嘆願、罪の告白、感謝です。これは、私たちが神に祈るときの四つの内容です。
 まず「賛美」。神の美しさ、素晴らしさ、偉大さ。神が世界を造られた御業や、造られた世界に現された知恵や不思議さ。また、神の真実や、御言葉の確かさ。私たちへの愛、主イエスの福音の尊さを褒め称えることです。たとえ、願いや引っかかっている疑問があっても、この世界そのものが、私たちの理解を超えた神の偉大さを現しています。私たちの存在や生きていること自体が、神の手の業による、奇蹟です。そして、この世界の苦しみの底にまで来て下さり、十字架の苦しみを引き受けられた、御子イエスの恵みがあります。イエスは復活して今も生きて、治めておられます。神を賛美するに相応しい方であると崇める思い。これは、私たちが神に祈るときに欠かせないことです。そして、神を賛美する理由は、決してつきることがありません。
 その次に「嘆願」。私たちの願いのため、必要のため、自分だけでなく、家族のため、地域のため、国家のため、世界のため、貧しい人、苦しむ人のために、神が助けてくださり、憐れんでくださるよう祈ります。心にある小さな願いや、大きな心配事。私たちの生活にも、この世界にも、願う必要のある問題はたくさんあります。心を痛めることがあれば、すぐに「神様、このことを助けてください。あの人を救ってください」。具体的に自分の思いを祈りましょう。願いを神に捧げましょう。
 三つ目は「罪の告白」です。自分の過ち、思い上がり、私たちの中には何かしら、後ろめたいことがあるものです。また、神を神としない、自分が神のようになってしまうこと、人を踏みにじったり妬んだりぞっとするような思いを抱くことは絶えません。その自分の非を、謙虚に告白しましょう。私たちの罪のために、主イエスは十字架に死んでくださいました。その事実をもう一度思い起こして、自分の罪を告白しましょう。
 最後は「感謝」。神の恵みが私たちに注がれていることに感謝します。願いが聞かれたことも感謝でしょう。願いが聞かれなくても、違う恵みに気づかされます。いつも神がともにいてくださる恵みがあります。自分を支えてくれる家族や友人も恵みです。今あること、ここまで十分にあった恵みに、心から感謝する。これも祈りに相応しい、大切な要素です。神を自分たちの願いのためだけの小さな神に引き下ろすことを止めて、既にある恵みを覚えるのです。感謝することが難しい時は、「感謝できる事に気づけますように」と祈ればいいのです。感謝のある心になることは、大きな恵みです。

 さて、この四つの要素は祈りの手がかりです。ただ、神に賛美と嘆願と罪の告白と感謝を捧げることが祈りなのではありません。最も大事なのは
「私たちの心を神に注ぎ出すこと」
です。心にもない賛美や願いをささげても、それは祈りではありません。心にもない罪の告白や感謝をどれほど立派な言葉で唱えても、それは神が求めている祈りではありません。神が求めているのは、流ちょうな祈りや、敬虔そうな褒め言葉や感謝ではありません。もし、神がそんなものを求めているのだとしたら、誰かの立派な祈りを録音して、ずっとプレーヤーから流し続けておけばいいかもしれません。でも、神は、そんなものなど求めません。神が聖霊を遣わしてまで、私たちに下さったのは、私たちが神を心から信頼して、自分の心を神に注ぎ出すことです。
詩篇62篇8節「民よ どんなときにも神に信頼せよ。あなたがたの心を 神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。」

 でも、いきなり心にあることを神に祈る、というのは難しいものです。その時、先の四つの要素が助けになります。賛美、嘆願、罪の告白、感謝。この四つを、手がかりにしていくことで、私たちは自分の心にあるモヤモヤとした思いを神に祈る事が出来ます。人の書いた祈りの文章を通して、自分の言いたいことを言葉にすることが出来ます。どう祈ればよいか分からなかったことが、ああ、自分の心にあったのは、賛美だったんだ、感謝だったんだ、願いだったんだ、罪の告白がしたかったんだ、と気づかせてもらえるのです。
 嬉しい事だと思います。私たちの心にあるのは、神への賛美、嘆願、感謝なのだと気づけることは。また、この私たちの心にある思いをすべて、神に注ぎ出せば、神が受け取ってくださる、という事は。

 箴言16章1節にこうあります。
人は心に計画を持つ。しかし、舌への答えは主から来る。
 私たちの心には色んな計画があります。将来のことも、今晩のことも、何かしら企んだり予測したりしているものです。それを、舌に上らせる、つまり言葉にして祈って見ると、その自分の計画、企みがどんなものか、祈る中で主が(聖霊が)導いて、教えてくださいます。心の中にあるものを、祈ることで私たちが知っていき、それを主にお委ねしていくことが出来るのです。正直に、そして、主への信頼をもって、祈りましょう。

「我が偉大なる避け所、私たちを祈りに招いてくださり感謝します。あなたは遠くにおられません。私の近くにいてくださり、私たちの祈りを聞いてくださいます。どうか、絶えず、あなたの御前に私たちの心を注ぎ出すことができますように。偽らず、私たちの本当の姿であなたの恵みの御座に近づくことができますように。アーメン」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

2020/9/6 マタイ伝10章1~4節(1~23節)「イエスの不思議な人選」

2020-09-05 12:13:41 | マタイの福音書講解
2020/9/6 マタイ伝10章1~4節(1~23節)「イエスの不思議な人選」
 このマタイ10章には、主イエスが十二弟子を派遣されたことと、その派遣に当たっての説教が書かれています。弟子たちの中でも特に選んだ十二人、そして彼らは「使徒」という特別な役割を与えられた選抜の12人です。教会の礎となった人々です[1]。彼らへの説教が、今の私たちに、すべてがそのまま当てはまるわけではありません[2]。それでも、「山上の説教」に続く二つ目の長い説教がここに載せられているのは、私たちに無縁とは思えません。教会の礎である十二使徒の派遣は、今の教会への、私たち一人一人への言葉です。私たちにとっての原点、
7行って、『天の御国が近づいた』と宣べ伝えなさい。
とキリストの御支配を宣べ伝える教会の宣教、キリストの「平安」を祈り、届ける証しの土台が、この使徒たちの働きによって据えられたのです。その特別な幕開けが、この10章です。
 これは実に不思議な人選でした。一番の
ペテロと呼ばれるシモン
は、ガリラヤの漁師です。最後まで主イエスの眼差しとは違う所を見ています。
「下がれ、サタン」
と言われ[3]、三度イエスを知らないと裏切ると予告されて、本当にイエスを見捨ててしまいます。3節の
「取税人マタイ」
はこの福音書の著者です。支配者ローマへの税金を同国人から取り立てる。そのマタイをイエスが弟子になさったこと自体が奇蹟でした[4]。かと思えば、4節には
「熱心党」
という、当時、革命を支持する過激なグループの名で呼ばれるシモンが出て来ます。使徒パウロはⅠコリント一章で、
…神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。…[5]
と言いましたが、この十二使徒の選びが、活動の拡大とか組織化ということで言えば、おおよそ似つかわしくない者ばかりをそろえた人選でした。そして最後は
「イエスを裏切ったイスカリオテのユダ」。
 どうしてこのユダを十二弟子に入れたのか、裏切ると分かっていたのか、不思議でしかありません。その疑問をあえてここに投げかけたまま、教会は始まりました。
 そして、その派遣はここで二人ずつ並べられています。イエスの派遣は、単身赴任ではなく、二人ずつでした[6]。ペテロ、マタイ、熱心党、ユダ。誰とペアになっても苦労したでしょう。その衝突やすれ違いをしながら、しかし、ともに主に派遣された者として、天の御国が近づいたと宣べ伝えていきました。イエスが自分をもう一人とともに遣わされる。一つのパンを分け合い、旅をする。イエスに出会っただけでなく、他の意外な人とも出会い、協力し、友情を深めていく。そのこと自体が、神の国の証しでした。中にはユダのような裏切りやペテロのような信仰の否定があっても、それでも主がを選び、教会の土台とされたのです。そして、この一癖も二癖もある弟子たちが、異口同音に
「天の御国は近づいた」
と告げて、病気を癒やし悪霊を追い出し、町々を巡っていったのが、この10章で描かれている、十二使徒の派遣です[7]。
 十二使徒が特別な力を授かって派遣されたのだから、行く先々で必要も満たされて、多くの人が回心すると、素晴らしい宣教を約束されたわけではありませんでした[8]。端折りますが、
16いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。17人々には用心しなさい。…
 勿論「狼の中に羊を送り出すようにして」とは、人を乱暴な獣だと思え、と仰有ったのではありません。主は6節で
「失われた羊の所に行きなさい」
と仰有いました。9章36節で人々を
「羊飼いのいない羊の群れのように、弱り果てて倒れて」
いると深く憐れまれた、これが派遣の原点でした。でも、その飼い主を失い、怯えて疑い深くなっている羊は、弟子たちに狼のように噛みつくだろう。反対され、迫害され、殺されることもある。それに対して主イエスは
「蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」
と仰有います。蛇のような賢さ、知恵、抜け目なさと、鳩のような単純さ、無邪気さ、信頼。悪意とか人間の闇も十分に警戒して対策を取りながら、同時に、主を信頼し、平安を祈り[9]、言うべきことは与えられると疑わない[10]。そういう用心深さと信頼とをもって生きる。それ自体が、イエスの弟子の証しです。
 この10章では、人々をキリストに導く、という宣教は何も言われていません。むしろひどい反対とか悪意とか危険に会う。その厳しい現実を見据えつつ、賢さ、知恵、思慮深さを備えさせて、それでも素直さ、希望、信頼、主の憐れみを持って、最後まで耐え忍び、迫害されれば次の町に逃げ、その弟子たちの心構えだけです。その心構えが証しなのです。反対や脅し、結果が期待と違っても、主イエスが私たちを集め、遣わされる。その事に望みをおいて、平安を祈り、語るべき時には主が語らせてくださると信じる。そういう心構えです。
 あの灰汁の強い使徒を選ばれた主が、この私も選ばれて、使徒とは違う何かをさせてくださいます。いや、私が主の弟子に選ばれたこと自体が神の国の証しなんだと思って生きていけるのです。賢さと素直さを祈り求めながら、私たちもここで、この不思議な人選の延長に与った者として遣わされていきましょう。

「主よ、あなたがこの弟子たちを選び、この私たちを招き入れ、互いに主にある友、不思議なつながりで結び合わせてくださいました。この御業を崩そうとする現実に賢く備えさせてください。そして、その中でもあなたの確かな恵みへの素直な信頼を与えてください。今も、私たちは厳しさの前に、知恵を必要としています。また、素直さを必要としています。どうぞ、あなたからの知恵と希望によって私たちを強め、今もあなたが王であることを現してください」

脚注:

[1] 一コリント12:28「神は教会の中に、第一に使徒たち、第二に預言者たち、第三に教師たち、そして力あるわざ、そして癒やしの賜物、援助、管理、種々の異言を備えてくださいました。」、エペソ2:20「使徒たちや預言者たちという土台の上に建てられていて、キリスト・イエスご自身がその要の石です。」、同4:11「こうして、キリストご自身が、ある人たちを使徒、ある人たちを預言者、ある人たちを伝道者、ある人たちを牧師また教師としてお立てになりました。」

[2] マタイの福音書の最後では「20:19あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」とありますが、この10章5節に「異邦人の道に行ってはいけません。また、サマリア人の町に入ってはいけません。6むしろ、イスラエルの家の失われた羊たちのところに行きなさい。」と、今では派遣先が限定されています。8節の「病人を癒やし、死人を生き返らせ、ツァラアトに冒された者をきよめ、悪霊どもを追い出しなさい」という癒やしや奇蹟の力も、この十二使徒に特別に与えられた役割でしょう。

[3] 17:23。

[4] 9章9-13節、および、当該箇所の説教を参照。

[5] Ⅰコリント1:26~29「兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29肉なる者がだれも神の御前で誇ることがないようにするためです。」

[6] マルコ6:7「また、十二人を呼び、二人ずつ遣わし始めて、彼らに汚れた霊を制する権威をお授けになった。」

[7] 『ナウエンと読む福音書』73頁

[8] 主イエスが王であること、その御国が近づいたことのしるしとして、弟子たちが病人を癒やしたり、悪霊を追い出したりしても、それで人々が大挙して信じるわけではない。イエスはそうはっきりと仰います。

[9] 12-13節「その家に入るときには、(平安を祈る:意訳)あいさつをしなさい。その家がそれにふさわしければ、あなたがたの祈る平安がその家に来るようにし、ふさわしくなければ、その平安があなたがたのところに返って来るようにしなさい。」 イスラエルの「あいさつ」は今に至るまで「シャローム」つまり「平安がありますように」です。あいさつとは平安の祈りだったのです。イエスはそれを形式的な挨拶とせず、天の御国が近づいた事と不可分の、主の平安(シャローム)が成就するみわざと結びつけています。

[10] 19-20節「人々があなたがたを引き渡したとき、何をどう話そうかと心配しなくてよいのです。話すことは、そのとき与えられるからです。20話すのはあなたがたではなく、あなたがたのうちにあって話される、あなたがたの父の御霊です。」

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする