2022/3/6 マタイ伝27章57~66節「まだ暗いうちに」
イエス・キリストが十字架につけられて息を引き取った、その「夕方」のことです。イエスご自身は、ユダヤ当局の権力者たちの妬みによって十字架に架けられましたが、同時にそれはイエスが前から予告されていた死でした。ご自身を最後まで徹底的に差し出されて、私たちの罪を赦し、神の国の民としてくださるための、いのちのささげ物でした。十字架の想像を絶する苦しみの中でも、恨みや呪いを発せずに、神への真っ直ぐな祈りを叫んで、人として死なれたのです。その後、神殿の幕が裂けたり、百人隊長たちが
「本当に神の子であった」
と告白したりする出来事が続きました。それに続いて起きた出来事が、今日の箇所です。
1.金持ち、きれいな亜麻布、自分の新しい墓
「アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た」。
こんな弟子がいたとはここまで言及がありませんでしたが、昨日まで活躍してきた弟子たちは行方知れずです。誰もイエスの遺体を引き取りに来ない中、このヨセフが来たのです。当局から妬まれ、民衆からも罵詈雑言を浴びせられた死刑囚の亡骸を引き取る。どれほど危険でリスクを伴ったことか、想像してください。そのリスクよりも彼はイエスの下げ渡しを願い出、ピラトは許可をしました。
十字架にぶら下がった体は、傷だらけで血塗れです。汗と排泄物もこびりついています。他の福音書はハッキリと、彼自らその体を取り下ろしたと伝えます[1]。自分も血と汗と排泄物に汚れます。自分の汗と涙も混ざったでしょう。その体を包む前に拭いて清めたにしても、包んだ亜麻布はたちまち汚れたはずです。だからわざわざ、
「きれいな亜麻布に包んだ」
と特筆するのです。
マタイはヨセフを
「金持ち」
と紹介します。イエスは以前、
「金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。…金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです」
と仰っていました[2]。神は持つよりも与える方だからです。その方の国に入るのは、多くの物を持つほど、難しいのです。しかしイエスは続けて
「それは人にはできないことですが、神にはどんなことでもできます。」
と言われました[3]。イエスの死の後、他の誰でもなく、金持ちであるヨセフが来て、イエスの体の下げ渡しを願い出ます。その汚れた体を受け取り、惜しみなく綺麗な亜麻布に包んでいる。そして自分の真新しい墓に入れます。彼もイエスの復活や十字架の意味などまだ知りません。計算や理由など無い、惜しみない勇気です[4]。誰もしなかったような行動をします。それはイエスが仰った通り、神だけが出来た奇蹟です。駱駝が針の穴を通るよりも難しいことを、神の子が十字架に死んだ時に始まった。それがこのヨセフです。
2. 備え日の翌日に
62節からは
「備え日の翌日」
に祭司長とパリサイ人たちがピラトの元に行き、イエスの弟子たちが墓からイエスの体を盗み出して、「よみがえった」と言いふらさないよう、墓の番をさせるよう工作します[5]。イエスの抹殺を果たしたものの、まだ不安要素は尽きないのです。弟子たちはもう散り散りバラバラで逃げ隠れています。まして、墓に近づく気や、よみがえりを捏ち上げる発想なんてありません。それ以上に大事なのは、ここで「備え日の翌日」という珍しい言い方です。「備え日」とは安息日(土曜日)の備え日ですから、「備え日の翌日」は「安息日」と言えば良いのですね。こんないい方で注目させるのは、この祭司長、パリサイ人が安息日の決まりを破って、相談や仕事をしている、という事ですね。
今までイエスが安息日に癒やしたとか、弟子たちが畑で麦を摘んで食べた、安息日違反だと怒っていたのは彼らです[6]。イエスを「人を惑わすあの男」と呼んでいるのも、安息日や神殿といった当時の律法システムの要を深く問い直して、彼らの権威をガタガタにされたからです。その彼らがここで、安息日にしてはならない筈の会合・異邦人訪問をし、しかも殺したはずのイエスの体が盗まれないようにだなんて、大っぴらには言えないような行動をしています。
でも、この悪巧みでイエスの復活が食い止められることはありませんでした。それどころか、彼らが番兵を送ったからこそ、「弟子たちが勝手に盗むことは出来なかった」と反証できます。その番兵もイエスの復活を目撃するのですね。彼らの安息日違反も、妨害工作も、恐れるには足りず、帰って益となった。ここでも私たちは、全てを益としたもう主を崇めるのです。
3. 安息日の主
祭司長たちが「人を惑わす者」と呼んだのは、イエスが安息日に命の業を行われたからです。イエスは「安息日の主」です。そのイエスがこの「備え日の翌日」(安息日)に何をされたでしょう。何もされていません。今日の箇所でイエスは何も語らず、ヨセフに体を降ろされ、亜麻布に巻かれ、葬られ、されるがままになっています。その後の安息日は墓に入れられたまま、何もされていません。
安息日は、神が天地を造られた時、すべての創造の業を成し終えて、第七日を祝福して聖なる休みとされたことの記念日です[7]。また、その主の祝福を踏みにじって、人を奴隷扱いする罪の世界から、主が恵みをもって贖いだしてくださったことを祝う日です[8]。この時イエスはすべての業を終えられました。私たちを奴隷とする罪から解放する業を、この聖金曜日に成し遂げられました。その翌日の土曜日、神であるイエスは安息され、休んでおられます。イエスの一生、いえ神の御子、言葉である方の永遠において、ひと言も発せずに黙って一日を安らかに過ごされている、後にも先にも一度の日です[9]。その日を経て、イエスは次の朝に起きられ、安息日の主、私たちの救い主として現れてくださいます。今日この日曜日、私たちはイエスが復活されたことを覚えます。その前に一日を休まれました。それは無力や敗北の時ではなく、働きを完成された方の安息です。神は、休むことを受け入れ、私たちをも安息へと招かれる方です。その休みを、イエスは私たちに届けてくださるのです。
一つ、アリマタヤのヨセフが行動を起こしたことは大変な勇気です。金持ちが御国に生きるより、駱駝が針の穴を通る方が易しいとイエスも言っていた、その金持ちのヨセフの登場です。それだけにこれは「神には人を変える事が出来る」ことの現れです。私たちも、イエスを、そして殺された人、助けたらこちらが汚れる人をも、無駄と思わず、尊んで、迎え入れるように、主は変えてくださるのです。
二つ目、祭司長たちパリサイ人たちは安息日を破って、弟子たちの動きを封じようとしました。自分たちが主導権を握ろうとするなら、どこまでも不安は消えません。休みなく動かずにおれません。しかし、その企みを超えた主の業が起きました。そして、悪の企みもイエスの復活を目撃したのです。
三つ目、その間、イエスは何もせず、休んでいました。この安息日こそ、イエスが贖いを果たされて休まれた七日目です。イエスは安息日の主です。そこからよみがえられたイエスが、私たちにも安息を下さいます。恐れてコソコソ生きる生き方を捨てさせて、委ねて休める生き方、新しいいのちを下さいます。
ヨセフはイエスの汚れた体を愛おしみ、綺麗な亜麻布に包みました。イエスはあのように、私たちを惜しみなく包まれます。どんなに汚れ、恐れ、多くの心配や傷を抱えていても、イエスは私たちを引き受け、ご自身のいのちで洗い清めて、ご自身との交わりで、私たちを包んでくださるのです。
「安息日の主よ。贖いの業を成し遂げて休まれた、大きな節目の一日を褒め称えます。まだ暗いうちに、あなたの恵みは始まっていました。私たちも与らせてください。失うことを恐れて握りしめる手を、日曜毎に開いて御手に委ね、私たちのためにすべてを捨てられ死なれたあなたを受け止めさせてください。あなたが愛し、尊ぶ全ての人を敬わせてください。争いを終わらせてください。悪や敵意のただ中で休み、ここから復活の主とともに出て行かせてください」
[1][1] マルコの福音書15章46節「ヨセフは亜麻布を買い、イエスを降ろして亜麻布で包み、岩を掘って造った墓に納めた。そして、墓の入り口には石を転がしておいた。」、ルカの福音書23章53節「彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた。」、ヨハネの福音書19章38節「その後で、イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取り降ろすことをピラトに願い出た。ピラトは許可を与えた。そこで彼はやって来て、イエスのからだを取り降ろした。」。十字架の死体を降ろすのだ大作業で、ヨセフひとりで降ろしたとは思えません。ヨハネの福音書19章39節によれば、没薬と沈香を混ぜ合わせたものを33kgも塗り込んでいます。ヨセフとニコデモ、それに彼らのしもべもおそらくは手伝ったでしょう。しかし、主体はヨセフであって、しもべに命じてやらせたようには書いていないのです。
[2] マタイの福音書19章23~24節「そこで、イエスは弟子たちに言われた。「まことに、あなたがたに言います。金持ちが天の御国に入るのは難しいことです。24もう一度あなたがたに言います。金持ちが神の国に入るよりは、らくだが針の穴を通るほうが易しいのです。」
[4] 彼も、まだ復活は知らないし、弟子たち同様、復活や十字架の意味を理解もしていなかったはずです。「救われるため」や「イエスを救い主と信じる信仰」からの行為、などではなく、イエスへの愛、敬意からだ。それも、十字架につけられ、皆から罵られ、誰も引き取り手がいなかった「過去の人」への、真っ直ぐな思い。最も小さい者に対しての愛、とさえ言える。これは、イエスへの愛の行為です。
[5] これにピラトが答えた言葉が「番兵を出してやろう」なのか、欄外にあるように「おまえたちには番兵がいる。お前たちが承知しているように、行けば良い」なのかはどちらとも訳せます。
[6] マタイの福音書12章1節以下「そのころ、イエスは安息日に麦畑を通られた。弟子たちは空腹だったので、穂を摘んで食べ始めた。2するとパリサイ人たちがそれを見て、イエスに言った。「ご覧なさい。あなたの弟子たちが、安息日にしてはならないことをしています。」…5また、安息日に宮にいる祭司たちは安息日を汚しても咎を免れる、ということを律法で読んだことがないのですか。…8人の子は安息日の主です。」、10節以下「すると見よ、片手の萎えた人がいた。そこで彼らはイエスに「安息日に癒やすのは律法にかなっていますか」と質問した。イエスを訴えるためであった。11イエスは彼らに言われた。「あなたがたのうちのだれかが羊を一匹持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それをつかんで引き上げてやらないでしょうか。12人間は羊よりはるかに価値があります。それなら、安息日に良いことをするのは律法にかなっています。」など。
[7] 創世記2章1~3節「こうして天と地とその万象が完成した。2神は第七日に、なさっていたわざを完成し、第七日に、なさっていたすべてのわざをやめられた。3神は第七日を祝福し、この日を聖なるものとされた。その日に神が、なさっていたすべての創造のわざをやめられたからである。」、また十戒の第四戒は出エジプト記20章8~11節で「安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。9六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。10七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。11それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。」
[8] 申命記5章12~15節「安息日を守って、これを聖なるものとせよ。あなたの神、主が命じたとおりに。13六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。14七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、牛、ろば、いかなる家畜も、また、あなたの町囲みの中にいる寄留者も。そうすれば、あなたの男奴隷や女奴隷が、あなたと同じように休むことができる。15 あなたは自分がエジプトの地で奴隷であったこと、そして、あなたの神、主が力強い御手と伸ばされた御腕をもって、あなたをそこから導き出したことを覚えていなければならない。それゆえ、あなたの神、主は安息日を守るよう、あなたに命じたのである。」
[9] 「地に訪れた沈黙 アリマタヤのヨセフは、イエスの体を引き受けました。そして、まだ誰も使ったことのない、岩に掘った墓に納めました。ガリラヤから来た婦人たちはヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている様子を見届けてから、家に帰り、香料と香油を準備しました。「婦人たちは安息日には掟に従って休んだ」(ルカ23・56)と記されています。 イエスの墓の周りには、深い休息がありました。世界の創造を成しとげた神は七日目に、休息なさいました。「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世2・3)とあります。 イエスは人々の罪の贖いを成しとげた週の七日目に、御父から託された業をすべて成就し、墓で休息なさいました。悲しみのあまり打ちひしがれた女たちも、イエスと共に休息しました。歴史上のあらゆる一日の中で、この聖なる土曜日――大きな石で墓をふさがれ、イエスの身体が沈黙と暗闇の中に横たわった土曜日(マルコ15・46参照)――は、神が独り静まった日です。一言の言葉も発せず、何の宣言もなさらない日でした。すべてを創造した神の言が、地の暗闇の中に横たえられ、葬られました。この聖なる土曜日はあらゆる日の中で、最も静寂に包まれた日です。 この静けさが、最初の契約と第二の契約とを、イスラエルの民といまだ知られざる世界とを、神殿と聖霊による新しい礼拝とを、血のいけにえとパンとぶどう酒の献げ物とを、律法と福音とを、結びつけます。この聖なる沈黙は、かつてこの世界が知ることのなかった、最も実り豊かな沈黙です。この沈黙の底から、再び言葉が発せられ、すべてが新しくなります。イエスが沈黙し、独りになって休息したことから、神について多くのことが学べます。それは、多忙ということのない、その徴候さえもない、何もしないという休息です。神の安息は、心の深い休息であって、たとえ死の勢力に取り囲まれようと、それを耐え抜くことができるほどの休息です。この休息は、隠された、ほとんど目に触れない私たちの内なるものが、いつ、どのようにかは定かでないしにしても、豊かな実を結ぶという希望を与えてくれます。 これは信仰による休息です。物事がなかなか好転しなくても、つらい状況が解決されなくても、革命闘争や戦争で、毎日の生活リズムが荒らされようとも、心は平安と喜びにあふれて生き続けさせる信仰から来る休息です。この天与の休息は、イエスの霊にあって生活している人であれば知っています。その生活の特徴は、おとなしく、受身的で、あきらめが早いことにあるのではありません。それどころか、正義と平和への創造的な活動で際だちます。そしてその活動は、心の中にある神の休息から押し出されたもので、それゆえ執着や強迫観念から自由にされた、自信と信頼にあふれたものです。 私たちが自分の人生で何をなそうがなすまいが、つねにつながり続けるべきものは、墓に埋葬され、すべてが新たにされるのを全創造物が待ち望んだ、あの聖なる土曜日のイエスの休息です。」『ナウエンと読む福音書』137-138頁