聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/10/3 マタイ伝25章1~13節「いつでもよいように」

2021-10-02 13:28:27 | マタイの福音書講解
2021/10/3 マタイ伝25章1~13節「いつでもよいように」

 今日の譬えは「十人の娘の譬え」と言われます。「ともしび」を持って花婿を迎えに出る十人の娘が登場します。「ともしび」はマタイの福音書ではここだけに出て来ますが、他では三階建ての屋上間や、祭司の家の庭の灯りにも使われます。ちょっと裕福な家では日常的に点されていた灯りでしょう[1]。それをもって花婿を迎えに出ることはあるにせよ、基本は普段使いの明かりなのです。花婿を迎えるためだけなら、それまで火は消して、誰か一人が灯火を守っていたほうが遥かに「賢い」でしょう。しかし、娘達は灯火を消さずに点けていました。賢い娘達は、油を一緒に持っていました。常に灯火は灯し続けているもの、だから油もいつも必要と考えていました。そういう普段の生活の中に、花婿が到着したら、その灯火をもって迎えに出ようとしたのです。反対に、それ以外の五人は、油なしに灯火だけ点していました。「花婿のお迎えにさえ間に合えば良い、油は足りるだろう」と思ったのなら、真に愚かな事です[2]。
 この前の24章でずっと語られたのは、終わりの時はいつか、その時には信仰深そうにしようという態度に対して、イエスが、いつでも神の前に忠実に生きなさい、という心得でした。神の大きな祝福を知った者として、今ここに生きるのです。ここでもそれが言われています[3]。
 「ともしび」の元となった「照らす」は5章14~16節の「世の光」で出て来ます[4]。
あなたがたは世の光です。…明かりをともして…燭台の上に置きます。そうすれば、家にいるすべての人を照らします。…あなたがたの光を人々の前で輝かせなさい。人々があなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようになるためです[5]。

 イエスは弟子たちを「世の光」だと言われました。その灯火が輝き続けるには、当然ながら「油」が必要です。この「油」という言葉も、マタイではここ以外に出て来ませんから、油が何の象徴かというよりも、油なしに灯火を付け続けて、消えそうになって慌てるという愚かさがポイントでしょう[6]。イエスが私たちを「世の光」と言われるのは、まずイエスが私たちに、十分な油の潤いのような恵みを下さるからです。罪の赦し、神を私たちの天にいます父と呼べる関係、将来の希望、また今ここで神の家族である教会の交わりを下さっています。
 そして、その恵みをじっくりと味わうために、週に一日を安息する生活や、ひとりで静まること、あるいは一緒に食卓を囲んで食事をすること、そういう油の継ぎ足しに時間をかけよと招かれます。私たちが、主からの恵みをゆっくりいただいて、私たちの心の渇きや罪の重荷、悲しみや問題を十分に取り扱うこと。それこそが、見せかけの光でなく本物の灯火であるためには欠かせないことなのです。まず自分が恵みを受けること、祈ること、休むこと、静まったり交わりを持ったりする。そういう見えない補給が必要です。主は豊かに私たちを養われます。その養いなしに、勢いで輝くことなど出来ないのです。そのセルフケアなしに、最後に主にお会いする時にさえ、なんとか輝いていれば良い、というような心持ちは、愚かなことです[7]。

 しかしそれが出来ないと主は戸を閉じられるのでしょうか。私たちの自己管理が貧しくて、最後には灯火が消えそうになるなら、主は
 「私はあなたがたを知りません」
と言い捨てられるのでしょうか。
 いいえ、この譬えはこの先26章の出来事への伏線です。いよいよ逮捕されて十字架に架けられる前夜、イエスはゲッセマネの園に行き、祈られました。その時、ペテロたち三人を連れていき、
「目を覚ましていなさい」
とここにある言葉でペテロに仰います[8]。それなのに、ペテロたちは
「眠って」
しまいます[9]。それを三度も繰り返します。そのペテロたちに、イエスは「わたしはあなたがたを知らない」と仰ったでしょうか。いいえ、
「知らない」
と言ったのはペテロたちの方でした。眠ってしまい、主を知らないと言うペテロをも、支えて、立ち直らせてくださったのが主です[10]。それが、私たちの姿なのでしょう。
 この譬えそのものが
「天の御国は、それぞれともしびを持って花婿を迎えに出る、十人の娘…そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった」
と言う譬えです。「愚かな娘は入れない御国」ではなく、「天の御国(イエスの支配)は賢い娘ばかりでなく、愚かな娘もいる。それが天の御国だ」というようです[11]。私たちが信じるイエスは、私たちを愛され、
痛んだ葦を折ることなく、
くすぶる灯心を消すこともない。
さばきを勝利に導くまで。[12]
と言われる真実な神です。この世界の、燻る灯心を消さず、何度でも燃え立たせるお方です[13]。主のおいでの時に、その火が消えそうだったとしても、「それでは体裁がマズい」と慌てて油を買いに行く必要はない。その消えそうな火を消さないのが主です。
 同じように、普段は油を買いに出かけることは必要だし、「その間に花婿が来たらどうしよう」などと心配は無用です。油を買いに行くことも、眠くなったら寝ておくことも必要です。私たちが油断しやすく、外側ばかりにかまけて、自分の内側が燃料切れになってしまいやすいことも、イエスには周知のことです。だから、イエスの恵みをいただくために時間を取ることが必要です[14]。そうして良いのです。
 私たちの弱さ、必要、闇を、重荷を主イエスは深く知り、その私たちとともにいてくださいます。その恵みへの正直な驚きや喜び、慰めや平安が、私たちの内に点る光です。良い人に見せようとか、無理をしてでも明るくするとか、そういう光り方から自由にされたのです。主にあって、欠けや痛みもあるまま、重荷を下ろすのです。夜にはぐっすり眠って、休みを大事にして、主の恵みを味わうことに十分時間を取る。それが、主を知る時に始まる油(充電)です。こういう主の恵みを今ここで戴いている事が、私たちを「ともしび」として誰かに主を伝えるのです。
 その方が来られる日、その時は私たちには分かりません。その時にどうするか、ではなく、今その主の豊かな恵みに養われているなら、眠っている時に主がおいでになっても、そのまま主を迎えに出れば良い。そういう生き方こそ、「目を覚まして」いる生き方なのです。

「主の深い恵み、限りない慈しみ、ほの暗い灯火をも守られるお心を知らされた幸いを感謝します。あなたが私たちの神、世界の王でいてくださり、私たちをここから「世の光」として送り出してくださいます。今、私たちは小さな灯火を胸に、ここから出て行きます。主の十字架の愛と復活の喜びが私たちを通しても証しされますように。私たちのその歩みが、主の恵みに支えられてある人生全体が、再び来られるあなたをお迎える道筋の灯火となりますように」

脚注:

[1] ヨハネの福音書18:3(それでユダは、一隊の兵士と、祭司長たちやパリサイ人たちから送られた下役たちを連れ、明かりとたいまつと武器を持って、そこにやって来た。)、使徒の働き20:8(私たちが集まっていた屋上の間には、ともしびがたくさんついていた。)、ヨハネの黙示録4:5(御座からは稲妻がひらめき、声と雷鳴がとどろいていた。御座の前では、火のついた七つのともしびが燃えていた。神の七つの御霊である。)、ヨハネの黙示録8:10(第三の御使いがラッパを吹いた。すると、天から、たいまつのように燃えている大きな星が落ちて来て、川の三分の一とその水源の上に落ちた。)。ほかにも「ともしび」と訳される語にはルフノスがありますが(マタイ5:15、ヨハネ5:35など)、これは小さなロウソクや燭台を表すものです。

[2] 愚か・賢いは、24:45とのつながりで、ともしびを灯し続ける油への油断ない準備を表します。7章の「砂の上の家と岩の上の家」にもつながります。

[3] たとえ、この「油」を「聖霊」の象徴として読むのだとしても、それは私たちに「主のお迎えのために、聖霊を祈って、私たちを整えていこう」という宗教的な勧告にはならないでしょう。聖霊の働きは、私たちをキリストに似た者へと変えること、聖霊の実は「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。再臨待望とは、宗教的な準備ではなく、主の統治を今ここで示すような、神への愛と、互いへの愛へと方向付けることです。

[4] マタイの福音書5章14~16節。

[5] 世の光。それは、主の律法に従って、良い行い・兄弟愛を実践する生き方です。ただ、花婿の道を照らすだけでなく、花婿の願ったのは、食事時にしもべたちに食事を与える忠実で賢いあり方だということです。なにか「成金趣味」で、自分の花道を華やかに期待するような花婿ではないのです。

[6] もちろん、聖霊とか豊かさ、というイメージが聖書の「油」には伴います。それも、自分と神との関係だけに留まらない、他者を照らす光を産む「油」です。

[7] 重ねて言いますが、灯火を、油なしに絶やさないことは出来ません。時として、灯火をさげて、油を足すこと、油を買いに出かけることも必要なのです。いつ帰ってくるか、に気を取られて、この当たり前のメンテナンスを疎かにして、結果、油が足りなくなる。そんなことは、主人も賢いとは思わないでしょう。灯火には油が、電気にはバッテリーの充電が、人間には食事や眠り、睡眠や休息、養いや安心、学びが必要です。主の前に静まること、主からの豊かな恵みを全身でいただくために、惜しまずに時間を取ることが必要です。主は、私たちに、心が空っぽなまま輝くだなんて無理難題は言いません。(もしそうだとしたら、愚かなあり方です)。神の豊かな恵みを十分に戴く時に、私たちは地の塩、世の光とならずにはおれないのです。悲しみ、怒り、恐れ、罪や悩み、それらの重荷を主は持って来なさいと仰います。私たちの心の闇、病気、間違った恵みならざる生き方を、癒やすと仰います。そのお方の前に、重荷を下ろして、じっくりと憩うこと、その結果として私たちが主の光を映し出すことがあります。その光を、また毎週毎日、手入れしながら、自分を憩わせながら、歩む時、私たちは主をお迎えする時にも、慌てることがなくて済むと知っているのです。

[8] マタイの福音書26:38~41「そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」…40それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。41誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」」

[9] 5節の「寝入った」カシュードーは、8:24(すると見よ。湖は大荒れとなり、舟は大波をかぶった。ところがイエスは眠っておられた。)、9:24(「出て行きなさい。その少女は死んだのではなく、眠っているのです」と言われた。人々はイエスをあざ笑った。)、13:25(ところが人々が眠っている間に敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて立ち去った。)、25:5(花婿が来るのが遅くなったので、娘たちはみな眠くなり寝入ってしまった。)、26:40(それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らが眠っているのを見、ペテロに言われた。「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。)、26:43(イエスが再び戻ってご覧になると、弟子たちは眠っていた。まぶたが重くなっていたのである。)、26:45(それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されます。)で使用。

[10] 「知りません」7:23(しかし、わたしはそのとき、彼らにはっきりと言います。『わたしはおまえたちを全く知らない。不法を行う者たち、わたしから離れて行け。』)、10:33(しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも、天におられるわたしの父の前で、その人を知らないと言います)、26:34(イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今夜、鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言います。」35ペテロは言った。「たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません。」弟子たちはみな同じように言った。)

[11] 勿論、「愚かでもいい」じゃありません。もし、「それでも最後には救われるならいい」と考えるならそれ自体がここで問い直されている事です。私たちの信仰は、やがてイエスに見せるためだけ、神に見られた時に燃えていればいい、燃えていなくてもいいならもっと良い、と考えるようなものではありません。やがての「救い」に入れられるためだけの許可証ではないのです。

[12] マタイの福音書12章20節。「見よ。わたしが選んだわたしのしもべ、わたしの心が喜ぶ、わたしの愛する者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は異邦人にさばきを告げる。彼は言い争わず、叫ばず、通りでその声を聞く者もない。痛んだ葦を折ることもなく、くすぶる灯芯を消すこともない。さばきを勝利に導くまで。異邦人は彼の名に望みをかける。」イザヤ書42章1~4節の引用。

[13] 「消えそうです」スベンニュミ ここと12:20「くすぶるともしびを消すことなく」。そう、イエスは、消えそうな灯をも、消さないお方です!

[14] お気づきのように、賢い娘達は眠らずに起きていた、という文字通りの意味で「目を覚まして」いたわけではなく、彼女たちも眠くなって、寝入ったのです。でも、その間もランプは油を燃やして減らし続ける。だから、油を絶やさずにいることは当然必要です。その、単純な事実を弁えていたのが、この娘達が賢い、目を覚ましていたと言われる違いでしょう。

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