2020/11/1 ローマ書6章4節「見える化された福音」ニューシティカテキズム43
昨日は「宗教改革記念日」でした。今から500年前、一五一七年10月31日、ドイツのマルチン・ルターが『九十五箇条の提題』を発表し、聖書の福音を取り戻す「宗教改革」が進みました。聖書の福音、聖書に書かれているキリストの御業が、教会の中心であると確認された、大きな出来事でした。この宗教改革は聖書を取り戻した運動ですが、聖書の説教だけではなく、聖礼典を大事にしました。福音の説教と、聖礼典の正しい執行。この二つが、教会が教会であるしるしです。今日から「聖礼典」の話です。
第四十三問 聖礼典とはなんですか?
答 神により与えられ、キリストにより定められた聖礼典、すなわち洗礼と主の晩餐は、私たちがキリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている事の、目に見えるしるしであり証印です。これらを用いることにより、聖霊が福音の約束を、私たちに対してより完全に表して、確かなものとしてくれます。
まず、聖礼典とは「洗礼と主の晩餐」という二つの儀式です。
洗礼は、水で洗って、教会に加わる入会儀式です。
聖餐は、その洗礼を受けた人たちが、パンと葡萄酒の杯をいっしょにいただく食事です。
この二つの儀式が「聖礼典」です。
この洗礼と聖餐の聖礼典は、主イエスがこれらのことを行うようにと命じられたもので、その後の使徒の働きや手紙を通して、実践していたことが分かるものです。
ローマ6:4私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、ちょうどキリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、新しいいのちに歩むためです。
このバプテスマを訳したのが「洗礼」という言葉です。この言葉から、手紙を書いたパウロも、ローマの教会でも、バプテスマ(洗礼)が行われていたことが分かります。同じように、主の晩餐についても、聖書の中でキリストが命じて、教会が実践していたことが分かります。ですから、私たちも、主イエス・キリストが命じられ、教会が行い続けてきたこととして、洗礼と主の聖晩餐を実践しているのです。なぜ、キリストは、この二つの聖礼典を教会に定められたのでしょうか。それは、このカテキズムでは、
…私たちがキリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている事の、目に見えるしるしであり証印です。…
と言われています。私たちは、キリストの死と復活により信仰の共同体として共に結ばれている。これは、キリストの福音のエッセンスです。キリストの死と復活は、私たちを新しい、また永遠のつながりへと私たちを入れてくれました。主イエスは私たちを、ご自身との新しい関係に入れて下さっただけでなく、その新しい関係に入れられた者たちとして、私たちをもお互いに新しく、永遠の「神の家族」として出会わせ、結び合わせてくださっているのです。主イエスが下さった戒めはこれです。
「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」ヨハネ13章34節
主が私たちを愛し、私たちを私たちのままで受け入れ、喜び、尊んでくださったように、私たちもお互いを受け入れ、喜ぶ。互いに操作したり、裁いたり、比べたり、馬鹿にしたりも妬んだりもしない。押しつけ合ったり、縛ったり我慢したりせず、お互いに自由で、お互いに最善を図り、尊び合っていく。そういう家族に私たちは入れられて、やがて完全にそうなろうとしています。まだその途中で、問題や失敗があり、取り組むべき課題はありますが、やがて、私たちは完全に和解して、主にあって一つとされます。それが、キリストが私たちにしてくださったことです。その信仰の共同体として結ばれている事の、目に見えるしるしであり、証印であるのが聖礼典なのです。
私たちにとって大事な正典は聖書です。聖書は、神のいのちの言葉です。聖書は、私たちに知識をもたらします。私たちの知性に語りかけ、私たちの考えを新しくします。でも、その言葉や知識を耳で聞くだけで、見えない真理を信じれば良いのでしょうか。いいえ、聖書そのものがそうは言っていません。主イエスご自身が、その教えと言葉を耳で聞くだけでなく、目も手も口も舌も使っていただく聖礼典を定めてくださいました。
そこで、私たちは、言葉や教えだけではピンとこない福音を、聖礼典という見える形で五感を使って味わうのです。洗礼の水は、ヒヤッとしたり頭や全身が濡れたりします。聖餐では、パンと杯を見て、手に取って、口に入れて味わって、飲み込んでおなかに下っていきます。そして、その食事を一緒に食べている会衆が周りにいてくれます。その事を通して、
「ああ、本当に、私は罪を洗われて、神の子どもの一人にされたんだ。私のために、主イエスは十字架に掛かって肉を裂かれ、血を流され、そして私たちにご自身を与えてくださったんだ。私を受け入れてくれる神の家族がここにいるんだ」
と味わうのです。頭の知識に加えて、体で、目で、手で、舌で福音を味わうのです。ですから、聖礼典は福音を見える形で私たちに示す「しるし」であり、私たちの全感覚で福音が刻み込まれる「証印」なのです。主イエスがそれを定めてくださり、主イエスの聖霊は聖礼典を用いて、私たちに福音を味わわせ、刻みつけてくださるのです。
そうです。私たちは、主イエス・キリストの福音が完全であり、聖霊がそれを間違いなく私たちに届けてくださることを信じます。福音が不完全だから聖礼典が補うのではなく、私たちが鈍感だから、主イエスは私たちを思いやって、聖礼典を定め、私たちに福音を確り届けてくださるのです。
今、新型コロナウイルスの蔓延で、鳴門キリスト教会でも聖餐式は半年以上ずっと行っていません。それはとても寂しいことです。でもそのような私たちの弱さ、限界、一緒に食事が出来ないウィルスの問題も、主イエスはご存じです。私たちの弱さを思いやって下さる主イエスが、今の時も私たちの信仰を支え、私たちを養い、また相応しい時に再開させてくださるでしょう。
そして、やがて、本当に目に見える形で私たちは主イエスとお会いし、神の民として永遠を喜ぶのです。
「福音を与えてくださる神よ。あなたは私たちが見て、感じて、味わうことのできる恵みのしるしを与えてくださいました。どうか私たちがあなたの命令に従ってこの聖礼典を守り、自分自身ではなくあなたの救いの御業に目を向けることができるよう助けてください。しるしそのものを崇めて、その先にある救い主の姿が見えなくなってしまうことのないように、どうかお守りください。アーメン」