聖書のはなし ある長老派系キリスト教会礼拝の説教原稿

「聖書って、おもしろい!」「ナルホド!」と思ってもらえたら、「しめた!」

2021/12/12 第一サムエル記16章「ダビデ」こども聖書㊴

2021-12-11 12:50:06 | こども聖書
2021/12/12 第一サムエル記16章「ダビデ」こども聖書㊴

 聖書に出て来る「ダビデ」は、旧約聖書の中でも最も詳しく描かれている人です。この人が、イスラエルの歴史で、二番目の王となりました。ダビデは、聖書の中で、イエス様の次に愛されている人かも知れません。今日は、そのダビデの話の最初です。
 最初の王サウルは、ひどく神から離れ、神はサウルを王から退けることにしました。祭司サムエルは、とても悲しみました。そのサムエルに、主は言われました。

Ⅰサムエル記十六1…「いつまであなたはサウルのことで悲しんでいるのか。わたしは彼をイスラエルの王位から退けている。角に油を満たせ。さあ、わたしはあなたをベツレヘム人エッサイのところに遣わす。彼の息子たちの中に、わたしのために王を見出したから。」

 こうして、サムエルは、ベツレヘムの町に行き、エッサイという人とその家族と会うことにしました。エッサイは、サムエルに言われて、息子たちを連れてきました。

6彼らが来たとき、サムエルはエリアブを見て、「きっと、主の前にいるこの者が、主に油を注がれる者だ」と思った。
 
 エリアブは長男でしたから最初に連れて来られたのでしょう。そして、サムエルが見ても、長男エリアブは背が高くて、体格もよくて、一目で好きになりました。そして、今の王サウルも、背が高くてハンサムでしたから、サウルの代わりになる新しい王も、見た目も大事。…私たちもそう思いますよね? ところが主はサムエルに言われました。

7…「彼の容貌や背の高さを見てはならない。わたしは彼を退けている。人が見るようには見ないからだ。人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 サムエルはエリアブのうわべ(外見)を見ました。しかし主は心を見て、エリアブを退けていました。神様は外見で人を選ばれることはなさらないのです。そして、次男が連れて来られ、三男が連れて来られました。

10エッサイは七人の息子をサムエルの前に進ませたが、サムエルはエッサイに言った。「主はこの者たちを選んでおられない。」

 どうしましょう、こうして連れて来られた全員が、主の目には叶いませんでした。

11サムエルはエッサイに言った。「子どもたちはこれで全部ですか。」エッサイは言った。「まだ末の子がのこっています。今、羊の番をしています。」サムエルはエッサイに言った。「人を遣わして、連れて来なさい。その子が来るまで、私たちはここを離れないから。」

 お父さんのエッサイは、末の子は連れて来なくていいだろう、と思ったのですね。お父さんの目にも、あの子を連れてくるなんて必要ない。そう思った子がダビデです。

12エッサイは人を遣わして、彼を連れて来させた。彼は血色が良く、目が美しく、姿も立派だった。主は言われた。「さあ、彼に油を注げ。この者がその人だ。」

 ダビデは末っ子で小さかったのですが、血色が良く、うわべは美しかったのですね。神様はうわべを見ない、ということは、見るからにだらしない人を選ばれる、ということでもありませんね。ダビデの姿は立派でしたが、だから選ばれたのではないのです。主がダビデの心を見て、お選びになったのです。

 「人はうわべを見るが、主は心を見る。」
 私は、これは聖書で一番大切な言葉の一つだと思っています。私たちはどうしても見える所しか考えませんが、主は私たちに見えない、心をご覧になっています。私たちのことも、心をご覧になっています。神は私たちの見せかけではなく、心をご覧です。それも、私たちの心の罪や弱さも、あるがままを深くまで見て、愛しておられるのです。

 こうして、主はダビデを選ばれて、将来の王とされました。この後、ダビデが正式に王の座に即位するのは三十歳のころ。この時はまだ十代前半だと思われます。ですから、十五年前後、ダビデは王となるまでの訓練を受けるのです。その最初が、実は、最初の王サウルに仕えることでした。彼は王の立場のプレッシャーに耐えきれずにいました。

14さて、主の霊はサウルを離れ去り、主からの、わざわいの霊が彼をおびえさせた。15サウルの家来たちは彼に言った。「16…上手に竪琴を弾く者を探させてください。わざわいをもたらす、神の霊が王に臨むとき、その者が竪琴を手にして弾くと、王は良くなられるでしょう。」

 そして、家来の一人が琴の上手な弾き手として名前を挙げたのがダビデでした。

21ダビデはサウルのもとに来て、彼に仕えた。サウルは彼がたいへん気に入り、ダビデはサウルの道具持ちとなった。…23神の霊がサウルに臨むたびに、ダビデは竪琴を手に取って弾いた。するとサウルは元気を回復して、良くなり、わざわいの霊は彼を離れ去った。

 音楽の力って、スゴいですね。こうしてダビデは、不安に怯えるサウルを慰め、支えることからその働きを始めました。この後も王になるまで、戦ったり逃亡生活をしたり、自分の心を試されたり、人から励ましを受けたりします。何より、主がどんな時もともにおられることを味わい知る、大事な準備をしていきます。主がダビデに求めたのは、見た目の格好いい王で、人からチヤホヤされるヒーローであるよりも、ダビデが、自分の心を見ておられる主を見上げて、人に仕える王であることを願っておられたからです。



 この時からやがて千年ほどして、もう一度神は、
「ベツレヘムに行きなさい。そこに王がいます」
と仰せになりました。今いる王に失望して悲しむ人たちをベツレヘムに行かせ、新しい王と出会わせました。その王は、人が思うような立派な姿ではありませんでした。王に相応しい豪華な産着と立派な揺り籠の代わりに、布にくるまれて、家畜の餌入れに寝かせられていました。それは、このダビデのずっとずっと後の子孫として生まれた、イエス・キリストでした。この方も、人から仕えられるためではなく、人に(私たちに)仕えるために来られ、悲しむ者、捨てられたと思って狂いそうな人たちを慰めてくださる王です。私たちとともにおられて、音楽や試練や仕えることを通して、私たちを治めてくださるお方なのです。クリスマスは、その王の誕生をお祝いする時です。



「ダビデの子、イエス・キリストの主よ。私たちはうわべしか見えなくても、あなたは心をご覧になり、心に働いておられます。小さなダビデを選ばれた出来事も、私たちへの素晴らしい贈り物です。どうぞこのクリスマスに、私たちの王である、ダビデの子イエスを覚え、あなたの良き御支配に、私たちの目を開き、私たちを新しくしてください」
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2021/12/12 マタイ伝26章36~46節「霊は燃えていても」

2021-12-11 12:41:46 | マタイの福音書講解
2021/12/12 マタイ伝26章36~46節「霊は燃えていても」

 今日の箇所は、十字架の直前のイエス・キリストの「ゲツセマネの祈り」です。イエスは、私たちの罪を赦すため、残酷な十字架に掛かり、神からの裁きを私たちの代わりに受けてくださいました。十字架の拷問の苦しさや、神の怒りを一身に受けることは、想像を絶する恐ろしい事です。それは身悶えするほどの事でした。加えてここでは「悲しみ」が言われます。

37…イエスは悲しみもだえ始められた。38そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい。」

 私たちの罪を引き受けて、神の裁きを一心に背負う時を前にして、イエスは悲しみにもだえ、死ぬほどの思いでいられ、立っていることさえ出来ずに「ひれ伏して」祈られるのですね。

39…「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。…

 ここまでずっと十字架への道を予告していました。少し前の最後の晩餐でも、パンと杯がご自分の体と血のことだと仰っていました。このゲツセマネに来たのも、ここに裏切り者の弟子が群衆を連れてくると分かっての事だったでしょう。それでも、イエスはここで「出来る事なら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と地面に突っ伏して祈るのです。

 イエスは人として、悲しみや喜ぶ心を持っておられました[1]。そして、愛である神やイエスにとって、罪がもたらすのは何よりも、計り知れない悲しみです。主イエスは、罪がもたらす悲惨をご覧になって深くあわれむ方です。そして、それを父なる神にそのままに告げる、深い信頼の関係に生きるお方です[2]。イエスは「悲しみの人」でした[3]。特にヘブル書は言います。

ヘブル人への手紙5:7~10
キリストは、肉体をもって生きている間、自分を死から救い出すことができる方に向かって、大きな叫び声と涙をもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。8キリストは御子であられるのに、お受けになった様々な苦しみによって従順を学び、9完全な者とされ、ご自分に従うすべての人にとって永遠の救いの源となり、10…神によって大祭司と呼ばれました。

 肉体を持ち、叫びや涙、悲しみや苦しみを味わわれた方、本当の人となられたからこそ、全ての人の救いの源、私たちの大祭司となってくださるのです。イエスこそは誰よりも罪の悲しみを受け止めたお方です。そしてこれほど率直に、悲しみや躊躇もそのままに捧げつつ、尚、

…しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。

とこれもまた、父なる神への全幅の信頼によって祈る。十字架を堂々と悲しみ、率直な嘆願も祈り、なお神の御心を信頼する。そういう深い関係にイエスは生きておられます。そしてそういうお方だからこそ、この時もイエスは弟子を案じています。ご自分が悲しみの余り死ぬほどだと言いつつ、弟子たちに心を向けています。一息ついて見ると弟子たちは眠っていました。

40…「あなたがたはこのように、一時間でも、わたしとともに目を覚ましていられなかったのですか。41誘惑に陥らないように、目を覚まして祈っていなさい。霊は燃えていても肉は弱いのです。」

 イエスは彼らの弱さも、この後、弟子たちが皆散り散りになり、ペテロが三度イエスを知らないということもご存じでした。これは失望の台詞ではないでしょう[4]。むしろ、もう自分の弱さ、限界に気づいて、神に頼りなさい、謙ってわたしの言葉を受け入れなさい、という招きでしょう[5]。この「肉」は、神に頼るよりも自分に頼るあり方、「霊」は自分よりも神に頼るあり方を指すのでしょう[6]。自分の力で頑張ろうとしてもそれは弱い。誘惑に流されてしまう。だから、弱い自分など頼めないと知っているから、人は神に祈るのです。祈らずにおれないのです。その祈る神は、私たちの天の父として、私たちを深く愛してくださる神です。その天の父に、自分の悲しみや恐れも、蓋をせずに差し出しつつ、なお「御心がなりますように」と祈る。その時、「霊は燃え」、私たちは進んで行くことが出来るのです[7]。

 この後もイエスは、父に激しく率直に祈られては[8]、弟子たちを案じて、戻ってこられます。最後の45節の言葉
「まだ眠って休んでいるのですか。」
は欄外にあるように
「もう眠って休みなさい」
とも訳せる、弟子たちを受け止める言葉です[9]。そして眠っていた弟子たちにも
「立ちなさい(よみがえりなさい[10])。さあ、行こう。」
と言ってくださるお方。それがイエスです。

 主イエスの十字架がどれほど深い悲しみ、葛藤だったか、その一端をゲツセマネの祈りに見るのです。その十字架により私たちは完全な赦しに与りました。それでも尚、罪の深い影響は残っていて、私たちは日々悩まされます。その悲しみや思いを、率直に天の父に祈って良いのです。天の父は、私たちの吐き出すような祈りをも聞いておられます。イエスも人としての思いを深くご存じで、私たちの祈りをともになさるのです。

 イエスが教えてくださった「主の祈り」は、神に
「天にいます私たちの父」
と呼びかけ、
「御心が…地で行われますように」
と祈る祈りです。私たちの小さな思いよりも大きく、確かな神に、「私たちの父よ…御心がなりますように」と祈る[11]。それは、弱い肉の自分を認めつつ、もっと深く、最善をしてくださる神に、小さな心で精一杯悲しみ思う惑う私たちを手放して預ける、幸いな告白です。そしてそう祈る時、イエスご自身が、このゲツセマネでなさった姿を思うことが出来ます。こう教えてくださった主イエスご自身が、ひれ伏して
「わが父よ」
と悲しみを注ぎだして祈り、
「御心がなりますように」
と告白されました。このイエスの祈りの中に私たちは包まれています。まだ自分に頼る肉の生き方をしてしまう私たちですが、だからこそ、その私たちをご存じのイエスに祈るのです。神を父と呼んで、心を注ぎだし
「御心がなりますように」
と祈るのです。

 今日特別なこの日曜日にも、一人一人が自分の心を主に注ぎ出しながら、ともに
「御心がなりますように」
と祈り、ここから立ち上がって進みたいのです。

「主よ、何と尊い救いを戴いて、何と飾り気のない交わりをいただいていることでしょうか。どうぞ、主よ、私たちにも悲しみを吐露させてください。この世界の破れ、肉に頼る心、誘惑があります。御国の完成を待ち望む途上で、傷み、悩む私たちをあわれみ、赦してください。あなたに祈らずには立ち上がれない私たちです。どうぞ祈らせてください。そして私たちの霊を燃やし、主イエスを中心とする教会として、ともに歩ませてください。」


画像はこちらより。

脚注

[1] 「古代、キリスト教会の伝道が進展し始めたころに、ギリシアの知識人たちは、このキリストのゲツセマネの祈りを嘲ったということが、しばしば記されております。慌てふためいているではないか。弱さをさらけ出しているではないか。われわれの哲学者ソクラテスは、毒を飲むことを求められた時に、従容として談論のうちに死についたではないか。それに比べても、このキリストの狼狽ぶりは、何たることかと言って嘲ったというのであります。ある人の伝えるところによりますと、教会の中でも、このゲツセマネの祈りをそのまま伝えることに、ためらいがあったのではないかと申します。主イエスが、ここで真実、苦しまれたその苦しみは、主イエスという方にふさわしくない。神の御子にふさわしくないと、なんとか、その姿を覆い隠そうとした人々が、あったというのであります。」加藤常昭、『マタイによる福音書4』、553頁。

[2] この「悲しみ」が示しているもう一つのことは、イエスを待つ十字架が、人間全ての罪を引き受ける、譬えようのない経験だからです。私たちは自分の罪のもたらす破綻や悲しみさえ、負い切るのは辛いことです。イエスはその全てを引き受けて下さり、また父なる神からもその間、見捨てられようとしていました。それは本当に堪え難いことです。このイエスの姿は、私たちのために十字架にかかることが、どれほど堪え難いことかを垣間見させてくれます。

[3] イザヤ書53章3節「彼は蔑まれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で、病を知っていた。人が顔を背けるほど蔑まれ、私たちも彼を尊ばなかった。」。また、ここでの「悲しみルペオー」は、イエスに使われたのは初めてです。14:9(ヘロデ)、17:23(苦難予告に弟子たちが)、18:31(赦されたしもべが僕仲間の借金を赦さないのを見た家来たちが)、19:22(富める青年が)。その人間的な「深い悲しみ」をイエスもここで抱かれたのです。しかし、この「悲しみルペオー」以上に強い悲しみの言葉「かわいそうに思う・あわれむスプランクニゾマイ」は、イエスの激しい内面の痛みを告げていました(9:36、14:14、15:32、18:27、20:34)。悲しみの人イエスは、ご自分の十字架以上に、私たちの離反・離散、神を知らぬ心を悲しまれた方です。仏教用語の「慈悲」という漢字は、このイエス・神の深いあわれみを理解する上で、手がかりの一つになるでしょう。

[4] 「イエスは、この時、心が弱くなっていたため、弟子たちにご自分のために祈っていて欲しかったのだ」という解釈は多くあります。しかし、「私のために祈っていなさい」とは言われていません。イエスが求めたのは「ここに座っていなさい」「ここにいて、わたしと一緒に目を覚ましていなさい」という事でした。そして、一緒に目を覚ましているために「祈っていなさい」(41)と言われるのです。眠っていたことを嘆く以上、起きていては欲しかったとは言えるにしても、ご自身のための祈りより、イエスこそは弟子たちとともにいることを求め、弟子たちの存在を喜ばれたのです。イエスが私たちに求めるのは、私たちが主のために何かをすることではなく、私たちが主と共にいること、存在の喜びです。ここには、「一緒に/ともにメタ」というマタイのキーワードが、4回も繰り返されています。

[5] 最後の部分は、以前「心は燃えていても肉体は弱い」となっていました。気持ちはあっても体は眠かったり誘惑に弱かったり、限界があるのだという意味にもとれる言葉でした。しかし、弟子たちは、徹夜で漁をし、荒れ狂うガリラヤ湖を徹夜でこぎ続けた屈強な漁師たちです。体力には自信のあった人々には、「肉体は弱い」は当てはまらないでしょう。「肉体は弱い」という「霊肉二元論」は、キリストが肉を取られたことも薄くしてしまう、異端に近づきます。

[6] 「弱い」アスセネース 弱い、病んでいる、無能、無力。丁度、ペテロが直前に「たとえ皆がつまずいても、私は決して躓きません。…たとえ、あなたと一緒に死ななければならないとしても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と豪語していながら、ここで一緒に目を覚ましているだけを求められても、それが出来ずに眠りこけていた姿。あれが「肉は弱い」です。「肉の誘惑は強力」とは言われません。

[7] 「燃えていてもプロスモス」は、準備が出来ているready、願っているwilling、進む・強いなどと訳される言葉です。マルコ14:38、ローマ1:15

[8] 42節の「イエスは再び二度目に離れて行って、「わが父よ。わたしが飲まなければこの杯が過ぎ去らないのであれば、あなたのみこころがなりますように」と祈られた。」は、一度目よりも腹を括った言葉のようにも読めますが、「~なければ~ないのであれば」は強い二重否定ですから、一度目よりも激しい思いで祈られたのかもしれません。先のヘブル書五章七節の言葉で言えば、ゲツセマネの祈りの「敬虔さ」は、平然としたものとは真逆の、激しく叫び訴えるものだったのです。

[9] Dan Carson, Matthew (The Expositor’s Bible Commentary), No. 18715/20462. また、「休んでいるアナパウオー」は11:28(すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。)とここのみの語。「休ませてあげる」と仰ったイエスは、休むことを責めたのだろうか、と疑問を持つことも自然です。

[10] 「立ちなさいエゲイレスセ」は、32節で「よみがえる」と訳されていたのと同じ、エゲイロー(よみがえる、立つ、起きる)の命令形です。

[11] 39節の「しかしプレーン」は、単なる逆説butではなく、「それにもまして」yet, neverthelessという意味での接続詞です。ちょうど「早く帰ってきて欲しい。でも、急がないで安全第一で帰って来てね」というようなものです。私の願いか、あなたの願いか、の二者択一ではなく、自分の願いを差し出しつつ、それよりも遙かに大きな御父の御心を願うのです。

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