2020/11/1 ハバクク書2章1~4節「信仰による生」一書説教 ハバクク書
前奏
招詞 イザヤ書57章15、18節
祈祷
賛美 讃美歌83「恵みの光は」
*主の祈り (週報裏面参照)
交読 詩篇100篇(24)
賛美 讃美歌533「奇しき主の光」①②
聖書 ハバクク書2章1~4節
説教 「信仰によって生きる ~ 一書説教 ハバクク書」古川和男牧師
賛美 讃美歌533 ③④
献金・感謝祈祷
報告
*使徒信条 (週報裏面参照)
*頌栄 讃美歌546「聖なるかな」
*祝祷
*後奏
先週は宗教改革記念礼拝でローマ書1章16-17節を読み、昨日10月31日は宗教改革記念日でした。先週のローマ書に
「義人は信仰によって生きる」
と「信仰義認」を語り、引用されていたのが今日のハバクク書2章4節です[1]。今日はそのハバクク書の一書説教とします[2]。
1:2いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。
こうして主に疑問をぶつける言葉から、ハバクク書は始まっています。旧約の時代の末期、神の民も滅茶苦茶で、まもなくバビロンに侵略され、捕囚となる直前頃でしょう。預言者エレミヤも既に活動していたはずが、人々は耳を貸さない、政治の汚職も、祭司の形式主義的な礼拝も、道徳的な退廃も酷くなる一方。荒(すさ)んだ状況でした。ハバククは、神になぜ祈りに応えてくださらないのか。暴虐や不法を、黙って眺めているのはなぜか、と問うのです。
4…みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。
悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。
そのため、曲がったさばきが行われているのです。
こんな悪をなぜあなたは放置しているのですか、という率直な疑問からハバクク書は始まります。これに対する主の答が5~11節で語られます。その答にまたビックリしたハバククがもう一度、強烈な疑問で主に問いかける言葉が、1章12節から2章1節です。特に強烈なのが、
1:13あなたの目は、悪を見るにはあまりにもきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。
なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。
悪しき者が自分より正しい者を呑み込もうとしているときに。
こんなストレートな疑問を主に向かって直球でぶつけている。これもハバクク書の特徴です。あなたは聖すぎて、悪の現実を見えないのか。その訴えに対する主の答がこの2~4節です。
3この幻は、定めの時について証言し、
終わりについて告げ、偽ってはいない。
もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。
遅れることはない。
4見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。
しかし、正しい人はその信仰によって生きる。
主の言葉は直接ハバククの疑問には答えません。神の答は、人間の求める回答やスッキリした理屈は与えません。神を信じていても、正しい人が悪しき人に圧倒され、理不尽な苦しみを味わい、神よなぜですか、見えていないのですか、と言わずにおれない現実はある。そこで正しく生きることはもう無理に思えます。自分自身の善意とか良心とか、自分の正しさや信仰深さなど頼りになれません。旧約聖書で一番どん底の時代、ますます終わりが近づく時代、正しく生きるなんて無駄じゃないか、神は何をしているんだ」と言われる時。そこで、主が語られた「幻」-主の約束、将来へのご計画、神の言葉を待て、と主は言われます。神が語る幻が必ず来る、遅れることなく来る。その御言葉によらなくしては、正しい人は生きられない。聖書の言葉、神の約束を見上げ、それを待つ信仰を神は下さって人を正しく生かしてくださる。私たちは、神の言葉に支えられて生きることが出来るのです。正しい人が悪しき人に囲まれて、どうすればいいのか、と重ねて問うた末に、ここで「信仰によって生きる」と言うのです[3]。私の救い(いのち、希望)は自分の内からでなく、私の外から来るという信仰です。その根本的な告白は、バビロン捕囚前の最も絶望的な状況で、最も人の罪があらわになり、同時に最も自分の罪に絶望するしかないような時に、私たちへの希望として語られているのです[4]。
三章は「預言者ハバククの祈り」です[5]。主が語られたさばき、ハバククが最初に嘆いていた地の暴虐を終わらせるための御業に腹を括りながら、その先には民を救って、新しくしてくださることを切望しながら歌う、信仰の祈りです。その最後の17節以下を読みましょう。
3:17いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる。
18しかし、私は主にあって喜び躍り、わが救いの神にあって楽しもう。
19私の主、神は、私の力。私の足を牝鹿のようにし、私に高い所を歩ませる。
ハバクク書の真ん中ごろにあった
「正しい人は信仰によって生きる」
がこの最後で
「私は主にあって喜び躍り」
と大きく膨らんでいます。主なる神が私の力となり、私を支え、歩ませてくださる。この主だから、私たちは信頼を置けますし、その信仰によって生きることが出来るのです。周囲は分からない出来事が沢山、世界には矛盾や不条理があって、どうしようもない時も、それよりも大きく、真実な主が、正しくこの世界に働いて、差配しておられます。人には分からなくて「どうして」と思ったり、他人は自惚れ投げ出して、自分も信じ切れず、後悔や罪悪感に駆られたりしても、神は真実であられる。私たちはその事を信じることが出来ますし、その主に、正直な疑問や叫びを率直に神に訴えることも許されています。
そして、すべてを失って不毛に見える瞬間にも、喜び踊らせてください、楽しみ、高い所を歩ませてください、と祈るよう導かれるのです[6]。
「大いなる主よ。あなたが偉大すぎて、私たちには御心が見えず戸惑い、疑うことがあります。その時こそ、あなたが神であり私たちの救いであることをつくづく思い知ります。ハバククの生きた真っ暗な時代に語られたように、今私たちにも語りかけて、あなたの御真実への信頼を湧き上がらせてください。今、あなたが神であり王であり私たちの力であることを感謝します」
[1] このハバクク書2章4節は、ローマ書1章17節の他、ガラテヤ3章11節「律法によって神の前に義と認められる者が、だれもいないということは明らかです。「義人は信仰によって生きる」からです。」、ヘブル10章38節「わたしの義人は信仰によって生きる。もし恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。」の2カ所でも引用されています。
[2] 「ハバクク書は3章からなる短い書物ですが、内容としては四つに区分されます。第一の区分は1章1節から11節で、神に助けを求める訴えとカルデヤ人による暴虐の意味の問いかけ、それに対してカルデヤ人を通してユダの罪を指摘するためという神の応答が記されます。第二の区分は1章12節から2章4節で、重ねて契約の神の真実への訴えと問いかけ、それに対して神の救いを約束する応答が記されます。第三の区分は2章5節から20節までで、主なる神に信頼せずに歩む者たちへのさばきの言葉が繰り返し語られていきます。そして第四の区分は3章1節から19節で、ハバククの祈りが記されます。そこではまず神のあわれみを求める祈りがささげられ、神の大いなる救いの御業が明らかにされ、神のさばきの厳かさと、なお救いの神をほめたたえる信仰が告白されています。」徳丸町キリスト教会 聖書の概説ハバクク書
ハバククとは「抱きしめる」の意。珍しい名前ですが、戦史では「ハバクク計画」というものがありました。それを題材にした漫画『マスターキートンReマスター』に「ハバククの聖夜」という感涙のストーリーもオススメです。
[3] 1:4「そのため、みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです。」、13「あなたの目は、悪を見るにはあまりにもきよくて、苦悩を見つめることができないのでしょう。なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。悪しき者が自分より正しい者を呑み込もうとしているときに。」という流れで、「…しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」と語られている、この流れに注目。
[4] つまり、行いに依らず信仰による、という事実は、旧約の物語が、最初からずっと張り巡らして、新約に手渡していくテーマだったのです。だからこそ、新約でもパウロがこの言葉を引いて、行いや自分の正しさや何かではなくて、神への信仰による救いを強く訴えたのです。
[5] ハバクク書2章後半は、不正や暴君や偶像崇拝を「わざわいだ」と繰り返し読んでいます。それは今の現状ではまだ盛んになされていますが、悪は悪として「禍だ」と言う。そして「しかし主は、その聖なる宮におられる。全地よ、主の御前に静まれ。(20節)」と閉じます。
[6] リチャード・フォスターは、古いユダヤの話を繰り返している。ある少年が預言者のところへ行って尋ねた。「預言者さん、あなたには見えないの? もう十五年も預言をしているのに、何も変わっていないよ。なぜ預言をし続けるの?」すると預言者は言った。「知らないのかね、ぼうや。私は世界を変えようと思って預言をしているのではない。世界が私を変えてしまわないように預言しているんだ。」 宇宙的視点を完全に理解することはできないかもしれないし、誰でも、この世界のもつ大きな矛盾に押しつぶされそうになることがある。ヨブのように、詩篇の記者たちのように、ハバククやエレミヤのように、私たちは神の知恵や力や愛に疑問を唱える。時間に縛られている私たちは、歴史を秒ごとに、分ごとに、時間ごとに見る。預言者たちは私たちの注意を、空恐ろしい現在の歴史の現実を超えて、永遠のながめへと、神の支配が地を光と真理で満たすときへと向けさせる。ハバククが有名な言葉、「正しい人はその信仰によって生きる」で意味したのはそれである。私たちは、たとえ世界がばらばらに崩れても、神は良い方であるという信仰にしかがみつくのだ。」フィリップ・ヤンシー『イエスが読んだ聖書』、260頁。