2020/10/25 ローマ書1章16~17節「神の義は人を生かす」宗教改革記念礼拝
今週末まで、黒とオレンジで彩られた、南瓜やお化けの絵で見かけるハロウィン商戦が続きます。その後は一挙にクリスマスカラーに様変わりする景色もお馴染みになりました。今よりもっと違う形で五百年前に行われていたこのハロウィンに、この諸聖人の記念のお祭りに託(かこつ)けて「贖宥状」の大商戦が張られました。それに対してマルチン・ルターが「九十五箇条の提題」を出して、宗教改革が始まりました。10月31日はプロテスタント宗教改革記念日です。
マルチン・ルターは「宗教改革を始めよう」と思っていたわけではありません。彼はただの修道士で、その数年前から大学で詩篇やローマ書を教えていただけです。そのローマ書の授業の準備の中で、ルターを大きく変えたのが、このローマ書1章16~17節の言葉です。
16私は福音を恥としません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシア人にも、信じるすべての人に救いをもたらす神の力です。17福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。
福音には神の義が啓示されている。ルターは
「神の義」
に悩み続けていました。人間よりも遙かに正しく、絶対的に歪められる所のないのが、神です。神の義、神の道です。では、その絶対的な義である神の前に、罪人である自分が受け入れてもらうために何をしたらいいのか。どんなに苦行を積み、懺悔を繰り返しても、神の怒りの顔を宥めることは出来ない。その事にノイローゼ気味になっていたルターが、聖書研究をするうちにこの言葉に出会いました。
「福音には神の義が啓示されて」
いる。神の義と福音とは相容れない、と思っていたのに、福音において啓示されているのが「神の義」だと気づいたのです[1]。神の義は、福音という、
…信じるすべての人に救いをもたらす神の力…
において啓示されている、という事です。人間の義(さばき)は、罪を罰し、罪を犯した者を滅ぼすことしか出来ないでしょう。神の義は、その延長ではないのです。福音、信じるすべての人に救いをもたらす福音において、神の義というものが啓示されている。罪人が救われない神の義ではなくて、救いをもたらす神の力にこそ、神の義が表されている。
言い方を変えれば、ここでパウロは
「私は福音を恥としません」
と言います。かつてのパウロは潔癖症なパリサイ派でした。その彼には、十字架にかけられたイエスが救い主だなんて、恥・冒涜、許せない信仰でした。教会を迫害しながら、「恥を知れ」と思っていたでしょう。しかしパウロは、キリストがこの福音を恥じなかったことを知りました。義なるキリストが十字架を恥じなかった。罪人のために、屈辱や呪いや誤解を一人で受けることも躊躇わなかった。もっと言えば、ユダヤ人もギリシア人も、人から「あの人は救われようがない」と思われている罪人も、自分で自分を恥じている人も、取りも直さず、私自身を恥じず、私のために十字架に着くことを恥じなかった、ということです。キリストが私たちを恥とせず、福音を恥じず、私たちのための十字架の恥をも忍ばれました[2]。だから、パウロも福音を恥じないのです。
そして続く18節
「というのは、…」
と繋いでこの後、福音とはどんなものか、主イエス・キリストの福音がどれほど完全で十分で、その救いとはどんな新しい生き方なのかを語ります。パウロ自身の内面の葛藤や恥も吐露します[3]。お互いに裁き合う現状に対して
「キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を」
あなたの意見で滅ぼさないでほしい[4]。そう展開しながら、ローマ書全体、十六章までかけて、福音を本当に豊かに、力強く論じていくのです。
聖書を読んで、この福音に気づいたルターは、イエス・キリストの十字架と復活だけでは不十分であるかのような「贖宥状」や当時の教会儀式には抗議せずにはおれませんでした。この「九十五箇条の提題」をきっかけに論争が始まり、段々とルターの考えが深まり、大きな宗教改革運動になりました。しかしそのきっかけになったのは、いわばほんの小さな一語。
「神の義」
が「神だけが持っている義」の「の」なのか、「神が私たち罪人を赦して義として下さる」の「の」なのか、その差だったとも言えます[5]。その小さな、しかし大きな「神の義」の違いが、ルターを
「信仰に始まり信仰に進ませ」
たのです[6]。信じて受け取るだけでは不十分で、まだ私たちの努力や何かが必要に思う心につけ込むやり方に抗議して立ち上がる力を得ました。信仰を育てられて、その後も様々な妨害や混乱に揺さぶられながらも、神の言葉の福音を語り続けました。恵みは、私たちを怠惰にするどころか、私たちを新しくする力です[7]。
宗教改革記念日に、この神の義に立ち戻ります。福音は、私たちを救うのは神であり、自分の正しさや信仰ではないとの告白です。正しくない私のために主イエスが死んでくださり、よみがえってくださいました。罪を赦し、更にいのちを与えて生かし、力づけて、新しくしてくださいました。その福音が世界の人に届くよう、神は働いておられ、私たちにも届けられました。教会が間違い、大きく道を逸れかねない、自分たちの危うさ、不完全さも謙虚に認めます。そして、そこにも主が働いて、恵みの福音に立ち戻らせ、救いを得させてくださるのです。
「教会のかしら、イエス・キリストの父よ。あなたが宗教改革によって『神の義』の素晴らしい知らせを回復して下さり感謝します。なおも誤りやすく、日々みことばによって新しくされ、喜びの知らせを届けていけますように。福音を恥じそうになる時、自分を恥じそうになるとき、あなたが私たちを決して恥とせず、主イエスが十字架の辱めを受けてくださったことを思い起こさせてください。私たちの歩みを通しても、恵みに溢れるあなたの栄光を現してください」
脚注:
[1] それは、3章21節以下と読み比べると分かります。「しかし今や、律法とは関わりなく、律法と預言者たちの書によって証しされて、神の義が示されました。22すなわち、イエス・キリストを信じることによって、信じるすべての人に与えられる神の義です。そこに差別はありません。23すべての人は罪を犯して、神の栄光を受けることができず、24神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです。」
[2] ヘブル書に2カ所、この言葉があります。2:11「聖とする方も、聖とされる者たちも、みな一人の方から出ています。それゆえ、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥とせずに、こう言われます。」、11:16「しかし実際には、彼らが憧れていたのは、もっと良い故郷、すなわち天の故郷でした。ですから神は、彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。神が彼らのために都を用意されたのです。」
[4] ローマ書14章4節「他人のしもべをさばくあなたは何者ですか。しもべが立つか倒れるか、それは主人次第です。しかし、しもべは立ちます。主は、彼を立たせることがおできになるからです。5ある日を別の日よりも大事だと考える人もいれば、どの日も大事だと考える人もいます。それぞれ自分の心の中で確信を持ちなさい。6特定の日を尊ぶ人は、主のために尊んでいます。食べる人は、主のために食べています。神に感謝しているからです。食べない人も主のために食べないのであって、神に感謝しているのです。7私たちの中でだれ一人、自分のために生きている人はなく、自分のために死ぬ人もいないからです。8私たちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死にます。ですから、生きるにしても、死ぬにしても、私たちは主のものです。9キリストが死んでよみがえられたのは、死んだ人にも生きている人にも、主となるためです。10それなのに、あなたはどうして、自分の兄弟をさばくのですか。どうして、自分の兄弟を見下すのですか。私たちはみな、神のさばきの座に立つことになるのです。11次のように書かれています。「わたしは生きている──主のことば──。すべての膝は、わたしに向かってかがめられ、すべての舌は、神に告白する。」12ですから、私たちはそれぞれ自分について、神に申し開きをすることになります。14:13 こういうわけで、私たちはもう互いにさばき合わないようにしましょう。いや、むしろ、兄弟に対して妨げになるもの、つまずきになるものを置くことはしないと決心しなさい。14私は主イエスにあって知り、また確信しています。それ自体で汚れているものは何一つありません。ただ、何かが汚れていると考える人には、それは汚れたものなのです。15もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているなら、あなたはもはや愛によって歩んではいません。キリストが代わりに死んでくださった、そのような人を、あなたの食べ物のことで滅ぼさないでください。16ですから、あなたがたが良いとしていることで、悪く言われないようにしなさい。17なぜなら、神の国は食べたり飲んだりすることではなく、聖霊による義と平和と喜びだからです。18このようにキリストに仕える人は、神に喜ばれ、人々にも認められるのです。19ですから、私たちは、平和に役立つことと、お互いの霊的成長に役立つことを追い求めましょう。」
[5] 神学校時代の恩師、丸山忠孝氏の解説でした。文法的には、「所有的属格」か「主格的属格」か、と言います。
[6] 罪を罰し、怒るだけの神であれば、信仰は持てません。信頼より恐怖です。しかし、神の義は罰するより、救いをもたらす義です。
[7] 当時の教会は、ルターにこう反論しました。「神の恵みだけで救われる、行いは要らないなどとしたら、人々は怠惰に生きるようになって、とんでもないことになる」。しかし、聖書そのものが教えているのは、その逆です。救われるために行いが必要なら、それは偽善です。ただ、神の恵みによって私たちを救い、私たちが魂の手である信仰でそれを受け取るだけでいい。その神の義によって、私たちのうちに信仰が、神への心からの信頼、安心、憧れ、従おう、お任せしようという信仰が始まるのです。そして、神の義が私たちを支えて、ますます信仰を養われていくのです。